空を見下ろす扉

阿房宗児

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今までのこと。幼いとき。

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幼い頃のイメージは泣いている自分とその姿勢。それはしゃがみこんで両耳を手で塞いでいる。そんなふうにしてよく泣いていたのは小学校低学年の頃。なぜ自分は耳を塞ぎながら泣いていたのか?それは自分にとって両親以外のどんな音もノイズであり、自分を襲う雑音でしかなかったから。人の声も物音も、もちろん音楽も。たしか幼い自分が我慢できずに泣いてしまったのは音楽の時間が多かったと思う。正直、そう思うだけで本当のところなんて分からない。というのは小学校に入る前にも他の同年代の児童達と歌う機会はあっただろうに、小学校以前のことは何一つ覚えていない。そんな自分の記憶力だ。少なくとも、自分にとって音は痛みを伴いながら聴覚から始まり、音は鋭く軽度な苦痛から、体全てに通じる五感に変換され作用し、肉体的圧迫感を併発させ、体のなかに入り込んだ音は壁となり自分を押し潰し、自分は音に屈し縮こまる。自分が自分のなかで縮こまった分、余計に肉体は音や響きの住み処になり音が消えない。自分のなかで鳴り止まない。どうしようもなく、我慢ができずに泣き出してしまう。そんな自分を同級生はからかうようになる。彼等は逃げる自分を捕まえて、自分を囲んでたわいもないお喋りをするだけ。自分は目を腫らして帰宅する。そんな自分を見て両親はがっかりする。両親が自分に「なぜ?」と理由を問う。それは「なぜ学校で泣いてしまうのか?」から始まり、最後は「私達と違ってお前は健常者なのに、なぜ?」で終った。もちろん答えられるわけがなかった。両親は二人とも軽度の障害者だった。二人はある作業所で出会ったらしい。二人は「障害者」であるということにコンプレックスと執着を持ち続けていた。だから自分が産まれ、その結果が本当に健常者だと分かったときには、ひどく喜んだらしい。だけど自分は違った。両親と同じくらいか、もっと重症の身体障害者に認定されたいと思っていた。
そしてある日、いつものように学校から泣いて帰ってきた自分に対して、ついに両親が「私達が障害者だから…」と言い始めた。自分は夢中になって両親に泣いて謝った。「もう泣かないようにする。」と。両親が自分を捨てる。もしくは離れていってしまうのではないかと本当に怖かった。両親の存在と肉声だけが幼いときから自分を襲ってこない声で、唯一の存在だった。幼い頃から歓びは苦痛に勝ることはなかった。聞き続けられる静かな音楽もあったが、そもそも音を鳴らす必要がわからなかった。もちろんその問いは相手ではなく自らに向かう。自分の耳はなにを聞くためにあるのか?もちろん答えなんてあるわけがなかった。今はそんな苦しみも過去のものとなっている。ただ当時の自分には苦痛だらけの世界と、唯一安心できる両親しかいなかった。だから自分は適応するしかなかった。それは押さえつけること。我慢するのと似ているが違う。徹底的に自己を押さえつけ他人の真似をして過ごす。うわべだけの日々、偽物の普通の生活。それは自己、意思、感情を希薄にするということ。そのなかで体を動かす。自己はどんどん小さくなっていく。する減り、磨耗し、体の奥深くに折りたたまれ、薄くなり沈んでいく。自らの血肉のなかへ、肉体の海のなかへと。そんな暗い場所に自分は長い間いた。その状態でなにかをやっていたとしても、それはなにもやっていないだろうし、なにかを見聞き口を開いていたとしても、なにも見ていないし、聞いていないし、喋っていない。そんな状態で学生生活を高校生まで続けた。そして常に自分にひっそりとつきまとっていたもの「あれ」

自分が本当に泣かなくなるまでの間、互いに向き合う幼い自我、ジレンマ。
何故    自分は健常者なのか?
            どうしていつも、あんなに喧しいのか?
            どうして理解してくれないのだろう?

            でもそれ以上に両親から離れたくない。

ありのままの自分を認めてくれない両親を憎んだことはなかった。それほどまでに自分は孤独で小さかった。何より両親を一心に必要とした。そして自分を内包しているかのような、巨大な広がりを持った、自分の家以外の空間に対して耳を塞いだまま一歩踏み出た。恐怖、飲み込まれ、うなり、ねじ曲げられる。それが際限なく繰り返される日々。そんな生活のなかで一つの欲望、解放感にも似た思考に気づき始める。音による痛みの連続の毎日、手探りで様々な方法を試みる。ぶれる視界のなか、次第に当たり前のことに気がつく。自分が生身の人間であるから辛いのだと。自分が自分らしくあるから音が痛いのだと。つまり原因が、自分が「人」という生命、肉体的(心理も含む)な要因からなっているのだという、当たり前のことに気がついた。それから自分は人間そっくりの機械になろうと思った。なにも感じない機械、人形になろうと思った。そして自分が行ったことは、あらゆることを手放すこと、離れること、なにも望まずに、最低限行わず、隠すこと。次第に軽減されていく日常の恐怖、あらゆる選択時に機械的なイメージを思い浮かべた。自己の代理に機械や人形を行動原理に置き換え、日々を過ごしていく試みが、ある程度の解放感へ変わっていった。不自由であるということ、消極的であるということ、なにも望まないと。肉体の余白至る箇所に苦しみがあり、それを認めること。機械が充電などの動力源の供給、確保が必要なように、自分は毎日学校から真っ直ぐ帰り、両親を見て話をして二人を認める。二人も自分を認めてくれる。そして自分の部屋で床につく。

