高校生とピアニスト

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1.帰国

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朝、いつもと違う空気感を感じて、千秋はアラームが鳴る前に自然と目が覚めた。
10年ぶりに体を預ける自宅のベッドは記憶よりもずっと温かく柔らかで、深く眠っていたのだろう。
ベッドに入る前までは体の奥に残っていた時差も今はもう感じない。

目を開くと、ミラノのアパートではない、かつての自分の自室の天井が見えた。

ベッドの上から床へと細く繋がった、カーテンの隙間から漏れた朝の光が千秋の目線を自然と窓の外へと連れていく。

ほんの僅かな隙間から見知った風景が見えた。

駅前の風景はしばらく見ないうちにずいぶん変わったように感じたけれど、ここから見える風景は記憶のままだった。

カーテン越しに見える、向かいの寺島家。

その中にある一室。

青いカーテンのかかったあの窓。

そして、かつてその向こうにいた


ーー“誰か”。

今もまだ瞼の裏に焼きつくその姿を、つい思い浮かべようとしてしまった自分をふりきるように、窓の外から目線を逸らす。

そらした目線の先には重厚な作りの本棚があった。
かつてはそこに、母から買い与えられた何冊もの作曲家の伝記やら音楽史の本、楽典やらドイツ語、イタリア語の辞書なんかが窮屈そうに並べられていたものだけど、今は一番下の段の右端に、いつかのクリスマスにサンタクロースが届けてきた海外のただおしゃれなだけでよくわからない画集や仕掛け絵本なんかがほとんど新品のまま斜めに傾いて入っているだけだ。

もともと本棚に並んでいた見事な装飾の伝記や語学の本は、全ては母から自分への期待が本という形をとっているだけものでしかなかった。

壁に飾られていたコンクールの賞状も、ガラスの盾もみんなそうだ。

日本を出る時に、これからはうんと身軽に生きようと決めて、必要最低限の荷物だけを残してあとは思い切って全て処分したと思っていたけれど、なんとなくあの絵本たちだけは捨てられなかったことを思い出した。

人生そのものに対して拗ねるみたいに、『もう何もいらない』なんて思っていたくせに、この部屋で過ごした子供の頃の自分を全て切り捨てることはどうしてもできなかった、相変わらず意志と意気地のない17歳の自分にため息が漏れた。

千秋はこんな風に少しずつ、過去の荷物を捨てきれずにこれまで生きてきてしまった。

今度こそ、と覚悟を決めて、向こうでの仕事は、きれいに畳んできたつもりだ。

イタリアで契約していた室内楽団の出演契約はすべて終了。
教えていた生徒たちのレッスンも一人一人に引き継ぎ先を紹介し、最後のコンサートでは舞台上で花束を受け取った。
顧問を務めていた財団の推薦枠も辞退し、長年築いてきた人脈や環境のいくつかを、思い切って手放した。
名刺も肩書きも、新たに印刷し直すつもりだった。
もう本当に、今の自分の手の中には何もない。

その分、日本でやるべきことは山のようにある。何せ、日本ではまだ自分のことなんてほとんど誰も知らない。向こうでどれだけ大きな仕事をしてきていようが、こちらでは1からどころかゼロから、いや、マイナスからのスタートなのだ。千秋にとっては今から改めて就職活動を始めるような、そんな気分だった。

ピアノが履歴書がわりの一風変わった就活だ。

…とはいえ、生活の基盤が整わないことには就職活動も何もない。とりあえず今日は朝食をとって部屋の片付けをするつもりだった。
もうすぐ向こうから送った残りの荷物も届く予定だ。

相変わらず住みにくい家の、曲がりくねったサーキュラー階段を降りて洗面所へ向かい、水を顔に当てる。冷たさが神経をゆっくり起こしていくようで、じんわりとした感覚に包まれた。

鏡を見る。
いつもみているつもりの顔だけど、久しぶりに実家の鏡に映してみると、いつのまにか歳を重ねていたことに気づく。

この家を出た時はまだ17だった。いつのまにか海の向こうで10年の月日を過ごし、27になっていた。

母にまた似てきた、そんな気がして少し微笑んでみる。
母に寄せようとして、笑顔を浮かべてみた自分が嫌いではなかった。

記憶の中の母は、ちゃんと自分にむけて優しく微笑んでいた。
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