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憧れの背中と叶わない夢
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今日は金曜日。本来なら学校のはずだが、今日はなんの日かは忘れたが、国民全員祝日らしい。
国民全員と言っても、当たり前のように会社に出社して仕事をしている大人たちは数えきれないほどいるのだろうけれど。
その点、僕たち学生はしっかりと休みが与えられている。学生の最大のメリットだ。それもあと数年すると無くなってしまうのが、とてつもなく悲しい。
今日はばあちゃんも久しぶりに友人とランチをしに行く予定らしいので、家には僕一人だけ。
当然そうなれば、することは決まっている。あの力を使う...
「翔也~。私、友達とランチに行ってくるわね」
「うん。気をつけてね」
ちょうどいいタイミングで祖母が家を出ていく。しっかりと抜け目なく、祖母が家を出ていくのを確認してから、自室に戻って懐中時計を手にする。
祖母にもこの力のことを話してはいるので、コソコソする必要はないが、祖母には相手が見えないため僕が一人で話しているのを見ることになる。
それは少しだけ恥ずかしいので、力を使うときは一人の時と決めたのだ。
相変わらず、全く動く気配すら見せない懐中時計。ちなみにこれから会う相手はもうすでに決まっている。
その相手は...弟の直輝。僕と直輝は歳が四つ離れていた。確か、あの津波の時はまだ僕が中学三年生の頃だったから、直輝は五年生ということになる。
今も直樹が生きていたら、中学二年生くらいになっていただろう。小学校を無事卒業し、その一ヶ月後には晴れて中学生となるはずだった。
もし、当たり前のように僕の隣で直樹も生き続けていたら、彼は僕のことをなんと呼んでいたのだろう。昔のように『兄ちゃん』と呼んでくれるのか、それとも違った呼び方に変わるのか。
反抗期になっても僕のことを兄として慕ってくれただろうか。小さい頃はずっと僕の背中を追って、僕の同級生に混じって遊んでいた。
四つも歳が離れているので、もちろん弟は友達にも可愛がられたし、弟も僕の友達に大いに懐いていた。時には、兄弟喧嘩もしたが、基本的に四つ歳が離れていると、そこまで激しい喧嘩になることはない。
兄である僕が、弟に何かを譲るだけでその場は丸く収まるからだ。だから、僕の中で眠っている記憶を探してみても、それらしい喧嘩をしたことはほとんど思い出せない。
それくらい僕ら兄弟は仲が良かったのだろう。周りの友達に兄弟のことを聞いてみても、皆『うざい』とか『むかつく』という言葉ばかり。
時々、僕らがおかしいのかと思ったこともあったが、今思えば単純に仲が良かっただけなんだと思う。
「あれから、三年近く経つのか・・・早いなぁ」
三年もあれば、人は大きく成長する。体だけでなく心身ともに。僕の身長だって追い越している可能性もなくはない。
それに、中学生になったら部活動にも入るはずだ。僕は高校では帰宅部だが、中学までは陸上部の長距離選手だった。運動することは苦手だったけれど、唯一走ることだけは好きだった僕。
走っている間だけは、何も考えずに済むのが僕は好きだった。それに、走るたびに肺が酸素を求めてより多くの酸素を取り込もうとする。その瞬間に吸う空気が美味しいのも、僕が走ることを好きだった理由の一つ。
県大会でも入賞を果たすなど、これでも輝かしい成績を持っていたんだ。何度か、僕の大会の様子を両親と見に来ていた直輝はいつも『兄ちゃん、かっこいい!』と言ってくれた。
それが、僕には何よりも嬉しかったし、弟に勇気と希望を持たせてあげられる背一杯の兄の背中だった。
きっと、直輝も陸上の道へと進んでいたに違いない。僕と違って小さい頃から年上と遊んでいたせいか、運動神経は僕の弟かと思うほど、僕とは比べ物にならなかった。
そつなく何でもこなす、まさに凪沙のような天性的な運動神経の持ち主って感じだった。
もしかしたら、僕以上の成績を残していたかもしれない。全国大会も...夢ではなかった。
僕はというと、怪我が原因で陸上を続けることを断念せざる終えなかった。だから、僕が果たせなかった全国への切符は直輝に果たして欲しかったんだ。
今さら悔やんだって仕方がないが、募る思い出ばかりが僕の頭の中を駆け巡っていく。少しだけ瞼が濡れている気もするが、気のせいだろう。
目を閉じて、直輝のことを思い浮かべる。毎日元気に笑顔で走り回っていた姿が、脳裏に浮かぶ。
じいちゃんと再会した時のように、懐中時計を全く同じ要領で操作する。
じいちゃんの時とは異なって、すぐさま時計の長針が2になり、短針が10を示す。
急いで家の中を見渡すが、直輝の姿はどこにもない。むしろ、じいちゃんの時に感じられた気配すらも感じられない。
でも、確かに懐中時計の針はさっきとは別の数字を指している。どこかにいるはずなのに、見当たらないのはなぜなのだろうか。
こうしている間にも直樹と過ごす時間が過ぎている...と焦っていると肩に優しい感触が伝わる。
誰の手だ...直輝の手な訳がない。だって、僕はもう高校三年生で、あの時の直輝の身長では今の僕の肩にこんなにどっしりと手が届くわけがないのだから。
せいぜい軽く触れる程度のはず。ゆっくりと後ろを振り返ると、そこには僕とさほど身長が変わらない男の子が立っていた。
「お、おい。人の家に何勝手に入ってるんだよ!」
「・・・・・」
無言を貫いているのか、彼は口を開こうとすらしない。それにしてもこの子、くっきり二重でおまけにまつ毛が長い。なかなかのイケメンなのではと思ってしまう。
「な、何か言って・・・」
「ここは俺の家でもあるんじゃない?」
「はぁ?何言ってるんだよ。ここは僕の・・・」
もしかして...
