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第1話 魔王、激昂

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「ネスター様、大変でございます!」

 勢いよく扉が開け放たれてバタンと音を立てた。
 豪華な装飾の施されたドアはひっくり返って壁に張りつく。

 そうやって派手に執務室へと飛び込んで来たのは、骸骨であった。

「どうした、ワイゼン。そんなに慌てて」

 突然の異様な姿の訪問者に驚くこともなく、書類仕事の手を止めて男は答えた。
 派手な礼服を身にまとった眉目秀麗な青年である。

 月の淡いきらめきを思わせる銀色の髪に、色素の薄い絹のような肌をしている。
 さらに、男の頭部からは緋色に輝く2つの立派な角が生えていた。その威容は見るものを圧倒する雰囲気を醸し出している。

「ネスター様、一大事でございます。我が魔王軍の砦に人間どもが攻めてきたのです!」

 ネスターと呼ばれた男の眉根がピクリと動いた。

「それは、穏やかではないな。ワイゼン、詳しく聞かせてくれるか」

 ワイゼンという名のアンデッドはコックリと頭を下げて承服する。

「攻めてきたのは、テスタリカ王国の軍隊。今のところ、双方ほとんど被害は出ていませんが、人間どもは砦の近辺に陣取って戦力を集中させようとしています」

 早口で詳細を語るワイゼンは一呼吸おいて、深刻そうに言葉を続ける。

「しかも、彼奴きゃつらは魔王軍が先に手を出したなどと口走っているようなのです」

「ふむ、妙だな」

 解せない。ネスターはそう言いたげな面持ちになった。

「身に覚えがない。種族が違うからこそ互いの命は尊重し合うべきだ。ゆえにわれが先代から魔王の座を引き継いでからは無用な殺生は極力避けてきた。あちらが殺気立つようなことはしていないはずだがな」

 その言葉に対し、神妙な声色でワイゼンが答える。

「それが、どうやら魔王軍の名を使って人間どもの領地で悪行を繰り返す者たちがいるようなのです。人間どもはそれを真に受けて、こちらに矛先を向けたのでしょう。その偽物の正体は分かりませんが、いずれ我らが魔王軍の威信にかけて……」

 ワイゼンは言いかけてネスターの只ならぬ様子に息を呑んだ。

「なんだと……?」

 ネスターはワナワナと拳を震わせ不意に立ち上がる。
 眉根を吊り上げ、明確に怒りを露わにする。

「我が名を騙って悪事を働くとは風評被害もはなはだしい。下手をすれば戦争が起きるかもしれんのだぞ。ゆるせん!」

 ネスターは意を決したように室内の広い空間の前に右手を差し出した。両の目を閉じ、ぶつぶつとなにごとか呟き始める。

 すると、ネスターの全身から青白い光が放たれ、彼の目の前に収束していく。
 その様子を見て、ワイゼンが慌てふためく。

「ネスター様、なにを……。まさか、『分霊ぶんれいの秘術』を!?いけません、おやめください!」

 ワイゼンはなにかに気づき、急いで止めようとしたがネスターは気にも留めなかった。

「はあっ!」

 ネスターが叫ぶや否や、一際大きな輝きが室内を満たす。
 光が収まるとそこには、ネスターとは別の人物が現れていた。

 一糸まとわぬ姿のそれはネスターと瓜二つの容姿をしていたが、頭に角はついていない。人間の男のような姿である。

 ネスターより背格好は一回り小さく、年もより若く見える。十代後半と言ったところだろうか。

 その光景を形容するなら、ネスターが己に似た姿の分身を作り出したかのように見える。

 しかし、出現した男はただの分身ではなかった。
 男は目を開けると、身体の感覚を確かめるように四肢を動かし始める。

「成功だな。力は1割くらいと言ったところか。まあ、さすがにこれが限界だろう」

 男はそう言って、目の前に立っているネスターに向けて目配せする。

 するとネスターは無言のまま部屋の隅の衣装棚へ向かい、適当なローブを引っ張り出してきて男に手渡した。

 男がそれを羽織ると、ネスターはそのまま元居た席に戻った。

 それを見ていたワイゼンはしばらく茫然ぼうぜんとしていたが、気を取り直すとネスターではなくぶかぶかのローブを着た男の方に駆け寄る。

「ネスター様、なんてことを。『分霊の秘術』はお控えになるよう何度も申し上げましたのに……。これで分身は5つ目。いくらネスター様がお強いとはいえ、これほど魂を分けてしまっては命に関わります!」

 分霊の秘術とはネスターが使える特別な魔術だ。魂を分割することで、本物と変わらない分身を作り出す秘術。この術で作った分身は、分身であると同時に本体でもある。

 先ほどネスターによって作り出された人間態の分身は、本物のネスターと全く変わらない調子でワイゼンに語り掛ける。

「お前は心配性だな。これくらいたいしたことはないさ」

 そして、人間態のネスターは両手を広げ、高らかに宣言した。

「これで準備はできた。よく聞け、ワイゼン。偽物の魔王軍とやらは我が直々に退治しに行く。これは決定事項である」

 ワイゼンは顎の骨が取れそうになるほど仰天したが、うろたえながらもネスターを思いとどまらせようと追及した。

「お待ちになってください!ネスター様が旅に出てしまったら、一体誰が魔王軍を統率するのですか?」

「そこにいるもう一人の我に任せておけばよい」

 執務室の真ん中で作業中のネスターが振り向き、軽く首肯しゅこうした。

「し、しかし、わざわざネスター様がそのような弱々しいお姿で出向く必要はないでしょう。魔王軍の優秀な戦士たちに解決させればよいのでは?」

 ワイゼンはネスターを止める理由を絞り出そうとする。しかし、ネスターがピシャリと反論する。

「この事件は我の沽券こけんに関わる問題でもある。ならば、自ら足を運んで解決するのが筋というものだ。それに、人里に行って犯人を探し出すのに異形ばかりの魔王軍を使うのは悪手。こうして人間に化けられる我が行くのが道理であろう」

 ワイゼンは諦めたように首を垂れる。

「激情に任せたご決断でないことは分かりました。それに、ためらいなく秘術を使われるほどの覚悟を見せられては、これ以上お止めするのも無礼というものです」

 それでもワイゼンは空っぽの眼窩がんかに憂いの色を覗かせて、引き留めるように頼み込む。

「ですが、分霊の秘術は諸刃の剣。分割された不完全な魂では力が制限され、死の危険が増します。万が一、分身が命を落とせば魂の一部が失われ、ネスター様の存在そのものが揺らいでしまう。そのような弱点を抱えて正体不明の敵に挑むなど危険すぎます。せめて何人か護衛をつけるべきではないでしょうか?」

 ワイゼンの気遣いを受け、ネスターは顎の下に手をあてがって少し考える。

「そうだな。確かにこの身体では少々心許ないかもしれない。人間に化けられる配下を探して連れてきてくれるか?ある程度戦えることは前提だ。あと、できれば早く出立したい。候補は少なくて構わないから、なるべく急ぎで頼む」

 ワイゼンはホッとしつつ、頭を下げた。

「お任せください。すぐに用意いたします」
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