水茶屋『はなや』の裏看板

こみあ

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第二話 千住の幽霊(下)

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 そうしてふた月が過ぎた頃、千住に出るはずだった『清瀬』の小店の話はきれいさっぱりなくなっていた。
 代わりに千駄ヶ谷に新しい小庵が建てられ、そこに以前は千住で名を馳せた娘が、その装いを鄙びたものに変えて静かに暮らしているという。
 小庵には月に一度、どこぞの大店の旦那さまが丁稚に土産を持たせて通ってくるそうな。


「よくお内義さんがお許しになったもんだ」

 今月も多吉をお供に出かける旦那さまの後ろ姿に、他の手代達がこそこそと小声で囁きあうのを小耳に挟んで、小吉は「知らぬが仏」と思うのだ。


 あの後、お店に戻った小吉は旦那と二人で多吉の奉公の証文をお店中探してみたが、どうにもこうにも見つからない。多吉本人は問いただそうにも、幽霊騒動からこっち寝込んだままだ。
 奉公時に作る証文は口入屋にも写しがあるはずだろう。そう言って口入屋に送り出された小吉は、「素性は確かだし保証する」と言って渋る口入屋の親父を口説き落として、多吉の奉公の証文を探して貰った。
 多吉の親元は武州調布は国領の豪農だという。
 今年十二になった多吉に実父の記載はなく、母は後妻に入って、名は『おたえ』というらしい。

 聞き出した里を直接訪ねてみれば、田舎には珍しく垢抜けた、言葉遣いのきれいな『おたえ』が出迎えてくれた。
 木綿の野良着に緩く結い上げた髪を姉さん被りの中にまとめ上げ、べにひとつ引かぬ素っぴんなのに、物腰は常に柔らかく、歩き方一つとってもどこか艶めかしい。
 突然訪ねたにも関わらず、おたえは小吉に別段驚いた様子を見せなかった。干し芋とともに渋茶を振る舞い、息子の様子を尋ねてはそれを嬉しそうに聞いていたのだが、そのうち「お内義さまのご様子は」と遠慮がちに尋ねてきた。
 訝しく思いつつも小吉が「ご健勝で商いもつつがなく」と差し障りなく答えると、往年を忍ばせる横顔に憂いを秘めて、ほうっと細いため息を吐く。

「小吉さん。小吉さんが訪ねていらっしゃるであろう事は、お内義さまから前もって知らされてました」

 思いもよらぬおたえの告白に、小吉は思わず黙り込む。

「私はあのお内義さまが本当に怖い。怖くて、恐ろしくて──でも本当に感謝しているんです」

 わけがわからぬと書かれた小吉の顔を、おたえが陰りのある笑顔で見返して告げる。

「私、一度だけ清瀬のお店の前まで行ったことがあるんですよ」

 話の行く先が見えず、戸惑うばかりの小吉を置き去りに、おたえは着物の上から自分の下腹部をやんわりと撫でる。

「店先に出てきたお内義さまに声をかけようとしたんです。ええ、少しでもいいから、その情に訴えて金子をねだろうとしたんですよ」

 そこでやっと小吉にも合点がいった。

 深川で芸者をしていたおたえは、旦那さまの子を身ごもって置屋で肩身の狭い思いをしていたのだそうだ。
 やっと良い見受け話しが決まるという段になって、子を身ごもっているのに気づいたという。身請け話もあり、当時まだ付き合いが切れてなかったのは吉兵衛だけだと言うが、これはまあ、あてにはならない。
 それでもおたえの言葉を信じるなら、吉兵衛の子ができたせいで見受け話が流れてしまったということだ。おかげで、明けるはずだった年季はまた伸びて、それどころか借金を増やす羽目になり。