「兄さん。まだわからないの?兄さんが呼び出したくせに・・・」
「な、直輝なのか・・・?」
「兄さんが中学生の俺を胸の内で願ったからなのか、この姿になっちゃったよ。俺はあの時の小学生の姿でも良かったんだけね」
信じられない...会いたいと思っていた直輝が成長した姿で、僕の目の前に現れてくれた。
「ゆ、夢じゃないよね」
「夢じゃない。兄さん、大人っぽくなったね。見た目だけは」
「そういう直輝もだいぶ成長したな。あと、最後の一言は余計」
今気付いたが、僕を呼ぶ時の呼び方が昔は『兄ちゃん』だったのに、『兄さん』に変わっている。そんな些細なことでさえ、大人になったのだなとしみじみ感じてしまう。
二人でリビングに移動して、向かい合わせで腰掛ける。お茶を準備しようと思ったが、どうやら現実世界の物には触れることができないらしい。
「久しぶり兄さん」
「あぁ、久しぶり。元気にしてた?」
「元気あり過ぎて、困ってるくらい有り余ってるよ」
はにかむ直輝の顔は、中学生になった容姿でも生きていたあの頃と同じ太陽のような笑顔。まだ会って数分しか経っていないのに、ずっと共に育ってきた感覚に陥ってしまいそうになる。
それほど、違和感がなく話すことができているのはやはり兄弟だからなのだろうか。
三年間の歳月も僕らからすると、なかったかのようにも感じてしまう。本当に三年もの月日が経ったのが信じられないほどに。
「なんかすごいな・・・」
「なにが?」
「こうして、会うことができなかったはずの弟の中学生姿を見ることができるなんて夢にも見てなかったよ・・・」
感激のあまりそれに続く言葉が出てこない。もし、生きていたらと思うと、どんなに楽しい日々が待っていたのだろう。弟の成長を共に喜べる兄に僕はなれていたのかな。
「俺も兄さんの高校生姿を見ることができて何よりも嬉しいよ。兄さんだけが何も新しいものを見ているわけじゃないんだよ。俺だって、兄さんがこれから大人になっていく姿を後ろから追い続けたかった」
しばらく会わない間にこんなにも成長している弟が僕は誇らしい。
「そうなのか?」
「そうだよ。俺の憧れはいつだって兄さんだったから・・・俺にとって兄さんは超えたい存在であったし、何よりもかっこよかった」
言われたことがないような言葉が出てきて、聞き間違いかと思ってしまう。僕がかっこいい?そんなこと凪沙以外に言われた試しがない。
「僕がかっこいい?そんなまさか・・・」
「兄さんの長距離走の大会を見に行った日のことを覚えてる?」
覚えているに決まっている。直輝と会う前に僕もそのことを思い出していたのだから。
「うん」
「あの日の兄さんは俺から輝いて見えたんだ。走るのは苦しくて辛いんだろうけれど、あんなに楽しそうに走っている兄さんを見たことがなかったから」
確かにあの頃の僕は、ひたすら前を向いて走り続けていた。苦しくても辛くても、諦めることを知らないかのようにただ前へ前へと。
それが、何よりも楽しくてゴールした時の瞬間は疲れなど吹き飛ばすくらい気持ちが高揚する。この三年間で忘れてしまっていた感覚が徐々に戻り始める。
「そうだったな。あの時の僕は走るのがただただ楽しくて仕方がなかった」
「あの時の兄さんの背中は僕に勇気を与えてくれていたんだよ。俺もいつかあの場所で兄さんを超えられる選手になりたい。そしていつかは、兄弟二人で並んで真剣勝負をしたかった・・・それが幼いながらの俺の夢だった」
知らなかった...あの頃の直輝がそんなことを思っていたとは、微塵も感じることができなかった。もし、気が付いていたとしても、中学生だった頃の僕にはどうしたらいいかわからなかったはず。
「夢、叶えてあげたかったな・・・」
「俺も夢叶えたかったよ・・・」
「直輝が僕に憧れを抱いていたなんて、今日まで全くわからなかった。あの頃の僕と言ったら、部活と恋愛に夢中で直輝に何もしてあげられてなかったよな。ほんとごめん」
「いいよ。別に謝って欲しかったわけじゃないし。勝手に僕が兄さんに憧れを抱いていただけに過ぎないしね。それより兄さんは今でも彼女さんと付き合ってるの?あの可愛い・・・名前が思い出せない」
「凪沙のこと?」
「あぁ、そう! 凪沙姉ちゃん!元気にしてる?」
凪沙も中学の頃はしょっちゅうウチに遊びにきては、直輝の相手をよくしてくれていた。直輝からしたら、本当の姉のような存在だったと思う。
二人も兄妹のように仲が良かった。小学生のテンションに簡単に合わせることができる凪沙の凄さを知ったのは、この時だった気がする。
「元気にしてるよ。今でも付き合ってるよ!」
「そっか~、凪沙姉ちゃんにも久々に会いたいな~。絶対前よりも可愛くなってるだろうし」
直輝の瞳が濡れている。涙を堪えているようには見えない。きっと彼にも何か感じるものがあるのだろう。もし、自分が今もこの世で生きていたらと。
