空を見下ろす扉

阿房宗児

文字の大きさ
上 下
13 / 18

しおりを挟む
~夢~
始まりは一つの映像、蛇のように辺りかまわず這い進む。路地裏、街中のゴミ箱の蓋の上、建物の壁、マンホールのなか、下水管、車の屋根、トンネル、工事現場、川辺のフェンス、草むら、欄干、川、山道、獣道。
この一つの映像が震えだし、生物のように複数に分裂していく。頭のなかはこの増え続ける画面で埋められる。際限なく分裂し、増え続けていく。
映像に音声が入ってくる。その音は人の声に限られている。全方位から人の様々な声がする。

自分は誰ですか?

あなたは旅館で気絶した「あなた」ですか?
あなたは罪です。あなたそのものが罪です。

自分は人間です。

いいえ。もう罪です。あなたはかつて人間であっただけです。あなたは、ある浴槽のなかで目覚め、罪となったあなたは少し先の未来で殺人を犯します。

人間ってなんだろう?
ここから始めなくてはいけない。

自分は知らない部屋の薄緑色の浴槽に入っている。部屋の壁から無数に生えている手(ちょうど肩から生えている。)と黒い犬。浴槽の脇に錆びている杯。これらに囲まれていた。そして自分は右半身のみとなっていた。
直前の記憶は悪夢。星そのものが見た悪夢。それより以前は旅館の部屋。この部屋の床は在悪の水がとめどなく流れていて床を満たしている。自分は透明な気分。苦しみや痛みが全くなくなって、まるで初めからなかったかのように。そのことについて考える。もし「あれは全部、幻だった」と言い切ったなら、もちろんそんなことはありえないが、もしそうなら、自分は自分の全てを、もしくは半分以上を否定することと同じ。自分以外には分からないもの、感じれないもの、理解されないもの、意味がないもの、存在しないもの。故に自分が否定すれば失くなってしまうもの。儚いそれらは言葉以上に自分を苦しめ、のしかかり、圧迫させ、無理強いさせてきた。でも苦しみが消えても歓びはない。もちろん苦しみを望みはしないが、自分はそれが完全に自分から失くなったとは信じていない。あれはまるで………自分自身のようであり、人間のようであり、孤独であり、異端者のようなもの。
浴槽のなかでの時間経過、悪夢の最中だと思っていたが、そこから覚める気配はない。現実のように停滞した時間が過ぎている。それが視覚に変化として表れた。床を流れている水の上を様々なものが流れ始める。それらは初めからすでに存在していたかのように、自分にだけ見えていなかったように。停まっていた時間が動き出すように、周りのものが一斉に動き出す。壁から生えている無数の手が動き始め、床を流れている様々なもののなかから、肉類、人体の一部などを壁に生えている手が掴み犬のほうへ放り投げる。犬はそれを食べる。犬はずっと食べ続ける。自分は右手を浴槽から出して床の在悪の水に触れる。二本の指先を水につける。そこから水の流れは変わる。水は指に当たって盛り上がり、指の隙間を抜けるか、または左右に迂回して流れるか。水は生温かい。
自分はこの床の水が在悪の川、水だということを知っている。自分はここに昔からいて、現実という夢を見ていただけなのかもしれないとも考える。現実の自分について考えている自分がここにいる。すると隣に左半身だけの自分が立っている。その断面を自分に見せつけながら彼は片足で歩き始める。痛くないのだろうかと考えるが、その左半身の自分も、浴槽の自分の断面が視界に入るわけで、互いが互いのグロテスクな肉体の断面を見て同様のことを考えているのかもしれない。もしくは左半身の彼には自分の姿が見えていないのかもしれない。
床に罪を犯した人間が流れてきて、壁の手がそれを掴み、放り投げ犬がひたすら食べ続ける。次第に犬が赤い血がしたたる肉片を口にくわえて、この薄緑の浴槽のそばの杯の上に乗せる。自分は犬の頭を撫でて、そのまま杯の上の肉を頬張る。自分のなかに、このとっさの行動をいぶかしむ気持ちと、これが昔からの習慣で当たり前だという、二つの気持ちが生まれる。それらがぶつかる前に自分はこの生肉が美味しいと感じてしまい、いぶかしむ気持ちは迷子になって消えた。さようなら。
左半身だけの自分は扉もない壁際まで歩いて、そして壁をすり抜けるように部屋を出ていく。部屋を出て、その先に続く階段を降りていく。どうやら左半身の自分自身、彼そのものが扉だったらしい。

