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本編
俺のことが好きな美形バンドメンバー三人のことを俺も好き!
今回、本文中に「近親相姦(親子)」に関する表現があります。
それらの行為を推奨する意図は一切ありませんが、人によっては生理的嫌悪感が強い内容となっております。
苦手な方はご注意ください。
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俺の名前は神崎瑪瑙。インディーズロックバンド『DIAMOND』でボーカルを担当している、ごくごく平凡な大学生。
つい先日、半年かけて準備したワンマンライブが大成功のうちに終わり、俺たちにはまたいつも通りの平穏な日常が戻りつつあった。
だけど、ひとつだけ大きく変化したことがある。
それは——バンドメンバーとの関係。
半年ほど前、俺は突然バンドメンバー全員から告白された。
最初は本気なわけない、冗談だろって思ったけれど、あろうことが全員本気で。それはもう、俺の想像を絶するくらいに本気だったのだ。
——で、この前のワンマンライブ。その時のMCで、俺は「みんな大好き!」と半ば告白のようなことを言った。いや本気で告白だったのだけれども。だからってライブ中にこんなことを言うのはどうなんだよって、今となってはちょっと忘れたいエピソードなんだけれども……俺の気持ちは、三人にちゃんと伝わってくれていた。
そこから改めて告白して、自分の気持ちも伝えて。そして皆もそんな俺を、俺の気持ちを受け止めてくれた。それでも俺が好きだって言ってくれたんだ。
そして、そのまま——。
……なにはともあれ、どうやら想いを伝えたあの日から、その……所謂、えっちなことが解禁されたらしい。
あの時のように三人いっぺんにってことは流石にないけれど、今では週末デートのたびになんだかんだで抱かれている。それに伴い、彼らの家に泊まることも多くなった。みんな俺の身体に無理を強いるようなことはしないし、ライブ前は体調のコンディションを第一にとそういう誘いは一切しないでくれるのだけれど、三人がこれでもかというほど優しい上に、ベッドの上で見せるあの表情がもう……甘すぎて、色気がありすぎて、今までそういう経験がなかった俺は毎回恥ずかしいやらドキドキするやらで、このままでは心臓がもたなさそうだというのが本音だった。
✦✦✦
そんな関係の変化がありつつも、俺たちはライブ活動を続けている。
ワンマンを成功させたお陰で、俺たちの勢いは乗りに乗っている……と言っていいのかはわからないけれど、決して少なくはないファンからの支持を受けつつ、相変わらず曲作りや練習に励んでいた。
そして、とある日のライブ後。その日はちょうど完成した新曲を初披露して、観客の反応も上々。いつものように物販や精算などで各々が忙しくしている中、俺はふと、バンドのリーダーである篠宮透輝さんの姿が見当たらないことに気が付いた。別に用事があるわけではないけれど、普段はライブ後は必ずフロアに来てファンと交流している彼がこのタイミングでいないというのが珍しくて。クリス先輩と蛍に聞いてみたがやはり知らないと言うので、俺はフロアから出て透輝さんを探しに行くことにした。
透輝さんは思いのほか早く見つかった。
フロアの扉を出て、受付へと続く短い廊下の片隅。場所柄もあって少し薄暗いそこに、透輝さんはいた。だが、一人ではない。誰かと話しているようだ。
その人はスーツを着た男性で、少なくとも俺には見覚えのない人だった。仕事終わりに観に来る人も多いので、夜のライブハウスにスーツ姿の人は意外といる。でもファンだったらわざわざこんな奥まった場所で話さなくったって、普通にフロアで声をかければいいだけの話だ。なんとなくおかしいなと思いつつも、もしかしたら透輝さんの会社の同僚の人かもしれないし、このタイミングで出ていくのは憚られた。そして俺は、ほんの好奇心から少しだけ二人の会話に聞き耳を立ててしまう。
「今日のライブ、とても良かったよ」
「ありがとうございます」
そんな形式的なやりとりだけ辛うじて聞こえたが、声をひそめているみたいでそれ以上会話の内容は聞こえない。だが、それなりに話し込んでいるようだった。何を話しているのだろうと思っていたら、その見知らぬ人は鞄から何か小さなカードのようなもの——名刺かな——を取り出して、透輝さんに手渡した。そしてまた何やら話している。仲良く談笑しているというよりは、なんだか真面目な話をしているように見えた。
その時。
「っ!」
ポケットの中に入れていた俺のスマホが震えた。マナーモードにしていたので幸いにも音は鳴らなかったが、唐突なバイブレータにビクッと肩が揺れる。そして、二人に気付かれることを恐れた俺は、そのまま踵を返してこっそりとフロアに戻った。
結局、盗み聞きなんてことをした割に会話の内容はほとんどわからなかったけれど……。
透輝さんが俺たちの元に戻ってきたのは、撤収作業も一通り済んだ頃だった。どこに行っていたのかとクリス先輩にどやされつつも彼は特に変わった様子は見せず、ひとまず全員まとまって撤収を済ませる。普段はこのまま解散する流れになるのだが、今日は違った。透輝さんが皆を呼び止めたのだ。
「みんな、見てくれ」
そう言って透輝さんが差し出してきたのは、先ほど受け取っていたあの人の名刺。
そこには、こんなことが書かれていた。
『音羽ミュージック プロデューサー 坪井純史』
「これって……大手レコード会社のプロデューサーってこと!?」
「そんな人に名刺を渡されるなんて……」
普段は穏やかなギター担当・玻璃間クリス先輩も、最年少のドラム担当・早乙女蛍も、あまりのことに驚いて大きな声を出している。
俺だってもちろん、クリス先輩と同じくらい驚いていた。
『音羽ミュージック』といえば、何十年も前から業界トップを走り続けている国内最大手のレコード会社だ。世界的に有名なアーティストも多く所属しているため、音楽を聴く人間でこの会社の名前を知らない人なんてまずいないだろう。そんな大手のプロデューサーさんが、俺たちに何の用なんだ……?
と、思いつつも、内心どこか期待している自分がいた。さっきの人、音楽プロデューサーだったんだ。そんな人に声をかけられて、人目につかない場所で真面目な話をして、しかも名刺まで貰ったってことは……!
「メジャーデビュー!?」
「まあ、端的に言うとそんなところだ」
興奮のあまり思わず声が出てしまった俺に対して、透輝さんはなんだか冷静だった。レコード会社のプロデューサーさん直々にスカウトしてもらえるなんて、音楽活動を長くやってきた透輝さんこそ一番喜びそうなのに。
どうしてだろう、と頭の片隅で思いつつもそれ以上言及しないでいると、透輝さんはメンバーを見回して再び口を開いた。
「ひとまず、詳しい話はまた後日、ということになった。俺らもしっかり話し合わないといけないしな」
確かにそうだ。降って湧いたようなスカウトの話につい食い付いてしまったけれど、仮にデビューするってなったって透輝さんは今の仕事もあるわけだし……。こういう時だからこそ、現実的なこともちゃんと考えないとだよな。
「レコード会社との話し合いの場には、メンバー全員で行くと言ってある。てわけで来週土曜、十五時に音羽ミュージック本社ビル前に集合な」
透輝さんが言った日時を、俺たちは素早くメモに取った。
そうか、これは俺たち『DIAMOND』に向けたスカウトなのだ。だから全員で考えて、全員で答えを出さなければいけない。とはいえ、俺の心は既にメジャーデビューにがっつりと傾いていた。
メジャーデビューをすれば、大好きなメンバーとずっと一緒に音楽ができる。俺たちの曲をもっとたくさんの人に聞いてもらえる。もっと大きな規模のライブができる。もしかしたら遠征やツアーなんてものもできるようになるかもしれない。ああ、考えるだけで夢が広がっていく……!
このバンドは俺の大切な居場所だ。絶対に失いたくない。もし叶うなら、ずっとこのメンバーで音楽がやりたい。そして、皆でもっともっと色々なことがしたい。心からそう思っているから、今回の話は俺にとってはすごく光栄なことだったのだ。
✦✦✦
そして、次週の土曜日。
俺たち四人は『音羽ミュージック』の本社ビルまで赴いていた。フロントでプロデューサーの名前を出すと受付の人がすぐに中に入れてくれて、俺たちはちょっとした応接室のような部屋に通される。
出されたお茶を飲む気にもなれずそわそわしていると、少しして部屋に一人の男性が入ってきた。間違いない、あのとき透輝さんと話をしていた男性だった。
「改めてご挨拶を。プロデューサーの坪井です」
その人——坪井さんがそう言って人数分の名刺をこちらに差し出したので、俺たちは一枚ずつそれを受け取ってひとまず挨拶をする。
「ありがとうございます。玻璃間クリスです」
「あ、えと、神崎瑪瑙です。よろしくお願いします」
「早乙女蛍です」
そんな俺たちを坪井さんは一瞥すると「どうも」と軽く返し、ソファの向かいに腰掛けた。ようやく全員が腰掛けた状態になると、坪井さんは俺たちに向かって再び口を開く。
「それじゃ、さっそく本題に入ろうか。先日のライブを拝見させていただいてね。音源も聴かせて貰ったよ。君たちさえ良ければ、うちのレーベル所属のアーティストとして今後やっていく気はないかな?」
きた!!
この台詞を言われて嬉しくないインディーズバンドなんていないだろう。待ち望んでいた展開に、俺の胸は更に高鳴った。これまでメンバーと共に作り上げてきた音楽が世間に認められる。もっともっと大勢の人に曲を聴いてもらえる。ライブもたくさんできる。何より、レーベルの後ろ盾があれば、この四人でずっと音楽活動を続けるということがぐっと現実的になるのだ。これほど嬉しいことはない。
俺とクリス先輩、蛍の三人はソファの一番端に座っている透輝さんを見た。俺たちの視線を受けた透輝さんは何やら難しい表情をした後、バンドを代表して返答をした。
「それは、俺達としてもとても嬉しいお話です。是非……と言いたいところなんですが……」
しかし、リーダーである透輝さんは、この美味しい話にすぐさま飛び付くようなことはしなかった。そもそもこの話を持ってきたのは彼であるのに、どうしてか俺たちの中の誰よりも慎重に受け答えをしているように感じる。バンドの今後に関わる大きな決定だから、おのずとそうなるのも理解できるのだけれど……。
透輝さんは語尾を濁した後で、それだけじゃないんですよね?とでも言いたげな目を坪井さんに向けた。
「ああ。デビューさせるには、ひとつ条件がある」
坪井さんは頷き、そしてまた語り出した。
「君達も重々理解しているだろうが、メジャーアーティストとしてやっていくということは、まず〝売れる〟バンドにならなければいけないんだ。ヒット性の高い曲を書くのは当然として、勿論、それなりの話題性も必要になる」
それはそうだろうな、と俺は心の中で思った。
メジャーデビューするとなれば、ただ仲間内で楽しくやるだけのバンドのままではいけないということ。プロとしての意識を持ちつつ、常に売れるものを生み出さなければいけないということ。それをこなすだけの技量、メンタル。周囲からの期待に応え続けるバイタリティ。そしてこれから先、ずっと音楽で食べていく覚悟が必要なことも。
だた、坪井さんの言う『話題性』ってなんだろう? 今このバンドが持っていて他のバンドにはない、皆の興味を引くような話題性。思い当たるのは、俺以外のメンバーが超絶美形であることくらいで——
「だから、キミ」
「えっ! お、俺ですか?」
坪井さんは唐突に、ちょうど正面に座っている俺を指差した。いきなり名指しされるとはまったく思っておらず(名前は呼ばれていないけど……)、俺は驚いて顔を上げた。
「そう、ボーカルのキミ。悪いけど、交代してくれない?」
「へ?」
交代、って……どういうことだ?
