港西高校山岳部物語

小里 雪

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第1章 四月、横浜市の西のはずれ、丹沢の見える街で物語は始まる。

4. 稜先輩のことがだんだん分からなくなってきた。

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 「さあ、それじゃあ部活の内容について話しておこう」

と、久住くじゅう先生が切り出す。

「もちろん、山に登るんだけどね。近いところだと、今月末に日帰りで新人歓迎山行さんこう。来月のGWに一泊二日で残雪期山行。その後は、まあ追い追い……クックック……」

 クックックがなんだか気になる。りょう先輩もニヤニヤしている。まっきーはなんだかちょっと心配そうな顔をしている。

「まっきー、何だろうあの変な笑い方は。」

「わたしも秋に二回、楽目な山行さんこうに参加しただけだから、話でしか聞いたことないんだよね。冬は中三は連れてってもらえなかったし。でもね、『ボッカ』っていうのがキツいんだよ。」

 それを聞いていた久住先生は、こう答えた。

「ま、それはすぐに分かるよ。とりあえずは、今度の土日のどちらかで、みんなで横浜に道具を買いに行こう。上市かみいちはまだほとんど道具を持っていないだろうからね。」

「はい。トレッキングシューズなら持っていますが。」

「うーん、多分それはうちでは使えないかな。そうそう、もう一つ大事なことがあった。今週のどこかで、保護者の方を学校に呼んで欲しいんだ。安全には最大限留意するけれど、山に絶対はあり得ない。それに、うちはかなり厳しい山にも挑戦するから、保護者にきちんと話して、了解を取ることにしているんだ。」

「分かりました。今晩聞いてみて、明日連絡します。一応、山岳部に入ることについてはちゃんと話してありますが。」

「でも、過去には大怪我をしてしまった部員もいるし、幸い今までは一度もなかったけれど、最悪命にかかわることもあり得る。もちろん、そうならないように全力は尽くすけれど、やっぱりきちんと俺から話して、その上で決めてもらわないといけない。もしかしたら、これはきみの一生にかかわることになるかもしれないから。まあ、そこでオーケーが出たとして、日曜日にとりあえず買うのは、靴・ヘッドランプ・雨具・アンダーウェア・登山用ズボンといったところかな。それ以外のものは、部室に転がってるものでたいていは大丈夫なはず。」

「五万円で足りますか?」

「うーん、靴次第ってところもあるけど、五万円だとちょっと厳しいかも。念のため十万円ほど用意してもらえるかい。」

「分かりました。それも今晩相談してみます。やっぱりお金はかかるんですね。」

「その他に、山に行くための交通費もかかるしね。両神りょうかみはうちに入ってからどのくらいお金使った?」

「私はメインザックもサブザックもシュラフもアイゼンも自分のものを買ったし、ウェアもいろいろ揃えたので、道具だけで二十万円近いと思います。交通費も、去年一年だけで十万円を超えていると思います。去年の夏休みは短期のアルバイトをしました。」

「そうだよな。そのくらいはかかるよね。これも、保護者の了解をきちんと取らなきゃいけない理由の一つなんだ。」

 お金がかかるだろうとは思っていたが、想像よりかなり高額になりそうだ。おそらく、ぼくもアルバイトをする必要が出てくるだろう。

「さあ、それと普段の練習の話。活動は週三回で、五年生に課外講座のない月水金。毎週水曜日のお昼ご飯は弁当を用意せず、ここの装備を使って毎回持ち回りで計画を立て、昼休みの時間内で調理して食べる。山で食事を作る訓練だね。確か明日は巻機まきはたが当番だったな。」

「まかせといてください。実はもう用意してあるんですよー!」

「それ以外の練習は、体力づくりに関しては基本、二種類だけ。ランニングと、階段ボッカだ。」

 また出てきたけど、『ボッカ』って何だ?さっきは山行の種類みたいだったけど、今度は練習メニューだ。

「『ボッカ』が気になるみたいだな、上市。ボッカは歩くという字と荷物の荷の二文字で歩荷ボッカと読む。もともとは山に荷揚げをする職業を指していたらしいが、それが転じてわざと必要のない重荷を背負って歩くトレーニングのことも歩荷ボッカと呼ぶようになった。階段歩荷は重荷を背負って、階段を延々と上り下りするトレーニングで、歩荷山行は、必要のない水や石まで背負って行う山行のことだ。まあ、実際に体験してみるのが一番だな。両神、背負子しょいこ頼む。最初は二十㎏でいいかな。」