「大事にしろよ、兄さん。あんなに兄さんのことを想ってくれる人はなかなかいないからな!」
「おぉい! 小学生だった頃の直輝に何がわかるんだよ!それに言われなくても大事にしてるし」
「たまーに兄さんはドジだから、弟は心配なんだよ。大好きな兄には幸せになってほしいからね」
「弟にまで心配されるとか・・・情けないな。でも、ありがと!」
昔に戻ったような懐かしさが胸を締め付ける。あと一時間もしないうちに二度目の本当の別れをしなくてはいけないと思うと、心が苦しくて仕方がない。
こうして再び出会えていることさえ奇跡なのに、一度会ってしまうと欲が湧き出てきてしまう。あと、もう少し...このままここに居てほしい。
絶対に無理な願いなのにもかかわらず、出てきてしまうこの欲はなんなのだろう。これも人の性なのかもしれない。
まだまだ直輝には聞きたいこと、話したいことがたくさんあるのに言葉が口から出てこない。会う前に何を話そうかしっかり決めてきたはずなのに。
時間が限られているせいか、焦ってしまい頭の中が真っ白になる。
「ねぇ、兄さん」
僕の様子を見兼ねたのだろうか、直輝が真剣な眼差しでこちらを見えてくる。
「ん?」
落ち着いている雰囲気を出しつつも内心は入り乱れていた。何を聞いてくるのか...と。
「もう兄さんは走らないの?」
予想外の質問だった。僕が怪我で走れなくなったのは、直輝も知っているはず。一体どういった意味なのだろう。
「僕は怪我でもうまともに走ることはできないからね」
「それは競技としてでしょ?長距離走の選手としては走れないかもだけど、普通にジョギング程度ならできるよね?」
「それはそうだけど・・・」
「兄さん、あんなに走るの好きだったじゃん。前のように速くは走れないかもだけど、走ってみたら?今と昔では見えてくる景色も変わってくるかもよ?あの時、気づけなかったことが今になって・・・とかね」
「なんでそんなに僕に走ってほしんだよ」
「だってさ、兄さんから走ることを取ったら何もないじゃん?」
いつもなら頭にくるところだったけれど、この時は違った。直輝は僕のことを思って言ってくれているのだと気づいてしまった。
これ以上僕が大切な何かを見失うことがないように。
「そうだね。僕から走ることを取ったら・・・それにさ、空からでも直輝に走っている姿を見てほしいしな。いつまでも弟の憧れの存在であり続けられるように」
「そうでなくちゃ!ま、どんな未来が訪れていようと俺の憧れは一生変わることはないから。兄さんは俺にとって永遠のヒーローだからさ!」
「ありがとう。なんで僕、弟に励まされてるんだろう」
「そのために俺を呼んだんじゃないの?」
「違うわ!」
大声で笑い合う兄弟の声が家中に響き渡る。そうしている間にも時間は非情にも針の進行を遅らせることはなかった。
もうすぐで約束の一時間が終わろうとしていた。二人で話し終えてからは、腕相撲をしたり、この家の探索を二人で一緒にした。
ばあちゃんの家に家族で最後に来たのは、僕が中学一年生の頃だったので、直輝からしたら相当懐かしいはず。時折、涙ぐむ表情を見せながらゆっくりゆっくり家の中を歩き回っていた。
その様子は、記憶として鮮明に焼き付けるように見ている目だった。果たして、記憶もそのままあちらの世界に持っていくことができるのか僕にはわからないし、聞いてもきっとルールで答えてはくれないだろう。
「なぁ、兄さん。今度は父さんと母さんに会うの?」
「そのつもりだよ」
「俺も会いてぇな。あっちの世界もさ、こっちと同じように広くてさ、なかなか知り合いに会うことができないんだよな。さっき仏壇見たけど、じいちゃんも死んでたんだな。じいちゃんにもあっちで会いたいな」
「じいちゃんに会ったらさ、ばあちゃんが当分そっちに行く気ないわ!って言ってたって伝えてよ」
「あぁわかった。じゃあさ、俺からも二人に会ったらさ、俺を産んでくれて育ててくれて、たくさんの愛を与えてくれてありがとうって言ってた伝えてよ。それと、はやくあっちで俺を見つけてくれって」
「ちゃんと伝えるよ・・・そろそろ時間だよね」
「うん、そうみたい。体が動かなくなってきたわ・・・」
目の前にいる直輝の体越しに後ろの背景がぼんやりと見えてしまう。時間がきたようで、体が徐々に透け始めてきているようだ。
行かないでほしい...でもこの言葉は言わない。それは直輝だって同じ気持ちのはずなのだから。それに最後まで兄として情けない姿を弟に見せるわけには行かない。
だから、最後は兄らしく弟が旅立っていく姿をこの目にしっかりと焼き付けておこう。
「元気でな、直輝」
「会えて嬉しかったよ。ありがとう、俺をこの世に呼んでくれて」
「次会うのは多分、僕がそっちにいく時だわ。その時は迎えに来てな」
「それはどうかな?兄さんが俺を見つけに来てや」
ほぼ直輝の姿が見えなくなってしまっている。声だけは聞こえているのに、姿だけはもう僕の目ですら...