「今、うちのレーベルで売り出そうとしてる新人シンガーがいてね。その子とキミ以外の三人が組んでデビューしたら絶対にヒットすると思ってるんだ。その子はビジュアル的にも華があるし、専属でボイストレーナーをつけてるから歌唱力も高いし、キミの代わりとして実力は申し分ない。これで更にルックスのいいバックバンドが付けば、イケメンバンドとして一躍話題になるかもしれないだろう?」
そこまで言われて、ようやく理解した。
この人は、俺にボーカルを辞めろと言っているのだと。
俺が平凡だから。俺が他の三人と違って華がなくて、ボーカルに相応しくない、だからこのバンドの曲を歌うのは俺じゃなくても構わないと。
それは、今までもSNSで数え切れないほど見てきた言葉だ。だから自分でも自覚していた。俺がいくらメンバーの皆のことが大好きでも、バンド活動に対する熱意があっても、周りからすればそんなことは関係ない。外から見ている人にとって神崎瑪瑙は『DIAMOND』のボーカルとして見合う人間だと思われていないことくらい、ずっと前からわかっていたのだ。
それでも、こうして業界の人から面と向かってその事実を突きつけられると、情けなさに泣きたくなってしまった。
やっぱり俺では駄目なのだと。
「バンドの一部のメンバーだけプロに引き抜かれるなんてよくあることだし、何も音楽を辞めろって言ってるわけじゃないよ。ほら、今後はマネージャーになるとかさ、色々やりようはあるだろう?」
「……」
「瑪瑙に何てこと言うんだ! こんなの侮辱だ!」
あまりのショックに何も言い返せないでいる俺の隣で、クリス先輩が珍しく声を荒げた。ぐっと唇を噛みながらちらりと横に視線をやれば、クリス先輩は普段のあの穏やかな彼からは信じられないほど怒りを孕んだ目で坪井さんを睨んでいた。こんなに怒っている先輩を初めて見たかもしれない。
俺のことなのに俺以上に怒ってくれているクリス先輩をどこか呆けた気持ちで見ていると、反対側からぎゅ、と腕を掴まれる感覚がした。無言のままそちらを見ると、蛍が俺の腕を掴みながら心配そうにこちらを見ていた。腕にこもるその力と目に浮かんだ涙から、心底悔しいという感情がありありと伝わってくる。
「最初にお話を伺った時から、なんとなく嫌な予感はしていましたが……」
すると聞こえてきたのは、クリス先輩とは打って変わって冷静な声音。透輝さんだ。
透輝さんは、今にも坪井さんに掴み掛かりかねない様子のクリス先輩を静かに制すと、自身はソファからすっと立ち上がった。俺はうまく回らない思考で「透輝さんなら冷静に話し合ってくれるかも」と思っていた。
「正直、馬鹿馬鹿しいとしか言えません。瑪瑙はうちの大事なボーカルで、代えのきく存在じゃないですから。それに、俺たちはルックスで売る気もさらさらないです。こんな条件を呑むくらいなら、デビューなんかこちらから願い下げだ」
しかし、そんなことはなかった。開口一番「馬鹿馬鹿しい」と坪井さんの計画を一蹴すると、俺を辞めさせることはもちろん、そこに新しいボーカリストを迎えてイケメンバンドとしてデビューするという提案にも、乗ることはできないと、坪井さんに向かってはっきりと言い放った。しかもそれだけじゃない。この四人でやれないのならメジャーデビューする気はないとまで言ったのだ。
「申し訳ないですが、この話はなかったことに——」
「透輝さん! ちょっと待ってください!」
坪井さんからの話を断ろうとしている透輝さんの腕を、俺は咄嗟に掴んだ。
どうしよう、何とかしなきゃ。皆が俺のために怒ってくれるのは嬉しい。けれども、ここで話が決裂してしまえばもう二度とメジャーデビューなんて大きなチャンスは掴めないかもしれない。俺のせいでそんなことになるのは絶対に駄目だ。
俺は透輝さんの腕を押さえながら、坪井さんに向かって食い下がった。
「ちょっと考える時間をくれませんか!?」
「おい瑪瑙、何を言って……」
「今のお話、ちゃんと検討しますから!」
俺の言葉に、透輝さんは「検討も何もない」とでも言わんばかりの顔をしていたが、申し訳ないけれどこの時ばかりは黙殺した。大事な決断だからこそ、みんな一度頭を冷やした方がいい。そう思ったから。
「じゃあ、二週間の期限を与えよう。それまでに返事が欲しい。それでいいかな?」
坪井さんがそう提案してくれたので、俺は食い気味にその条件を呑んだ。
二週間。よかった、これで一旦の猶予ができた。ほっと一安心したのと同時に、じわりと目頭が熱くなる。ああやばい、もう、無理かもしれない。
「ありがとうございます! それじゃ俺、用事があるので失礼します……!」
「おい、瑪瑙!」
俺は叫ぶように言うと、引き留めるメンバーの声すら置き去りにして応接室を飛び出していた。この時ばかりは、自分を呼び止める声も何も認識できなかった。とてもそんな余裕などなかったから。
勝手のわからないオフィスの廊下を、ただ闇雲に走る。ここがどこなのか、最初に入ってきたエントランスまでの道順がどうだったかなんて覚えていない。思い出そうともしていなかった。頭の中がぐちゃぐちゃで、何も考えられない。ただただ悔しさと虚しさで死にそうになっていた。こんな惨めな姿をこれ以上メンバーに見せたくなかった。
どのくらいの間、そうしていただろう。体力が底をついてきて、やむなく息を切らせながら立ち止まる。階段を駆け下りた気もするが、この事務所のオフィスビルはどの階も同じような構造になっているらしく、周囲を見てもここがどこなのかわからない。俺は本当に何をやっているんだろう。だが、それでも……何に代えても、あの場から逃げ出したかった。
とりあえず、こんなところをフラフラしていても仕方がないし……エレベーターで一階に降りよう。途方に暮れた気持ちでそう考える。あれから少し時間が経っているはずだし、メンバーと鉢合わせることはないと思う……多分。
そんなことを考えながらエレベーターを探していると、不意に背後から声をかけられて肩がびくついた。
「ねえ、きみ。神崎瑪瑙くん……だよね?」
慌てて振り返ると、そこには三十代前後と思わしき女性が立っていた。
白のブラウスにグレーのワイドパンツをスマートに着こなしていて、長い髪を後ろでアップにして纏めている。地味すぎず派手すぎないナチュラルメイクに、足元は黒いパンプス。大人の女性らしいオフィスカジュアルといった雰囲気で、よく似合っていると感じはしたが……まったく見覚えのない人だった。
「ああ、急にごめんね。私、ここの社員で、一ノ宮といいます。はい、これ名刺」
俺が怪訝な顔をしていることに気付いたのだろう。その人は懐から名刺入れを取り出すと、中からいちまい抜き取って俺に渡してくれた。名刺を受け取ってその文面を見てみると、確かに『音羽ミュージック プロデューサー 一ノ宮彩香』との表記が。
この人、ここのプロデューサー? さっきまで話していた坪井さんと同じ……。
肩書きだけで判断するのはよくないが、先程坪井さんから浴びせられた言葉の数々を思い出し、俺は思わず警戒してしまう。
しかし、俺のそんな反応に目の前の女性——一ノ宮さんは気を悪くした様子もなく、まるで悪戯の相談をするかのような表情と口調で俺に話しかけてきた。
「坪井さんから話は聞いてるよ。目をつけてるバンドがいるって。今後デビューさせるとしたら、どういう形で売り出すのか……もね。正直、納得いかなかったでしょう?」
「えっ……」
「『DIAMOND』はとても良いバンド。だからこそ、メジャーデビューのために君だけが抜けるだなんて間違ってる……私は、そう思う。君も、他のメンバーも、きっと同じ気持ちなんじゃない?」
さっそく核心を突いてきたその言葉に、俺はつい息を呑んだ。この人は坪井さんの同僚なのだろうか? 同じプロデューサーならそれもあり得なくはない。彼女の口ぶりはまるで坪井さんとの先程までのやりとりをすべて聞いていたかのようだった。それでいて、坪井さんよりも俺たちに寄り添った言葉をくれる。彼女の意図がわからず警戒を解くことができないでいる俺に、一ノ宮さんは続けた。
「私も同じ考えなのよ。夢とか絆とか、理想ばかり語っていてもこの業界においてはただの綺麗事でしかない、っていうのはわかってる。でもね……やっぱり、理想が現実に成り得るのだとしたら、それが一番だって思うよね?」
少し躊躇した後、俺は頷いた。
坪井さんが言ったことは、正しい。今のバンドにとって俺はお荷物で、実力不足。飛び抜けて高い歌唱力があるわけでもなければ、華のあるビジュアルを持ち合わせているわけでもない。今の俺は、ただ歌うことが好きな大学生——プロのアーティストなんか夢のまた夢な、平凡な人間だ。それを理解しているからこそ、俺は彼の言葉に何も言い返せなかったわけで……。
だけど、本当は俺だってそんなの納得できていない。クリス先輩と、透輝さんと、蛍と……皆で一緒にメジャーデビューできたらって、心の内ではそう思っていた。
その気持ちを、一ノ宮さんは見抜いていたのだろう。肯定の意を見せた俺を意外に感じた様子もなく、彼女は声をひそめてささやくように、言った。
「私だったら、君たち全員をメジャーに連れて行ける……って言ったら、どうする?」
「っ、それは……ど、どういうこと、ですか?」
一ノ宮さんから発されたあまりにも魅力的な一言に、俺は思わず喉を鳴らして食いついてしまった。
そんな俺に一ノ宮さんはくすりと笑みを漏らしながら、まるで内緒話でもするかのように俺の耳元にその唇を寄せた。大人の女性特有の、香水と化粧品の香り。その匂いが鼻腔を刺激して、俺は反射的に身を強張らせる。
俺の女性恐怖症のことなど知る由もない一ノ宮さんは、極度の緊張で動けなくなっている俺に、ハスキーな声で耳打ちをした。
「私なら、君たち全員をメジャーデビューさせるよう、坪井さんに駆け合うこともできる。ううん、何なら私自身でプロデュースしたっていいわ。もっとも、それが出来るかどうかは君次第ではあるけどね……?」
俺次第。
それって、どういう……。
至近距離に女性がいるせいか、頭が上手く回ってくれない。言葉もうまく出てこない。ただ今の自分は、ついさっき坪井さんにされたものよりもずっと良くない提案を彼女からされているのかもしれないと、予感めいたものを感じていた。
俺が何も言えないでいると、一ノ宮さんはふっと微笑んでから何事もなかったかのように身体を離す。そしていまだ冷や汗を流しながら固まっている俺に向かって、去り際にこう言った。
「君みたいな素朴な子、結構タイプなんだよね。ま、その気があるならいつでも連絡して。じゃあね」
✦✦✦
数時間後。
夜の帳が下りた街は、濡れたネオンの光が歩道に滲んでいた。俺はパーカーのフードを深くかぶり、スマートフォンの画面にに表示されたメッセージを何度も見返す。
——場所はここ。二十三時に。遅れないで。
指定されたのは、都心の片隅にある高層ビジネスホテル。一ノ宮さんから誘われるがまま、俺はそのうちの一部屋へと歩を進めていた。
歩けば歩くほど、膝ががくがくと震える。不安定な足音は自分のものだと思えない。息が浅い。胸が痛む。だけど、それでも俺は足を止めなかった。
今後のためだ。これくらい、大したことじゃない。心の中でそう繰り返しても、胃の奥の冷たい塊は少しも溶けてくれない。こんなことをしてはいけない、行ってはいけないのだと、理性ではわかっている。今ならまだ引き返せることも。しかし、そのたびに脳裏にはバンドメンバーの顔が浮かんだ。大好きなメンバーとまだ一緒にいたいと思えば思うほど、その理性を踏みにじるように歩幅を広げてしまう。ホテルの明かりが見えてきた頃には、手の震えはもう隠せなくなっていた。
自動ドアが開くと、暖房の湿った空気がふわりと肌に触れた。それだけで、背筋にぞわっと鳥肌が立つ。フロントを抜け、エレベーターへ乗り込む。鏡張りの壁に映った自分の顔は、血の気が引いていた。
――戻れ。今ならまだ。
――でも、戻ったら……デビューは。
エレベーターが目標階に到着し、音が鳴る。できるだけ平静を装いながら廊下を歩くが、自分の足音がやたらと響いて聞こえるような気がして、心臓の鼓動が不自然に鳴り止んでくれない。
そうしているうちに、一ノ宮さんから指定された部屋の前に着いた。ドアの前に立ち、ノックをする──つもりだったが、指先が動かない。
その瞬間、ドアが内側から開いた。
「来たんだ。えらいね、瑪瑙くん」
一ノ宮さんは、昼間のカッチリとした服装とは打って変わって、キャミソール一枚という寝間着のような姿で俺を出迎えた。一つに結い上げていた髪も今は下ろしており、その顔には柔らかい笑みをたたえている。
シャワーを浴びたのだろうか。シャンプーか何かの甘ったるい匂いが鼻腔を刺激し、くらりと眩暈がした。
「そんなに緊張しなくてもいいよ。大丈夫、優しくするから」
そう言って手首を軽く掴まれた瞬間、全身が硬直し、冷や汗がどっと溢れた。
抵抗できない。いや、……してはいけない。
部屋の中に連れ込まれ、ドアに鍵がかかる。呼吸が一気に乱れ、視界がじわりと滲んだ。怖くて堪らない。でも……悔しいけれど、今の俺にできることはこれ以外にない。
「もしかして、こういうの初めて? いいね、初心な男の子、結構好きだよ」
一ノ宮さんは俺をベッドの上まで誘い込むと、キャミソールの肩紐を緩めた。下着は身に付けていない。女性らしい白く柔らかそうな肢体が露わになり、豊かな胸が目の前に晒された。
美しく、極上の身体。きっと普通の男性であれば喜んで相手をするのだろう。しかし、俺にとってそれは非常に苦痛だった。
自分の体温が驚くほどに下がっているのがわかる。女性に触れるなんて——抱くなんて、やっぱり無理だ。今すぐに逃げ出したい衝動に駆られる。けれども、絶対に逃げてはいけない。せっかく一ノ宮さんが俺を気に入ってくれて、チャンスをくれたんだ。たった一度だけ、彼女を満足させることができれば、それでいい。それだけだ。怖くない。怖くない怖くない怖くない!
