春来る

村川

文字の大きさ
上 下
8 / 15

8

しおりを挟む
 ディスプレイモニターを見つめる天乃は、自分がしかめ面になっていると気付いて、マウスから手を離した。画面には将棋盤とここまでの棋譜、AIソフトの読み筋が表示されている。
 AIが示す最善手は、天乃の感覚にはそぐわない。これまでの指し手の積み重ねも、抱いていた構想も無関係に、今この局面の最善手はこれだと示してくる。つい先日あった順位戦第八局は、結局どこがどう駄目だったのかが気になって調べていたが、どうにも納得できなかった。しかしこれを飲み込んで己のものとしなければ、もはや棋士として通用しない時代だ。独創的な将棋を好む先達の、苦戦している様子が脳裏をよぎる。それでも彼らが高いところで戦っていられるのは、結局は彼らが天才だからだ。
 天乃も、幼い頃は天才と言われていた。神童だ、宮城に名人をなんて持て囃されたのは、はるか遠い小学生の頃の記憶だ。研修会に入って、自分が一人の人間でしかないと気付いた。奨励会に入って、己が凡夫でしかないと思い知らされた。三段リーグでは落ちこぼれの半端物なのではないとさえ感じた。大学に進学したのは逃げているだけのように思えて、将来のことを考えて研鑽を積む同級生たちが羨ましかった。天乃は遊ぶ暇さえないのに、前に進んでいるとは思えなかったのだ。年を重ねるのが怖かった。怯えと不安という底の見えない海をたゆたい、追われるように全力で泳いで四段に上がった。そして、棋士になってもまだ安寧はないと知った。気を抜けばすぐに降級点がつきそうになる。必死で勉強して戦って、やっと順位戦のC級2組で半分勝つのが精一杯。いつからか、降級点を取らないように汲々とするようになった――。
 物思いにふけっていたと、スクリーンセーバーに切り替わった画面を見て気付く。溜息を吐いて、ブラウザソフトを立ち上げた。今日は王将戦第一局が行われることになっている。対局開始までもうすぐで、生中継のインターネット番組では会場の様子や、朝の対局者の姿が紹介されていた。上等な和服に身を包んだ対局者は、天乃とそう年齢が変わらないのに、何度もタイトル戦に出場している者特有の落ち着きとすごみがある。画面越しより、実際に会った時の方が、朗らかさの底に潜む迫力を強く感じるものだった。
 手元に視線を落とした天乃は、別世界だな、と唇を歪める。手元にあるのは冷めたコーヒーカップがひとつ。それなりに奮発して購入したパソコンは、もう型落ちだ。これが天乃の現実だった。
 子供の頃は当たり前に、自分もいつかタイトル戦の檜舞台に立って、トップ棋士と盤を挟んで戦えるようになるのだと信じていた。それが不可能だと気付いたのはいつだっただろう。
 将棋には歴然とした才能の差が存在する。アマチュア四段の壁、奨励会入会の壁、初段の壁、四段の壁……それら全てを突破しても、まだ壁はいくつも立ちはだかる。
 順位戦C級2組から上がれない。竜王戦6組から上がれない。他棋戦の予選も抜けられない。棋士になって五年経っても百勝できない。才ある後輩達に易々と追い抜かれ、自分は落ちていく一方だ。あの時、三段リーグを二番手で抜けられたことすら奇跡に思える。今の自分の棋力ではあの地獄を乗り越えられないかもしれない。
 ただただ降級点を取らないことだけに汲々として、他の何を落としても、順位戦だけは必死でしがみつく、こんな風になりたかったわけじゃない。テレビや雑誌で活躍する先輩棋士のように、あの高みへと自分も登りたかった。そうできると思っていた、傲った子供はもういない。
 研究を進めながら中継を覗いたり、他の気になる対局の棋譜中継を見たりしていれば、一日は飛ぶように過ぎてしまう。日が傾き、対局一日目を終えて対局者が手を封じる頃になって、スマートフォンが軽やかな音を立てた。封じ手は何か考えていた意識を現実に引き戻されて、天乃は額に手を当てた。あれこれ考えすぎて熱を持っている。目をぎゅっと瞑り、冷えた手で軽くマッサージしてから、スマートフォンに手を伸ばした。
 ――もしお時間が大丈夫なら、一緒にご飯にしませんか。
