春来る

村川

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「では、お先に失礼します!」
 通勤バッグを手にした宇崎は、まだちらほら人の残るフロアに会釈し、お疲れ様でしたの声を背に、職場を後にした。
 課題だった企画書は、提出期限間際でようやく完成し、まあいいだろうと認められた。本当は企画立案は苦手だし、プレゼンテーションは輪を掛けて不得手だ。それでも今回は、自分でもそれなりに納得のいく仕上がりになったと思う。それもこれも、天乃のお陰だった。
 一人暮らしで、自炊はあまりしないけど、でも、こういうものがあったらいいなと思うことはある。何にでも使えるソース。鮮度を保ちやすい真空パッケージ。その日の気分で調味料を加えてテイストを変えやすいもの。会話の中に落ちていた要望を拾い上げて形にした。求められている商品であるはずだ。
 建屋を出てすぐの信号で、スマホを見ている亀井に追いつく。そういえば少し前に出たはずだった。
「亀井さん、お疲れ」
「おう。なあ、中継見た?」
「うん……」
 先程見た局面を思い出しながら、示された画面を覗き込む。見慣れた将棋中継アプリには、じりじりと変化する将棋の現在の状況が映し出されている。
 今日は天乃が公式戦を戦っている。棋王戦の予選一回戦だ。持ち時間四時間の棋戦は場合によっては夕方くらいに決着してしまうこともあるが、今日はまだ続いていた。形勢は不透明で、宇崎にはどちらが指しやすいのかもわからなかった。
「天乃先生、今日こそ勝てるといいな」
「うん。亀井さんは、この後の予定は?」
「彼女と会う。宇崎さんは?」
「ん……なら、カフェにでも行こうかな」
 大切な人の対局結果を一人で待つのは苦しい。亀井が捕まるなら一緒に観戦しようかと思ったが、先約があるならば仕方がない。天乃が紹介してくれた将棋バーや将棋カフェを思い浮かべ、行き先を定めた。
 電車の乗り換えで亀井と別れ、記憶をナビで補いながら、二、三回訪ねたことがあるビルへ向かう。将棋カフェや将棋バーは、誰かと将棋を指してもいいし、ただ話をしてもいいという気楽な場所だ。道場の張り詰めた緊張感や、真剣に勝敗を争うこと自体があまり得意ではない宇崎には、気楽に足を運べてありがたい空間だった。
 それぞれのテーブルやカウンターには一寸盤が並び、手触りのいい木の彫り駒が置いてある。連れや客同士で対戦する駒音と、なごやかな話し声が響く店内で、宇崎はカウンター席を選んだ。今日はどうしても指す気にならず、食事とペリエを頼む。スマホを覗き込むと、局面は少し進んでいた。
「お待たせしました」
 水のグラスの隣にペリエが並び、ボロネーズソースを絡めたフジッリが盛り付けられた皿が置かれる。水菜のサラダとチキンのソテーが添えられていて、一皿で十分なボリュームがあった。らせん状をしたパスタはフォークでも食べやすく、スマホを覗き込みながらでも周囲を汚さずに食事ができるのが助かる点だ。
 天乃が指して、相手がすぐに指す。持ち時間は天乃が残り十分に対して、相手はもう少し余裕があるようだった。局面ははっきりしないが、宇崎が見た感じでも、コメントを読んだところでも、天乃の旗色が悪いようだった。
 ペリエをひとくち飲んで、は、と息を吐く。炭酸が舌に痛かった。空席のはずの隣から声が振ってきたのは、そんなタイミングだった。
「ええと……宇崎さん、でしたよね」
 はっとして顔を上げると、高身長の男性が立っていた。ネットの中継などで見覚えがあるし、直に会ったこともある。棋士の佐川竜太だ。
「佐川先生……こんばんは」
「お隣、よろしいですか?」
「もちろんです、どうぞ」
 失礼、と断って腰を下ろした佐川が、ジンジャーエールとミックスサンドを注文する。彼からもアルコールの気配はしなかった。
「今日はいかがでしたか」