「……っ、は……っ……!」
喉が閉じる。肩が震える。声などとうに出せなくなっていた。
それでも、震える腕を目の前の女体に向かって伸ばす。
やらなきゃ。俺がやらないと、バンドは——。
「……っ」
指先が、白い肌に触れた。
生ぬるくて、柔らかい感触。——女の人の、身体。
ぞわぞわと、これまでにないほどの悪寒が全身を駆け抜ける。瞬間、胸の奥底で古い痛みが甦った。
「っ、ご、ごめんなさい……!」
「ちょっと、瑪瑙くん!?」
俺は思わず逃げ出していた。
背後から一ノ宮さんの声が聞こえたが、振り返れない。ドアを開け、廊下を走って、階段を駆け降りる。昼間、一ノ宮さんに会う直前にも同じことをした。俺は逃げてばかりだ。逃げることしかできない、いくじなしだ。
壮絶な不快感に耐えながらただがむしゃらに走り、ホテルを飛び出す。周囲からの視線なんか気にしていられなかった。
――それからの記憶は、ほとんど曖昧だ。
ただ、外の冷たい空気に触れた途端、壊れたかのように涙がどっと溢れた。拭っても拭ってもその涙は止まってくれなくて、両の足がすくむほどに震えていたことだけは覚えている。気が付けば俺は、駅のトイレの中で、便器に向かってひたすらに胃の中のものを吐き続けていた。
吐いても吐いても気持ち悪いのが消えてくれない。胃の中が空っぽになって胃液しか出なくなっても、まだ気持ち悪い。人気もまばらな駅のトイレで、俺はひとり泣きながら吐き続けた。
朝になった時には、自宅にいた。
どうやって帰ってきたのかも、それが何時頃だったのかも曖昧だ。
ただ、玄関のドアを閉めた瞬間、全身の力が抜けて、その場に座り込んだことだけは妙に鮮明だった。
震える手でスマホを取り出す。メッセージアプリをタップして開くと、未読の通知がいくつも溜まっていた。それを確認する勇気なんてなくて、けれども何も言わないままではいられなくて、俺は深く考えることを放棄したまま、やっとのことでたった一行だけを打ち込んだ。
『バンドやめます』
送信ボタンを押した瞬間、指先が冷たくなった。
すぐにスマホの電源を切り、布団を頭から被る。もう誰の声も聞きたくなかった。胸の中は後悔と自責の気持ちでいっぱいになっていて、だからこれ以上何かをして感情を揺さぶられたくもなかった。
ごめん。みんな、本当にごめん。
俺、できなかった。
心の中でそう繰り返すが、どれだけ謝ったとしても、取り返しなんてつくわけがない。俺は、自らの手で全てを台無しにしてしまったんだ。
皆の足を引っ張ってしまっただけでなく、たった一度のチャンスを自ら潰してしまった。
こんな俺にはもう、皆と一緒にバンドを続ける資格なんて——ない。
✦✦✦
俺の父親は、酒に酔うとひどく粗暴になる人だった。
仕事のストレスからか、家ではほとんど酒を飲んで過ごしている父親。そんな父親は、己の妻である母親に対してはもちろん、息子である俺にも暴力を振るうことがあった。
最初のうちこそ、アルコールで気が大きくなるとつい手が出てしまう程度だった。しかしそれは徐々にエスカレートしていき、俺が小学校中学年に上がる頃には、すっかり暴力が日常となっていた。
母親だけは、俺を守ってくれていた。
何故あの父親のような男と結婚して、これだけの仕打ちを受けても傍を離れようとしなかったのか、俺にはわからない。聞いてみたこともない。ただ何故、と思うくらい、母親は俺を庇って暴力の矛先になることが多かったし、酷い時はそれによる怪我のせいで入院までしていた。それでも母親は父親のことが好きだったのだろうか。確かにお酒が入っていない時は優しくしてくれることもあったけれど……俺は、やっぱり大嫌いだ。
だから、あの時も怖くてたまらなかった。
〝それ〟が起こったのは、俺が中学一年生になった年の冬だった。
その日の父親は普段より一層機嫌が悪く、尋常ではない量の酒を飲んでいたように見えた。
そういう時の対処法は、専ら自室に籠ること。酔っている父親に話しかけて、ろくな目に遭ったことがない。これまでの経験から既にそれを学んでいたから、酒を飲んでいるのを察知するなり絡まれる前に自室に逃げる。まだ子供だった俺の常套手段だった。母親のことを気にかける余裕などなくて、いつもそそくさと一人で逃げていたのだ。お酒さえ入らなければ普通の父親なのになあ、なんて思いながら。しかしひとたびお酒が入ってしまえば何が父親の逆鱗に触れるか分からないから、できるだけ関わりたくもなくて。
だから、その瞬間まで俺は知らなかった。
あんなことになっていただなんて。
自室に籠ってじっと物音を立てずにいたら、突如ドアが壊れそうなほど大きく音を立てて開き、びくりと肩を揺らす。そして、音のした方に視線を向けた俺が見たものは。
父親に髪を掴まれ泣いている母親と。
片手に包丁を握りしめた父親の姿だった。
「ひっ……!」
部屋の明かりを受けてぎらりと光る刃先に、思わず引きつった声が漏れる。
あれは、台所にあるものだ。母親が料理をする時によく使っていたのを覚えている。それを父親が持ち出したのだろうか。幸い包丁はまだ綺麗で、血などで汚れた様子はない。だが、父親のあの状態ではいつその刃先を母親に向けるかわかったものではない。
それまでの父親は、酔って暴力を振るうことはあっても、それはあくまで気が大きくなった末につい手が出てしまう、といったものだった。年々その傾向が行き過ぎたものになっていたとはえ、酔いが覚めれば俺にも母親にも謝ってくれたし、何よりいくら泥酔していたとしても家族に凶器を向けることなどこれまで一度もなかったのだ。
そんな父親だから、心のどこかでは信じていた。母親はそうだっただろうし、父親のことが嫌いだった俺ですら、そう思っていた。あれは一時的なもので、明日になればいつもの優しい父親に戻っているのだと。
——その考えが間違いだったのだと、この後俺は死ぬほど思い知らされることになる。
「しろ。こいつと」
怯えている俺を指して、父親が母親にそう言った。
無理です、それだけは、と泣きながら拒否し続ける母親をよそに、常識の中で生きてきた俺はその言葉の意味が理解することができずにいた。しろって、何をだ。この人は、俺と母親に何をさせるつもりなんだ。
母親はひどく抵抗している。気が弱くて父に従順な母親が、こんなにも抵抗する姿を俺は初めて見た。そんな母親の様子に、逃げたほうがいいのかもしれない、と感じるも、父親が脅すようにこちらに包丁を向ければ本能的に恐怖が勝ってしまい身体を動かすことができなかった。ただの脅しならまだいい。だがこの男は、酒が入ると本当に何をしでかすかわからないのだ。そう思うと、とても逆らうことはできなくて。大柄な父親相手では、俺も母親も力で敵うわけもなくて。
……そして。
「瑪瑙、ごめん。ごめんね……」
そう繰り返しながら、俺の上に乗り上げ腰を振る母親の姿。
助けて、の一声も出すことができなかった。
怖くてたまらなかった。母親の背後には包丁を持った父親が立っていて、あまりにも恐ろしくて反抗ができない。きっと母親も同じだっただろう。何が起こっているのか、頭ではわかっているのに心が理解してくれない。しかし俺の目の前で繰り広げられている行為は、紛れもない現実だった。
「————」
声が出ない。なのに、涙が止まらない。
身体は恐怖で冷え切っているはずなのに、母親の柔らかくて温かい肌がすごく近くに感じて、それが余計に感覚を鈍らせる。だけど、それが何より怖い。幼い頃、抱きしめてもらえるたび心から安心できたその感触が、このときは酷くおぞましいものに感じていた。
✦✦✦
「———ッ!」
声にならない叫び声を上げたところで、目が覚めた。
息が上がっている。女性恐怖症の症状が出たときによく起こる過呼吸だった。
現実じゃない、大丈夫だ、そう自分に言い聞かせながら少しずつ呼吸を整える。汗がじっとりと服に吸い付いていて、気持ちが悪かった。
……嫌な夢を見た。
忘れたくても忘れることのできない、忌まわしい記憶。あの日から、俺は女性に触れることができなくなった。
あの後、いつの間にか俺は病院のベッドにいた。誰がどうやって運んだのかわからないが、あの状態の父親が救急車など呼ぶわけない。きっと母親がどうにかしたか、物音を聞きつけた近所の人が通報したのだと思う。
病院に来てからの俺は、しばらく気が狂っていたらしい。覚えていない。診察や介助のために触れるだけでもパニックを起こして手が付けられなかった、とだけ後から聞いた。
父親にも母親にも、あれから一度も会っていない。
父親はあのあとすぐに軽犯罪を起こして逮捕。一度は執行猶予がついたがその後同様のことを繰り返したそうで、塀の中に入れられた。今はどうしているのか知らない。知りたくもない。
母親はあの一件で精神を病んでしまい、今も入院しているらしい。ただ、俺には会いたくないと言っているそうだ。俺も……母親は何も悪くないと理解していても、いまだに会う気になれないでいる。
これらの話は、いずれも祖父母から聞いたことだった。退院後から俺は母方の祖父母の家に預けられ、高校卒業まで面倒を見てもらった。預けられた当初の俺は祖母にすら強く拒否反応を示していたので、きっと苦労しただろう。実の娘である母親に俺がした所業だって知っていたはず。それでも祖父母は俺を見捨てることはせず、根気強く接してくれた。そのお陰で、今は祖母に対してだけは症状があまり出なくなった。
俺は恵まれていると思う。
怖いことばっかりじゃない。いつだって俺を守ってくれる人はいた。その人たちのお陰で、俺は今も生かされている。
どれだけ手厚いケアを受けても、決して消え去ってはくれない過去のトラウマ。あんなことはもう起こらないと頭では理解しているのに、身体はどうしてもそれを拒絶する。
俺はただ普通の生活がしたいだけだった。だが、この症状のせいでそれすらままならない。こんな不完全な自分が。ただ忘れてしまえばいいだけで、だからこそ自分の問題でしかないのに、そうすることができない自分が。
——嫌い。嫌いだ。
俺の体質は、いつかきっとメンバーに迷惑をかけていたと思う。……いや、既にかけていただろう。皆が優しいから、それに甘えてしまっていただけ。
だからきっと、今回のことがなくたって、遅かれ早かれこうなっていたんだ。
俺が未熟なのが悪い。俺が——皆に見合うほどの人間でいられなかったのが、駄目だったんだ。
✦✦✦
それからの毎日は、驚くほど静かだった。
大学にも行っていないし、部屋から出てもいない。バイトも無断欠勤しているし、誰とも連絡を取っていない。あの後、メッセージを送ってすぐ、バンドのグループトークからも抜けた。メンバーの連絡先もすべてブロックした。
カーテンを閉め切った部屋で、時間だけが無意味に過ぎていく。昼なのか夜なのかも分からないまま眠り、目が覚めては天井を眺める。そんな生活を繰り返しているうちに、約束の二週間なんて、いつの間にかとうに過ぎてしまっていた。
皆が坪井さんにどう返事をしたのかは知らない。知りたくもない。だけど——きっと、俺がいなくなったことで良い方向に進んでくれていたらいい、とは思う。
これで良かったんだ。
メンバーの皆と比べて、俺は何もかもが足りていない。これは紛れもない事実だ。それなのに皆と一緒にデビューしたいと、身の丈に合わない高望みをしてしまった。そんな中で、唯一与えられたチャンスすらも棒に振った。これはその結果でしかない。俺みたいな平凡な人間には、皆とずっと音楽をやっていきたいだなんて、願うだけ無駄だった。最初から全部、夢物語でしかなかったんだ。ただ、それだけの話。
もう何も考えたくない。
ずっと引きこもっているわけにはいかない。大学にだって行かなければならない。バンドができなくなったというだけで、自暴自棄になって全てを投げ出してはいけないと、頭ではわかっているのに……俺の頭も身体も、あの日からまったく動かなくなって、何もできなくなってしまった。
カーテンを閉め切ったままの薄暗い部屋。ベッドの上で緩慢に寝返りをうつと、適当に投げ出したままのスマートフォンが目に入る。あれから——メンバーに脱退の意思を告げて連絡を絶ってから、すぐに電源をオフにした。責められるのも、慰められるのも、怖かったから。それからずっと、電源を落としたままでいる。
