水茶屋『はなや』の裏看板

こみあ

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第一話 初物買い

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 浅草は観音様のお膝元、雷門と駒形堂を繋ぐ参道沿いの、駒形は駒形でもちょいと西に入った裏小道に、小洒落た赤紫の暖簾を垂らし、涼しげな表を構える水茶屋『はなや』。
 この粋な水茶屋には、看板娘が二人いる。
 華奢で艶やか、すわ石楠花しゃくなげかと見紛う花盛り、看板娘の『お玉』……は、まあさておき。
 裏看板と名高い娘のほうは、その名ひとつ表にゃ出てこない。
 裏と言うにゃあ訳がある。
 訳あり客が、訳ありの訳を持て余し、尋ねて問うて、ようやく辿り着くのが『はなや』の裏看板。
 こちら世間様にゃちょいとお話出来ない、隠れ話にございます。


  ❖

 魚河岸から流れてくる客を当て込んで、明け六から店を開ける水茶屋『はなや』の朝は早い。客もまばらな裏道に上野から五つの鐘が響いてく。初夏の朝の涼し気な日差しが暖簾の隙間から土間じきの店先を照らし出す。

「おいねえちゃん、こっち来て酒を酌めよ」

 こんな朝っぱらから酔いの回った初見客が、新しい酒を持ってきた小娘に声をかけた。
 門前近く、見栄えのいい娘ばかりを集め、お茶やら酒やら、時には愛想も振る舞う水茶屋なのだから、当たり前と言えば当たり前の光景である。
 今男が声をかけた娘、名を『小菊』という。まだ幼さの残る顔は不細工ではないが華もない。貧相な体、無愛想な様子から店の中では中の下といったところだ。
 だが一見、くみしやすそうなこの小菊と言う娘に、わざわざ声をかける客はこの店には他にいない。
 まだ昼前のこの時間、店のなかにはお登りの参拝客がちらほらと、後は見知った常連客ばかりだ。そんな静かな店の中、この見かけない顔の中年男の酒に枯れた下衆声は思いの外響いた。
 訳知り顔の常連たちが見て見ぬふりしつつ、揃って口元に苦笑いを浮かべたのに、この客はまだ気づかない。
 男は絡げた着物の裾をボリボリと掻き、一瞬懐に手を置いて、すぐに思い直したように腰から素早く早道はやみち(お財布)を引き抜いた。
 男が手にするその早道は、洒落ちゃあいないが使い込まれた革づくりで、ちょっとやそっと走り回っても帯から外れない、しっかりとしたもんに見うけられる。

「ほらねえちゃん、たっぷり小遣いやるからここ座んな」

 そう言って早道から取り出した一文銭をじゃららと小菊の前に放り出す。
 ざっと見、二十はありそうだ。まあ、『お玉』のようなよっぽどの売れっ子ならともかく、十人並みの小菊相手じゃ相場と言えなくもない額だ。
 だが、当の小菊は一瞬すっと眉を寄せ、男の様子をじっと見た。

 赤ら顔のこの男、歳は四十そこらだろうか。
 長らく日の下で働き続けてきたのだろう、浅黒く日焼けした肌は衰えを見せ、張りがない。
 痩せぎすだが、歳の割にはがっしりとした体つきをしている。着古された着物は少し田舎臭いが、肩のあたりには重ねて当てが入れられ丁寧に繕われていた。男の口調には、酔もあってかどこやらの訛りが聞き取れる。
 床几しょうぎ(縁台の大っきなのですね)にどかりと腰掛けた男の体からは、酒の匂いに混じり、一日の汗と体臭と、何か独特の香りがぷーんと臭ってくる。

 空になった湯呑を揺らしてこちらを見上げる男と、床几に投げ出された銭をもう一度見比べた小菊は、ニコリと微笑んで口を開いた。

「お酌百文、お話一両、ねやの誘いは一千両」
「はぁあ?」

 小菊の歌うような口上に、思わず素っ頓狂な声を上げた男は、すぐに大声で笑い出す。

「はっ、水茶屋の手引娘にそんな金払うやつがいるかよ」

 笑い涙を指で振るい落としながら、男はふと小菊の細腰に目を落とす。そしてうっすらと下衆な笑いを浮かべて付け足した。

「まあ、初物だってんなら百文くらいは払ってやらぁ」

 じろじろと不遠慮に自分の身体を値踏みする男を見返して、小菊は張り付けた笑顔を冷たい薄笑いにすりかえた。
 それをチロチロと盗み見た常連たちが、そっと椅子を引き耳を澄ませる。
 そんな様子を気にもせず、小菊は役者よろしくさっと肘までそでをめくった。

