曖昧なパフューム

宝月なごみ

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再会と急接近

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「桐野さんは? ああ、いた」

 室内を見回した彼は、朱夏の姿を見つけるとにっこり微笑んで歩み寄ってくる。しかし彼女の方は表情をこわばらせ、全身に冷や汗をかいていた。

 いったいなんの用?

 朱夏が身構えていると、彼女のデスクの目の前まできた貴人が、丁寧な口調で話しだす。

「さっきは、僕のせいでご気分を害されたようで大変申し訳ありません。お呼び立てしたのは、ロンドンでお世話になったお礼に、お食事に誘おうと思っただけなんです。いかがですか? 桐野さん」
「えっ……?」

 貴人の態度は一見紳士的だが、『ロンドンでお世話になった』というのは、朱夏にとってとてつもなく深い意味を含んだ言葉だ。

 さっき専務室で意味深なことを囁かれた件もあるので、警戒心はますます強くなる。しかし、研究室にいる社員全員が朱夏たちふたりの動向を興味津々に見守っているので、あからさまな拒絶を示すこともできない。

 しばらく沈黙していると、貴人は彼女のデスクの筆立てからボールペンを取り、隣の卓上メモにサラサラと文字を書き込んでいく。

 その時ふわりと香った貴人の甘いフレグランスにまたしても心乱されるのを感じつつ、朱夏はメモの文字を追う。

〝あの頃の俺たちの関係、を……〟

 そして、最後までメモを呼んだ朱夏の心臓は、激しく脈打った。

【あの頃の俺たちの関係を口外してほしくなければ、大人しくついてきてください】

 その条件は、彼女にとってもはや脅迫に近かった。貴人の目的はわからないが、朱夏の中から断るという選択肢はなくなり、頼りない声で返事をする。

「……わかりました。今、支度をしますので」

 貴人は満足そうに笑みを深めて頷き、彼女がジャケットを羽織り、束ねていた髪をほどいて鬱陶しそうに首を振る女っぽい仕草を、一つひとつ大切に、その目に焼きつけた。



 貴人が朱夏を連れてきたのは、繁華街の大通りから一本路地に入ったビルの一階にあるブリティッシュパブだった。

 アンティーク調の暖炉風ヒーターをはじめ、英国風のインテリアに囲まれた明るい店内は、ロンドンにある本場のパブそっくりだ。

 現地の店では自ら席を確保しカウンターに出向いて注文を取るのだが、この店にはウエイターがおり、ゆったりしたソファのあるテーブル席に案内してくれた。

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