何度か、家のインターホンが鳴った時があった。けれどもやはり誰とも話す気になれず全て居留守を使ったので、誰が訪ねてきていたのかは結局わからない。もしかしたらメンバーの誰かだったかもしれない。だけど、彼らと話をする資格すら、今の俺にはない。
——やっぱり、俺は駄目だったんだ。
全員でデビューできるはずだったチャンスを、自分の弱さで棒に振った。その事実だけが、ずっとずっと胸の奥に重く沈んでいた。
DIAMONDのボーカルだった『神崎瑪瑙』は、いなくなった。……いいや、最初からいなかった。そうあってほしいとさえ思った。
俺はあのバンドが大好きだ。それはずっと変わらない。だからこそ……俺みたいな出来損ないのボーカルがいたことなんて、忘れてほしい。どうか忘れてくれ——。
——カタン。
ふと、静かな部屋の中で、小さく音がした。何かと思い視線を向けた先に、小さなラックに積まれたCDがあった。
部屋に籠るようになってからろく掃除もしていなかったから、埃が積もったのだろうか。無意識にそれを手に取ると、指先に伝わる感触がやけに現実的で、胸の奥がざわついた。
ケースを開いて、中のディスクを取り出す。その一連の動作が、思っていた以上に辛かった。それでも俺は何かに導かれるかのように、ディスクをプレイヤーに入れて、再生ボタンを押す。
流れてきたのは、俺たちの音だった。
俺が大好きな『DIAMOND』の曲。先日のワンマンライブで、俺たちが出したミニアルバム。
最初の一音を聴いた瞬間、喉の奥が詰まる。
反射的に息を止めてしまって、うまく呼吸ができなくなる。スピーカー越しに響く自分の声は、今の俺よりずっと前向きで、迷いがなくて、何も知らなかった頃のものだった。あの頃の俺は、この先にある未来を疑いもせず信じていて、ただ歌うことだけを選び、真摯にそれだけを考えていたのだと思う。
……この時は楽しかったなぁ。
ついこの間のことなのに、随分と昔のように感じる。
あの日が、俺の人生の中で一番幸せな日だった。
皆で曲を作って、練習もたくさんして、ワンマンも大成功して……そして、ようやくメンバーの皆に「好きだ」って伝えられた、特別な日。その日に歌った曲の数々が詰まっている、大切なアルバム。
重々しい空気の部屋に場違いなほど明るいサウンド。スピーカー越しに響く、自分の声。何度も、何度も歌ってきた曲。
自然と、口が動いた。小さく、掠れた声で歌をなぞる。
その瞬間、胸の奥が一気に熱くなった。
俺は、このバンドで歌うのが好きだった。ステージの上で、皆の音に支えられながら声を出す時間が、心の底から好きだった。それなのに、もう二度とそれが叶わないのだと思うと、どうしようもなく悔しくて、情けなくて、苦しい。
大好きな居場所だった。四人で音を重ねる時間が、何よりも幸せだった。でも……もう戻れない。
そう思った途端、視界が滲んで、何も見えなくなる。
それでも歌うのをやめたくなくて、俺は泣きながら一人で歌った。涙が頬を伝って落ちても、拭うことすらせず、大好きな皆と作ってきた大切な曲を、ただ惨めに歌い続けた。
俺はもう二度と、皆と同じステージに立つことはできないけれど。
せめてこの歌だけは、誰にも奪われない場所に、そっと仕舞い込んでおきたい。
✦✦✦
——ピンポーン。
不意に鳴り響いたインターホンの音に、心臓が大きく跳ねる。
最初は、無視しようとした。今さら誰にも会いたくなかったから。
それでも、少し間を置いてもう一度インターホンが鳴る。そして、まるで俺の逃げ道を塞ぐように、扉越しによく聞き慣れた声が聞こえた。
「瑪瑙、いるんだろう?」
……透輝さん、だ。
突然いなくなったこと、怒っているだろうか。いや、怒っているに決まっている。あんなに良くしてもらったのに、恩を仇で返すようなことをした上に、音信不通になったのだから……。
ちゃんと謝罪したい気持ちはある。でも、会うわけにはいかない。会えない。たとえメンバーが許してくれたとしても、俺は自分を許すことができないから。
そう思って居留守を決め込もうと思った矢先、また外から声をかけられた。
「歌が、外まで聞こえてたよ」
今度はクリス先輩の声だった。
彼のその言葉に、思わずもう歌っていないはずの己の口を塞ぐ。
……聞かれていた。迂闊だった。そんなに大きな声で歌っていたつもりはなかったけれど、防音環境もないごく普通のマンション、外まで聞こえてしまっていたとしても不思議ではなかった。
「……お願い。少しでいいから、話をさせてください」
……蛍。
今にも泣きそうなその声にも、心が揺れてしまった。
皆、なんで俺なんかにこんなに構うんだ。ワンマンライブも成功させたし、もういいじゃないか。そもそもこのバンドはメンバーの入れ替わりが激しく、特にボーカルは頻繁に変わったと聞いていた。だからこそ、俺がいなくなったくらいどうってことないし、特に歴が長い透輝さんにとっては「いつものこと」程度だろうに。
むしろ厄介者の俺が自ら身を引いたのだから、わざわざ家に訪ねたりして時間を割かずとも、さっさと新しいボーカルを探せばいい。それこそ、坪井さんが言っていた新人シンガーとか……。
中にいることがバレていても、頑として俺は居留守を続ける。こうしていれば、いつかは諦めて帰ってくれるはず。そうやって逃げ続ける自分にも嫌気がさしたが、それから何十分、何時間と経過しても、ドアの前の気配が消えることはなかった。
観念して、重たい体を引きずるように玄関へ向き、重苦しい気持ちのままゆっくりとドアを開ける。
「瑪瑙」
目の前に立っていたのは、透輝さんだった。その後ろに、クリス先輩と、蛍。
三人の姿を見た瞬間、現実が一気に押し寄せてきた。
何週間も外に出ず、ろくに食事も睡眠もとっていない俺は相当にみすぼらしい外見をしているだろう。しかしそれ以上に、三人とも俺が最後に見た時よりも疲れた顔をしているような気がして、そのことにちくりと胸が痛んだ。
「……やっと出てきてくれたな」
透輝さんがそう言って、静かに息を吐く。その声音に怒りの感情は見られなかったが、俺は反射的に視線を下に向け俯いた。怖くて、顔を見ることができない。
「……何しに来たんですか」
逃げ出したい気持ちを堪えて、ようやく掠れた声でそう口にする。すると視界の隅に映る透輝さんの靴が一歩ぶん手前に動き、そして彼は俺にある事実を告げた。
「あの話は断った。メジャーの話も、全部な」
俺は一瞬、言葉の意味が理解できなくて、思わず顔を上げてしまった。
「なんでそんなことしたんですか!?」
先程まで対話すら拒絶していたことも忘れて、透輝さんに掴みかかる。
久しぶりに大きな声を出した気がする。そのせいか喉がうまく開かなくて、痰の混じったような嗄れた声しか出ない。それでも俺は食ってかかるのをやめることができなかった。
「俺がバンドやめさえすれば、全部丸く収まる話だったじゃないですか! それなのに、なんで……っ!」
俺のせいで皆のチャンスがなくなるのなら、俺がいなくなればいい。
坪井さんに言われなくたって、最初からわかっていたことだった。俺は皆に釣り合っていない。実力も、ルックスも、メンバーの皆と同等のレベルになんか到底なれなくて、常に足を引っ張っている。俺だけじゃなくて、内心では誰もがそう思っていたことだろう。皆、優しいから口に出さなかっただけ。それを坪井さんに指摘された、それだけだ。
しかし、何故断ったのかと詰め寄った俺に対して、透輝さんは動揺することなく、それがさも当然であるかのような口調で、一言だけ答えた。
「瑪瑙がいないなら、意味がないからだ」
そのたった一言に、どうしようもなく心が揺さぶられる。
どうしてこの人は、俺なんかにここまで言ってくれるのか。歌声が気に入ったから、恋人だから。だが本当にそれだけで、メジャーの夢を捨ててまで俺にバンドに戻ってくれだなんて、言えてたまるものか。
透輝さんの実力は本物だ、それこそプロにも通用するレベルで。だからこそ、俺なんかに構わなければとっくにミュージシャンとして大成できていたはずで、だけど俺がその邪魔をしてしまったから、悔しくて申し訳なくて、つらい。
だから自分から身を引いたのに、それでも透輝さんは頭を下げてまで俺に言うのだ。
「頼む、戻ってきてくれ」
その言葉が、胸の奥に突き刺さった。
どうしてだ。
頼む、だなんて。俺はそんなことを頼まれるほどの存在じゃないのに。こんなことになっても俺を見捨てないでくれる彼の言葉に、つい甘えたくなってしまう。透輝さんはずっと俺を可愛がってくれていたし、いつも自分に厳しいくせに俺にはことさら優しかった。だからこそ、甘えてはいけない。駄目だ、と自分自身に言い聞かせながら、俺は首を横に振った。
「できません。……俺、全部壊したから」
喉がひりついて、うまく言葉が出てこない。
頭が追いつかない。けれども、心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。俺には、戻れない理由があるから。
「メジャーの道も、バンドの未来も、全部……」
彼らに軽蔑されるのは……怖い。けれども自責の念に耐えきれなくて、俺は一ノ宮さんとのことを全部話した。
デビューのために枕をしようとした、なんてことがメンバーに知られれば、こうして優しい言葉をかけてくれた彼らも今度こそ俺を見限るだろう。それでも、こうなってしまった以上は話すほかないと思った。今ならまだ、坪井さんにもう一度話をすれば三人だけでデビューさせてもらえるかもしれない。こんな最低な行為に手を染めてまでバンドに縋り付こうとした俺に、皆の隣にいる資格なんてない。もう歌は歌えない。俺にはもう、二度と。
全てを話し終えた俺を、三人は唖然とした表情で見つめていた。覚悟はしていてもそんな目で見られるのがつらくなってしまって、俺はぎゅっと唇を噛む。
「瑪瑙」
名前を呼ばれて、とんと肩に手が置かれる。恐る恐る顔を上げると、クリス先輩が目の前に来ていた。その顔は、俺には怒っているように見えた。
ごめんなさい、と口から言葉が漏れる。今の俺にはそれしか言うことができなかった。怒って当然だ。こんなことをしようとした挙句に失敗して、責められないほうがおかしい。何より、今後の一ノ宮さんの出方次第ではそれこそメジャーデビューのチャンスがゼロになってしまうかもしれないのだから……。
「……あのね、よく聞いてほしい」
しかし、俺の予想に反してクリス先輩の声音は落ち着いたものだった。
「瑪瑙がいないDIAMONDなんて、俺たちはいらない。君の存在を失うくらいなら、メジャーデビューなんて一生できなくていいって、ここにいる全員が本気でそう思ってる」
怒っている。……いや、違う。普段の穏やかさが消え去るほど真剣に、俺と向き合おうとしてくれている。
クリス先輩は、誰よりも優しい人だ。最初に出会った時からずっと、地味で平凡でなんの才能もない俺に構ってくれて、気にかけてくれて、そして好きだとまで言ってくれた。俺が悩んでいたらいつも真っ先に気が付いて、俺が一番欲しい言葉をかけてくれた。そのくらい優しい人だから、俺が最低なことをしたと知った上でも、真正面から向き合ってくれる。
「だから……たとえ俺たちのためであっても、二度とそんなことはしないと約束してほしい」
責めるでもなく、諭すでもない声。それが余計に辛くて、俺は涙を流していた。
クリス先輩、俺のこと叱ってくれた。前に約束したからだ。間違えた時はちゃんと叱ってくれって、俺が言ったから。あの時、クリス先輩は困ったような顔をしながらも「必ず約束する」と言ってくれた。あんな何気ない会話を、先輩は……覚えていてくれた。
嬉しくて、でも胸が苦しい。自分が情けなくて、気付けば手のひらに爪が食い込むほど固く握りしめていた。その震える手を、誰かがぎゅっと掴む。
「先輩」
俺より小さくて、だけどあたたかい手。蛍だった。
蛍は唇を噛みしめたまま、ぽつりと言った。
「先輩が悩んでたこと、気付けなくてごめんなさい。もう絶対にこんな思いはさせないから……お願い。一緒にいてください」
俺が頑なに拒んでも、誰一人として引き下がる素振りを見せない。
どうして皆が俺のためにここまでしてくれるのかわからない。ボーカルとしても未熟だし、いくらお付き合いしているからって、恋人なんかそれこそ他に探せばいくらでも相手がいるじゃないか。それなのに、どうして?