 届いていたメッセージに、自然と頬が緩む。宇崎とは連絡を取り合って、予定が合えば食事を共にするようになった。なし崩し的に関係を結んでしまった時はどうなることかと思ったが、案外スマートに新しい関わりを維持できている。食事の後にはそのまま解散したり飲みに行ったりだが、一度、部屋に招いた。
 なんとなくの直感で、ゲイではないだろうと思っている。性的にも奥手な雰囲気があるが、案外大胆だなと驚く時もある。男同士はそういうものでしょう、と受け入れる準備をしようとした時は、無理をする必要はないし必須でもないと言葉を尽くすことになった。そういう挿入ありきのセックス観から、元々はストレート指向だと感じた部分もある。
 連想して先の週末に過ごした夜のことを思い出してしまい、じわりと体温が上がる。火照った頬を手で仰ぎ、スマホを操作した。誘いに了承を返すと、ほどなく待ち合わせ場所の指定が来る。同じ路線上に住んでいるため、天乃の最寄り駅で待ち合わせることもたびたびあり、今日もそうだった。負担を掛けているのではと訊ねたこともあるが、仕事から帰るルート的にも都合がいいと言われて、そのまま甘えている。
 身支度を調えて、夕暮れの街に降りた。今日は仁科の教室が休みだったこともあり、一日自分のために過ごした充足感がある。宇崎は三連休で読みたい本があると話していた。気を遣われているのかもしれない。先日の順位戦で四連敗になる上、今週後半にも対局が入っている。勉強はしているんだけどな、と、溜息を噛み殺した。研究会も一対一のVSも個人研究も変わらず続けている。結果がついてこないのでは、どうしようもない。
 待ち合わせ場所に行くと、宇崎は既に待っていた。見慣れたブラウンのハーフコートに、今日は生成り色のマフラーを巻いている。人待ち顔の思い人を見るのは、なんとなく気分がいい。こちらに気付くとぱっと表情が変わる所が、特に好きだった。
 視線に気付いたのか、宇崎がこちらに顔を向ける。途端に表情がほころび、柔らかい印象になる。
「お待たせしました」
「お呼び立てしてすみません」
「いえいえ、こうして呼んでいただくと、いい気分転換になります。美味しいご飯が食べられて舌も胃袋も満足しますし」
 一人でいるとどうしても根を詰めてしまう。建設的な内容ならばいいが、時には堂々巡りに陥ることもあり、気分を変えられるのはありがたかった。
「何にします? 寒いですしあったかいものがいいですね」
「あの、天乃さん」
「はい、なんでしょう」
 改まって呼ばれて、天乃は目を瞬く。
 宇崎はあの夜から先生という呼び方をしなくなった。どことなく据わりが悪そうな呼び方は語尾に甘さが滲んで、呼びかけられるのが好きだった。その宇崎がためらいがちに口を開く。
「その、ですね……もし手作りがお嫌でなかったら、うちでご飯食べませんか。色々とお世話になっているお礼に」
「いいんですか?」
 自炊派だと聞いているものの、料理が好きなのかまでは知らない。面倒をかけるのは本意ではないが、興味があるのも本心だった。宇崎はもちろんですと頷く。
「プロの料理人じゃないんで、普通の家庭料理ですよ。買い出しも今からですけど、よかったら食べたいものを……作れる範囲で、対応します」
「じゃあ、鴨鍋がいいです。材料費は私が出しましょう」
 安易に何でもと言わないあたりが信用できる。ちょうど食べたかったものをリクエストすると、それなら大丈夫と返ってきた。
 地下鉄で移動して、宇崎の行きつけのスーパーで買い物をする。数駅離れるだけでまるで知らない街になり、天乃は彼の足運びについていくばかりだった。その間にも籠には肉や野菜が収まっていく。長葱、ごぼう、水菜、スライスされた鴨肉。
「根菜があると温まるんですよね。冬場は緑黄色野菜が貴重ですし……っと、失礼、職業病が」
 これでも栄養管理士の資格持ちなんですよ、照れくさそうにしながら、ビールが半ダース追加される。
「締めはうどんですか、ごはんですか、お蕎麦でもいいですよね」
「お蕎麦いいですね」
