上 下
19 / 43
1章 思い出は幻の中に

17 アーロンの受難

しおりを挟む
「今回の合同練習は完全に赤字ですな」

 テーブルの向こう側のピピンが浮かない顔で愚痴をこぼす。

「仕方あるまい。元来訓練が自給自足可能な事が非常識なのだ」
「しかしここ数年費用が掛かるどころか収益を上げていましたからな」

 仙魚の取引は既に定例化していたので近郊の商人が全てさばき言い値で売り飛ばせてきたのだ。

 だが今年は王宮騎士団の緊急発動やそれに伴う糧食の追加注文などが入り、例え海竜の肉から幾ばくかの追加収入が入っても全体としては赤字に沈んだ。とくに追加で注文した酒代が馬鹿にならない。

 こんな事で頭を悩ませているなど俺はアイツラの母親か?

 目の前に出された夕食を摘みながらふつふつと文句を並べる。

 結局あの後も俺はなんのかんのとこき使われ最終的には報告も兼ねてピピンの夕食に同席しているのだ。
 コイツの所の料理人は結構良く仕込まれているので文句はないが話題は決して食欲をそそるものでは無かった。

「それでフレイバーンの様子は如何でしたか?」
「余り良くない。マークとか言う爵位持ちらしき男がしゃしゃり出てきていた。この様子だと今回の海竜騒ぎも本当に偶然だったのかどうか怪しいところだな」
「きな臭くなりそうですかな?」
「まだ何とも言えん。ただ中々上等な女を充てがわれたぞ」
「おや、味見されたのですか?」
「いや、いつも通りだ」

 今までも夜会や戦地で女を充てがわれた事は多々あるが大抵今回と同様、寝かしつけてお終いだ。

 ……俺が寝かしつける前に寝ちまうのはアイツぐらいだ。

 そう思い至ってはたと気づく。

「おい、アイツに飯を送ってくれたか?」
「いいえ、特には。ご指示もありませんでしたよね?」
「マズイ、アイツ腹空かせてるぞ」
「何をいてらっしゃるんですか? ご自分で何か召し上がられていらっしゃるのでは?」

 手にしたフォークとナイフを止めてピピンが怪訝な顔でこちらに目線をよこす。

「……あの屋敷にはまだ食料を置いていない」
「な! ちょっと待って下さい、今館は一体どんな状況なんですか!? 一度拝見しに伺わせて下さい!」

 持っていたフォークとナイフを下してナプキンで口を拭い席を立とうとするピピンにはねつける様に答える。

「断わる! お前が出入りしたら俺の安息の場所が無くなる」
「何言ってんですか? 私なんてとっくに安息を破られまくっていますが?」
「言うようになったじゃないか」
「アーロン様とのお付き合いもいい加減長くなりましたからな。昔は昔。そろそろしっかりとご自分の立場をご自覚いただきたい」

 俺達は暫く睨み合っていたが直ぐにそんな場合では無かったことを思い出す。
 俺はピピンが急遽準備したバスケットいっぱいの夜食を手に慌てて屋敷に戻った。


    ▽▲▽▲▽▲▽


「おい、バカ弟子、何処だ?」

 一旦執務室に出た俺が叫ぶと気の抜ける声が下から聞こえてくる。

「師匠ぉ~、キッチンです、お腹が空いてもう動けませんー!」
「甘ったれるな、執務室に今すぐ来い!」

 自分の失態を押し隠すように俺は余計横柄に返事を返す。暫くすると力なく胃のあたりを擦りながらアエリアが部屋に入ってきた。

「おお、来たか? いや、お前を飼い始めたのすっかりわすれてたわ」

 俺は暖炉の火を少し足して部屋を温め今日もアエリアに餌付けをしようと待ち構えていたのだが、アエリアの元気のない様子に一瞬申し訳無さが込み上げ、つい冗談めかして話しかけた。
 しかし俺が先を続けるよりも早く、俺の顔よりも俺が持ち込んだバスケットをヨダレをたらさんばかりに注視して現金に顔を輝かせるアエリアが目に入り、一瞬で申し訳無さが霧散して頭に血が登る。

「そ、そんなヒドいですよー、ちゃんと働いてたのに師匠何処いったのかも分からないし、ほんとに帰って来てくれなかったらどうしようかと、」
「ほほう、そんなにオレが待ち遠しかったのか。それともお前の待ってたのはこっちか?」