「……俺、チャンス潰したんですよ」
俺のせいで、メジャーデビューの夢は消えてしまった。たとえメンバーが許してくれたとしても、それは紛れもない事実だ。俺はその事実に耐えられない。だから、戻ることはできない。
震える声でそう告げると、透輝さんはなんだそんなこと、とでも言うようにからりと笑って言った。
「チャンスなら、また作ればいいだろ。いくらでもな」
何度だって、掴んでみせる。
その言葉を聞いた瞬間、堪えていたものが一気に溢れ出して、何も言えなくなった。
俺はもう立っていられなくなって、ただその場で俯いた。涙が落ちるのを、止めることはできなかった。
「……もう一度……」
このバンドで、歌ってもいいですか。
俺の小さな問いに、一度と言わず何度でも、と返してくれる透輝さん。微笑んで頭を撫でてくれるクリス先輩も、泣きながら抱きついてくれる蛍も。
大好きだ。やっぱり、大好き。
実力が見合っていないのは、事実。そんな俺に皆が甘く接してくれていることも、きっと事実。
だから、これからもっともっと努力して、皆に見合う自分になろう。
大好きだから。大好きな皆と、ずっと一緒にバンドがやりたいから。
今すぐには無理かもしれない。それでも、どれだけ時間がかかったって、俺を見限らなかった皆の覚悟に恥じないくらい最高のボーカリストになってみせる。
心の中でそっと決意した想い。それは紛れもなく、俺の覚悟だった。
✦✦✦
久しぶりのライブは、なんだかとても目新しく感じた。
いつもお世話になっている、キャパ百五十人程度のライブハウス。観に来てくれるお客さんの面々も、見知ったものだ。メジャーのバンドがライブするような大きな会場ではないし、飛ぶ鳥を落とす勢いで新規ファンを獲得しているわけでもないけれど……やっぱり、俺はこの場所で歌うのが好きだし、俺たちの音楽を楽しそうに聴いてくれる人達のことが好きだ。皆の演奏に合わせて歌っていると、なんだか心の中の霧が晴れたかのようにすっきりとしているのを感じた。ステージから見える景色もキラキラと輝いている。今まで見てきたものと何ら変わらないはずなのに、不思議とそれは何よりも尊いものに思えた。
「瑪瑙くん」
ライブを終えて、ドリンクカウンターで飲み物を交換していると、ふいに背後から名前を呼ばれた。
振り返ると、そこにいたのは——なんと、一ノ宮さんだった。
「あ……」
「探してたんだよ。あれから連絡取れなくなっちゃったから」
あの時のことを思い出してしまい反射的に萎縮した俺に対して、一ノ宮さんはまったく意に介していないかのような、普段通りの笑顔を浮かべている。
久しぶりだね。そう言って、彼女は親しい友人のようにこちらに歩み寄ってきた。
それから、耳元でそっと告げられたのは、想像していたよりもずっと軽い言葉だった。
「この間のこと、別にいいよ。若い子にはよくあることだし」
その言い方が、逆に背筋を冷やす。
不義理を働こうとしたのは、他ならぬ俺自身だ。一ノ宮さんは最初から選択肢を与えてくれていた。その上で、彼女の誘いに乗ったのは俺だから。今回のことを一ノ宮さんが『なかったこと』にしようとしているのは想定外だったけれど、それでも……彼女にその気がなくなって、俺の中でこの事実は消えない。
固い表情を隠すことができないでいる俺に、一ノ宮さんは畳み掛けるように言う。
「ただ──全員でのデビュープランは、今日で白紙ね」
笑顔のまま、簡潔に彼女はそう告げた。
ぐ、と息が詰まる。わかっていたことだ。あんなことをしてしまって、その上で今さら俺の我儘がまかり通るわけもない。当たり前だ。透輝さんたちの励ましもあって、それはとっくに諦めていたことではあったが、やはり面と向かって告げられると心にきた。俺が最後まで耐えていれば結末は違ったのではないかと、そう思ってしまう。
「業界は甘くないし、約束を守れない子にチャンスは与えられない。実力で掴めるなら、掴んでみなよ」
——でも、二度とあんなことはしない。約束したから。俺のために怒ってくれたクリス先輩のために。俺のために泣いてくれた蛍のために。俺がいなければ意味がないと言ってくれた透輝さんのために。……そして、俺自身のために。
俺は震える唇を開いて、彼女に告げた。
「……約束を守れなかったことは、申し訳ないと思っています」
心臓がばくばくと音を立てているのがわかる。怖い。ただでさえ大人の女性が相手であるというだけでも恐ろしいのに、いま目の前にいるのは一度は身体の関係を持とうとした女性なのだ。一刻も早くこの場から逃げ出したい、というのが本音でもあった。……けれど、そうやって逃げてばかりでは、今までの俺と何も変わらないから。
「ちなみにだけど、君だけならデビューさせてあげる……って言ったら、どうする?」
一ノ宮さんからの問いに、俺は間髪入れずに首を横に振る。
そして溢れそうになる涙を堪えながら顔を上げ、一ノ宮さんをまっすぐ見据えた。
「お断りします。もう、二度とあんなことはしないって誓ったから。あなたの言う通り、今度はちゃんと……実力で、掴んでみせます」
俺のその言葉を受けた一ノ宮さんは「へえ」と面白そうにこちらを見返してきた。その意図の読めない視線に内心びくつきながらも、俺は彼女と目を合わせ続ける。
お互いに少しの間そうしていたが、やがて一ノ宮さんは目を伏せるようにして俺から目線を逸らし、肩を竦めた。
「期待してたんだけどなぁ、残念。まあ、仕方ないか」
そう言うと、あっさりと俺に背を向けて歩き出す。枕未遂のことで俺を強請るでもなく、これっきりで全て終わり、といった態度だった。そんな一ノ宮さんの様子に、きっと彼女とはもう二度と会うことはないのだろうと、なんとなくそう思った。
なんだか淡白だ。音楽業界の人は、皆こんな感じなのだろうか。
見込みのあるアーティストには目をかけて、それ以外は切り捨てる。売れなければ意味がなくて、逆に売れるのであればそれまで積み上げてきたもの全てを崩してでもその通りにしなければならない。なぜなら、売れなければ生き残れないから。何をするにしても、まず売れることが大前提だから。
これを理不尽だとか、嬉しくないことだと感じてしまう俺は……やっぱり、メジャーに行くにはまだ早かったのだと思う。
そんなことを考えながらその場に立ち尽くしていた俺の方を、一ノ宮さんは最後に一度だけ振り返った。
「ああでも、今日の歌はわりと良かったと思うよ」
そう言い残してから、彼女はじゃあねと軽く手を振り、ライブハウスを去って行った。
✦✦✦
――三年後。
俺たちはあの頃と相変わらず、インディーズバンドとしてライブ活動を続けている。
あれから俺たちメンバーは進級や就職を迎えたりして、それぞれ環境が変わった。俺も就職して社会人になった。それでも『DIAMOND』のメンバーは入れ替わることはなく、今でもあの頃と同じメンバーで活動を続けられている。些細なことかもしれないけれど、俺はそれを奇跡のように感じているし、何よりも嬉しく思っている。
今夜は、長年お世話になっているライブハウスで何度目かのワンマンライブだった。
客席を埋め尽くす光と歓声。スポットライトの中で歌うこの瞬間が、やっぱり何よりも好きだと心から思う。
あれからもう数え切れないほどの曲を作って、覚えていられないくらいたくさん練習して、ライブで披露してきた。上手くいかなくて悔しい思いや、努力が実らなくて歯痒い思いだって、何度も何度もしてきた。
決して、良い思い出だけとは言えない。それでも……新しい曲も、懐かしい曲も、メンバーと作り上げた全てが俺の宝物だ。
所詮アマチュアだと言われればそれまでかもしれない。けれども、大好きなメンバーと共に作り上げて、ファンの皆とひとつになれるこの空間は、何にも代え難い俺の財産だ。
今日のワンマンライブはバンド史上最高動員を記録し、大成功のうちに終わった。
俺たちの音楽が洗練されているのがわかる。少しずつ集客も増えてきている。メジャーに行けなくたって、皆が羨むような大スターになれなくなって、大好きなメンバーと一緒にライブができるのなら、それでもいい。いや、それも悪くないと、今なら心から思えるんだ。
アンコールまで終わったあとの楽屋は、妙に静かだった。さっきまであれだけ大きな音に包まれていたのに、今は余韻だけが残っている。誰もすぐには口を開かなかった。けれど、その沈黙は気まずいものではなく、ただそれぞれが同じ余韻に浸っているだけだとわかる。
「……終わったな」
透輝さんがぽつりと言う。
「はい」
自分の声が、まだ少し震えているのがわかった。ステージの上ではあんなに堂々としていられたのに、終わった途端に現実に引き戻されたみたいだ。それでも、まだ胸の奥がじんわりと熱い。
「どうだった?」
クリス先輩が優しく尋ねてくる。
どうだった、なんて……そんなの、決まっている。
「……すごく、楽しかったです」
言葉にした瞬間、涙が出そうになって慌てて俯く。
「皆の音、ちゃんと聴こえてました。クリス先輩のギターも、透輝さんのベースも、蛍のドラムも……全部。ああ、俺、このバンドで歌ってるんだなって、改めて実感して……」
言いながら、自分でもおかしくなる。当たり前のことなのに、どうしてこんなに特別に感じるんだろう。どうして泣くほど嬉しいんだろう。
「お客さんの反応も良かったですよね!」
蛍がこちらに寄ってきて、珍しく弾んだ声で言う。
「ああ。特に新曲のところ、手応えがあったな。瑪瑙の声が一番伸びてた」
透輝さんのその一言に、胸がとくんと跳ねる。
「そ、そんなこと……」
「あるよ」
間髪入れずに言い切られて、言葉が詰まった。
「今日のライブ、引っ張ってたのは間違いなく瑪瑙だった」
透輝さんから真っ直ぐすぎる言葉を向けられて、つい頬が緩みそうになるのを必死に堪える。認められるほど、自分がそれに見合っているのか分からなくなる。けれど、そんな俺を認めてくれた皆のことは、信じているから……今は俺も、きっと努力は実っているはずだって、自分を信じることができている。
「……俺、まだ全然です」
それでもやっぱり、足りない部分だってまだまだ多いと感じているのだけれど。
俺が苦笑しながら答えると、隣にいた蛍がじっとこちらを見つめてくる。
「神崎先輩は、自分で思ってるよりずっとすごいですよ」
「……やめろよな、そういうの……」
照れ隠しのつもりで言ったのに、声が掠れてしまう。そんな俺の背中を、蛍はとんと撫でるように叩いた。そんな何気ない励ましに、心臓が高鳴った。
蛍のやつ、この三年ですっかり格好よくなっちゃって。いや、顔は相変わらずずっと可愛いままなんだけど、なんて言うんだろう。……俺の甘やかし方が様になってきた、っていうか。
クリス先輩だって、透輝さんだって同じだ。元から俺に甘いところが多かったけれど、最近は特に甘い。俺の努力を正当に認めてくれているのは勿論わかっている。だが、恋人としての欲目も少なからずあるだろう。そうに決まっている。もしそうじゃなかったら、俺……今なら皆の横に並んでいてもいいんだって、つけ上がってしまいそうだから。
ドキドキしながら俯いている俺の頭を撫でてから、透輝さんがフォローをするように言う。
「今日の手応えは偶然じゃない。俺はそう確信してる。今後の活動で、ファンに対してもそれを証明していかないといけないな」
透輝さんのその言葉に、自然と背筋が伸びた。
そうだ。これで終わりじゃない。むしろ、ここからなんだ。
あれから幾度となくライブをしてきた。それでも色褪せることのない高揚感。何度だって体験したい、特別な時間。ファンの皆にもこの感触を共有し続けていてほしいと、俺は思う。だからこそ、これからもこのメンバーで走りたい。
楽屋の空気が引き締まったものに変わる。きっと、メンバー全員が同じ気持ちでいてくれているのだろう。それが伝わってくる。
誰からともなく、俺たちは見つめ合って微笑んだ。これから先、何があってもこの四人でライブをしていきたい。そんな決意がそれぞれから伝わってきた。
言葉を交わさずともわかるほど、強い意志。その思いを噛み締めるようにしばらく全員が無言のままでいたが、少しして、空気を和らげるようにクリス先輩が手を叩いた。
「ひとまず、今日はお疲れ様。この後はどうしようか。時間があれば、このまま打ち上げする?」
クリス先輩の提案に、俺はあ、と声を上げる。
「すみません。明日、お母さんのお見舞いに行くので」
そう言うと、三人が一斉にこちらを見た。
俺の母親が入院していることは皆、知っている。最近はたまにお見舞いに行くようになったことも。母親との関係はまだぎこちないし、修復を焦ることもしたくない。だけど、最近は少しずつ、自分の話やバンド活動の話を母親にもするようになっていた。時間はたくさんかかるだろうけれど、いつか、普通の親子に戻れる日が来たらいいなと……心の内でそう願っている。
「そっか。じゃあ、打ち上げはまた今度ですね」
「お母さんによろしくな」
「はい。きっと、すごく喜ぶと思います。ワンマン成功したって言ったら」
「ああ、そうだな」
母親のお見舞いに行く、と言った俺に、三人とも優しい言葉をかけてくれた。
俺の女性恐怖症は今も治っていない。家族との事情も、すべては話せていない。それでもこうして俺の背中を押して応援してくれる彼らのことが、俺は大好きだ。きっとこれから先も、彼ら以上に好きになれる人は現れないのだと、そう確信しているくらいに。
