執愛の誓い

皇 英利

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二章 奪われた純潔

(二)

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アベルが待っているという客室へ出向くと、彼はフィアンの姿を見るなり微笑んだ。

そんな彼の表情を見るだけで、フィアンは今までの陰鬱とした気持ちが嘘のように晴れていくのを感じ、ほっとした。

「義姉上、突然お邪魔してすみません。たまたま近くを通りかかったもので」

その言い方にフィアンはクスリと笑う。

「お邪魔もなにも、ここはアベルの家でもあるのだからいつでも帰ってきていいのよ。謝る必要もまったくないわ」

「……ですが、ここはもう兄上と義姉上の家ですので」

そんなこと気にする必要はないのに、相変わらずアベルは真面目だ。

仕事終わりなのか、それともこれから仕事があるのか、アベルは騎士団の制服を着ていた。

群青を基調とし、繊細な銀糸の刺繍が施された上衣。胸元には騎士団の紋章が刻まれている。白い下衣に黒の長靴はアベルのすらりとした長い足をさらに引き立て、それらを見事に着こなしぴんと背筋を伸ばして立つ彼は、普段よりも大人びて凛々しく見えた。

病弱だった幼い頃のアベルは見る影もなく、立派に育った義弟をフィアンは誇らしく思う。

束の間見とれたあとはっと我に返り、フィアンはアベルをお茶に誘う。

「ねえアベル、もうすぐお茶の時間なのだけれど、一緒にクッキーでも食べない?」

「……お誘いいただきありがたいですが、もともと長居するつもりはなかったので、今回は遠慮しておきます」

「……そう、残念だわ。料理長が幻のバターでクッキーを焼いてくれているのだけれど……」

それを聞いた瞬間アベルの耳がぴくりと動き、わずかに瞳が輝いた。

「ま、幻のバター……」

「なんでもなかなか手に入らないとても稀少なバターで、他のバターとは比べものにならないほど香りも味わいも絶品なのだとか。それで至高のクッキーを作ってみせるって料理長が腕をまくって張り切っていたから、アベルにもぜひって思ったんだけど……。時間がないのなら、しかたないわね……」

一度は誘いを断ったアベルだが、しばらく悩むように口をぱくぱくさせたあと、やがて誘惑に負けたのか覚悟を決めたように言う。

「す、少しなら……大丈夫です。まったく時間がないわけでもないので。お茶を楽しむくらいなら」

「本当!?」

フィアンは両手の平を合わせぱあっと表情を明るくする。

最近は食事もお茶の時間ももっぱら一人だったので、アベルと一緒にいられるのが嬉しい。うきうきと使用人を呼び、クッキーが焼き上がったらすぐに持ってきてほしいと伝える。

ソファに座ったアベルの隣に並んでフィアンは腰を落ち着かせた。机を挟んで正面に座らなかったのは、人恋しかったからかもしれない。

意外とすぐクッキーが出来上がったらしく、二人分のお茶とともに使用人が机に並べてくれる。

食欲をくすぐる香ばしいバターの香りが漂い、二人は同時にその香りを肺いっぱいに吸い込んで、ほうっと息をついた。

使用人が出て行くとフィアンはさっそくアベルにクッキーを勧めた。

「さあどうぞアベル、遠慮しないで食べて」

「では、いただきます」

アベルがクッキーを一枚口の中に放り込む。サクサクという小気味良い音を響かせながらゆっくりと何回か咀嚼したあと、目を見開き、頬を緩ませてなんともいえないたまらない表情を浮かべた。それだけで、言葉にしなくとも美味しいのだとわかってしまう。

そのゆるゆるの表情に、フィアンは思わずぷっと軽く吹き出した。

はっとしたアベルは急いで表情筋を引き締め、ゴクンとクッキーを飲み下す。そしてごまかすように紅茶を一口啜った。

フィアンがずっとクスクス笑っているとさすがに癇に障ったのか、アベルがじろりと横目で睨んできた。しかしその頬はうっすら朱く染まっているから、照れ隠しなのが一目瞭然だ。

「いつまで笑っているんですか」

「ごめんなさい、馬鹿にしているんじゃないの。甘いものが好きなのは昔から変わらないなぁって、可愛くてつい」

「かっ……可愛くなんてありません! 僕は男ですよ。子供扱いしないでくださいっ」

ぷいっとそっぽを向きむくれてしまったアベルに、機嫌を直してほしくて、フィアンは昔寝込んでいた彼にそうしていたようにクッキーを手にとり彼の口に近付ける。

「怒らないでアベル。ほら、もう一枚どう?」

「やめてください、自分で食べられます。それより義姉上も食べたらどうですか」

頑なに嫌がられたため、フィアンは持っていたクッキーをしかたなく自分で食べた。

すると口に入れた瞬間バターの香りが口いっぱいに広がった。生地はサクサクで、一回噛むごとにバターの味がじゅわっと染み出す。その香ばしさとまろやかさとコクは、初めて味わうものだった。砂糖の使用を控えめにして、バター本来の自然な甘みと風味を最大限に引き出している。とろけるような美味しさに、本当にほっぺたが落ちそうだった。