「直輝。あのさ、僕が直輝の・・・」
「兄さんで良かったよ!!!じゃあ・・・」
途中で途切れてしまう直輝の声。どうやら弟は空へと戻って行ってしまったらしい。
「そっか・・・僕が兄で良かったか・・・」
涙が止まらない。服の袖で拭いても拭いても溢れ出てくる涙が、僕の服を湿らせていく。
声を上げて泣くことしかできない僕を空の上から今も見ているのだろうか。
お願いだから今だけは、情けないかもしれないが泣くことを許してよ直輝。
"仕方ないなぁ"
家の中に流れ込んでくる風がそんな風に聞こえた。まるで、直輝が近くにいて話しているかのように。
数分間泣き続けた僕は疲れたのか、その場で目を閉じてしまった。
目を覚ました頃にはすっかり、日も暮れ夕焼けが家の中へと差し込んでいた。その光が眩しくてつい目を逸らしたくなる。
「お疲れ様やね、翔也」
「ばあちゃん、帰ってたの?」
「あぁ、さっきね」
眠っている間にばあちゃんも帰ってきたようで、テーブルの上には何やら食べ物がたくさん置かれている。
「お土産たくさん買ってきたんだけど、食べるかい?」
「うん、食べる」
起き上がりテーブルの上を見渡す。果物やケーキなどのデザートがどっさりと並べられている。一体この量を誰が食べるというのだろうか。
確かに、甘いとろけてしまいそうな匂いが部屋に充満しているが、全部を食べられるほど僕の胃袋は大きくはない。それにこれから夕食だってあるというのに。
「全部食べろとは言ってないからね。明日でもいいさね。余裕がある時に食べんさい」
「うん。ばあちゃん、さっきまでね。ここに直輝がいたんだよ」
「それは本当かい?」
「うん。時計の力を使ってここに呼んだんだ」
「そうかい。元気だったかい?」
「元気だったし、なんでかはわからないけど、中学生の姿だったよ」
「私も会いたかったね~。中学生の直輝に」
ばあちゃんは僕の話をその後も楽しそうに聞き続けてくれた。ばあちゃんが夕食の準備をする時まで、片時も僕から離れることなく。
夕食や入浴を済ませ、自室のベッドで横になっている時に、ふとあることを思い出した。
懐中時計を机の上から手に取り、確認すると確かに懐中時計の針は直輝に会う前よりも0に近づいていた。それなのに、どうして今回は前回みたく倒れたりしないのだろうか。
直輝と会った後、僕は眠りに落ちたがあれはどちらかというと僕の体が泣き疲れたことに対してのものだった。前回みたく前触れもなく倒れたわけではない。
それに、もう残り回数が半分を切っているのに未だに代償とやらは僕の身に降りかかってはいないらしい。特に僕の体にも、周りにも大きな変化は見られない。
もしかすると、代償なんてものはないのかもしれないと思い込んでしまう僕。これが、安易的な考えだったと僕は身をもって知ることとなるのだが...
机の下からニ番目の引き出しを開いて、そこに壊れないようにそっと懐中時計をしまっておく。やはり僕の家の机の上といえど、どんな危険があるかわからない。
寝ぼけて机にぶつかった拍子に落としてしまっては元も子もない。
後ニ回使ってしまえば、この神秘的な力も失われ、きっと祖母と同様に魔女に関する記憶も僕の中から消されてしまうのだろう。
それで、元通りの生活に戻れるのに越したことはないのだけれど、現実はそう甘くはないだろう。
再びベッドの上に寝転がり、携帯でネットサーフィンをする。最近は気になっているYouTuberはいないため、適当に動画を見て眠たくなるまで時間を潰すのが日課となっている。
スクロールするたびに溢れかえってくる同じような動画たち。目を惹かれるものといえば、美味しそうなご飯を食べている人の動画くらい。
携帯をいじっているうちにあることに気がつく。そういえば、凪沙と放課後に別れてから連絡を一切交わしていない気がする。
今だって彼女からの連絡は届いていない。帰り際の様子からして彼女の中で何かがあったのだろうが、ここまで連絡をしてこないというのは、付き合ってから初めてのことかもしれない。
少々、不安な衝動にも駆られるが今はそっとしておくべきだと思い、連絡するのを控えることにする僕。
何かに集中しているところを邪魔するのは流石に申し訳ない。
携帯を眺めていても、何一つ今は楽しいことがなかったので、明日早起きするために今日は普段より一時間早く眠りにつく。
もし、朝起きて体調が優れていたら、その時は両親に会おう。
ごちゃごちゃ考えると寝れなくなってしまうので、落ち着かせるためにYouTubeで睡眠によく効くとサムネに表示されている音楽を再生して、携帯を枕の横に置き気持ちを落ち着かせる。
なんとも心地のいい音が耳を通り越して脳に語りかけてくるみたい。一定のリズム、音の大きさが僕を深い眠りへと誘うのに時間はかからなかった。
眠りについている間に、僕の中からあるものが消えかかっているとは知る由もなかったんだ。着々と代償は僕を蝕みつつあったことに。
国民全員と言っても、当たり前のように会社に出社して仕事をしている大人たちは数えきれないほどいるのだろうけれど。
その点、僕たち学生はしっかりと休みが与えられている。学生の最大のメリットだ。それもあと数年すると無くなってしまうのが、とてつもなく悲しい。
今日はばあちゃんも久しぶりに友人とランチをしに行く予定らしいので、家には僕一人だけ。
当然そうなれば、することは決まっている。あの力を使う...
