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1章 思い出は幻の中に

18 思い出は幻の中に ― 1 ―

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 次の日の朝、私はズキズキと痛む頭を抱えてソファーから起き上がった。

 横目で周りを見回してギョッとする。
 私が寝ていたソファーに頭を預ける様にしてアーロンが床に座り込んだまま寝てたのだ。

 なんでこんな所で寝てるの? しかもあんな格好で寝てて足痛くないのかな?

 上から見下ろすアーロンの寝顔は気のせいか少し苦しそうで、眉間に八の字が寄って唇もなんだか引き結ばれている。

 いつも不機嫌そうな顔かニヤニヤ笑いが多いのであまりリラックスしてる顔を見てない気がする。
 そんな事を考えながらついアーロンの眉毛の間を揉みほぐしてしまう。

 あ、まつ毛長いんだ。

 ちょっと眉間の八の字が緩んだかと思ったら、パッチリ目が開いた。

「おい、馬鹿弟子、なにをしてた?」
「……いえ、ナニも」

 そう言って私は急いで手を引っ込めた。
 アーロンはチョット私を睨んだが、直ぐに顔をしかめながら強張った体を伸ばしていく。

「師匠、なんで床で寝てるんですか? そんな所で寝たら体痛くなっちゃいますよ?」
「誰のせいだ!」

 怒鳴り返したアーロンの声が頭にガツンと響いてまたズキズキと痛みだす。

「耳元で叫ばないで下さい、頭に響くんです」
「自業自得だ」

 そう言いながらやっと立ち上がると庭に続くガラス張りの扉から差し込む光に目をしかめて、直ぐにハッとした様に私を振り返った。

「今何時だ? 何時の鐘が最後だ?」
「私も今起きた所なので知りません」

 コッチの世界に時計はほとんど無い。
 こんな田舎だと領主様のお屋敷と教会だけだ。

 教会はその時計を元に一時間毎に鐘を鳴らしてくれる。
 まあたまに遅くなるそうだけど。
 街の真ん中にある高い教会の塔の一番上に据えられた鐘は毎時その音を街中に鳴り響かせる。

 その音は例えこの屋敷が人里離れていようがちゃんと聞こえるのだ。
 起きてさえいれば。

 そう、逆を言えば最初の鐘を聞くまでは今何時なのかはっきり分からないのである。
 今の私達の様に。

 ただこんな時計の無い生活を送っていると日差しの加減で大体時間が予想できる。
 あの日差しからして多分間違っても9時前という事はない。多分10時前後だろう。

 そしてそれはアーロンも分かっているはずだ。
 分かっていても聞かずにいられない、それは……

「マズイ」

 そう言うとアーロンは慌てて応接室から飛び出していった。

 あーあ。隊長さんが遅刻してて大丈夫なのかなぁ。

 さてと、私も立ち上がろうとしたが、途端頭がクラクラ・ズキズキする。

 ……これって噂に聞く二日酔いと言うやつですか?

 昨日確かアーロンとお喋りしながらちょっとだけワインを飲んだ記憶はあるのだけど、その後どうしたのかよく思い出せない。
 私に限ってそなに沢山お酒を飲むはずも無いので多分寝落ちしてしまったのだろう。

 アーロンがソファーまで連れてきてくれたのかな?

 私はフラフラしながらもなんとか井戸まで行って汲みたての水で顔を洗った。

 ッフウ! さっぱりした!

 冬のキンキンに冷えた井戸水のせいで両手はかじかんだが頭はスッキリして、頭痛も完全には治まらなかったがなんとか我慢できるぐらいにはなってきた。

 ほんとはお風呂に入りたいけど、こっちのお風呂は一人じゃ入れない。
 この寒いのに水浴びはさすがにきつい。

 何とか一回アチラに戻りたいなぁ。

 軽く濡らした手拭いで体をぬぐってアーロンがいない間に新しい服に着替える。
 また今日も大掃除だから汚れちゃうんだけど、何か昨日のお酒のニオイがする気がして我慢できない。
 それにアーロンがまた変なイタズラを始める理由を残して置く必要も無い。

 それからは徐々にペースを上げてキッチンの残りの戸棚、暖炉、食料貯蔵庫、排水回り・釜戸周りを片付けて取りあえずキッチンが使えるところまで片づけたところで暗くなった。

 アーロンはいつの間にか執務室に戻っていた様だ。
 キッチンが取りあえず片付いた事を伝えたところ、アーロンは暖炉にまた何かを投げ入れてから私を引き連れてキッチンに降りていく。