「あ、今日は指してないんです。天乃先生の対局を観戦してたんですけど、一人では落ち着かなくて」
「なるほど。私と同じですね」
 うん、と頷いた佐川が手にしたスマホを二人の真ん中に置く。そこには宇崎が見ていたのと同じ、棋譜中継の画面が表示されていた。ぱたぱたと手が進み、局面は煮詰まりつつある。画面に視線を落とした佐川が、意志の強そうな眉をついと寄せた。
「もう後手が随分いいですね」
 苦い声でかぶりを振り、溜息を吐く。画面下側の先手が天乃なので、かなり厳しいということだ。佐川にとっては対戦相手も知り合いなのだろうが、天乃を応援していたと理解して嬉しく感じた。
「私には中盤から難しくて、どちらがどうともわかりませんでした」
「ねじり合いの将棋は難しいですね。本人たちもわかっていなかったかもしれません。評価値もころころ変わってたようで……今はどう思いますか」
「先手の玉が狭いですかね。龍がいて、桂馬がいて、迫られてて怖いし……守り駒が少ない。後手はまだ堅いように見えます」
「その通りです。銀をここに打つと先手に詰めろがかかります。対して後手玉には詰みがない」
 詰めろはそのまま何もしなければ玉が詰んでしまうという意味だ。まだ詰みではないが、他の状況を鑑みると難しい。相手が相当とんでもないミスをしないかぎり――ミスを誘発できないかぎり――天乃の勝ちはないだろう。
 供されたジンジャーエールをひとくち飲み、佐川が目を細めてディスプレイを見下ろした。
「粘れないわけではない。起死回生の一手がどこかに潜んでいないとも限らない。秒を読まれている状況でも……ですが、天乃はそういう指し方をしませんね」
「それは……美しい棋譜を残したい、ということでしょうか?」
 佐川はグラスを軽く揺らし、ううん、とうなる。局面は佐川が話した通りに進んでいるが、彼は画面を見ていなかった。
「昭和の美意識ですね。もちろん今でも、そういう考えはあります。棋士をエンターテイナーとするなら、美しい棋譜、潔い生き様を見せることも仕事のひとつと言えるでしょう。反対にしぶとくしがみつく様を見せることも、娯楽になるでしょう。ですが、天乃はどうも、なんというか……そういう雰囲気じゃないんですよね。もっと手前というか」
 手にしたペリエのグラスは汗をしたたらせている。発泡がおとなしくなった炭酸水で渇いた喉を湿らせ、宇崎はテーブルの下で片手を握り込んだ。
 素人目にもわかる形作りの手を見て、胸が詰まる心地になる。もう天乃は諦めていると、指した手で理解できてしまう。
「天乃はどこかで、こう……自分が勝つことは、相手が負けることだ、って考えてるように感じるんです」
「それは……当然のことでは……?」
 勝ちと負けは表裏一体だ。将棋は二人零和有限確定完全情報ゲームに分類され、二人零和である以上は引き分けでなければ一方は勝ち、一方は負けるものと決まっている。そして日本の将棋界において、引き分けで終わる対戦はない。宇崎の疑問と同じことを、佐川も淡々と口にする。
「我々プロの将棋に引き分けは存在しません。千日手や持将棋になったら指し直して、絶対に勝敗をつける。それが苦しいのだとしたら、棋士には向いていない」
 厳しいが含蓄のある言葉だった。佐川自身がまさにそうした世界で生きているためだろう。唾を飲む宇崎をちらりと見て、佐川が唇の端を少しだけ緩めた。
「天乃はC級二組に在席しています。仮にここから降級点を三つとっても、更に十年はプロでいられる。ですが、それが苦しいならば、指し続けなければならない決まりはありません」
「不調なのは、今だけじゃないんですか?」
「そうですね、好不調の波は誰でもあります。でも、不調か好調かという以前の地点に問題があるのなら、苦しみが長引くだけということもある」
 佐川の手元でミックスサンドが乾いていく。彩り鮮やかなトマトとレタスが、人工照明の下でひどく寂しげに見えた。