「翔也~。私、友達とランチに行ってくるわね」
「うん。気をつけてね」
ちょうどいいタイミングで祖母が家を出ていく。しっかりと抜け目なく、祖母が家を出ていくのを確認してから、自室に戻って懐中時計を手にする。
祖母にもこの力のことを話してはいるので、コソコソする必要はないが、祖母には相手が見えないため僕が一人で話しているのを見ることになる。
それは少しだけ恥ずかしいので、力を使うときは一人の時と決めたのだ。
相変わらず、全く動く気配すら見せない懐中時計。ちなみにこれから会う相手はもうすでに決まっている。
その相手は...弟の直輝。僕と直輝は歳が四つ離れていた。確か、あの津波の時はまだ僕が中学三年生の頃だったから、直輝は五年生ということになる。
今も直樹が生きていたら、中学二年生くらいになっていただろう。小学校を無事卒業し、その一ヶ月後には晴れて中学生となるはずだった。
もし、当たり前のように僕の隣で直樹も生き続けていたら、彼は僕のことをなんと呼んでいたのだろう。昔のように『兄ちゃん』と呼んでくれるのか、それとも違った呼び方に変わるのか。
反抗期になっても僕のことを兄として慕ってくれただろうか。小さい頃はずっと僕の背中を追って、僕の同級生に混じって遊んでいた。
四つも歳が離れているので、もちろん弟は友達にも可愛がられたし、弟も僕の友達に大いに懐いていた。時には、兄弟喧嘩もしたが、基本的に四つ歳が離れていると、そこまで激しい喧嘩になることはない。
兄である僕が、弟に何かを譲るだけでその場は丸く収まるからだ。だから、僕の中で眠っている記憶を探してみても、それらしい喧嘩をしたことはほとんど思い出せない。
それくらい僕ら兄弟は仲が良かったのだろう。周りの友達に兄弟のことを聞いてみても、皆『うざい』とか『むかつく』という言葉ばかり。
時々、僕らがおかしいのかと思ったこともあったが、今思えば単純に仲が良かっただけなんだと思う。
「あれから、三年近く経つのか・・・早いなぁ」
三年もあれば、人は大きく成長する。体だけでなく心身ともに。僕の身長だって追い越している可能性もなくはない。
それに、中学生になったら部活動にも入るはずだ。僕は高校では帰宅部だが、中学までは陸上部の長距離選手だった。運動することは苦手だったけれど、唯一走ることだけは好きだった僕。
走っている間だけは、何も考えずに済むのが僕は好きだった。それに、走るたびに肺が酸素を求めてより多くの酸素を取り込もうとする。その瞬間に吸う空気が美味しいのも、僕が走ることを好きだった理由の一つ。
県大会でも入賞を果たすなど、これでも輝かしい成績を持っていたんだ。何度か、僕の大会の様子を両親と見に来ていた直輝はいつも『兄ちゃん、かっこいい!』と言ってくれた。
それが、僕には何よりも嬉しかったし、弟に勇気と希望を持たせてあげられる背一杯の兄の背中だった。
きっと、直輝も陸上の道へと進んでいたに違いない。僕と違って小さい頃から年上と遊んでいたせいか、運動神経は僕の弟かと思うほど、僕とは比べ物にならなかった。
そつなく何でもこなす、まさに凪沙のような天性的な運動神経の持ち主って感じだった。
もしかしたら、僕以上の成績を残していたかもしれない。全国大会も...夢ではなかった。
僕はというと、怪我が原因で陸上を続けることを断念せざる終えなかった。だから、僕が果たせなかった全国への切符は直輝に果たして欲しかったんだ。
今さら悔やんだって仕方がないが、募る思い出ばかりが僕の頭の中を駆け巡っていく。少しだけ瞼が濡れている気もするが、気のせいだろう。
目を閉じて、直輝のことを思い浮かべる。毎日元気に笑顔で走り回っていた姿が、脳裏に浮かぶ。
じいちゃんと再会した時のように、懐中時計を全く同じ要領で操作する。
じいちゃんの時とは異なって、すぐさま時計の長針が2になり、短針が10を示す。
急いで家の中を見渡すが、直輝の姿はどこにもない。むしろ、じいちゃんの時に感じられた気配すらも感じられない。
でも、確かに懐中時計の針はさっきとは別の数字を指している。どこかにいるはずなのに、見当たらないのはなぜなのだろうか。
こうしている間にも直樹と過ごす時間が過ぎている...と焦っていると肩に優しい感触が伝わる。
誰の手だ...直輝の手な訳がない。だって、僕はもう高校三年生で、あの時の直輝の身長では今の僕の肩にこんなにどっしりと手が届くわけがないのだから。
せいぜい軽く触れる程度のはず。ゆっくりと後ろを振り返ると、そこには僕とさほど身長が変わらない男の子が立っていた。
「お、おい。人の家に何勝手に入ってるんだよ!」
「・・・・・」
無言を貫いているのか、彼は口を開こうとすらしない。それにしてもこの子、くっきり二重でおまけにまつ毛が長い。なかなかのイケメンなのではと思ってしまう。
「な、何か言って・・・」
「ここは俺の家でもあるんじゃない?」
「はぁ?何言ってるんだよ。ここは僕の・・・」
もしかして...