 このままじゃあこの子は水子にされてしまう──

 そう恐れたおたえは、思いあまって、来てはならぬと知りつつも清瀬を訪ねてしまったのだという。

 そんな女が店先で騒げばそれなりの騒動になっただろう。そんな話は聞いたことがないと小吉が問えば、おたえはすぐに笑って続けた。

「騒ぐよりも先にお内義さまが私を見つけられたんですよ。人目を避けてそのまま近くのお稲荷様の裏に連れて行かれました」

 おたえはその時の緊張を思い出したのか、ふるりと小さく身震いする。他人の女房にも関わらず、その様子がやけに色っぽくて、小吉は居心地悪そうに居住まいを正す。

「人気のない境内の裏で、私のお腹を見ながら事情を静かに聞いてくださったお内義さまは、私に申し出られたのです」

 あなたのその簪、とても気に入りました。私がそれを買い取りましょう──

「そう言って、私の挿してた簪を高値で引き取ってくださいました」

 無論おたえが挿していったのは、吉兵衛に渡されていた悪名高き日本橋の『身請け簪』。
 おたえは当時を思い出したのか、思わず髪に手を伸ばし、そこに被っていた手ぬぐいを見つけてほろりと苦笑いを浮かべる。

『そのお金で辛抱するように』

「手切れ金には多くも少なくもない金子を頂いた私は、そう言い残して帰っていくお内義さまに、まさかまたお会いする日がくるとは思いもしませんでした。ですが──」

 その後、お内義さまの采配でおたえの身請けは決まったのだという。ちょうど後妻を探していたこの家に子連れで嫁ぎ、何不自由なく真っ当な暮らしをさせてもらえた、たった一つの条件で。

「生まれた子にはしっかりと躾をし、十になったら清瀬に丁稚に出すように、と」

『悪いようには致しません。一人前に致しましょう。その代わり、あなたは二度と清瀬に来てはなりません。このことを私や身内以外には話してもいけませんよ』

「それを私に話してしまって良かったのですか?」

 そう尋ねる小吉に、女は明るく笑って頷いてみせる。

「だって小吉さん、あなたも『身内』でしょう?」

 その答えに、小吉はうーんと唸るより他なかったのである。


   ❖


 お内義さんは、本当に怖い。怖くて、恐ろしくて、そして本当にお優しいお方だ。

 旦那を送り出した若い手代たちを仕事に追いやりながら、小吉はまたため息をこぼす。
 小吉もまた、簪を渡された女の腹から産まれた一人だった。母は花街の出でこそないが、未婚で産んだ小吉を持て余したのだろう。今は亡き大旦那さまの取り計らいで、六歳で奥向きの奉公に入ったのだ。
 小吉の素性は、吉兵衛にしか明かしていない。お内義さんが嫁いで来られるよりもずっと古い話なのだ。
 にもかかわらず、あの方は小吉の素性をどうやって知ったのやら。知ったうえで気づかないふりを通し、小吉が吉兵衛の女遊びを匿ったり、手伝ったりしていることも承知の上で、全て見てみぬふりをしてらしたわけか。

 ようやく小吉が腹をくくってお内義さんにお尋ねすれば、多吉が千住に行くよう手配をしたのも全てあっさりと認めてくださった。
 その結果、小吉はこの度目出度く手台頭に引き上げられて、千駄ヶ谷の采配を任された。
 小庵の場所も、普請も、雇人まで表向きは全て小吉の采配だが、裏では全てお内義さんが仕切ってらっしゃるのは言うまでもない。


   ❖
 

「小菊はなんでわかったんだ」

 夏の夕暮れ時。
 『はなや』で愚痴のようにそう漏らす小吉に、いつもの口上を唱えようとした小菊が、寸でで思いとどまる。
 手台頭に昇格した小吉の羽織姿をチラリと見た小菊は、少しだけ前払いも悪くないかと考え直したのだ。
 小吉が酒のアテに頼んだ素焼き団子の串を一本、駄賃とばかりに勝手に頂戴した小菊は、小吉の横にひょいっと腰掛けて、小首をかしげて問い返す。

「小吉さんもお内義さんが旦那さまの千住通いに勘付いてらっしゃるとは思ってたのでしょう?」
「まあ、そうかも知れぬとは恐れちゃいたが、お内義さんは一度だってはっきり口にされなかった」
「そりゃそうでしょうとも。でも、小吉さんがそう感じる程度に素振りで周囲に見せていた」