俺は長い間、忌々しい過去からひたすらに目を背けてきた。けれども今は彼らのお陰で、少しずつだけど向き合うことができている。だから——いつか、すべてを打ち明けられる時が来るのかもしれない。未来のことは何もわからないけれど、なんとなく、そんな予感がしているんだ。
大切な人たちに囲まれて、こんなふうに未来の話ができる日が来るなんて、あの頃の俺は想像もしていなかった。
俺、バンドやめなくてよかった。歌うことを諦めないでいてよかった。
願わくばこの先も『DIAMONDの神崎瑪瑙』として皆と歩んでいけたら、他には何もいらない。……なんて言ったら、三人ともどんな顔をするんだろうな。
——コンコン。
不意に、楽屋の扉がノックされる。
透輝さんが「どうぞ」と声をかけると、スーツ姿の男性が一人、静かに入室してきた。見覚えのない人物に、俺たちは顔を見合わせる。
「突然失礼します。私、ツルマキレコードでプロデューサーをしております、春田と申します」
そう言って、その男性は丁寧に頭を下げ、名刺を差し出した。一枚ずつ受け取った俺たちは、同時に息を呑む。
「本日のライブ、拝見させていただきました」
静かだがよく通る声が、楽屋に響く。
「ぜひ——DIAMONDの皆さんに、正式にお話をさせていただきたく参りました」
心臓が、どくんと大きく跳ねた。誰もすぐには言葉を発することができない。
俺は三人と視線を交わし、小さく頷いた。それから、四人で同じ方向を見る。それだけで充分だった。
もう迷いはない。
「……よろしくお願いします」
透輝さんが代表してそう答えると、俺たちは自然と笑い合った。
あの日、壊れたと思っていた未来が、確かにここに繋がっている。ステージの熱気がまだ残る楽屋で、俺たち四人は名刺を握りしめながら、静かに次の夢を見据えていた。
end,
それらの行為を推奨する意図は一切ありませんが、人によっては生理的嫌悪感が強い内容となっております。
苦手な方はご注意ください。
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俺の名前は神崎瑪瑙。インディーズロックバンド『DIAMOND』でボーカルを担当している、ごくごく平凡な大学生。
つい先日、半年かけて準備したワンマンライブが大成功のうちに終わり、俺たちにはまたいつも通りの平穏な日常が戻りつつあった。
だけど、ひとつだけ大きく変化したことがある。
それは——バンドメンバーとの関係。
半年ほど前、俺は突然バンドメンバー全員から告白された。
最初は本気なわけない、冗談だろって思ったけれど、あろうことが全員本気で。それはもう、俺の想像を絶するくらいに本気だったのだ。
——で、この前のワンマンライブ。その時のMCで、俺は「みんな大好き!」と半ば告白のようなことを言った。いや本気で告白だったのだけれども。だからってライブ中にこんなことを言うのはどうなんだよって、今となってはちょっと忘れたいエピソードなんだけれども……俺の気持ちは、三人にちゃんと伝わってくれていた。
そこから改めて告白して、自分の気持ちも伝えて。そして皆もそんな俺を、俺の気持ちを受け止めてくれた。それでも俺が好きだって言ってくれたんだ。
そして、そのまま——。
……なにはともあれ、どうやら想いを伝えたあの日から、その……所謂、えっちなことが解禁されたらしい。
あの時のように三人いっぺんにってことは流石にないけれど、今では週末デートのたびになんだかんだで抱かれている。それに伴い、彼らの家に泊まることも多くなった。みんな俺の身体に無理を強いるようなことはしないし、ライブ前は体調のコンディションを第一にとそういう誘いは一切しないでくれるのだけれど、三人がこれでもかというほど優しい上に、ベッドの上で見せるあの表情がもう……甘すぎて、色気がありすぎて、今までそういう経験がなかった俺は毎回恥ずかしいやらドキドキするやらで、このままでは心臓がもたなさそうだというのが本音だった。
✦✦✦
そんな関係の変化がありつつも、俺たちはライブ活動を続けている。
ワンマンを成功させたお陰で、俺たちの勢いは乗りに乗っている……と言っていいのかはわからないけれど、決して少なくはないファンからの支持を受けつつ、相変わらず曲作りや練習に励んでいた。
そして、とある日のライブ後。その日はちょうど完成した新曲を初披露して、観客の反応も上々。いつものように物販や精算などで各々が忙しくしている中、俺はふと、バンドのリーダーである篠宮透輝さんの姿が見当たらないことに気が付いた。別に用事があるわけではないけれど、普段はライブ後は必ずフロアに来てファンと交流している彼がこのタイミングでいないというのが珍しくて。クリス先輩と蛍に聞いてみたがやはり知らないと言うので、俺はフロアから出て透輝さんを探しに行くことにした。
透輝さんは思いのほか早く見つかった。
フロアの扉を出て、受付へと続く短い廊下の片隅。場所柄もあって少し薄暗いそこに、透輝さんはいた。だが、一人ではない。誰かと話しているようだ。
その人はスーツを着た男性で、少なくとも俺には見覚えのない人だった。仕事終わりに観に来る人も多いので、夜のライブハウスにスーツ姿の人は意外といる。でもファンだったらわざわざこんな奥まった場所で話さなくったって、普通にフロアで声をかければいいだけの話だ。なんとなくおかしいなと思いつつも、もしかしたら透輝さんの会社の同僚の人かもしれないし、このタイミングで出ていくのは憚られた。そして俺は、ほんの好奇心から少しだけ二人の会話に聞き耳を立ててしまう。
「今日のライブ、とても良かったよ」
「ありがとうございます」
そんな形式的なやりとりだけ辛うじて聞こえたが、声をひそめているみたいでそれ以上会話の内容は聞こえない。だが、それなりに話し込んでいるようだった。何を話しているのだろうと思っていたら、その見知らぬ人は鞄から何か小さなカードのようなもの——名刺かな——を取り出して、透輝さんに手渡した。そしてまた何やら話している。仲良く談笑しているというよりは、なんだか真面目な話をしているように見えた。
その時。
「っ!」
ポケットの中に入れていた俺のスマホが震えた。マナーモードにしていたので幸いにも音は鳴らなかったが、唐突なバイブレータにビクッと肩が揺れる。そして、二人に気付かれることを恐れた俺は、そのまま踵を返してこっそりとフロアに戻った。
結局、盗み聞きなんてことをした割に会話の内容はほとんどわからなかったけれど……。
透輝さんが俺たちの元に戻ってきたのは、撤収作業も一通り済んだ頃だった。どこに行っていたのかとクリス先輩にどやされつつも彼は特に変わった様子は見せず、ひとまず全員まとまって撤収を済ませる。普段はこのまま解散する流れになるのだが、今日は違った。透輝さんが皆を呼び止めたのだ。
「みんな、見てくれ」
そう言って透輝さんが差し出してきたのは、先ほど受け取っていたあの人の名刺。
そこには、こんなことが書かれていた。
『音羽ミュージック プロデューサー 坪井純史』
「これって……大手レコード会社のプロデューサーってこと!?」
「そんな人に名刺を渡されるなんて……」
普段は穏やかなギター担当・玻璃間クリス先輩も、最年少のドラム担当・早乙女蛍も、あまりのことに驚いて大きな声を出している。
俺だってもちろん、クリス先輩と同じくらい驚いていた。
『音羽ミュージック』といえば、何十年も前から業界トップを走り続けている国内最大手のレコード会社だ。世界的に有名なアーティストも多く所属しているため、音楽を聴く人間でこの会社の名前を知らない人なんてまずいないだろう。そんな大手のプロデューサーさんが、俺たちに何の用なんだ……?
と、思いつつも、内心どこか期待している自分がいた。さっきの人、音楽プロデューサーだったんだ。そんな人に声をかけられて、人目につかない場所で真面目な話をして、しかも名刺まで貰ったってことは……!
「メジャーデビュー!?」
「まあ、端的に言うとそんなところだ」
興奮のあまり思わず声が出てしまった俺に対して、透輝さんはなんだか冷静だった。レコード会社のプロデューサーさん直々にスカウトしてもらえるなんて、音楽活動を長くやってきた透輝さんこそ一番喜びそうなのに。
どうしてだろう、と頭の片隅で思いつつもそれ以上言及しないでいると、透輝さんはメンバーを見回して再び口を開いた。
「ひとまず、詳しい話はまた後日、ということになった。俺らもしっかり話し合わないといけないしな」
確かにそうだ。降って湧いたようなスカウトの話につい食い付いてしまったけれど、仮にデビューするってなったって透輝さんは今の仕事もあるわけだし……。こういう時だからこそ、現実的なこともちゃんと考えないとだよな。
「レコード会社との話し合いの場には、メンバー全員で行くと言ってある。てわけで来週土曜、十五時に音羽ミュージック本社ビル前に集合な」
透輝さんが言った日時を、俺たちは素早くメモに取った。
そうか、これは俺たち『DIAMOND』に向けたスカウトなのだ。だから全員で考えて、全員で答えを出さなければいけない。とはいえ、俺の心は既にメジャーデビューにがっつりと傾いていた。
メジャーデビューをすれば、大好きなメンバーとずっと一緒に音楽ができる。俺たちの曲をもっとたくさんの人に聞いてもらえる。もっと大きな規模のライブができる。もしかしたら遠征やツアーなんてものもできるようになるかもしれない。ああ、考えるだけで夢が広がっていく……!
このバンドは俺の大切な居場所だ。絶対に失いたくない。もし叶うなら、ずっとこのメンバーで音楽がやりたい。そして、皆でもっともっと色々なことがしたい。心からそう思っているから、今回の話は俺にとってはすごく光栄なことだったのだ。
✦✦✦
そして、次週の土曜日。
俺たち四人は『音羽ミュージック』の本社ビルまで赴いていた。フロントでプロデューサーの名前を出すと受付の人がすぐに中に入れてくれて、俺たちはちょっとした応接室のような部屋に通される。
出されたお茶を飲む気にもなれずそわそわしていると、少しして部屋に一人の男性が入ってきた。間違いない、あのとき透輝さんと話をしていた男性だった。
「改めてご挨拶を。プロデューサーの坪井です」
その人——坪井さんがそう言って人数分の名刺をこちらに差し出したので、俺たちは一枚ずつそれを受け取ってひとまず挨拶をする。
「ありがとうございます。玻璃間クリスです」
「あ、えと、神崎瑪瑙です。よろしくお願いします」
「早乙女蛍です」
そんな俺たちを坪井さんは一瞥すると「どうも」と軽く返し、ソファの向かいに腰掛けた。ようやく全員が腰掛けた状態になると、坪井さんは俺たちに向かって再び口を開く。
「それじゃ、さっそく本題に入ろうか。先日のライブを拝見させていただいてね。音源も聴かせて貰ったよ。君たちさえ良ければ、うちのレーベル所属のアーティストとして今後やっていく気はないかな?」
きた!!
この台詞を言われて嬉しくないインディーズバンドなんていないだろう。待ち望んでいた展開に、俺の胸は更に高鳴った。これまでメンバーと共に作り上げてきた音楽が世間に認められる。もっともっと大勢の人に曲を聴いてもらえる。ライブもたくさんできる。何より、レーベルの後ろ盾があれば、この四人でずっと音楽活動を続けるということがぐっと現実的になるのだ。これほど嬉しいことはない。
俺とクリス先輩、蛍の三人はソファの一番端に座っている透輝さんを見た。俺たちの視線を受けた透輝さんは何やら難しい表情をした後、バンドを代表して返答をした。
「それは、俺達としてもとても嬉しいお話です。是非……と言いたいところなんですが……」
しかし、リーダーである透輝さんは、この美味しい話にすぐさま飛び付くようなことはしなかった。そもそもこの話を持ってきたのは彼であるのに、どうしてか俺たちの中の誰よりも慎重に受け答えをしているように感じる。バンドの今後に関わる大きな決定だから、おのずとそうなるのも理解できるのだけれど……。
透輝さんは語尾を濁した後で、それだけじゃないんですよね?とでも言いたげな目を坪井さんに向けた。
「ああ。デビューさせるには、ひとつ条件がある」
坪井さんは頷き、そしてまた語り出した。
「君達も重々理解しているだろうが、メジャーアーティストとしてやっていくということは、まず〝売れる〟バンドにならなければいけないんだ。ヒット性の高い曲を書くのは当然として、勿論、それなりの話題性も必要になる」
それはそうだろうな、と俺は心の中で思った。
メジャーデビューするとなれば、ただ仲間内で楽しくやるだけのバンドのままではいけないということ。プロとしての意識を持ちつつ、常に売れるものを生み出さなければいけないということ。それをこなすだけの技量、メンタル。周囲からの期待に応え続けるバイタリティ。そしてこれから先、ずっと音楽で食べていく覚悟が必要なことも。
だた、坪井さんの言う『話題性』ってなんだろう? 今このバンドが持っていて他のバンドにはない、皆の興味を引くような話題性。思い当たるのは、俺以外のメンバーが超絶美形であることくらいで——
「だから、キミ」
「えっ! お、俺ですか?」
坪井さんは唐突に、ちょうど正面に座っている俺を指差した。いきなり名指しされるとはまったく思っておらず(名前は呼ばれていないけど……)、俺は驚いて顔を上げた。
「そう、ボーカルのキミ。悪いけど、交代してくれない?」
「へ?」
交代、って……どういうことだ?