 食材を選ぶ間も宇崎は常に楽しそうだ。天乃にとって、買い出しは必要だからするものだった。余裕があれば生鮮食品や半加工品を購入するが、大抵は惣菜や冷凍食品、すぐ使えるように調えられたものに手が伸びる。こんな風に食材を厳選していくことはまずないので、新鮮な経験だ。
 誰かとこうして品物を選ぶことが楽しいと感じるのは、随分と久しぶりだった。上機嫌の宇崎に説明されながらあれこれ見て回るうちに、呼吸が楽になっている自分に気付いた。心がほっとして、軽やかであたたかな気分だ。
 張り切って買いすぎたと苦笑する宇崎と荷物を分け合って――宇崎の鞄からは魔法のようにエコバッグが二つ出てきた――彼の自宅へ向かう。
 宇崎の部屋は築年数がそこそこ断っていそうな三階建てアパートの二階にあった。手狭な1DKで、一人暮らしにしてはキッチンがよく整備されている。自炊派と言っていたものなと思いながら、荷物を作業台に下ろした。
「荷物持ちさせちゃってすみません。飲み物はビールでいいですか?」
 コートをハンガーに吊るした宇崎が、戻ってきて訊ねる。ほどいたマフラーを手に、天乃は僅かに首を傾けた。
「私だけ先にいただくのは、さすがにちょっと。本当ならお手伝いしたいところですが、戦力にならない自覚もありますし……」
「では座っていらしてください。よければそっちの棚の本や雑誌をどうぞ。テレビは置いてないんですけど」
 エプロンをつけた宇崎が、ざっと手を洗って冷蔵庫を開く。ビールや茹で麺を片付け、代わりに野菜がいくつか出てきた。
 防寒着を脱いだ天乃は、ありがたくダイニングテーブルセットの椅子に腰掛ける。シンプルなセーターに包まれた宇崎の背中を眺めながら、頬杖をついた。
「宇崎さんは料理がお好きなんですか」
「得意とも上手いとも言えないですが、好きです。出来合いのものも美味しいですし、お店で食べるのもいいですが、結局一番自分好みの味なのは自分で作ったものですし、中身もわかってますから」
 袖をまくり上げた宇崎が、手際よく食材の準備を進めていく。水や包丁を使う音を聞きながら、天乃は目を細める。誰かが自分のために料理をしてくれるなんて、どれくらいぶりだろう。前の恋人とは自然消滅で、いつから家の行き来をしなくなったかも定かではない。夏頃に帰省して、母が親子丼を作ってくれたのが最後かもしれない。包丁の音というのは、こんなに気持ちのいいものだったのか。
「しらたき入れていいですか?」
 振り向いた宇崎に尋ねられて、半ば閉じかけていた目を開く。しらたき、と口の中で繰り返し、はっとして頷いた。
「大丈夫です。食べれます」
「じゃあ入れちゃいますね。で、やっぱり手持ち無沙汰でしょう、どうぞ」
 微笑んだ宇崎が近づいて、ビールの缶と平皿が載った盆をテーブルに置く。皿に盛り付けられているのは綺麗な飴色をしたレンコンのきんぴらに見えた。来客用らしい飾り気のない漆塗りの箸が添えられている。
「すみません……ありがとうございます」
「常備菜出しただけですみません。でも良かったです、元気そうで」
 顔を覗き込むようにして言われて、心臓が跳ねた。案じる眼差しに心配をかけていたと理解して、申し訳なさと嬉しさが沸き起こる。
「心配おかけしてすみません」
「私が勝手に気にしてるだけですよ。何ができるわけでもありませんし」
「そんなことはありません。宇崎さんと話す時間は、私には必要なものです」
「……そう、だと、嬉しいです」
 目を見張った宇崎が、僅かに頬を赤くする。気を引くための甘言でもお世辞でもなかったが、果たして正しく伝わったかどうか、宇崎は少し浮かれた足取りでキッチンへと身を翻した。スリッパの軽やかな足音が止まり、調理を再開するのが音と動きでわかる。作業台にはそこそこ大きめの土鍋が用意されている。前の恋人と使ったのか、それとも友人と鍋を囲む用か。そこに今は天乃と食べるための食材が詰め込まれていくのだと思うと、なんだか妙に面はゆいような、浮ついた心地になる。
 どうしても緩んでしまう唇を引き締めることを諦めて、天乃は出された缶ビールを手に取った。苦くてきりっとしたビールも、今なら甘く感じそうだ。宇崎と過ごしている間だけは、足に絡みつく重い不安を忘れていられた。
しおりを挟む

処理中です...