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朝の光が、白い花々を照らしていた。
公爵家の屋敷は今日という日のために飾り立てられ、
廊下の隅々まで薔薇と百合の香りが満ちている。
イレーネはゆるやかに歩きながら、整列した使用人たちを見渡した。
誰もが浮き立つような表情をしている。
――あの方が、ようやく満たされる日だ。
そう思うと、胸の奥に静かな安堵が広がった。
父はすでに正装を纏い、満足げに鏡の前で襟を整えている。
「見ろ、イレーネ。今日という日は、我が家の栄光だ。
母の名を継ぐ花嫁が、ついに我が手に戻るのだ」
イレーネは穏やかに頷いた。
「はい。お父さま。すべて、女神の御導きです」
あの子――もう“エルヴァン”ではなく“エルヴァーナ”となった花嫁。
昨日の夜、何度も歩き方とお辞儀の練習を繰り返していた姿が、まだ目に焼き付いている。
姿勢、手の角度、視線の高さ――
家庭教師の扇が打ち下ろされるたび、彼女はわずかに震えて、それでも何も言わなかった。
完璧な夫人に仕立て上げられること。
それこそが、あの子に与えられた最後の“贖い”なのだと、イレーネは信じていた。
⸻
式典の開始を告げる鐘が鳴る。
大広間の扉が開かれた瞬間、光が溢れ、音楽が満ちた。
来賓たちの視線が、一斉に中央の花嫁へと注がれる。
エルヴァーナは白いドレスに身を包み、静かに歩を進めていた。
その姿は確かに美しかった。
けれど――どこか、壊れ物のようにも見えた。
背筋を張り、微笑を保ちながら歩くたび、
裾が絨毯を擦る音が会場に響く。
「見事だ……」と父が呟く。
その声には、愛と執着が入り混じっていた。
壇上に上がった父が、聖職者の前に立つ。
彼の手が花嫁の細い指を取る。
「神と女神の御前に誓おう。この者を我が妻とし、永遠の導きを共に歩む」
――妻。
その言葉を聞いた瞬間、イレーネの胸がひやりとした。
けれども、表情には出さない。
誰よりも完璧な娘でいなければならなかった。
この日を祝福の形で終わらせること、それが自分の役目だ。
花弁が舞い落ち、祝詞が響く。
列席者たちは笑い、拍手を送る。
ああ、完璧な光景――。
けれど、その中でただ一人、花嫁だけが息を潜めている。
彼女の頬が青ざめ、唇が震えていた。
それに気づいたのは、イレーネだけだった。
(ああ……やはり、無理をしているのね)
だが、止めることなどできない。
父の手がエルヴァーナの頬を撫でたとき、
イレーネは微笑みながら掌を合わせた。
「これで、すべて整いました。女神の導きに感謝を」
その声のあと――花嫁が崩れ落ちた。
白い裾が音もなく床に広がる。
花弁が散り、静寂が訪れた。
誰も動かない。
ただ父だけが、その場で呆然と見下ろしていた。
イレーネは一歩だけ前に出て、
祈るように目を閉じた。
(可哀想に……でも、仕方ないわ。
あの家で、あのように育てられたのだから。
優しさも誇りも、歪んでしまったのね)
それが、彼女の精一杯の同情だった。
そしてその思いすら、誰にも聞かれることはなかった。
音楽が再び流れ出す。
拍手が戻り、式典は予定通り進められる。
“祝福の儀”に、終わりはなかった
公爵家の屋敷は今日という日のために飾り立てられ、
廊下の隅々まで薔薇と百合の香りが満ちている。
イレーネはゆるやかに歩きながら、整列した使用人たちを見渡した。
誰もが浮き立つような表情をしている。
――あの方が、ようやく満たされる日だ。
そう思うと、胸の奥に静かな安堵が広がった。
父はすでに正装を纏い、満足げに鏡の前で襟を整えている。
「見ろ、イレーネ。今日という日は、我が家の栄光だ。
母の名を継ぐ花嫁が、ついに我が手に戻るのだ」
イレーネは穏やかに頷いた。
「はい。お父さま。すべて、女神の御導きです」
あの子――もう“エルヴァン”ではなく“エルヴァーナ”となった花嫁。
昨日の夜、何度も歩き方とお辞儀の練習を繰り返していた姿が、まだ目に焼き付いている。
姿勢、手の角度、視線の高さ――
家庭教師の扇が打ち下ろされるたび、彼女はわずかに震えて、それでも何も言わなかった。
完璧な夫人に仕立て上げられること。
それこそが、あの子に与えられた最後の“贖い”なのだと、イレーネは信じていた。
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式典の開始を告げる鐘が鳴る。
大広間の扉が開かれた瞬間、光が溢れ、音楽が満ちた。
来賓たちの視線が、一斉に中央の花嫁へと注がれる。
エルヴァーナは白いドレスに身を包み、静かに歩を進めていた。
その姿は確かに美しかった。
けれど――どこか、壊れ物のようにも見えた。
背筋を張り、微笑を保ちながら歩くたび、
裾が絨毯を擦る音が会場に響く。
「見事だ……」と父が呟く。
その声には、愛と執着が入り混じっていた。
壇上に上がった父が、聖職者の前に立つ。
彼の手が花嫁の細い指を取る。
「神と女神の御前に誓おう。この者を我が妻とし、永遠の導きを共に歩む」
――妻。
その言葉を聞いた瞬間、イレーネの胸がひやりとした。
けれども、表情には出さない。
誰よりも完璧な娘でいなければならなかった。
この日を祝福の形で終わらせること、それが自分の役目だ。
花弁が舞い落ち、祝詞が響く。
列席者たちは笑い、拍手を送る。
ああ、完璧な光景――。
けれど、その中でただ一人、花嫁だけが息を潜めている。
彼女の頬が青ざめ、唇が震えていた。
それに気づいたのは、イレーネだけだった。
(ああ……やはり、無理をしているのね)
だが、止めることなどできない。
父の手がエルヴァーナの頬を撫でたとき、
イレーネは微笑みながら掌を合わせた。
「これで、すべて整いました。女神の導きに感謝を」
その声のあと――花嫁が崩れ落ちた。
白い裾が音もなく床に広がる。
花弁が散り、静寂が訪れた。
誰も動かない。
ただ父だけが、その場で呆然と見下ろしていた。
イレーネは一歩だけ前に出て、
祈るように目を閉じた。
(可哀想に……でも、仕方ないわ。
あの家で、あのように育てられたのだから。
優しさも誇りも、歪んでしまったのね)
それが、彼女の精一杯の同情だった。
そしてその思いすら、誰にも聞かれることはなかった。
音楽が再び流れ出す。
拍手が戻り、式典は予定通り進められる。
“祝福の儀”に、終わりはなかった
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