アベルがあんな顔になってしまうのも納得だ。

フィアンは自分の頬に手をあてる。

「ほら、美味しいでしょう? 義姉上も僕のことを笑えませんよ」

「そうね。これはあとで料理長に絶品だったってお礼を言わないと」

ひとしきり二人でお茶の時間を堪能したあと、飲み干したカップを置いたアベルが口を開いた。

「ところで、兄上は今いらっしゃらないようですね。どこへお出かけになっているのですか?」

訊かれてフィアンはぎくりとする。

「さ、さあ……、私は聞いていないからわからないわ。執事長なら知っていると思うのだけど」

ついさっき、ナイジェルが毎日ドーラ侯爵夫人のところへ通っているという話を聞いたばかりだから、この話題は気まずい。

フィアンは無意識に目をそらす。

そんなぎこちない彼女の様子になにかを感じたのか、アベルが眉をひそめた。

「何時頃帰るのかも、知らないのですか?」

「ええ……」

「……つかぬことをお訊きしますが、もしかしてお二人はあまり会話をしていらっしゃらないのでしょうか?」

「そうね……ナイジェルは最近ずっと忙しいみたいで、食事も一緒に摂らないし。お昼頃に出掛けると帰ってくるのはいつも朝方で……」

「朝方!?」

アベルの大きな声にフィアンははっと口を押さえる。

(しまった……!)

つい愚痴がこぼれてしまった。

結婚直後なのに夫にまったく顧みられていないなんて、誰にも知られたくなかったのに。よりにもよって一番知られたくなかったアベルの前で口を滑らせてしまうなんて。

完全なる失態だった。結婚してからずっと孤独感ばかり感じていたから、アベルに会えて気が抜けたのだろうか。

「義姉上……」

アベルがなぜか怖い顔をしてフィアンに詰め寄ってくる。

「な、なに……?」

「兄上はまさか結婚式の日以外はずっと夜屋敷にいないのですか?」

「えっと……そういうことに、なるのかしら。でも貴族同士の付き合いもあるだろうし、一概に遊んでるだけとは言い切れないから……」

「結婚して少しも経っていないのに、ただの付き合いで朝帰りを毎日強要する人がいったいどこにいるというのですか!」

憤慨した様子で諭されて、フィアンはなにも言い返せない。彼の言う通りだ。

アベルは盛大なため息を吐くと、綺麗な赤い髪をくしゃくしゃにかき回しながらうなだれてしまった。

「やっぱり結婚なんて反対すればよかった。二人の仲が上手くいっているのかどうか心配して様子を見に来てみれば、さっそくこれだ……。義姉上が決めたことならと、その意思を尊重しようと思ったのが間違いだった……」

「あ、アベル? 大丈夫……?」

背中を丸めうつむいたまま、なにやらぶつぶつと呟いている義弟を心配する。

アベルの肩に手を置こうとしたとき、勢いよく彼がまた顔を上げたのでフィアンは驚いた。

「きゃ……」

「義姉上は優しすぎます! もっと兄上に対して怒ってもいいはずです! 黙って兄上のすることを全部受け入れていては、兄上はもっとつけ上がりますよ」

「でも……」

「兄上がローレライ伯爵家に援助をしているからですか? だから強く言えないんですか? ……それとも、兄上のことを本当に愛していて、嫌われたくないからですか……?」

強く両肩を掴まれてびっくりする。

こちらを見下ろす瞳に彼らしくない迫力を感じて、少し怖くなる。けれどそれなのに、目をそらせない。

「その様子だと、あの兄上のことだ。毎晩他の女性のところへ行っているのでしょう?」

ずばりと真実を指摘されて、フィアンの胸がずきりと痛む。

傷ついたようなフィアンの表情を見て、なぜかアベルも傷ついたかのように顔を歪めた。

「……だったら、義姉上も兄上に内緒で……他の男と楽しめばいいんですよ……」

「え……」

フィアンの視界が反転する。

一瞬なにが起こったのかわからなかった。

けれどすぐにソファの上に押し倒されたのだと気づく。

そして気づいたときには唇に温かく柔らかいものが触れていた。
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