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ビージャ
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工場が乱立して、高い煙突からもくもくと煙の上がる街。積み上げられた廃材の下が、ビージャの棲み家だ。
ビージャは仔ウサギで、親がいない。友達もいない。ビージャにあるのは誰かが捨てた汚いぬいぐるみだけ。
ビージャは一日中廃材の下で硬く目を閉じていた。
ぬいぐるみをギュッと抱きしめながら。
時々食べ物を探しに街へ出る。ぬいぐるみは置いていく。無くしたら大変だから。
街へ行くと、浮浪者がビージャを罵倒する。労働者がビージャを蹴り飛ばす。
それでも、ビージャはふるふると震えながら食べ物を探す。
裕福な資本家の乗る場所がビージャの前を通りかかった。綺麗な少女がビージャを指差して叫ぶ。
「ウサギさん!」
少女はビージャを飼いたいと両親にねだるけれど、ビージャを見た両親は顔をしかめて言った。
「こんな汚いウサギ、ダメ。うちには猫が三匹もいるじゃないか」
そして、お菓子の袋の中に残ったクズをビージャに浴びせて去っていった。
ビージャは熱心に自分の体を舐めた。
その甘さがどこまでも嬉しかった。
それを見ていたらしい労働者の集団が近づいてきた。
「コイツ、金持ちにクズなんか貰って喜んでやがる」
「情けねえウサギだな!」
ビージャは恐怖で耳を折り曲げてうずくまった。
労働者のうちの一人が容赦なくビージャの耳を掴んで持ち上げた。
「どうしてやろうか」
別の労働者が、加えていたタバコをビージャの口の中に押し込んだ。
ビージャは突然の苦味と熱さに悶えた。労働者はそんなビージャを笑った。
気が済んでしまうと、ビージャを地面に投げ捨てた。
ビージャは泣きながらタバコを吐き出した。
口の中は火傷だらけだった。
その時、ビージャの心臓にストン、と何かが落ちる気配がした。
ビージャは知らないけれど、それは悪意だ。さっきの労働者、ビージャをいじめた人たちの悪意だ。
空中に離散したそれは徐々にビージャの中で一つの塊になり、種になり、ビージャの心臓に植え付けられた。
それでも、その種はまだ芽を出さなかった。
ビージャにはあのぬいぐるみがいたから。
ビージャの家族、友達、恋人…それがあのぬいぐるみだった。
ビージャは涙を拭いて、足早に棲家へ走った。
会いたい、会いたい。
僕を慰めて。
棲家に着くと、ビージャは呆然と立ち尽くした。
ぬいぐるみの首がもげている。
首から綿が出て、股の部分が真っ赤に塗りつぶされている。
背中には口に出すのも憚られるような卑猥な言葉が汚い字で書かれている。
ビージャは震える手でぬいぐるみを拾い上げた。
ぬいぐるみの首がくたりと曲がってしまった時、ビージャの心臓の種は芽を出した。
次の日から、ビージャはただ棲家の中で横たわっていた。棲家の中の一点を見つめて、ただの物みたいに。
それでも時々、ビージャの目から涙がいくらか溢れた。
心臓の種は順調に成長して、ビージャの心臓に深く根差していく。
ビージャの心臓は日増しに痛んでいく。
ビージャは朝を迎えるたびに、自分が命を落としていないことに絶望した。
心臓は成長した木に縛られ、鬱血して、苦しんでいた。ときおり、真っ赤な血が垂れる。それはビージャの憎しみだった。悲しみだった。
気の締め付けは時に激しく、徒らに緩み、ビージャはその度に小さく声を上げた。
ビージャは時々、自分の皮膚を食いちぎるようになった。
心臓の傷は見えない。こんなに痛いのに、こんなに苦しいのに。だから、ビージャは目の前に痛みを作り出す。
僕に、僕の痛みが見えない。僕が見ないなら、誰がこの痛みを見てくれるんだ。
ビージャの心臓には巨木ができた。
逃れられないほど、根は心臓をがんじがらめにしていた。
ビージャは動かなくなった。
硬く目を閉じて、それでもささやかな呼吸をして、ただ生きていた。それだけだった。
「こんなところにウサギがいた。
おーい、小さなウサギちゃんだ」
ビージャは目を開けた。優しそうな顔がビージャの顔を覗き込んでいた。
「可哀想になぁ。こんなに小さいのに」
男はビージャの頭を優しく撫でた。
ビージャは生まれて初めて心を溶かすような温かさを感じた。心にさした光が、心臓に根差した木を枯らしていく。根はまだ残っているけれど。