~左半身~
左半身のみで階段を降りている。足の裏と階段の床を流れ続ける在悪の水、生温かい水。いつか自分は転んでしまうだろう。こんな状況でも自分のことばかり考えている。それぞれの自分がそれぞれの自分に関することを考えている。そこに他人はいない。小さなときからそうだ。もっとも現実の自分はひたすら肉体の状況に追われて日々を過ごしていただけ。

小学生低学年の自分。しゃがみこんで泣いている自分。

非現実的な真っ白い教室。教室のなかの子供も全てのものが白い。それらは在るというよりも、それぞれの陰影から成り立っているよう。机、椅子、黒板、子供達。
当時の机や椅子はオモチャのよう。黒板の前に立ちチョークを手にとるが、何も書くことがなければ、チョークも黒板も白いから書けない。クラスメートの輪の間をくぐり抜け中心で泣いている姿勢の子供の体に触れる。苦しみという現象が当時の自分のなかで再現される。
そこは乳白色の空間。中央に透明な液体が入っている器があり、他人の声や物音の響きは、様々な色のついた液体となり器に流れ込む。器のなかの透明な液体は流れ込んできた色つきの液体の色に染まってしまう。色つきの液体は器を傷つけ、それが現実の自分に苦しみ、痛みとして作用する。他の液体に染められた後、空間そのものが揺れて器は倒れる。液体が流れ続け器が空になると揺れは収まり、倒れた器は逆再生のように一人でに起き上がり、そして器の底から透明な水が湧き元通りになる。
家のなか。幼い自分と両親。両親の声は他人と違い無色。
両親の他界後、この場所では顕著な変化が起きる。この乳白色の空間そのものが傷つき、揺らぎ続け、薄らいでいった。
そしてある時、器の底に黒いものが見え始める。それは黒い植物。その植物は完全に器に癒着し、ついには器に侵食し貫いた。それがきっかけで音の響き方の変化をもたらした。この植物がそれまでの音の響きを反転させた。つまり自己の象徴でもあった透明な水が器に満たされると、植物が明確な意思をもっているかのように、癇癪を起こしたように自らの体を揺らして、器を倒して透明な水を吐き出した。そして他人の音や喧しい物音など色のついた液体を好んだ。自己を示す透明な水は癒着した植物に拒絶されるが、この空間自体が自分の体を投影したものなら、空間としての自分は植物と共に他人の声色を飲み干す。それと共に植物は大きくなる。容器の底を突きぬけ空間自体に根をはり、器のなかで茎が伸び黒い葉は生い茂っていく。

乳白色の空間   器であり花瓶   そのなかで成長し生い茂るように大きくなる黒い植物。

そして現実できっかけとなる出来事が起こる。暴力。酔っぱらいの暴力が鳴りやみ、彼等と自分の立場が逆になったときに器にひびが入る。

短い時間の経過、旅館。その間にも器のひびは修復されずに亀裂が走り続ける。

やがて器が粉々に割れて   空間そのものが揺れ   器の足元にも亀裂が入る
現実の自分が苦しみ   悶え倒れる   旅館の部屋で
地面は割れる
自己と共に空間が落ちる   この場所に

在悪の川の果て   罪人という植物が流れ着く砂漠と海
砂漠には彼女がいて   彼女は流れ着いた植物を抱き抱え不毛な砂漠に植える

やがて植物は罰そのものの場所で虹色の花を咲かす

過去の時間のなかで自己という空間が落ちたとき、自身の過去を見ていた左半身の自分も同様に落下する。正確には左半身の自分は扉となって、左半身の扉を通して自分は落下した。




自分を含む無数の罪人という植物と共に在悪の川を流れる。辺りは暗闇で自分を運ぶ水の感触や温度以外は何も感じない。川の向こうには岸があるのか、目を凝らすがなにも見えない。在悪の川は自分達を穏やかに運んでいく。そのおかげで誰一人川底に沈んだりしなかった。
    ・
    ・
頭上には太陽、先ほどまでは見えなかった両岸は赤黒い壁。在悪の川は続いていく。視界の先には砂漠。そして在悪の川の果てには大海。大海は深く堅固な碧色をしており、砂漠は乾いた辛子色の砂に覆われ隆起をなだらかに繰り返している。砂漠の波打ち際の平らな場所には数えきれないほどの、黒色の罪(植物)が植えられ虹色の花を咲かしている。川を流れている自分以外の罪はまだ花を咲かしてはいない。そして砂漠の岸辺に白いワンピースを着た彼女が立っている。風の音。それはよく聞くとたくさんの人間のうめき声。

