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Ⅰ 塔の魔女アズレイア

i 淫紋素材と堅物門番

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 この世界の魔法には、一つの不文律がある。

 『魔術で金は稼げても、魔力でパンは作れない』

 これはものの例えであり、実際には小麦粉や砂糖、塩などを素材に使えばパンを錬成することは可能だ。
 だが、どんな大魔法使いが挑んでも、魔力で作る食べ物は不味くて食べられない。

 そしてまた、どんな大魔法使いだって、ご飯を食べなければ飢えて死ぬ。これもまた人間の摂理である。
 そしてパンはタダでは手に入らない……。


「だから結局、魔術師だってお金がなければ食っていけないのよっ」


 アズレイアが自分に言い聞かせるように呟いた途端、彼女のお腹の虫がクゥゥゥと切なく鳴いた。
 情けなさに脱力しつつも、アズレイアは今握り締めている筆を決して止めようとはしない。
 この筆を止めてしまうと、今書いている魔法紋がそこで閉じられてしまう。
 完成しないまま閉じられた魔法紋、それはすなわち失敗作である。
 そんな無駄は、今のアズレイアには許されなかった。


「コレだって、私が今日のご飯を食べるためには仕方がないのよ」


 またもアズレイアが己を鼓舞するように、わざわざ声にだして言う。

 だが、それに答えてくれる者など、ここには誰もいない。
 それどころか、彼女の座るこの円形の研究塔には、普段から彼女一人しかいなかった。

 それでもアズレイアが独り言を続けているのには訳がある。

 今、彼女が高価な極薄紙と特別なインクで描き続けているのは、繊細な作業と高等魔術を必要とする、非常に希少価値の高い『魔法紋』だ。
 ある意味、彼女のような高位の魔術師でなければ絶対に描けない代物である。

 にもかかわらず、その用途が非常に特殊かつマニアック過ぎて、他に請け負う魔術師はまずいない。
 そう、それは魔法紋は魔法紋でも、俗にいう『淫紋』と呼ばれる、一定時間、強制的に被施術者の発情を促すものである。

 その性質上、たとえどんなに魔術的価値が高くとも、その仕事は表では口にしづらく、研究者の実績になど絶対にならない代物だ。
 アズレイアだって、事情がなければこんな研究に手を出すことはなかっただろう。

 このアズレイア、今は追い詰められ『淫紋』を刻むための原紙など描いているが、これで実はそれなりに名の知れた、高位の魔術師だったりする。
 事実、彼女の本業はお堅い王室付き魔道研究所の顧問研究員。
 今彼女が作業しているこの場所も、まさに王城の片隅、彼女に割り振られた古く大きな研究塔なのである。


「ふぅ、あと一枚……」


 今描き終えた『淫紋』紙を慎重に魔封じのされた納品箱に収めつつ、アズレイアは伸びをして、目を休めようと自分が引きこもっている研究塔の中を見回した。

 背の高いこの円塔の中は、真ん中が三階まで吹き通しで、その壁を螺旋階段が這うように伝っている。
 石積みの壁から床が張り出した二階と三階には、大量のガラクタが埃をかぶって積み上げられていた。
 アズレイアが主に作業している一階には、生活に必要な最低限の設備が申し訳程度に備えられている。
 アズレイアが勝手に持ち込んだ小さなベッドもその一つだ。

 これだけ物を積み上げてもビクともしない、しっかりとした石壁の作りは、流石は王城の一部である。
 今でこそ荷物に埋もれて見えないが、主だった支柱には精霊神の姿をモチーフにした美しい飾りが刻まれていた。

 それもそのはず、ここは古くは高貴な魔女を幽閉したと言い伝えられる、歴史ある円塔だ。
 それに因んで『魔女の塔』などと呼ぶ者も多い。

 そんなこの塔も、昨今の研究室不足と、歴代の研究者たちが溜め込んだ必要不可欠かつ使いみちのない『研究資料』と言う名のガラクタのせいで、今では当たり前のように再利用され、アズレイアに割り当てられているのである。