「よし、行くか。すぐに…楽になれるからな」
男はビージャを胸に抱いて、トラックの助手席に乗った。
男は保健所の職員だった。
ビージャは仔ウサギで、親がいない。友達もいない。ビージャにあるのは誰かが捨てた汚いぬいぐるみだけ。
ビージャは一日中廃材の下で硬く目を閉じていた。
ぬいぐるみをギュッと抱きしめながら。
時々食べ物を探しに街へ出る。ぬいぐるみは置いていく。無くしたら大変だから。
街へ行くと、浮浪者がビージャを罵倒する。労働者がビージャを蹴り飛ばす。
それでも、ビージャはふるふると震えながら食べ物を探す。
裕福な資本家の乗る場所がビージャの前を通りかかった。綺麗な少女がビージャを指差して叫ぶ。
「ウサギさん!」
少女はビージャを飼いたいと両親にねだるけれど、ビージャを見た両親は顔をしかめて言った。
「こんな汚いウサギ、ダメ。うちには猫が三匹もいるじゃないか」
そして、お菓子の袋の中に残ったクズをビージャに浴びせて去っていった。
ビージャは熱心に自分の体を舐めた。
その甘さがどこまでも嬉しかった。
それを見ていたらしい労働者の集団が近づいてきた。
「コイツ、金持ちにクズなんか貰って喜んでやがる」
「情けねえウサギだな!」
ビージャは恐怖で耳を折り曲げてうずくまった。
労働者のうちの一人が容赦なくビージャの耳を掴んで持ち上げた。
「どうしてやろうか」
別の労働者が、加えていたタバコをビージャの口の中に押し込んだ。
ビージャは突然の苦味と熱さに悶えた。労働者はそんなビージャを笑った。
気が済んでしまうと、ビージャを地面に投げ捨てた。
ビージャは泣きながらタバコを吐き出した。
口の中は火傷だらけだった。
その時、ビージャの心臓にストン、と何かが落ちる気配がした。
ビージャは知らないけれど、それは悪意だ。さっきの労働者、ビージャをいじめた人たちの悪意だ。
空中に離散したそれは徐々にビージャの中で一つの塊になり、種になり、ビージャの心臓に植え付けられた。
それでも、その種はまだ芽を出さなかった。
ビージャにはあのぬいぐるみがいたから。
ビージャの家族、友達、恋人…それがあのぬいぐるみだった。
ビージャは涙を拭いて、足早に棲家へ走った。
会いたい、会いたい。
僕を慰めて。
棲家に着くと、ビージャは呆然と立ち尽くした。
ぬいぐるみの首がもげている。
首から綿が出て、股の部分が真っ赤に塗りつぶされている。
背中には口に出すのも憚られるような卑猥な言葉が汚い字で書かれている。
ビージャは震える手でぬいぐるみを拾い上げた。
ぬいぐるみの首がくたりと曲がってしまった時、ビージャの心臓の種は芽を出した。
次の日から、ビージャはただ棲家の中で横たわっていた。棲家の中の一点を見つめて、ただの物みたいに。
それでも時々、ビージャの目から涙がいくらか溢れた。
心臓の種は順調に成長して、ビージャの心臓に深く根差していく。
ビージャの心臓は日増しに痛んでいく。
ビージャは朝を迎えるたびに、自分が命を落としていないことに絶望した。
心臓は成長した木に縛られ、鬱血して、苦しんでいた。ときおり、真っ赤な血が垂れる。それはビージャの憎しみだった。悲しみだった。
気の締め付けは時に激しく、徒らに緩み、ビージャはその度に小さく声を上げた。
ビージャは時々、自分の皮膚を食いちぎるようになった。
心臓の傷は見えない。こんなに痛いのに、こんなに苦しいのに。だから、ビージャは目の前に痛みを作り出す。
僕に、僕の痛みが見えない。僕が見ないなら、誰がこの痛みを見てくれるんだ。
ビージャの心臓には巨木ができた。
逃れられないほど、根は心臓をがんじがらめにしていた。
ビージャは動かなくなった。
硬く目を閉じて、それでもささやかな呼吸をして、ただ生きていた。それだけだった。
「こんなところにウサギがいた。
おーい、小さなウサギちゃんだ」
ビージャは目を開けた。優しそうな顔がビージャの顔を覗き込んでいた。
「可哀想になぁ。こんなに小さいのに」
男はビージャの頭を優しく撫でた。
ビージャは生まれて初めて心を溶かすような温かさを感じた。心にさした光が、心臓に根差した木を枯らしていく。根はまだ残っているけれど。
「よし、行くか。すぐに…楽になれるからな」
男はビージャを胸に抱いて、トラックの助手席に乗った。
男は保健所の職員だった。
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