 稜先輩は、アルミのフレームに背負い紐がついた背負子を部室の奥から持ってきた。重心を上げるための一斗缶が固定され、缶が潰れないように木材で補強が入っていて、その上にコンクリートブロックが強力なゴムバンドで固定してある。

 先生は外で四Lのペットボトルに水を汲んでから戻って来て、

「このペットボトルを乗せると大体二十㎏になる。」

と言って、コンクリートブロックの上にペットボトルを固定した。

「さあ、つるちゃん、ちょっと背負ってみて。」

と、稜先輩が言う。覚悟を決めて背負ってみるしかない。

「わかりました。ところで、何で三人全員、ぼくの呼び方が違うんですか。」

「もう最初会った瞬間に『つるちゃん』って聞いたから、それで固定されちゃったよ。多分一生このまま。」

 先輩はカラカラと笑う。出会った瞬間の物憂げで繊細な雰囲気は完全に影を潜めて、今では豪快で、押しが強く、尊大さすら感じさせる。まあ、そんなころころと変わる印象のすべてが魅力に満ちているのだったが。

 っていうか、山岳部の人たち、『一生』が好きすぎじゃないか。

「さあ行ってみよう。最初は椅子に乗せて背負わないと無理だから。」

 椅子に乗せられた背負子の背負い紐に両腕を通し、立ち上がる。紐が肩に食い込み、大腿四頭筋が緊張する。重いが、なんとかなる。別によろめいたり悲鳴を上げたりするほどでもない。

「おー、しっかり立ててるね。細いけど、割と体幹は強いのかも。ちょっと歩いてみて。」

 先輩に言われるままに部室の中を歩く。肩と背中が圧迫されて痛い上に、だんだん呼吸が苦しくなってくる。

「これで一時間階段を延々上り下りするのが階段歩荷。夏合宿では、この重さで一日平均八時間、一週間歩き続けるから、それができるようになるための訓練。」

 ちょっと暗澹たる気持ちになってきた。そんなこと本当にできるようになるのだろうか。先輩の手を借りながら荷物を降ろし、この先の不安で言葉が出なくなってしまった。

「大丈夫、すぐに慣れるから。床から背負うときはこうやるの。」

 先輩は両手で背負い紐を掴んで荷物を持ち上げ、いったん右膝の上に乗せる。右腕を背負い紐に滑り込ませて、荷重を右肩にかけて背中に担ぎ上げ、左腕を反対の背負い紐にねじ込む。いとも簡単に背負子は先輩の肩の上に収まり、そのまますたすたと歩き、片足立ちをし、ハーフスクワットをする。



 「上市。確かに荷物を持って山に登るのは辛いことだ。でも、そうしないと見えないもの、そうしないと分からないものがたくさんある。登山にはいろいろなスタイルがあるけれど、港西の山岳部は、『縦走じゅうそう』というスタイルの登山を、一番大切にしている。これは、常に家財道具一式を背負って、山から山へ、テン場から次のテン場へと毎日歩き、多くのピークを越えていくスタイルでね。体力が必要で、辛いけれど、俺はこの縦走が、すべての山登りの基本になると思っている。さあ、これをきみにやろう。」

 先生が渡してくれたのは、黄色い化繊のTシャツで、胸には白字で『港西山岳部』と染め抜かれていた。お礼を言いながらも、まだ荷物を背負ったままで歩き回る稜先輩の姿が目に入り、気になって仕方がない。

 稜先輩に最初に会った瞬間の、あの、物静かで、穏やかで、悲しげな印象がだんだん遠のいて行っている。美しさには疑問をはさむ余地はないけれど。この豪快で尊大な先輩は、もしかしたら人が苦しむのを見るのが好きなんじゃないだろうか。

 荷物を背負ったままでお茶の後片付けを始めた先輩を見て、ぼくとまっきーは慌てて手伝った。

「つるちゃん、なんか暗くなっちゃったね。大丈夫。ザックにはヒップベルトがあって、こんなに肩が痛くならないから。でもまあ、問題はそこじゃないんだけどね。最初は厳しいよ。だんだん慣れるし、慣れてもらわないと困るんだけど。」

と、再び先輩はカラカラと笑い、ぼくは窓の外の桜を見ていたときの彼女の印象をその横顔に探したけれど、見付けることができなかった。
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