 まあ、『現代の魔女』たるアズレイアにここが割り当てられたのは、どこかに上部の皮肉が含まれていたのかもしれないが。


「はい、休憩おしまい」


 頭を切り替えて、またもアズレイアが淫紋の繊細な文様を描き始める。
 それを邪魔するものも、手伝うものも、ここにはいないし、訪れない。

 魔術師の例にもれず、研究以外の全てにおいてずぼらなアズレイアは、必要なものが簡潔に整っているこの塔の機能性が非常に気に入っていた。
 五年前、研究者として独立した際ここをあてがわれ、以来、生活の基盤をすべてここに移してほぼ外を出歩かなくなっている。
 あまりにも居心地がよすぎてすっかり引きこもり、もう淫紋の客以外で最後に顔をあわせたのが誰だったのか思い出せないほどだ。


 いや、門番のカルロスだけは別か。


 そう思いついて、新たな淫紋を描きつつ、あの冴えない門番の顔を思い浮かべる。

 カルロスというのは、この塔にいたる王城からの通用門に立つ門番の一人だ。
 本来その門から一歩も動いてはいけないのだが、暇をみてはアズレイア宛の荷物を届けてくれる。

 塔の主たるアズレイアがここに引きこもって出てこなくなり、王城などから届く荷物が門の控室に貯まり続けるのに痺れを切らしたカルロスが、仕方なく荷物をここまで届けてくれているのだ。


 寡黙でムッツリした中年なのに、中々に勤勉な門番だ。


 そんなカルロスだって、その届けてくれている荷物が、実は淫紋や媚薬を作るための怪しい素材ばかりだと知ったら、流石に手伝いを断るかもしれない。
 数日前、彼が束にして抱えてきた細長い棒キレが、実はレッサードラゴンの生殖器だったなんて知ったら、流石のカルロスも怒るだろう。


「おい、荷物が届いてるぞ」


 噂をすればなんとやらだ。


 今まさに思い出していたカルロスが、勝手知ったる様子でアズレイアの研究室のドアを開き、ニョキっと顔を出す。
 今日もアズレイアを見るなり、眉をひそめて不機嫌そうな顔で睨んできた。


 せめてその無精ひげを剃れば、少しはましな見た目になるだろうに。


 そんなことを思いつつチラリと視線を下げれば、今日カルロスが手にしているのは、メスのセイレーンの陰核の干物だった……。
 アズレイアは即座にそれを見なかったことにして、また手元の印紙に目を戻した。


「いま手が放せないの。悪いけどそっちに置いといて」
「昨日もそう言ってただろう。ドアの横の荷物がいいかげん積み上がって雪崩起こしそうだぞ」
「大丈夫、大丈夫。これでもどこに何があるのかはちゃんと把握してるから」
「……お前いつか荷物に埋もれて死ぬぞ」


 カルロスの忠告を聞き流したアズレイアは、もう目前の淫紋描きに夢中になっている。
 そんなアズレイアの背中をジッと見つめていたカルロスだが、太いため息を一つこぼし、山積みになった荷物の片隅に新たな一つを立てかけた。
 顔さえ向けぬアズレイアに呆れつつ、カルロスがとぼとぼと部屋から出ていく足音が背後に聞こえる。


 悪いが今、カルロスの相手などしていられない。
 なんせ今回のお客様は、前皇帝の弟君、トレルダル侯爵様なのだから。


 はっきりとは聞かされなかったが、多分間違いない。
 ご本人様はいらっしゃらなかったが、身元のしっかりした身奇麗な家令が見たこともない前金と、これまた特殊な発注書を置いていった。


 トレルダル侯爵様は気分屋で有名だ。一度引き受けてしまった以上、ちゃんと納期までに仕上げないと一体どんなとばっちりを食うことになるやら……。


 無論、アズレイアがこんな仕事を陰で引き受けていることは極秘なのだが、最初に請け負ってしまった客からの口伝てで、一部の人間の間では噂が広まってしまっている。
 最初の顧客、現第三王子の願い出を断れていれば、アズレイアだってこんな仕事に手を染めることはなかっただろう。

 だが、溺愛夫婦で有名な王子に呼び出され、

「恥ずかしがりな嫁に一刻も早く身体を開いてもらう為なんだ! この淫紋に国運がかかっている!」

 などと言われてしまえば、断ることなどできるわけもなく。

 まあめでたく王子の熱い想いは奥方様に通じて、ご懐妊の噂が流れたのが去年の春。
 結果、王子の裏事情を知れる立場の皆様、つまりは王族からの発注があとを絶たなくなってしまっての今日である。

 アズレイアだって、自身の意志とは関係なく発情を促す淫紋や媚薬の製作に抵抗が全くない訳ではない。
 断れるなら、断っていた。

 だが、アズレイアにはアズレイアの、のっぴきならない理由があった……。
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