「えぇえぇ、初物も初物。こちとらまだ男になんざ、見せたこともない柔肌ですよ」

 そう言って二の腕をぴしゃんと叩く。きっぷよく返す小菊の口調と目つきに、それまで微塵も感じなかった妖艶さが滲む。
 決して美人とは言いがたい娘だが、その冷めた眼差しと、薄っすらと浮かべた嘲笑が、まだ稚なさの残る容姿と相まって、やけに妖しく男を魅せるのだ。
 つい、男がゴクリと唾を飲む。それを見止めた小菊が、今度はふっと顔を歪ませて、薄く紅を引いた口元に小馬鹿にした笑いを浮かべた。

「でも兄さん。その懐じゃぁ、私を買うお金はありゃしませんでしょ」
「ひゃ、百文くらいあるさ!」

 酔のせいで気が大きくなってるのか、小菊の言葉にひょいひょい乗せられ男は懐に手を突っ込んだ。そのままごそごそとまさぐって、パッと顔を輝かせてから手を引き抜いた。
 ばんっと音を立てて叩きつけられたのは、薄く輝く一朱の礫。客の絶えないこの店でさえ、めったにお目にかからぬ代物だ。
 ところが小菊はそれを見て、喜ぶどころか余計冷めた目で男を見据える。幼い顔に全く似合わぬ凍えるような瞳で男を睨み、目で店の入り口を指し示す。

「兄さん、お帰りはあちらだよ」
「なんだと!」

 千両なんて戯言ざれごとはともかく、このがめつい娘がふっかけた酌代の倍以上出したのだ。小躍りしてすり寄ってくるならともかく、まさか帰れと言われるとは思いもよらなかったのだろう。男は娘の心無いあしらいにかっとなり、思わず半立ちになって怒鳴りつけた。

「お前みたいなちんちくりんでも初物だと思って色ぉ付けてやりゃあいい気になりやがって、この小娘が!」

 怒鳴り散らした男の気迫もなんのその。
 小菊の冷たい瞳はじっと男を見据え、その口元には変わらない嘲笑をたたえたままだ。
 立ち上がった男は娘の倍近い背丈があり、見上げなければ視線もまともに合わせられない。だというのに、小菊の様子には一寸の怯えも見当たらない。
 あまりに落ち着き払った小菊の態度に、たぎる怒りとはまた別に、男の中に何か言いようもない不安と違和感が生まれた。
 なにか、おかしい。
 どこかでそう感じはするものの、どうにもこうにも収まりがつかない。
 一度出した金を引っ込めるのも格好がつかず、かと言って娘にこれだけ小馬鹿にされて言われるがままに店を出るわけにもいかない。
 怒りに握りこぶしをわななかせつつも、次の罵倒が思いつかない男に、そのまま静かに諭すように小菊が言う。

「兄さん、なにはなくても初物買いは、見栄っ張りな江戸っ子じゃあ仕方ない」

 落ち着いた声音の小菊の声は、小さいながらも不思議と通る。突然、男は店の中の視線がずらっと自分に向いているのに気がついた。
 ぶるぶるっとおかしな寒気が背筋を走る。

「けどねぇ、その見栄を人様の金で用立てようなんてのはからっきし粋じゃぁない」
「な、何を! なんて難癖つけやがるこの小娘!」

 一瞬ひるんだ男の様子を、小菊は無論見逃さない。細められた目の奥で、小菊の瞳が輝きを増す。

「兄さん、こんな朝っぱらから水茶屋でお酒飲んでんじゃぁ、今日は棒振ぼてふりはお休みかい?」
「な、なんのことだ、誰が棒振ぼてふりだって──」
「違うといいなさる。じゃあその着物の裾はどうしたんだい」

 小菊の言葉にしゃっくりのように反応した男を、あざ笑うかの様に先を続ける。

「今日は朝からお天道様が気持ちよく照ってらしたのに、濡れた裾を乾かした跡が見えるねぇ。しかも残った塩気がところどころ白い線を引いて。慣れない海魚担いだから跳ねた水に気が回らなかったのかねぇ。江戸の魚河岸は初めてかい?」

 立板に水を流すように続ける小菊に、ぐむっと男が口をつぐむ。

「大体、その体つき見りゃぁわかるよ。右肩が張って、右足が短い。今兄さんが茶碗を持つ手は右手なのに、さっき店に入ってくるとき、左肩で暖簾よけただろう。あれは普段右手が埋まってる商い人の歩き方さ」

 言い当てられた男が思わず右肩に手を乗せる。

「そ、それがどうした、ああ俺は棒振ぼてふりだよ、悪いか。なんだ、この店の娘は棒振ぼてふりの相手は出来ねぇってのかっ」

 小娘に言い当てられたのが悔しいのか、新参者扱いされてるのが悔しいのか。それまで以上に顔を赤黒くして、唾が飛ぶほど近くで怒鳴りちらす男を、小菊がおっとっとと手で制す。