「宇崎さんにはそうは見えませんか? 天乃は将棋は好きでしょうが、勝負事が好きに見えますか」
「わかりません。私自身、勝ち負けを決めるのは苦手ですから」
「あいつは負けた時に、ほっとした顔をするんです」
 苦い声にはっとした。この秋に知り合ったばかりの宇崎と違い、佐川はずっと天乃と同じ時間を共有してきたのだ。きっと子供の頃から今に至るまで、勝ちの夜も、負けの夜も、いくつも共に過ごしてきたに違いない。その佐川が言うことが間違っているとは思えない。
 息を呑んだ宇崎に、苦みの残る笑みを向けて、佐川はジンジャーエールを舐めるように飲む。その辛さも苦さも胸の内を占めるものと同じだと言うような表情だった。
「もし続けられないのなら、引退して指導者になる道もありますが……あいつだって三段リーグを抜けたんです。勝つことを恐れるだけなら、あの地獄から上がれない。だから何かひとつきっかけがあれば、まだプロとして続けられるはずなんです。何か、あれば」
「何か、とはなんでしょうか」
「わかりません。私はいつだって勝ちたいと思ってます。勝ちに怯えながら負けを嫌う、そんな矛盾や混乱は、私には理解できない。ただ、天乃は優しい。優しすぎる。それだけは確かなんです」
 自分自身こそが苦しそうに、佐川が目を伏せる。落とした視線の先で、スマートフォンの画面は対局が終わったと告げていた。一〇六手で後手の勝ち。天乃はこれで五連敗だった。つらく悔しい思いをしているだろうと思う。それとも佐川の言うように、どこかで安堵しているのか。
 宇崎はぬるくなったペリエを飲み、落ちていた視線を上げた。カウンターの中には酒類の並ぶ棚があり、奥には厨房がある。忙しなく働く影を見ながら、ゆっくり口を開いた。
「私は、わかるような気がするんです」
「……教えてください」
「凄く単純なことなんですけど……自分がひとつ上がれば、誰かがひとつ下がる。下がった相手は、私を恨むかも知れない。敵意や悪意に対する恐怖があるんです。底に沈めば、蔑まれても、恨まれることはありません」
「確かに、それもまた、生き方の一つではあるでしょうが……」
 わからない、と言いたげに佐川が首を横に振る。わからないだろう。勝つために生きている人の目には映らないものが、世の中にはある。
「華々しいだけが世界ではありませんから」
「それは、そうですね。ですが、もしも上を見上げて心が惹かれるなら、目指すのが人という生き物の本性ではありませんか。人間は、好奇心と向上心、冒険心によって、ここまで発展してきた。人のDNAには闘争心が刻まれているはずです。生存と子孫繁栄のために、協調や社会性や、愛情を獲得した。ですが停滞は緩やかな死と同じ。破滅を避けるために、発展するために、人は他人と競い合うことで技術を磨いてきた」
「一人で走るより、誰かと競争するほうが速く走れるように?」
「そうです。その結果として、速いと遅い、勝ちと負けがついてくる。それならそれも、受け容れられるはずなんです。真剣に戦うことこそが、お互いの矜恃を護り、尊敬し合う道に繋がると、そこでは本当は勝敗は大きな意味を持たないと、彼も肌で感じられれば……思い出せれば、きっと抜け出せる」
 訥々と語った佐川が、大きく嘆息して俯いた。
「こう言葉で説いても心の奥底までは届きません。実際に体感しなければ……あと一歩が、何か、あれば」
 カウンターの天板に落ちる佐川の声は、祈りに似ていた。
 何かとは何だろう。どうすれば取り戻すことができるのだろう。そもそも天乃は、自分が何かを見失っていると佐川から思われていると知っているのか、取り戻したいと思っているのか。わからないことばかりだ。宇崎はこんなにも、天乃のことを知らない。
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