「今、うちのレーベルで売り出そうとしてる新人シンガーがいてね。その子とキミ以外の三人が組んでデビューしたら絶対にヒットすると思ってるんだ。その子はビジュアル的にも華があるし、専属でボイストレーナーをつけてるから歌唱力も高いし、キミの代わりとして実力は申し分ない。これで更にルックスのいいバックバンドが付けば、イケメンバンドとして一躍話題になるかもしれないだろう?」
そこまで言われて、ようやく理解した。
この人は、俺にボーカルを辞めろと言っているのだと。
俺が平凡だから。俺が他の三人と違って華がなくて、ボーカルに相応しくない、だからこのバンドの曲を歌うのは俺じゃなくても構わないと。
それは、今までもSNSで数え切れないほど見てきた言葉だ。だから自分でも自覚していた。俺がいくらメンバーの皆のことが大好きでも、バンド活動に対する熱意があっても、周りからすればそんなことは関係ない。外から見ている人にとって神崎瑪瑙は『DIAMOND』のボーカルとして見合う人間だと思われていないことくらい、ずっと前からわかっていたのだ。
それでも、こうして業界の人から面と向かってその事実を突きつけられると、情けなさに泣きたくなってしまった。
やっぱり俺では駄目なのだと。
「バンドの一部のメンバーだけプロに引き抜かれるなんてよくあることだし、何も音楽を辞めろって言ってるわけじゃないよ。ほら、今後はマネージャーになるとかさ、色々やりようはあるだろう?」
「……」
「瑪瑙に何てこと言うんだ! こんなの侮辱だ!」
あまりのショックに何も言い返せないでいる俺の隣で、クリス先輩が珍しく声を荒げた。ぐっと唇を噛みながらちらりと横に視線をやれば、クリス先輩は普段のあの穏やかな彼からは信じられないほど怒りを孕んだ目で坪井さんを睨んでいた。こんなに怒っている先輩を初めて見たかもしれない。
俺のことなのに俺以上に怒ってくれているクリス先輩をどこか呆けた気持ちで見ていると、反対側からぎゅ、と腕を掴まれる感覚がした。無言のままそちらを見ると、蛍が俺の腕を掴みながら心配そうにこちらを見ていた。腕にこもるその力と目に浮かんだ涙から、心底悔しいという感情がありありと伝わってくる。
「最初にお話を伺った時から、なんとなく嫌な予感はしていましたが……」
すると聞こえてきたのは、クリス先輩とは打って変わって冷静な声音。透輝さんだ。
透輝さんは、今にも坪井さんに掴み掛かりかねない様子のクリス先輩を静かに制すと、自身はソファからすっと立ち上がった。俺はうまく回らない思考で「透輝さんなら冷静に話し合ってくれるかも」と思っていた。
「正直、馬鹿馬鹿しいとしか言えません。瑪瑙はうちの大事なボーカルで、代えのきく存在じゃないですから。それに、俺たちはルックスで売る気もさらさらないです。こんな条件を呑むくらいなら、デビューなんかこちらから願い下げだ」
しかし、そんなことはなかった。開口一番「馬鹿馬鹿しい」と坪井さんの計画を一蹴すると、俺を辞めさせることはもちろん、そこに新しいボーカリストを迎えてイケメンバンドとしてデビューするという提案にも、乗ることはできないと、坪井さんに向かってはっきりと言い放った。しかもそれだけじゃない。この四人でやれないのならメジャーデビューする気はないとまで言ったのだ。
「申し訳ないですが、この話はなかったことに——」
「透輝さん! ちょっと待ってください!」
坪井さんからの話を断ろうとしている透輝さんの腕を、俺は咄嗟に掴んだ。
どうしよう、何とかしなきゃ。皆が俺のために怒ってくれるのは嬉しい。けれども、ここで話が決裂してしまえばもう二度とメジャーデビューなんて大きなチャンスは掴めないかもしれない。俺のせいでそんなことになるのは絶対に駄目だ。
俺は透輝さんの腕を押さえながら、坪井さんに向かって食い下がった。
「ちょっと考える時間をくれませんか!?」
「おい瑪瑙、何を言って……」
「今のお話、ちゃんと検討しますから!」
俺の言葉に、透輝さんは「検討も何もない」とでも言わんばかりの顔をしていたが、申し訳ないけれどこの時ばかりは黙殺した。大事な決断だからこそ、みんな一度頭を冷やした方がいい。そう思ったから。
「じゃあ、二週間の期限を与えよう。それまでに返事が欲しい。それでいいかな?」
坪井さんがそう提案してくれたので、俺は食い気味にその条件を呑んだ。
二週間。よかった、これで一旦の猶予ができた。ほっと一安心したのと同時に、じわりと目頭が熱くなる。ああやばい、もう、無理かもしれない。
「ありがとうございます! それじゃ俺、用事があるので失礼します……!」
「おい、瑪瑙!」
俺は叫ぶように言うと、引き留めるメンバーの声すら置き去りにして応接室を飛び出していた。この時ばかりは、自分を呼び止める声も何も認識できなかった。とてもそんな余裕などなかったから。
勝手のわからないオフィスの廊下を、ただ闇雲に走る。ここがどこなのか、最初に入ってきたエントランスまでの道順がどうだったかなんて覚えていない。思い出そうともしていなかった。頭の中がぐちゃぐちゃで、何も考えられない。ただただ悔しさと虚しさで死にそうになっていた。こんな惨めな姿をこれ以上メンバーに見せたくなかった。
どのくらいの間、そうしていただろう。体力が底をついてきて、やむなく息を切らせながら立ち止まる。階段を駆け下りた気もするが、この事務所のオフィスビルはどの階も同じような構造になっているらしく、周囲を見てもここがどこなのかわからない。俺は本当に何をやっているんだろう。だが、それでも……何に代えても、あの場から逃げ出したかった。
とりあえず、こんなところをフラフラしていても仕方がないし……エレベーターで一階に降りよう。途方に暮れた気持ちでそう考える。あれから少し時間が経っているはずだし、メンバーと鉢合わせることはないと思う……多分。
そんなことを考えながらエレベーターを探していると、不意に背後から声をかけられて肩がびくついた。
「ねえ、きみ。神崎瑪瑙くん……だよね?」
慌てて振り返ると、そこには三十代前後と思わしき女性が立っていた。
白のブラウスにグレーのワイドパンツをスマートに着こなしていて、長い髪を後ろでアップにして纏めている。地味すぎず派手すぎないナチュラルメイクに、足元は黒いパンプス。大人の女性らしいオフィスカジュアルといった雰囲気で、よく似合っていると感じはしたが……まったく見覚えのない人だった。
「ああ、急にごめんね。私、ここの社員で、一ノ宮といいます。はい、これ名刺」
俺が怪訝な顔をしていることに気付いたのだろう。その人は懐から名刺入れを取り出すと、中からいちまい抜き取って俺に渡してくれた。名刺を受け取ってその文面を見てみると、確かに『音羽ミュージック プロデューサー 一ノ宮彩香』との表記が。
この人、ここのプロデューサー? さっきまで話していた坪井さんと同じ……。
肩書きだけで判断するのはよくないが、先程坪井さんから浴びせられた言葉の数々を思い出し、俺は思わず警戒してしまう。
しかし、俺のそんな反応に目の前の女性——一ノ宮さんは気を悪くした様子もなく、まるで悪戯の相談をするかのような表情と口調で俺に話しかけてきた。
「坪井さんから話は聞いてるよ。目をつけてるバンドがいるって。今後デビューさせるとしたら、どういう形で売り出すのか……もね。正直、納得いかなかったでしょう?」
「えっ……」
「『DIAMOND』はとても良いバンド。だからこそ、メジャーデビューのために君だけが抜けるだなんて間違ってる……私は、そう思う。君も、他のメンバーも、きっと同じ気持ちなんじゃない?」
さっそく核心を突いてきたその言葉に、俺はつい息を呑んだ。この人は坪井さんの同僚なのだろうか? 同じプロデューサーならそれもあり得なくはない。彼女の口ぶりはまるで坪井さんとの先程までのやりとりをすべて聞いていたかのようだった。それでいて、坪井さんよりも俺たちに寄り添った言葉をくれる。彼女の意図がわからず警戒を解くことができないでいる俺に、一ノ宮さんは続けた。
「私も同じ考えなのよ。夢とか絆とか、理想ばかり語っていてもこの業界においてはただの綺麗事でしかない、っていうのはわかってる。でもね……やっぱり、理想が現実に成り得るのだとしたら、それが一番だって思うよね?」
少し躊躇した後、俺は頷いた。
坪井さんが言ったことは、正しい。今のバンドにとって俺はお荷物で、実力不足。飛び抜けて高い歌唱力があるわけでもなければ、華のあるビジュアルを持ち合わせているわけでもない。今の俺は、ただ歌うことが好きな大学生——プロのアーティストなんか夢のまた夢な、平凡な人間だ。それを理解しているからこそ、俺は彼の言葉に何も言い返せなかったわけで……。
だけど、本当は俺だってそんなの納得できていない。クリス先輩と、透輝さんと、蛍と……皆で一緒にメジャーデビューできたらって、心の内ではそう思っていた。
その気持ちを、一ノ宮さんは見抜いていたのだろう。肯定の意を見せた俺を意外に感じた様子もなく、彼女は声をひそめてささやくように、言った。
「私だったら、君たち全員をメジャーに連れて行ける……って言ったら、どうする?」
「っ、それは……ど、どういうこと、ですか?」
一ノ宮さんから発されたあまりにも魅力的な一言に、俺は思わず喉を鳴らして食いついてしまった。
そんな俺に一ノ宮さんはくすりと笑みを漏らしながら、まるで内緒話でもするかのように俺の耳元にその唇を寄せた。大人の女性特有の、香水と化粧品の香り。その匂いが鼻腔を刺激して、俺は反射的に身を強張らせる。
俺の女性恐怖症のことなど知る由もない一ノ宮さんは、極度の緊張で動けなくなっている俺に、ハスキーな声で耳打ちをした。
「私なら、君たち全員をメジャーデビューさせるよう、坪井さんに駆け合うこともできる。ううん、何なら私自身でプロデュースしたっていいわ。もっとも、それが出来るかどうかは君次第ではあるけどね……?」
俺次第。
それって、どういう……。
至近距離に女性がいるせいか、頭が上手く回ってくれない。言葉もうまく出てこない。ただ今の自分は、ついさっき坪井さんにされたものよりもずっと良くない提案を彼女からされているのかもしれないと、予感めいたものを感じていた。
俺が何も言えないでいると、一ノ宮さんはふっと微笑んでから何事もなかったかのように身体を離す。そしていまだ冷や汗を流しながら固まっている俺に向かって、去り際にこう言った。
「君みたいな素朴な子、結構タイプなんだよね。ま、その気があるならいつでも連絡して。じゃあね」
✦✦✦
数時間後。
夜の帳が下りた街は、濡れたネオンの光が歩道に滲んでいた。俺はパーカーのフードを深くかぶり、スマートフォンの画面にに表示されたメッセージを何度も見返す。
——場所はここ。二十三時に。遅れないで。
指定されたのは、都心の片隅にある高層ビジネスホテル。一ノ宮さんから誘われるがまま、俺はそのうちの一部屋へと歩を進めていた。
歩けば歩くほど、膝ががくがくと震える。不安定な足音は自分のものだと思えない。息が浅い。胸が痛む。だけど、それでも俺は足を止めなかった。
今後のためだ。これくらい、大したことじゃない。心の中でそう繰り返しても、胃の奥の冷たい塊は少しも溶けてくれない。こんなことをしてはいけない、行ってはいけないのだと、理性ではわかっている。今ならまだ引き返せることも。しかし、そのたびに脳裏にはバンドメンバーの顔が浮かんだ。大好きなメンバーとまだ一緒にいたいと思えば思うほど、その理性を踏みにじるように歩幅を広げてしまう。ホテルの明かりが見えてきた頃には、手の震えはもう隠せなくなっていた。
自動ドアが開くと、暖房の湿った空気がふわりと肌に触れた。それだけで、背筋にぞわっと鳥肌が立つ。フロントを抜け、エレベーターへ乗り込む。鏡張りの壁に映った自分の顔は、血の気が引いていた。
――戻れ。今ならまだ。
――でも、戻ったら……デビューは。
エレベーターが目標階に到着し、音が鳴る。できるだけ平静を装いながら廊下を歩くが、自分の足音がやたらと響いて聞こえるような気がして、心臓の鼓動が不自然に鳴り止んでくれない。
そうしているうちに、一ノ宮さんから指定された部屋の前に着いた。ドアの前に立ち、ノックをする──つもりだったが、指先が動かない。
その瞬間、ドアが内側から開いた。
「来たんだ。えらいね、瑪瑙くん」
一ノ宮さんは、昼間のカッチリとした服装とは打って変わって、キャミソール一枚という寝間着のような姿で俺を出迎えた。一つに結い上げていた髪も今は下ろしており、その顔には柔らかい笑みをたたえている。
シャワーを浴びたのだろうか。シャンプーか何かの甘ったるい匂いが鼻腔を刺激し、くらりと眩暈がした。
「そんなに緊張しなくてもいいよ。大丈夫、優しくするから」
そう言って手首を軽く掴まれた瞬間、全身が硬直し、冷や汗がどっと溢れた。
抵抗できない。いや、……してはいけない。
部屋の中に連れ込まれ、ドアに鍵がかかる。呼吸が一気に乱れ、視界がじわりと滲んだ。怖くて堪らない。でも……悔しいけれど、今の俺にできることはこれ以外にない。
「もしかして、こういうの初めて? いいね、初心な男の子、結構好きだよ」
一ノ宮さんは俺をベッドの上まで誘い込むと、キャミソールの肩紐を緩めた。下着は身に付けていない。女性らしい白く柔らかそうな肢体が露わになり、豊かな胸が目の前に晒された。
美しく、極上の身体。きっと普通の男性であれば喜んで相手をするのだろう。しかし、俺にとってそれは非常に苦痛だった。
自分の体温が驚くほどに下がっているのがわかる。女性に触れるなんて——抱くなんて、やっぱり無理だ。今すぐに逃げ出したい衝動に駆られる。けれども、絶対に逃げてはいけない。せっかく一ノ宮さんが俺を気に入ってくれて、チャンスをくれたんだ。たった一度だけ、彼女を満足させることができれば、それでいい。それだけだ。怖くない。怖くない怖くない怖くない!