 そう言ってアエリアの目の前でバスケットを左右に振ればつられてアエリアの頭も振り子の様について回る。

「やっぱりこっちか」

 どうしてくれよう。
 この二日間すり減るほど働きまわった俺よりもそんなにバスケットが大事か!
 ぐらりと燃え上がった怒りを何とか収めて執務机についてアエリアを呼び寄せる。

「そんなに食いたけりゃここに来い」

 疲れ切った体と、寝不足の頭。
 そして限界まで我慢していたストレスが一気に噴き出した。

 アエリアもせめて昨日の女の様に少しは俺に尻尾でも振ればいい。
 そうだ、これは単なる餌付けだ。
 俺はいっそこいつをペットとして扱おうと心に決めた。

「何してる。早くここに座れ」

 目の前まで来て突っ立っているアエリアに自分で上がってくるように顎で促す。
 少し躊躇したが諦めたように俺の膝に這い上がってきたアエリアを後ろから抱え込むと、ふっと心の尖った感覚が緩むのが分かった。
 小さなアエリアの身体がすっぽり腕に収まっているのを見ているだけで何か落ち着いてくる。

 バスケットからパンを取り出して引きちぎってからふと気づく。このままじゃ味気ないよな。普段人に食い物を用意させているのでどうするかちょとと迷う。まあ、森を回っていたころには自分でも全部一人でやっていたのだが。

 あれも相当昔の話だよな。

 俺はすぐ目に着いたチーズの塊を出してナイフで少し削りだしてパンに挟む。あ、あのハムも入れてやろう。

「師匠、お腹すいた」
「ちょっと待て」

 我慢の聞かないアエリアの事は放っておいて今度は大ぶりの香草が周りを綺麗に彩っているハムを繊維を切るように角度を合わせてスライスし、これも間に挟んでやった。

「師匠、だったらこっちのソースも入れた方がおいしそうです」
「あぁ? うるさい奴だ。ちょっと待ってろ」


 それをアエリアに突き出そうとすれば今度はうるさい事を言う。仕方ないのでバスケットに一緒に入っていた壺から黄色いソースをナイフで取り出してそれも間に塗り込んだ。
 出来上がったものは思っていた以上にうまそうに見えた。
 アエリアが俺の横で涎を垂れそうにしながら見つめているのがおかしくて、つい意地悪をしたくなる。

「確かにこの方がうまそうだな。どれ」

 アエリアの目の前で俺が一口齧りつくとアエリアの期待の目が一気に泣きそうになった。
 あ。しまったまたやり過ぎたか。

「師匠、酷い、それ私のじゃないんですか?」
「あ? ああ、そうだったな。旨いぞ」

 文句を言うアエリアにそのまま突き出せばガツガツとかじりつき始めた。

「美味しい!」

 続けざまにかぶりつくのを見て慌てて制止したが既に手遅れだった。喉を詰まらせているアエリアの背中をさすりながらワインを差し出すと俺の手ごと抱え込んでコクコクと音を立てて飲み下し始める。

「そんなに一気に飲んで知らないぞ」

 俺は文句を言っいつつもそのアエリアの仕草を見ているだけでやけに心の中が温かくなってくる気がして自分でも驚く。

 なんだ、これは。
 俺は酒では酔わないはずなんだが……ピピンの奴なんか特殊なワインでも隠してたのか?

 俺は首を傾げつつアエリアの飲み干したグラスにもう一杯ついでそのまま飲み下した。
 いや、味は良いがこれは普通のワインだよな?

 大体なんで俺がこいつの面倒を見ているんだ?
 ペットだからか?

 そう思いつつも何故かアエリアに食い物を与えるのが楽しくて仕方ない。

「アイツ俺が飲む分を勘定に入れてないな。これじゃツマミが足りん」

 そう文句を付けつつ、次に何を入れてやるかバスケットの中をかき混ぜて目ぼしい物を探す。

 その間もアエリアが俺の手にしがみついて残りのサンドイッチを今度は気を付けながら小さく噛み切っては租借していく。それを見ているだけでもささくれ立っていた気分がどんどん落ち着いてきた。

 またつっかえないように反対側からワインも突き出せばそれも片手で掴んで引き寄せて飲んでいる。片手づつ俺の手首の辺りを掴んで交互に引き寄せては食ったり飲んだりし始めた。

 ……ちょっと甘やかしすぎたか?