学生時代の周囲の騒音。
ざわつき、生徒達の動き続ける口、他人の体が発する音、自分は人体を機械化した模型を思い浮かべる。
チェーンとスプロケットの動き。
ドリルの回転する動き。
クラスという集団、集団単位の行動。
プレス機、永遠にプレスして騒音を産み出し続ける鋼鉄製のアーム。
起立、礼、着席。
高層ビルの爆破解体。もしくはその逆再生。
騒がしい休み時間。
騒音を運搬するベルトコンベアー。
自身、他人、避けられない会話、自分に向けられた肉声。
パーソナルコンピューター、キーボードを叩く様、コンピューターウイルス、フリーズする画面、当たり障りのない単語の数々。

高校生の頃、クラスメートに授業中も休み時間もミュージックプレイヤーのイヤホンを、耳につけっぱなしにしている同級生がいた。自分は授業中の先生の話し声が苦痛だったので、そんなときにイヤホンをして、ノートだけをとるというのは賢い方法だと思った。でも自分にはそれは出来ないことだった。まず自分の家庭は裕福じゃなかった。自分は一人っ子だったが貧乏で余裕なんてなかった。親にミュージックプレイヤーを買ってとは言えなかった。それにその方法は実際、その同級生が自分と同様に滅多に他人とコミュニケートを取らないくせに、目立った存在であったように、自分を学校内やクラス、周囲に対して自己を浮き上がらせ、逆に目立ってしまい自分が苦しむのは目に見えていた。その同級生の名前は他のクラスメート同様に覚えていないが、彼と自分は友人がいないという共通点のおかげで学校行事の際には、余り者の集団のなかで顔を合わすこともよくあった。もしかしたら当時音のことがなければ、友達になれたかもしれないなんて、今では考えてしまう。当時の自分では考えられないことだったけど。

ハリボテのような学生生活。抑圧というものが、その効果において自分に有効な場合もあったが、結局それは保護膜でしかなかった。その膜の向こうには、溢れている音の洪水の世界。実際保護膜は突発的なことで容易に破れた。自分は世界に屈していた。世界があり、音はどこでも鳴り響き自分は震え、それでも両親がいてくれる日常があり、この状況で自分が屈服し続けることによって、世界は自分を放置してくれていた。自分の周囲で掻き鳴らされる騒音のシンフォニーは鳴りやむことはなかった。
高校生になってから帰宅後に一人運動を始めた。ジョギングと水泳。水泳は市内のジムのなかにあった。ジムの利用にはお金がかかったので時々しか行けなかった。運動の効果だけが自分に必要だった。ジョギングは近所の堤防を走った。すぐそばには道路があり車の交通量は多い場所。肉体を酷使していると抑圧下の状態と似ているところがあった。運動を始める第一歩は自らの意思や行動だが、それ以降は同じ動作の繰り返しによる反復運動。
不在の目的と自己による体の動き。
温度調節されたプールに入る。水中に潜り壁を蹴る。
呼吸のために水面へ、喘ぐ口元、限定的に映る照明が設置された天井。
体や動きに沿って生じる水泡、入れ替わる水中と水面。
水圧、手足の動き、繰り返し、繰り返し、動かし続ける。
走り始め、揺れる体、なびく髪。
手足のリズム、振り続け、踏み出し続ける足。
足の裏に感じる体の重量。
生理現象、汗、塩分と共に至るところから流れる水分。
速くなる心音。心音の悲鳴。

警告のような鼓動。
駆ける、泳ぐ、という不自然な行為の連続、永続が不可能な行為。

蓄積されていく負荷。
自らが作り出すリズムのなか
一歩踏み出す瞬間、水面から水中へと潜る瞬間
体が疲労により、すり減り続け、心音だけが大きく聞こえ
やがて心音だけの存在となり、自己を手放す。
足が止まり腰に手をやり、水中で両膝に手をつき、呼吸のたびに肩が上下する。
こうやって体は止まる。

決して「辛さ」は体が感じているわけではないのに、負荷がなくなると、胸の心音と共に体の厚み、体そのもの、肉、筋肉、血、なにより体の重さ、それらが戻ってくる。

束の間
音が鳴っている。それは胸の心音。
自身の胸が発している音。
胸のノイズと共に自身の肉体を感じ、この束の間だけは全てを自然に感じることができる。
相変わらず、あらゆる音が鳴り響いている。
そのなかで自分に一番に響いているのは胸の心音。
それは泣いている子供のよう、いつまでも泣き止まない子供。
束の間、知覚を受け入れることができる短い時間、それはすぐに過ぎ去ってしまう。

一瞬浮かび上がったもの
体の奥底、海の底に沈めていたもの

止まったのはなに?
止まったのは誰?
体はなにも考えないし、喋らない。
    ・
    ・
浮かび上がったものが、また沈む。
    ・
水面におぼろげに映っている男
道路を次々と通過していく車の窓に映った男
全てが収束していく
刹那に知覚も、根源的な問いも、沈み、どこかに仕舞われる。

男は見ている。空を水面を。そこがとても静かそうだから。全てが狂った音のなかへと収まってしまい。ゆっくりと歩いて家に帰る。両親と一緒に夕飯を食べる。両親はそのまま二人でテレビを見る。テレビのなにが楽しいのか自分には分からないけど両親が笑顔なら嬉しい。自身の部屋に戻る。なにもない部屋。最低限の静けさを求めて目を閉じる。
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