「兄さん。まだわからないの?兄さんが呼び出したくせに・・・」
「な、直輝なのか・・・?」
「兄さんが中学生の俺を胸の内で願ったからなのか、この姿になっちゃったよ。俺はあの時の小学生の姿でも良かったんだけね」
信じられない...会いたいと思っていた直輝が成長した姿で、僕の目の前に現れてくれた。
「ゆ、夢じゃないよね」
「夢じゃない。兄さん、大人っぽくなったね。見た目だけは」
「そういう直輝もだいぶ成長したな。あと、最後の一言は余計」
今気付いたが、僕を呼ぶ時の呼び方が昔は『兄ちゃん』だったのに、『兄さん』に変わっている。そんな些細なことでさえ、大人になったのだなとしみじみ感じてしまう。
二人でリビングに移動して、向かい合わせで腰掛ける。お茶を準備しようと思ったが、どうやら現実世界の物には触れることができないらしい。
「久しぶり兄さん」
「あぁ、久しぶり。元気にしてた?」
「元気あり過ぎて、困ってるくらい有り余ってるよ」
はにかむ直輝の顔は、中学生になった容姿でも生きていたあの頃と同じ太陽のような笑顔。まだ会って数分しか経っていないのに、ずっと共に育ってきた感覚に陥ってしまいそうになる。
それほど、違和感がなく話すことができているのはやはり兄弟だからなのだろうか。
三年間の歳月も僕らからすると、なかったかのようにも感じてしまう。本当に三年もの月日が経ったのが信じられないほどに。
「なんかすごいな・・・」
「なにが?」
「こうして、会うことができなかったはずの弟の中学生姿を見ることができるなんて夢にも見てなかったよ・・・」
感激のあまりそれに続く言葉が出てこない。もし、生きていたらと思うと、どんなに楽しい日々が待っていたのだろう。弟の成長を共に喜べる兄に僕はなれていたのかな。
「俺も兄さんの高校生姿を見ることができて何よりも嬉しいよ。兄さんだけが何も新しいものを見ているわけじゃないんだよ。俺だって、兄さんがこれから大人になっていく姿を後ろから追い続けたかった」
しばらく会わない間にこんなにも成長している弟が僕は誇らしい。
「そうなのか?」
「そうだよ。俺の憧れはいつだって兄さんだったから・・・俺にとって兄さんは超えたい存在であったし、何よりもかっこよかった」
言われたことがないような言葉が出てきて、聞き間違いかと思ってしまう。僕がかっこいい?そんなこと凪沙以外に言われた試しがない。
「僕がかっこいい?そんなまさか・・・」
「兄さんの長距離走の大会を見に行った日のことを覚えてる?」
覚えているに決まっている。直輝と会う前に僕もそのことを思い出していたのだから。
「うん」
「あの日の兄さんは俺から輝いて見えたんだ。走るのは苦しくて辛いんだろうけれど、あんなに楽しそうに走っている兄さんを見たことがなかったから」
確かにあの頃の僕は、ひたすら前を向いて走り続けていた。苦しくても辛くても、諦めることを知らないかのようにただ前へ前へと。
それが、何よりも楽しくてゴールした時の瞬間は疲れなど吹き飛ばすくらい気持ちが高揚する。この三年間で忘れてしまっていた感覚が徐々に戻り始める。
「そうだったな。あの時の僕は走るのがただただ楽しくて仕方がなかった」
「あの時の兄さんの背中は僕に勇気を与えてくれていたんだよ。俺もいつかあの場所で兄さんを超えられる選手になりたい。そしていつかは、兄弟二人で並んで真剣勝負をしたかった・・・それが幼いながらの俺の夢だった」
知らなかった...あの頃の直輝がそんなことを思っていたとは、微塵も感じることができなかった。もし、気が付いていたとしても、中学生だった頃の僕にはどうしたらいいかわからなかったはず。
「夢、叶えてあげたかったな・・・」
「俺も夢叶えたかったよ・・・」
「直輝が僕に憧れを抱いていたなんて、今日まで全くわからなかった。あの頃の僕と言ったら、部活と恋愛に夢中で直輝に何もしてあげられてなかったよな。ほんとごめん」
「いいよ。別に謝って欲しかったわけじゃないし。勝手に僕が兄さんに憧れを抱いていただけに過ぎないしね。それより兄さんは今でも彼女さんと付き合ってるの?あの可愛い・・・名前が思い出せない」
「凪沙のこと?」
「あぁ、そう! 凪沙姉ちゃん!元気にしてる?」
凪沙も中学の頃はしょっちゅうウチに遊びにきては、直輝の相手をよくしてくれていた。直輝からしたら、本当の姉のような存在だったと思う。
二人も兄妹のように仲が良かった。小学生のテンションに簡単に合わせることができる凪沙の凄さを知ったのは、この時だった気がする。
「元気にしてるよ。今でも付き合ってるよ!」
「そっか~、凪沙姉ちゃんにも久々に会いたいな~。絶対前よりも可愛くなってるだろうし」
直輝の瞳が濡れている。涙を堪えているようには見えない。きっと彼にも何か感じるものがあるのだろう。もし、自分が今もこの世で生きていたらと。