 その通りだ。
 千住に出かけるそのたびに、お内義さんは憂いを秘めた顔で旦那さまの見送りに出たり、お出かけになったその背中をため息混じりに見送ってらした。

「二年前の貰い火のあと、清瀬がつつがなく商売を続けてられるのは、上方にあるお内義さんのご実家から支援があるからだとお聞きしました」
「…………」

 いったいこの小娘はそんな話をどこから仕入れてきてるのか。驚きつつも、小吉は無言で小さくうなずく。

「ならば今回、赤字の消えない清瀬の旦那さまが千住の小店を出す金子を左右されるのも、実際にはお内義さんの懐次第、ということになります」
「そ、それはそうだが、千住の出費は帳面の上では旦那さまが分からぬように細工して──」
「赤字の帳面を黒くするお内義さんのご実家が、お内義さんにその帳面を改めさせないとは思えません」
「た、確かに月に数度はご覧にもなるが、いつも無言で必要分を用立ててくださるだけで」
「そうなのでしょう。でもだからといって、お内義さんが不審な出費に気づかなかったとは限らない」

 まあ、これは憶測に過ぎなかったのですが、と言いおいて、団子を食べ終えた小菊がその串を手元で遊ばせながら先を続ける。

「仮に旦那さまの女遊びを全て飲み込んで、帳簿の金子の動きも見てないふりして、赤字を実家から補填までしてくれていたのだとしたら。そんなお内義さんが千住の幽霊騒ぎに気づかないのも、反応されないのもおかしいですし、丁稚が長く留守にするのに不快を顔に出さずに『いつも通り』に振る舞ってらっしゃるのも不自然では?」
「そう言われれば、そうとも取れるが……」

 当時の小吉にしてみれば、そんなのはたまたまお内義さんがまだ幽霊騒ぎに気づいてないだけだとしか思えなかった。

「小吉さんは、『お内義さんは旦那さまの女遊びを見たくないし、見ないふりをしている』という前提で考えてらっしゃったでしょう」

 小菊は食べ終わった団子の串を手の中でくるくると回しながら、小吉に視線を合わせずにそういった。

「私は『お内義さんは全てご存知の上で、全て見てらっしゃる』と仮定したまでです。もし小吉さんの仮定が正しければ、私のような小娘には想いもよらぬ、怪異異変が千住で起きていた、ということになります。その時はお預かりしていた一両をお返しすればいい」

 一両などという大金を、たかが水茶屋の小娘が当たり前のようにそう言い切るのを聞いて、小吉も少しばかりムッとする。

「じゃあ、多吉を疑ったのも?」

 まさか当てずっぽうで走り回されたんじゃあと小菊を睨めば、小菊は怯みもせずに言い返す。

「だって普通、夜な夜な旦那さんの名前を呼びながら簪を刺す幽霊って言ったら、裏切られた遊女を思い浮かべるもんでしょう。それをお内義さんだと言い出したのは?」
「ああ、多吉だ。多吉が言い出した」

 小吉もこれには膝を打つ。

「それに……」

 ここにきて少し歯切れ悪く、小菊が付け足す。

「清瀬の丁稚さん手代さんには、『吉』の字がつく人が多いじゃあないですか」

 小吉の心臓がどくんと嫌な音をたてた。
 言われてみればその通り。狙って連れてこられてるんじゃないかというくらい、清瀬きよせには『吉』の字がつく者が多かった。だが、石を投げれば『吉』に当たるってほど多い名だし、「お店に吉を呼ぶんだからいいじゃないかい」と旦那さまも笑って済ませて来たのだが。

 今回の件を考えると、全く違う絵が見えてくる。

 夏も盛りだと言うのに、小吉はぶるりと小さく身震いした。
 そして、珍しく相手をしてくれた小菊に、つい聞かなくてもいいことまで聞いてしまう。

「じゃあなんでお内義さんは、今回に限ってこんな面倒なことをわざわざ……」
「千住は遠いですからね」

 そう言って団子の串を小吉の皿に戻すと、前掛けを叩いて立ち上がる。

「あの貰い火からまだ二年。お店が落ち着かないのは旦那さまもご存知のはず。なのに、いつもは空約束の旦那さまが、今回に限り小店まで出すと言う。嫁がれてもう長いにも関わらず、跡取りがいないお内義さんにしてみれば……『跡取り候補』はご自分の目の届くところに置きたかったんでしょう」

 小菊の答えには容赦がない。冷淡に、事実のみを切り取っていく。
 小吉は聞かなきゃあよかったと、がっくりと首をうなだれたのだった。


千住の幽霊 (終)
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