 すると驚いたことに私たちがキッチンに着いた時にはさっきまで何もなかったキッチン・テーブルの上に山積みの食料、大小揃いの皿、サイズの異なる数種類のグラス、カップ、ソーサー、盛り皿などが一式、タオルで丁寧にくるまれた揃いのカトラリー、それに追加のキッチンタオル、布きん、ティー・タオル、ナプキンなどのリンネ等が所狭しと並べられていた。

 また、その向こうのキッチン・カウンターには料理に使う大小の鍋、フライパン、笊、こし器、ふるい、木のスプーン、へら、ナイフにまな板など調理器具と共に数々のツボやら干したハーブやら肉やらこちらも山になっている。

 ちゃんとアーロンの好きなお酒もこれでもかってほど並んでいる。

 見やれば、釜戸の横には火を炊くのに必要となる火掻き棒やふいご、火つけ石などが用意され、いつでも料理が始められんばかりに準備されている。

「……あいつ、暇なのか?」
「ここまで準備してくださったメッシーさんに何って事を!」

 アーロンの心無い一言に思わず言い返してしまった。

「メッシーさんって誰?」

 しまった!っこ、心の声が漏れ出してしまった。

「あ、あの、昨日から師匠がパッとやる度に向こうで色々準備してくださっている、名前も知らない召使の方に、私からの感謝と親しみを込めてメッシーさんと……」
「はぁ?!」

 あれ? なんだ?
 なんか師匠の機嫌が一気にどん底まで悪くなったぞ?

 気のせいかキッチンの温度まで下がった気がする。

「いや、あの、馴れ馴れしいかとは思ったんですが、その、名前がですね、分からなかったので仕方ないかと、いや、無論私の心のうちだけですし、」
「俺が呼び捨てでなんであいつに『さん』付けなんだ、おい!」

 あ、そこですか。

「ニックネームにしかも『感謝』と『親しみ』、だと??!!」

 うわ、青筋だ、青筋が立ってる。肌が白いと、ほんとに見えるんだ。

 アーロンのあまりに突然のご機嫌直滑降に、つい現実逃避できることを目で探してしまった。
 アーロンはそんな私の頭をその大きな手でがっしりと掴み、ぐいっと顔を近づけて怒気に輝く漆黒の瞳で私を睨みつけながら一言一言言葉を区切って言い放つ。

「お前は! 俺ではなく! たかが使用人に、『感謝』と『親しみ』、だ、と!」

 アーロンの目端がじりじりと上がり、その張り出した額と長いまつげが今にも私の顔にくっつきそうだ。

 だから、そんな整った顔でそこまで接近されたら私の心臓が持たないからやめて!

「ごめんなさい、ごめんなさい、師匠にもいっぱい感謝してます。ちゃんと心の中でお師匠様、アーロン様様と唱えて毎日お祈りしています。朝ご飯くれて、夕ご飯くれて、ヤツの退治方法教えてくれて、魔術訓練してくれてありがとうございます。感謝感激で声も出ません」

 焦っている私は口からボロボロ色々こぼれてくる。

「脅されてるとか監禁されてるとか思ってません。意地悪されて恨んだりしてません。家に帰せこの野郎とか絶対思ってません」

 途中ちょっとだけ引いた青筋が前よりひどくなった。

 何言った私???

 自分の口から出ることに全くコントロールを失った私は、何とか口を閉ざそうと思うのに、勢いでしゃべりが止まらない。

「奴隷なんてひどいとか、ゆっくり寝たいとか、私の事覚えてないくせにとか、絶対思ってないです」
「……今何って言った?」

 今まであんなに怒りに染まっていたアーロンの顔が、嘘のようにパッと真顔になった。
 少し顔を後ろに引いたかと思うと、私をしっかりと見つめ、突然きりりと引き締まった真面目な顔で聞き返された。

 あれ? 今私、何言った! 何言っちゃった!?

「お前、覚えてたのか?」
「え?」
「あんなちっこかったのに」
「え? え?」
「ボロボロになって、下っ端の兵隊どもに放っとかれて」

 そんな。

「俺が声かけても、泣くばっかりで」

 うそだ。

「手を引かれるままに付いてきた」

 今更。

「怒鳴っても泣きやまなくて、抱きしめて食い物を口に入れて、やっと静かになった」

 パニックで熱くなっていた頭が全く違う熱をもち始め、周りの景色がスーッと遠ざかる。

 これは喜び? それとも怒り?

「忘れてはいない」

 私は自分がどんな顔をしていたのか知らない。
 ただ、頬を濡らす涙がやけに熱かった。

 アーロンはそんな私の涙を自分の手の甲で拭うと、フゥッと何かを振り切るようにため息を一つついた。
 そしてテーブルの上にあったお酒のボトルと小さなグラスを二つ片手で器用に持ち、反対の手で私の腕を掴み引きずるようにしてキッチンを後にした。
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