「大事にしろよ、兄さん。あんなに兄さんのことを想ってくれる人はなかなかいないからな!」
「おぉい! 小学生だった頃の直輝に何がわかるんだよ!それに言われなくても大事にしてるし」
「たまーに兄さんはドジだから、弟は心配なんだよ。大好きな兄には幸せになってほしいからね」
「弟にまで心配されるとか・・・情けないな。でも、ありがと!」
昔に戻ったような懐かしさが胸を締め付ける。あと一時間もしないうちに二度目の本当の別れをしなくてはいけないと思うと、心が苦しくて仕方がない。
こうして再び出会えていることさえ奇跡なのに、一度会ってしまうと欲が湧き出てきてしまう。あと、もう少し...このままここに居てほしい。
絶対に無理な願いなのにもかかわらず、出てきてしまうこの欲はなんなのだろう。これも人の性なのかもしれない。
まだまだ直輝には聞きたいこと、話したいことがたくさんあるのに言葉が口から出てこない。会う前に何を話そうかしっかり決めてきたはずなのに。
時間が限られているせいか、焦ってしまい頭の中が真っ白になる。
「ねぇ、兄さん」
僕の様子を見兼ねたのだろうか、直輝が真剣な眼差しでこちらを見えてくる。
「ん?」
落ち着いている雰囲気を出しつつも内心は入り乱れていた。何を聞いてくるのか...と。
「もう兄さんは走らないの?」
予想外の質問だった。僕が怪我で走れなくなったのは、直輝も知っているはず。一体どういった意味なのだろう。
「僕は怪我でもうまともに走ることはできないからね」
「それは競技としてでしょ?長距離走の選手としては走れないかもだけど、普通にジョギング程度ならできるよね?」
「それはそうだけど・・・」
「兄さん、あんなに走るの好きだったじゃん。前のように速くは走れないかもだけど、走ってみたら?今と昔では見えてくる景色も変わってくるかもよ?あの時、気づけなかったことが今になって・・・とかね」
「なんでそんなに僕に走ってほしんだよ」
「だってさ、兄さんから走ることを取ったら何もないじゃん?」
いつもなら頭にくるところだったけれど、この時は違った。直輝は僕のことを思って言ってくれているのだと気づいてしまった。
これ以上僕が大切な何かを見失うことがないように。
「そうだね。僕から走ることを取ったら・・・それにさ、空からでも直輝に走っている姿を見てほしいしな。いつまでも弟の憧れの存在であり続けられるように」
「そうでなくちゃ!ま、どんな未来が訪れていようと俺の憧れは一生変わることはないから。兄さんは俺にとって永遠のヒーローだからさ!」
「ありがとう。なんで僕、弟に励まされてるんだろう」
「そのために俺を呼んだんじゃないの?」
「違うわ!」
大声で笑い合う兄弟の声が家中に響き渡る。そうしている間にも時間は非情にも針の進行を遅らせることはなかった。
もうすぐで約束の一時間が終わろうとしていた。二人で話し終えてからは、腕相撲をしたり、この家の探索を二人で一緒にした。
ばあちゃんの家に家族で最後に来たのは、僕が中学一年生の頃だったので、直輝からしたら相当懐かしいはず。時折、涙ぐむ表情を見せながらゆっくりゆっくり家の中を歩き回っていた。
その様子は、記憶として鮮明に焼き付けるように見ている目だった。果たして、記憶もそのままあちらの世界に持っていくことができるのか僕にはわからないし、聞いてもきっとルールで答えてはくれないだろう。
「なぁ、兄さん。今度は父さんと母さんに会うの?」
「そのつもりだよ」
「俺も会いてぇな。あっちの世界もさ、こっちと同じように広くてさ、なかなか知り合いに会うことができないんだよな。さっき仏壇見たけど、じいちゃんも死んでたんだな。じいちゃんにもあっちで会いたいな」
「じいちゃんに会ったらさ、ばあちゃんが当分そっちに行く気ないわ!って言ってたって伝えてよ」
「あぁわかった。じゃあさ、俺からも二人に会ったらさ、俺を産んでくれて育ててくれて、たくさんの愛を与えてくれてありがとうって言ってた伝えてよ。それと、はやくあっちで俺を見つけてくれって」
「ちゃんと伝えるよ・・・そろそろ時間だよね」
「うん、そうみたい。体が動かなくなってきたわ・・・」
目の前にいる直輝の体越しに後ろの背景がぼんやりと見えてしまう。時間がきたようで、体が徐々に透け始めてきているようだ。
行かないでほしい...でもこの言葉は言わない。それは直輝だって同じ気持ちのはずなのだから。それに最後まで兄として情けない姿を弟に見せるわけには行かない。
だから、最後は兄らしく弟が旅立っていく姿をこの目にしっかりと焼き付けておこう。
「元気でな、直輝」
「会えて嬉しかったよ。ありがとう、俺をこの世に呼んでくれて」
「次会うのは多分、僕がそっちにいく時だわ。その時は迎えに来てな」
「それはどうかな?兄さんが俺を見つけに来てや」
ほぼ直輝の姿が見えなくなってしまっている。声だけは聞こえているのに、姿だけはもう僕の目ですら...
