スケール

牧屋 冬士

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流木の上で

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「え?」

「私、海が見たいんです」

 振り返ると、ミーはもう目の前に立っていた。僕の方に手を伸ばし、積み上げた本が倒れるのも気にせず、強引に僕の体を家の外へと引っ張っていく。

 部屋から波の音が聞こえるぐらいだから、自宅から海へ出るまではそう遠くなかった。

 すぐに僕とミーが靴で踏む地面が、草の生えた土から砂に変わった。やがて僕たちは人の体ほどの流木が何本も転がっている、大西洋のいち海岸線にたどり着いていた。

 人は誰もいない。そして時間は夕暮れ時。今日も海の果てに沈んでいく大きな炎の玉が見えた。何も珍しいことは無い。ここに何十年と住んでいるのだから、ほとんど毎日見ている景色だった。

 ミーは砂に半分埋まった流木のひとつを見つけ、そこに腰を落ち着けた。同じように僕に座るよう促してくる。

「毎日、研究所から見るこの景色が好きでした」

 僕は驚いた。突然となりでミーが語りだしたからだ。よく言えば寡黙、悪く言えば事務的な彼女から自分語りを聞いたのは、面接の日以来かもしれない。

「ここに勤めてから、もう15年も経っていたんですね。長かったなあ。ねえ、先生。家からこの砂浜に来るまでに歩いた距離、何歩でしたか?」

「えーっと……500歩ぐらいでしょうか。家から砂浜までは大体0.2マイルぐらいなので――」

「いま数えたのですか?」

「いえ……それぐらいかと。あくまで計算です」

「なぜ今回は数えなかったのでしょう?」

 僕はミーのその問いに答えられなかった。そればかりでなくドキッとすらした。実を言うと、手が動かなくなったあの日から僕は、測ったり数えたりする行為をぱったり止めてしまっていた。なぜかと言うと――。

「わ、分かりません。いま僕は手にもポケットにも測る物を持っていませんし……」

「言ってる事おかしいですよ。あんな短い物差しで、距離を測るおつもりですか? 先生の頭の中には、歩数を数える機能カウンターはありますよね?」

 ミーの言い方はきつかったが僕を馬鹿にしている訳ではなかった。学者の助手を何年もしていると、皆こんな口のきき方になるのだ。

 僕は反論できなかった。そして薄々気づいていた事を認める時が来たと悟った。そうだ。偶然とか、そんな神秘的な要素のせいじゃない。理由は、僕の心が数えることを拒んでいたからなんだと。

「素直になりましょう……夕陽が僕の物差しからすり抜けていったあの時……生まれて初めて『測るという行為』に虚しさを感じたんです。あの夜には、この理由に気づけませんでした。体が心の声を聞かなくなり、仕事も失い、君が職場を去ろうとするその日――つまり今日ですが、その前の晩になって初めて、この事実が頭の中に降ってきました」

 ミーは僕の返事をどう受け取っただろう。きっと呆れているのだと思った。ただでさえ言い方は独り言みたいだったので。しかしミーは何も質問することなく、ただ僕の話に耳を傾けていた。

 僕は言葉を続けた。「頭の中が全然、整理できないんです。僕が息をする事と同じと思っていた物を測る癖が突然、無意味に思えるだなんて。加齢で脳の毛細血管が切れたのでしょうか。それともこの近くにある軍事施設からの電磁波を長年浴びすぎたせいとか? いや……すみませんでした。原因を質問されても困りますよね」

「先生の想像力って、時々やけに具体的になるので、おかしいです」ミーはあわてふためく僕を見て、くすりと笑った。「そのどちらかの可能性は否定できませんね。でも私は違うと思いますけれど」

「君が考える理由とは何でしょうか?」僕は真面目くさった顔で尋ねた。

「そうですね……」ミーは考え込むような顔になった。

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