 その内とうとう俺の手の中のサンドイッチを食いきって名残惜しそうに見つめている。俺はソースの付いた指をアエリアに舐め取らせる。
 そう言えばこれは一体何のソースだったんだ?
 確認しようと思い立ってそのまま自分の口に入れてふと気づいた。アエリアが舐めたんだから味なんて残ってないだろう。アエリアが舐めたんだから……

 ズクンと何か大きな衝動が体を突き抜ける。

 なんだ? やっぱり酔っぱらったのか? こんなワインで。
 顔に血が上って部屋がやけに暑くなってきた。

「次は何がいい?」

 そんな俺をアエリア喘ぎ見たアエリアの顔がやけに赤い気がして慌ててバスケットからパンを取り出して新たに引きちぎって材料を探すふりをしてごまかす。

 チロリと横目で見れば既にアエリアの視線は俺の手の中に出来上がった次のサンドイッチに釘付けだった。

 ……コイツ。

 なんか悔しくなってそれをアエリアの目の前で左右に振って見せると、正に骨を追う犬の様に敏捷に首を振ってサンドイッチを追ってくる。

 数回繰り返したらアエリアが拗ねた。
 だが、食い物は俺の手の中だ。
 ついでにお手も仕込んでみた。

 暫く人間としての尊厳を守っていたがすぐに空腹に屈服して俺の手に手を重ねてきた。
 愚か者め。

 俺はご褒美のサンドイッチをまたアエリアの口元に差し出してやる。

 ……よく考えたらこうやって餌をやっている俺の方が下手したらこいつの下僕みたいだよな。

 サンドイッチを頬一杯に頬張っては租借していく姿は正に小動物。

 ああ、そうか。これは可愛いのか。
 突然ストンと納得がいった。

「ワインはもういいのか?」
「いりますいります!」

 可愛いのだと理解した途端、心が落ち着いた。
 当たり前だ。こいつは俺が以前も面倒を見てやった小娘だ。
 可愛いと思っておかしい事はないだろう。
 しかもペット同様だし。

「こぼすなよ」

 そう言ってグラスを傾けてやると、不器用なアエリアは言っているそばから身じろぎして零しそうになる。

「あ、動くな馬鹿」

 慌てて零れ落ちそうになったワインを手で押さえて飲みとっているとアエリアが文句言いだした。

「ししょー、くすぐったいよぅ。ししょーがこぼしたから私のワインがへっちゃったぁ」

「ばか、動くなって……って待て」

 アエリアが動くので最後の少しが零れ落ちそうになって慌てて舐め取ってから顔を見やればアエリアがまるで茹でた様に顔を真っ赤にしてへにゃりと歪めている。しかも呂律がまわってない。

 それはもしかして怒っているつもりか?

「……お前、昨日酒飲んだ事無いって言ってなかったか?」
「いいえ、あれは昨日じゃなくて一昨日です、あれ? もしもう12時過ぎてたら先一昨日かな? あ、でもまだ寝てないしやっぱり一昨日であってるのかな。ねえ、どうおもいます?」

 アエリアはぐだぐだと管を巻きながらゆっくりと身体を傾けていく。

 おいおい!

 俺はアエリアが膝から滑り落ちる寸前に何とか引き起こして自分の身体に寄りかからせる。

 大きなため息を吐きながら尋ねてみる。

「お前、自分が今俺に完全に寄りかかってて自分で座れてない自覚あるか?」
「へ? 何言ってんの師匠? 師匠こそ傾いてますよ? 大丈夫ですか? 酔っちゃったんですか? お水入りますか? あ、ワインの方がいいですか? でももうあんまり残ってませんよ、これ私が頂いたのになんで師匠がのんじゃうんですか?」
「……」

 ダメだ。完全に酔っ払ってやがる。

「そーだ、ししょー全然帰ってきてくれないから寂しかったんですよ。誰も話す相手もいないし、お掃除いっぱいしても帰ってきてくれにゃいし。暗くなるし寒くなってくるしー、でも師匠帰ってこないしー、うう、うう、うえーん。オエッ」
「……最悪だ。喋り上戸の上泣き上戸で胃も弱い」

 やけに素直に愚痴るアエリアに内心ちょっとホッとしながらアエリアの胃の辺りに手をかざして局部限定の治癒魔法をかけてやる。

 今ここで吐かれた日には一体誰がそれを片付けるんだ?