「直輝。あのさ、僕が直輝の・・・」
「兄さんで良かったよ!!!じゃあ・・・」
途中で途切れてしまう直輝の声。どうやら弟は空へと戻って行ってしまったらしい。
「そっか・・・僕が兄で良かったか・・・」
涙が止まらない。服の袖で拭いても拭いても溢れ出てくる涙が、僕の服を湿らせていく。
声を上げて泣くことしかできない僕を空の上から今も見ているのだろうか。
お願いだから今だけは、情けないかもしれないが泣くことを許してよ直輝。
"仕方ないなぁ"
家の中に流れ込んでくる風がそんな風に聞こえた。まるで、直輝が近くにいて話しているかのように。
数分間泣き続けた僕は疲れたのか、その場で目を閉じてしまった。
目を覚ました頃にはすっかり、日も暮れ夕焼けが家の中へと差し込んでいた。その光が眩しくてつい目を逸らしたくなる。
「お疲れ様やね、翔也」
「ばあちゃん、帰ってたの?」
「あぁ、さっきね」
眠っている間にばあちゃんも帰ってきたようで、テーブルの上には何やら食べ物がたくさん置かれている。
「お土産たくさん買ってきたんだけど、食べるかい?」
「うん、食べる」
起き上がりテーブルの上を見渡す。果物やケーキなどのデザートがどっさりと並べられている。一体この量を誰が食べるというのだろうか。
確かに、甘いとろけてしまいそうな匂いが部屋に充満しているが、全部を食べられるほど僕の胃袋は大きくはない。それにこれから夕食だってあるというのに。
「全部食べろとは言ってないからね。明日でもいいさね。余裕がある時に食べんさい」
「うん。ばあちゃん、さっきまでね。ここに直輝がいたんだよ」
「それは本当かい?」
「うん。時計の力を使ってここに呼んだんだ」
「そうかい。元気だったかい?」
「元気だったし、なんでかはわからないけど、中学生の姿だったよ」
「私も会いたかったね~。中学生の直輝に」
ばあちゃんは僕の話をその後も楽しそうに聞き続けてくれた。ばあちゃんが夕食の準備をする時まで、片時も僕から離れることなく。
夕食や入浴を済ませ、自室のベッドで横になっている時に、ふとあることを思い出した。
懐中時計を机の上から手に取り、確認すると確かに懐中時計の針は直輝に会う前よりも0に近づいていた。それなのに、どうして今回は前回みたく倒れたりしないのだろうか。
直輝と会った後、僕は眠りに落ちたがあれはどちらかというと僕の体が泣き疲れたことに対してのものだった。前回みたく前触れもなく倒れたわけではない。
それに、もう残り回数が半分を切っているのに未だに代償とやらは僕の身に降りかかってはいないらしい。特に僕の体にも、周りにも大きな変化は見られない。
もしかすると、代償なんてものはないのかもしれないと思い込んでしまう僕。これが、安易的な考えだったと僕は身をもって知ることとなるのだが...
机の下からニ番目の引き出しを開いて、そこに壊れないようにそっと懐中時計をしまっておく。やはり僕の家の机の上といえど、どんな危険があるかわからない。
寝ぼけて机にぶつかった拍子に落としてしまっては元も子もない。
後ニ回使ってしまえば、この神秘的な力も失われ、きっと祖母と同様に魔女に関する記憶も僕の中から消されてしまうのだろう。
それで、元通りの生活に戻れるのに越したことはないのだけれど、現実はそう甘くはないだろう。
再びベッドの上に寝転がり、携帯でネットサーフィンをする。最近は気になっているYouTuberはいないため、適当に動画を見て眠たくなるまで時間を潰すのが日課となっている。
スクロールするたびに溢れかえってくる同じような動画たち。目を惹かれるものといえば、美味しそうなご飯を食べている人の動画くらい。
携帯をいじっているうちにあることに気がつく。そういえば、凪沙と放課後に別れてから連絡を一切交わしていない気がする。
今だって彼女からの連絡は届いていない。帰り際の様子からして彼女の中で何かがあったのだろうが、ここまで連絡をしてこないというのは、付き合ってから初めてのことかもしれない。
少々、不安な衝動にも駆られるが今はそっとしておくべきだと思い、連絡するのを控えることにする僕。
何かに集中しているところを邪魔するのは流石に申し訳ない。
携帯を眺めていても、何一つ今は楽しいことがなかったので、明日早起きするために今日は普段より一時間早く眠りにつく。
もし、朝起きて体調が優れていたら、その時は両親に会おう。
ごちゃごちゃ考えると寝れなくなってしまうので、落ち着かせるためにYouTubeで睡眠によく効くとサムネに表示されている音楽を再生して、携帯を枕の横に置き気持ちを落ち着かせる。
なんとも心地のいい音が耳を通り越して脳に語りかけてくるみたい。一定のリズム、音の大きさが僕を深い眠りへと誘うのに時間はかからなかった。
眠りについている間に、僕の中からあるものが消えかかっているとは知る由もなかったんだ。着々と代償は僕を蝕みつつあったことに。
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