自分と他の多くの植物が砂漠の岸辺に留まるように浮いていたが、ごく僅かな植物だけは大海へと流れていった。彼女が植物を一つずつ手に取り砂漠に植えていく。自分は植物の最後尾に浮いている。そして最後に彼女は自分を抱えて、他の植物から離れた、砂の丘を少し上がった場所に自分を植えた。そこは二本の枯れ木があり、ハンモックが掛けられていた。
ここには時間があった。太陽が大海から昇り降りていったが、しかしその動きはなじみあるものではなく、直線的なもの。つまり見えないロープによって上げ下げしているような、舞台装置のような動きをする太陽。彼女は太陽が昇るとハンモックで目覚め一日を始める。彼女は他の植物のほうへ降りていき、一つ一つの植物を覗き込むようにじっと眺める。すると彼女の目から一滴の涙が零れ落ち植物に注がれる。一粒の涙を機械的に流し終えると、彼女は別の植物のほうへと移る。この光景を片目で見ると植物は罪人の頭に変わり、ここは辺り一面生首が埋められている砂漠へと変貌し、彼女が一人の罪人のもとに屈みこむと、罪人は彼女に向かって懺悔を始める。その話が終わると罪人の額に彼女の涙が一滴落ちる。彼女は日中ずっと植物を罪人を一つずつ、一人ずつ見て回る。最後に自分に向かって屈みこみ、自分の瞳を覗きこむ。彼女の瞳に映るもの、一つは自分の顔、もう一つは罪という黒い植物。そして自分の瞳に映るもの。一つは彼女の顔、もう一つは虹色の蕾。自分と彼女はそうやって互いを見ていた。自分は他の罪のような話を持ち合わせていなかった。しかし自分が口をつぐんでいても彼女の目は次第に潤んでいき、やがてその瞳から一滴の涙が自分に向かって零れ落ちる。しかし自分はそれをとっさに首をかしげて避けてしまう。
太陽が垂直に海の彼方に沈んで、砂漠に夜が訪れた。しかしいつまで経っても、ここの夜は、夜明け前のような沈んだ青色、コバルトブルーに包まれていた。自分はこんな場所でも眠れるのなら、それはそれでいいと思った。彼女はすぐそばのハンモックで横になっている。その姿はこの群青色の視野でかろうじて見えるほど。自分が感じているのは彼女と自分の間に、目に見えることはないが、たしかに存在している、一本の透明な糸があるのを感じる。この透明な糸はたわんでいる。糸を通じてハンモックで横になっている彼女が眠っていないことを知る。例えば自分か彼女のどちらかが、なにかを喋ったり体を動かすだけで、糸に振動が伝わり、それを感じる。地面に向かって半円を描くようにたわんでいた糸が弦のように張るのを感じる。
自分が口を開いた。口を開いて出てきたのは、以前繰り返し夢で見ていた罪の物語。自分の内側深くにある球状の塊、糸でできた毬のようなものが、言葉を発するたびにほぐれていく。自分の言葉は糸を通して彼女に伝わる。すると彼女も自分に向かって物語を語る。それは自分が話す物語とほとんど変わらない罰の物語。罪の双子である罰の物語。自分と彼女は互いに手探りで確認し合うように同時に言葉を紡ぐ。互いの言葉の振動が糸の中心で弾けあう。やがて自分達は開いていた目を閉じ、口だけを動かし、言葉という手足で互いをたぐりよせ、寄り添い、物語というくちづけを交わす。




~現実の自分と左半身(扉)~
旅館で倒れた自分が起き上がるのを見ている。少ない荷物をまとめ部屋を出てカウンターの従業員に謝りながら清算を済まし、旅館をあとにする。自分が車のハンドルを握っている。それを助手席から見ている。ルームミラーに映るのはハンドルを握っている自分一人だ。旅館からの帰り道、土手沿いの道路で信号待ちをしていると左の草むらがゴソゴソと動く。草むらの隙間から野良猫が顔を出した。猫は向かい側の草むらを見ている。車道を横切るために猫が飛び出した。信号が青色に変わる。自分はハンドルを少し左にきる。


…サイドミラーに反対側の草むらに飛び込む猫の姿が移る。帰宅した自分は部屋で少しだけ横になる。

横になった自分に左半身の自分がゆっくりと近づいて、眠っている自分に触れる。左半身の自分は扉となって罪の内側へと消える。
罪の内側。広大な空間、厚い氷に覆われた地に霧雨が降り続き、遠く左右には濃い緑の森が広がっている。この空間の中央、炎をまとった竜巻が一寸たりとも移動することなく、一つの巨大な柱のように鎮座している。左半身の自分は竜巻から少し離れた、凍っている切り株に座り待つ。来るべき別の自分を。

~右半身の自分(浴槽)~
浴槽のなかにいる自分が、その身を起こし杯に乗っている様々な肉片を、口と片手を使い縫いつなぐ作業を始めた。糸と針は床を流れてきたものをいつか拾ったもの。
しおりを挟む

処理中です...