「ここで吐かれるのはたまったもんじゃないからそれは助けてやるが、酒は抜いてやらん。空腹のまま加減も知らずに一気に飲んだツケは明日来るぞ。起きてから後悔しろ」

 そう言って俺はアエリアがもう手を出せないよう残りのワインを一気に飲み干した。

「ずるい、ししょーが全部飲んじゃった」

 騒ぐアエリアを後ろから抱え込みチーズを数切れ薄く削ってうるさい口に突っ込んで塞ぐ。
 水魔法で注いだ水も飲ませ、抱え上げて執務室を後にした。
 腕の中のアエリアは羽の様に軽い。あれから8年も経ってこれだけ育ったはずなのにやけに軽すぎて不安になってくる。

「っち、今日はやっとこっちで寝られるってのに」

 少しは話もしたいと思っていたんだが。また明日か。

 アエリアは俺の腕の中でまだぐだぐだとつぶやいていたが直ぐにそのまぶたを重そうにゆっくりと閉じ始める。

 おい、眠いのはこっちだぞ!

 そんな思いを噛み殺し俺はアエリアの身体を慎重に応接室のソファーに横たえた。

「ししょー、さむいです。師匠の腕下さい」

 アエリアをおろしてもう一方のソファーに戻ろうとしていた俺の腕をアエリアが後ろから掴んで引っ張る。

「お、おい!」

 まさか引っ張られるとは思っていなかったので一瞬バランスを崩した俺の腕をそのまま引き込む様にアエリアが自分の胸の間に抱き込んだ。

「ハァー、やっぱりあったかいです」

 呑気にアエリアがクニャっと微笑みながら言う。

「……お前、ほんと普段からそれくらい素直ならこっちも助かるんだがな」

「? よくわかりませんが、これはあったかいです」

 そう言ってフニャフニャと俺の腕にしがみつきながらアエリアがとんでもない事を口にする。

「師匠のコレ(腕)大っきくて温かくてすごく気持いい♪」
「!!!!」

 マズい!

 俺はとっさに自分の毛布を引き出してアエリアの頭からぶっ掛けた。

 こんな姿を見られてたまるか!

「……この馬鹿弟子。とっとと寝ろ!」

 何とか絞り出すようにそれだけ言って俺はその場にうずくまった。


    ▽▲▽▲▽▲▽


 すぐに寝息を立て始めたアエリアを横目で睨めつけながら俺は大きなため息を吐く。

 寝たいのはこっちだ。

 アエリアが小さいイビキをかき始めた時にはいっそコイツを叩き起こしてやろうかとも思ったのだが、いかんせんこっちも大人の事情で動くに動けない。

 俺は何度となく腕を引き抜こうとしているのだが、アエリアは軟体動物の様に全身で絡みついてきて離れない。
 それどころか締付けは強くなるのに腕に纏わりつくアエリアの体はどちらに腕を動かしてもプニプニと柔らかい。

 ほんのちょっと腕を動かす度に思いがけず腕に触れる柔らかい感触に俺の心臓が痛いほど高鳴っていく。

 どうしろって言うんだ?!

 ちょっと気を許すと襲ってくる甘美な刺激に耐えながら「これはリスだ。いや飼い犬だ。いや、布団だ。湯が詰まった布団だ」と頭の中で自分に向けて訳の分からない呪文を繰り返しつつごまかしごまかし手を引き抜いていく。
 やっとの事で「後は手首さえ抜けば開放される」と思った途端、アエリアがむにゃむにゃと口の中で何かつぶやきながら腕を動かし、今まさに奪われようとしているその温もりを引き留めようと俺の腕をガシッと掴んで微笑んだ。

 一瞬怯んで見入ってしまった俺は悪くない。
 悪くないが直ぐに盛大に後悔した。

 あれが最後のチャンスだった。

 アエリアはそのままスッと俺の手のひらを自分の頬の下に引き入れていて眠りに落ちた。

 ……ああ、ダメだ。今日も俺は眠れないらしい。

 大きなため息を吐く俺の横でアエリアがスヤスヤと寝息を立てた。
しおりを挟む

処理中です...