「お待ちよ兄さん。お大臣さまだろうが大店の旦那さまだろうが、丁稚の小僧さんだろうが棒振ぼてふりの兄さんだろうが、こっちゃあ一切かまやしません。こちとらお茶屋の茶くみ娘だ、誰にだってお茶も愛想も振る舞いましょう」

 一度笑顔でそう宥めた小菊は、だがまたその表情からすっと笑みを消す。

「ですがその一朱は頂けない。その紙入れ(財布兼小物入れ)、一体どこで手に入れなすったんです?」
「紙入れ?」
「ほら、それですよ、その懐からはみ出てる紙入れ」

 小菊の視線に、男が慌てて懐を擦る。見えるはずがない、はみ出してなぞいない。

「それはどう見ても女物じゃあないですかい?」

 見えないはずなのに、なぜこの小娘は女物の紙入れだと断言してくる。

「な、な、何言ってやがる、紙入れなんぞどこに」
「言われていま兄さんが手を置いた懐の中ですよ。ええ、見えなくたって分かります。兄さんには似つかわしくない、上等な女物の香がしますし、さっき一朱を出した時にしゃらしゃらと花鎖の音させてた。ほら……」

 喋りながらひょいと手持ちの酒を後ろの床几に置いた小菊は、空いた手で気負いもなく懐を押える男の手をポンポンと二度叩く。先程同様、しゃらん、しゃらんと女物の花鎖(鏡についた垂れ)が鳴る。

 「こ、これは今朝初物を買ってくださったご新造さんから預かっただけだ、明日の仕入れもよろしくと──」
「べらんめぇ!」

 まだ言い訳を続けようとする男の言葉を遮るように、店に響き渡る小菊の美声。

「!」

 男が一瞬呆けたその隙に、とんっと床几に片足を掛け、勢いよく男の横に伸び上がった小菊は、そのまま躊躇いもなく男の懐に手を突っ込んだ。
 素早く引き出した女物の紙入れを頭上に掲げ、反対の手で男の胸をとんと突く。
 その手際の良さと剣幕に、男は思わず後ろにさがり、そのまま床几に尻もちをついた。

「安っぽい言い訳ぁ大概にしねぇか。絹張りの紙入れを見も知らぬ棒振ぼてふりにほいほい渡すお目出度てぇご新造さんがこのお江戸のどこにいるってんだい!」

 ぽんと床几から飛び降りた小菊が、だんっと大音を立てて床几を蹴った。何をどうしたのか、ぼてふりの尻の下から床几が消えて、そのまま今度は地面に倒れ込む。そんな男を見下ろして、素早く床几から一本の団子の串を引き抜いた小菊がその先端を男の額にピタリと押しあてた。

「ひっ!」

 男の口から思わず情けない声が漏れた。

「観音様のお膝元で並べた嘘八百。肩に当て入れてくださる人田舎に置いて、くすねた金で朝っぱらから娘買おうなんざぁいい度胸だ」

 男の額に気持ち刺さり気味の串の先は微動だにしない。
 冷徹な目をきらりと輝かせ、嗜虐に微笑むその様子はまるで鬼童子。

「お天道さんの下で真っ当に働いた金下さる他のお客さんの邪魔だってんだよ!そこの茶釜で頭丸茹でにされたくなかったら今すぐとっとと出ていきなぁあ!」

 ぱっと起き上がり、串をしゅんっと床几に突き立てた小菊を見た男は怒りに赤くしていた顔を真っ青に変え、泡を食って転げるように店を出ていった。

「あぁあぁ、またかい」

 ひと騒動が終わったのを見計らって、奥から婆が顔を出す。
 この店を仕切ってる老夫婦の片割れだ。

「おばちゃん、悪い金は店を潰すよ。いつも言ってるでしょ」

 などと言い返しつつ、小菊は男の懐から抜き取った紙入れを懐紙に包んで自分の懐にちゃっかり収める。

「ああだこうだ言って客取らないお前さんに言われたくないよ。まあ、どの道大したお客じゃなさそうだからかまやしないけど」

 やれやれとまた奥に引っ込んでいく婆を振り向きもせず、小菊はさっき後ろに置いた酒のお銚子をひょいっと手にとり、今店の左奥に座ったばかりの客に持っていく。

「小菊、話を聞いてくれ」

 冷めきったお銚子を置くやいなや、その新しい客は小菊を小難しそうな顔で見上げて手を合わす。それを柔和な笑顔で見下ろして、小菊はまた歌うように唱えるのだ。

「お酌百文、お話一両、ねやの誘いは一千両」
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