「……っ、は……っ……!」
喉が閉じる。肩が震える。声などとうに出せなくなっていた。
それでも、震える腕を目の前の女体に向かって伸ばす。
やらなきゃ。俺がやらないと、バンドは——。
「……っ」
指先が、白い肌に触れた。
生ぬるくて、柔らかい感触。——女の人の、身体。
ぞわぞわと、これまでにないほどの悪寒が全身を駆け抜ける。瞬間、胸の奥底で古い痛みが甦った。
「っ、ご、ごめんなさい……!」
「ちょっと、瑪瑙くん!?」
俺は思わず逃げ出していた。
背後から一ノ宮さんの声が聞こえたが、振り返れない。ドアを開け、廊下を走って、階段を駆け降りる。昼間、一ノ宮さんに会う直前にも同じことをした。俺は逃げてばかりだ。逃げることしかできない、いくじなしだ。
壮絶な不快感に耐えながらただがむしゃらに走り、ホテルを飛び出す。周囲からの視線なんか気にしていられなかった。
――それからの記憶は、ほとんど曖昧だ。
ただ、外の冷たい空気に触れた途端、壊れたかのように涙がどっと溢れた。拭っても拭ってもその涙は止まってくれなくて、両の足がすくむほどに震えていたことだけは覚えている。気が付けば俺は、駅のトイレの中で、便器に向かってひたすらに胃の中のものを吐き続けていた。
吐いても吐いても気持ち悪いのが消えてくれない。胃の中が空っぽになって胃液しか出なくなっても、まだ気持ち悪い。人気もまばらな駅のトイレで、俺はひとり泣きながら吐き続けた。
朝になった時には、自宅にいた。
どうやって帰ってきたのかも、それが何時頃だったのかも曖昧だ。
ただ、玄関のドアを閉めた瞬間、全身の力が抜けて、その場に座り込んだことだけは妙に鮮明だった。
震える手でスマホを取り出す。メッセージアプリをタップして開くと、未読の通知がいくつも溜まっていた。それを確認する勇気なんてなくて、けれども何も言わないままではいられなくて、俺は深く考えることを放棄したまま、やっとのことでたった一行だけを打ち込んだ。
『バンドやめます』
送信ボタンを押した瞬間、指先が冷たくなった。
すぐにスマホの電源を切り、布団を頭から被る。もう誰の声も聞きたくなかった。胸の中は後悔と自責の気持ちでいっぱいになっていて、だからこれ以上何かをして感情を揺さぶられたくもなかった。
ごめん。みんな、本当にごめん。
俺、できなかった。
心の中でそう繰り返すが、どれだけ謝ったとしても、取り返しなんてつくわけがない。俺は、自らの手で全てを台無しにしてしまったんだ。
皆の足を引っ張ってしまっただけでなく、たった一度のチャンスを自ら潰してしまった。
こんな俺にはもう、皆と一緒にバンドを続ける資格なんて——ない。
✦✦✦
俺の父親は、酒に酔うとひどく粗暴になる人だった。
仕事のストレスからか、家ではほとんど酒を飲んで過ごしている父親。そんな父親は、己の妻である母親に対してはもちろん、息子である俺にも暴力を振るうことがあった。
最初のうちこそ、アルコールで気が大きくなるとつい手が出てしまう程度だった。しかしそれは徐々にエスカレートしていき、俺が小学校中学年に上がる頃には、すっかり暴力が日常となっていた。
母親だけは、俺を守ってくれていた。
何故あの父親のような男と結婚して、これだけの仕打ちを受けても傍を離れようとしなかったのか、俺にはわからない。聞いてみたこともない。ただ何故、と思うくらい、母親は俺を庇って暴力の矛先になることが多かったし、酷い時はそれによる怪我のせいで入院までしていた。それでも母親は父親のことが好きだったのだろうか。確かにお酒が入っていない時は優しくしてくれることもあったけれど……俺は、やっぱり大嫌いだ。
だから、あの時も怖くてたまらなかった。
〝それ〟が起こったのは、俺が中学一年生になった年の冬だった。
その日の父親は普段より一層機嫌が悪く、尋常ではない量の酒を飲んでいたように見えた。
そういう時の対処法は、専ら自室に籠ること。酔っている父親に話しかけて、ろくな目に遭ったことがない。これまでの経験から既にそれを学んでいたから、酒を飲んでいるのを察知するなり絡まれる前に自室に逃げる。まだ子供だった俺の常套手段だった。母親のことを気にかける余裕などなくて、いつもそそくさと一人で逃げていたのだ。お酒さえ入らなければ普通の父親なのになあ、なんて思いながら。しかしひとたびお酒が入ってしまえば何が父親の逆鱗に触れるか分からないから、できるだけ関わりたくもなくて。
だから、その瞬間まで俺は知らなかった。
あんなことになっていただなんて。
自室に籠ってじっと物音を立てずにいたら、突如ドアが壊れそうなほど大きく音を立てて開き、びくりと肩を揺らす。そして、音のした方に視線を向けた俺が見たものは。
父親に髪を掴まれ泣いている母親と。
片手に包丁を握りしめた父親の姿だった。
「ひっ……!」
部屋の明かりを受けてぎらりと光る刃先に、思わず引きつった声が漏れる。
あれは、台所にあるものだ。母親が料理をする時によく使っていたのを覚えている。それを父親が持ち出したのだろうか。幸い包丁はまだ綺麗で、血などで汚れた様子はない。だが、父親のあの状態ではいつその刃先を母親に向けるかわかったものではない。
それまでの父親は、酔って暴力を振るうことはあっても、それはあくまで気が大きくなった末につい手が出てしまう、といったものだった。年々その傾向が行き過ぎたものになっていたとはえ、酔いが覚めれば俺にも母親にも謝ってくれたし、何よりいくら泥酔していたとしても家族に凶器を向けることなどこれまで一度もなかったのだ。
そんな父親だから、心のどこかでは信じていた。母親はそうだっただろうし、父親のことが嫌いだった俺ですら、そう思っていた。あれは一時的なもので、明日になればいつもの優しい父親に戻っているのだと。
——その考えが間違いだったのだと、この後俺は死ぬほど思い知らされることになる。
「しろ。こいつと」
怯えている俺を指して、父親が母親にそう言った。
無理です、それだけは、と泣きながら拒否し続ける母親をよそに、常識の中で生きてきた俺はその言葉の意味が理解することができずにいた。しろって、何をだ。この人は、俺と母親に何をさせるつもりなんだ。
母親はひどく抵抗している。気が弱くて父に従順な母親が、こんなにも抵抗する姿を俺は初めて見た。そんな母親の様子に、逃げたほうがいいのかもしれない、と感じるも、父親が脅すようにこちらに包丁を向ければ本能的に恐怖が勝ってしまい身体を動かすことができなかった。ただの脅しならまだいい。だがこの男は、酒が入ると本当に何をしでかすかわからないのだ。そう思うと、とても逆らうことはできなくて。大柄な父親相手では、俺も母親も力で敵うわけもなくて。
……そして。
「瑪瑙、ごめん。ごめんね……」
そう繰り返しながら、俺の上に乗り上げ腰を振る母親の姿。
助けて、の一声も出すことができなかった。
怖くてたまらなかった。母親の背後には包丁を持った父親が立っていて、あまりにも恐ろしくて反抗ができない。きっと母親も同じだっただろう。何が起こっているのか、頭ではわかっているのに心が理解してくれない。しかし俺の目の前で繰り広げられている行為は、紛れもない現実だった。
「————」
声が出ない。なのに、涙が止まらない。
身体は恐怖で冷え切っているはずなのに、母親の柔らかくて温かい肌がすごく近くに感じて、それが余計に感覚を鈍らせる。だけど、それが何より怖い。幼い頃、抱きしめてもらえるたび心から安心できたその感触が、このときは酷くおぞましいものに感じていた。
✦✦✦
「———ッ!」
声にならない叫び声を上げたところで、目が覚めた。
息が上がっている。女性恐怖症の症状が出たときによく起こる過呼吸だった。
現実じゃない、大丈夫だ、そう自分に言い聞かせながら少しずつ呼吸を整える。汗がじっとりと服に吸い付いていて、気持ちが悪かった。
……嫌な夢を見た。
忘れたくても忘れることのできない、忌まわしい記憶。あの日から、俺は女性に触れることができなくなった。
あの後、いつの間にか俺は病院のベッドにいた。誰がどうやって運んだのかわからないが、あの状態の父親が救急車など呼ぶわけない。きっと母親がどうにかしたか、物音を聞きつけた近所の人が通報したのだと思う。
病院に来てからの俺は、しばらく気が狂っていたらしい。覚えていない。診察や介助のために触れるだけでもパニックを起こして手が付けられなかった、とだけ後から聞いた。
父親にも母親にも、あれから一度も会っていない。
父親はあのあとすぐに軽犯罪を起こして逮捕。一度は執行猶予がついたがその後同様のことを繰り返したそうで、塀の中に入れられた。今はどうしているのか知らない。知りたくもない。
母親はあの一件で精神を病んでしまい、今も入院しているらしい。ただ、俺には会いたくないと言っているそうだ。俺も……母親は何も悪くないと理解していても、いまだに会う気になれないでいる。
これらの話は、いずれも祖父母から聞いたことだった。退院後から俺は母方の祖父母の家に預けられ、高校卒業まで面倒を見てもらった。預けられた当初の俺は祖母にすら強く拒否反応を示していたので、きっと苦労しただろう。実の娘である母親に俺がした所業だって知っていたはず。それでも祖父母は俺を見捨てることはせず、根気強く接してくれた。そのお陰で、今は祖母に対してだけは症状があまり出なくなった。
俺は恵まれていると思う。
怖いことばっかりじゃない。いつだって俺を守ってくれる人はいた。その人たちのお陰で、俺は今も生かされている。
どれだけ手厚いケアを受けても、決して消え去ってはくれない過去のトラウマ。あんなことはもう起こらないと頭では理解しているのに、身体はどうしてもそれを拒絶する。
俺はただ普通の生活がしたいだけだった。だが、この症状のせいでそれすらままならない。こんな不完全な自分が。ただ忘れてしまえばいいだけで、だからこそ自分の問題でしかないのに、そうすることができない自分が。
——嫌い。嫌いだ。
俺の体質は、いつかきっとメンバーに迷惑をかけていたと思う。……いや、既にかけていただろう。皆が優しいから、それに甘えてしまっていただけ。
だからきっと、今回のことがなくたって、遅かれ早かれこうなっていたんだ。
俺が未熟なのが悪い。俺が——皆に見合うほどの人間でいられなかったのが、駄目だったんだ。
✦✦✦
それからの毎日は、驚くほど静かだった。
大学にも行っていないし、部屋から出てもいない。バイトも無断欠勤しているし、誰とも連絡を取っていない。あの後、メッセージを送ってすぐ、バンドのグループトークからも抜けた。メンバーの連絡先もすべてブロックした。
カーテンを閉め切った部屋で、時間だけが無意味に過ぎていく。昼なのか夜なのかも分からないまま眠り、目が覚めては天井を眺める。そんな生活を繰り返しているうちに、約束の二週間なんて、いつの間にかとうに過ぎてしまっていた。
皆が坪井さんにどう返事をしたのかは知らない。知りたくもない。だけど——きっと、俺がいなくなったことで良い方向に進んでくれていたらいい、とは思う。
これで良かったんだ。
メンバーの皆と比べて、俺は何もかもが足りていない。これは紛れもない事実だ。それなのに皆と一緒にデビューしたいと、身の丈に合わない高望みをしてしまった。そんな中で、唯一与えられたチャンスすらも棒に振った。これはその結果でしかない。俺みたいな平凡な人間には、皆とずっと音楽をやっていきたいだなんて、願うだけ無駄だった。最初から全部、夢物語でしかなかったんだ。ただ、それだけの話。
もう何も考えたくない。
ずっと引きこもっているわけにはいかない。大学にだって行かなければならない。バンドができなくなったというだけで、自暴自棄になって全てを投げ出してはいけないと、頭ではわかっているのに……俺の頭も身体も、あの日からまったく動かなくなって、何もできなくなってしまった。
カーテンを閉め切ったままの薄暗い部屋。ベッドの上で緩慢に寝返りをうつと、適当に投げ出したままのスマートフォンが目に入る。あれから——メンバーに脱退の意思を告げて連絡を絶ってから、すぐに電源をオフにした。責められるのも、慰められるのも、怖かったから。それからずっと、電源を落としたままでいる。
何度か、家のインターホンが鳴った時があった。けれどもやはり誰とも話す気になれず全て居留守を使ったので、誰が訪ねてきていたのかは結局わからない。もしかしたらメンバーの誰かだったかもしれない。だけど、彼らと話をする資格すら、今の俺にはない。
——やっぱり、俺は駄目だったんだ。
全員でデビューできるはずだったチャンスを、自分の弱さで棒に振った。その事実だけが、ずっとずっと胸の奥に重く沈んでいた。
DIAMONDのボーカルだった『神崎瑪瑙』は、いなくなった。……いいや、最初からいなかった。そうあってほしいとさえ思った。
俺はあのバンドが大好きだ。それはずっと変わらない。だからこそ……俺みたいな出来損ないのボーカルがいたことなんて、忘れてほしい。どうか忘れてくれ——。
——カタン。
ふと、静かな部屋の中で、小さく音がした。何かと思い視線を向けた先に、小さなラックに積まれたCDがあった。
部屋に籠るようになってからろく掃除もしていなかったから、埃が積もったのだろうか。無意識にそれを手に取ると、指先に伝わる感触がやけに現実的で、胸の奥がざわついた。
ケースを開いて、中のディスクを取り出す。その一連の動作が、思っていた以上に辛かった。それでも俺は何かに導かれるかのように、ディスクをプレイヤーに入れて、再生ボタンを押す。
流れてきたのは、俺たちの音だった。
俺が大好きな『DIAMOND』の曲。先日のワンマンライブで、俺たちが出したミニアルバム。
最初の一音を聴いた瞬間、喉の奥が詰まる。
反射的に息を止めてしまって、うまく呼吸ができなくなる。スピーカー越しに響く自分の声は、今の俺よりずっと前向きで、迷いがなくて、何も知らなかった頃のものだった。あの頃の俺は、この先にある未来を疑いもせず信じていて、ただ歌うことだけを選び、真摯にそれだけを考えていたのだと思う。
……この時は楽しかったなぁ。
ついこの間のことなのに、随分と昔のように感じる。
あの日が、俺の人生の中で一番幸せな日だった。
皆で曲を作って、練習もたくさんして、ワンマンも大成功して……そして、ようやくメンバーの皆に「好きだ」って伝えられた、特別な日。その日に歌った曲の数々が詰まっている、大切なアルバム。
重々しい空気の部屋に場違いなほど明るいサウンド。スピーカー越しに響く、自分の声。何度も、何度も歌ってきた曲。
自然と、口が動いた。小さく、掠れた声で歌をなぞる。
その瞬間、胸の奥が一気に熱くなった。
俺は、このバンドで歌うのが好きだった。ステージの上で、皆の音に支えられながら声を出す時間が、心の底から好きだった。それなのに、もう二度とそれが叶わないのだと思うと、どうしようもなく悔しくて、情けなくて、苦しい。
大好きな居場所だった。四人で音を重ねる時間が、何よりも幸せだった。でも……もう戻れない。
そう思った途端、視界が滲んで、何も見えなくなる。
それでも歌うのをやめたくなくて、俺は泣きながら一人で歌った。涙が頬を伝って落ちても、拭うことすらせず、大好きな皆と作ってきた大切な曲を、ただ惨めに歌い続けた。
俺はもう二度と、皆と同じステージに立つことはできないけれど。
せめてこの歌だけは、誰にも奪われない場所に、そっと仕舞い込んでおきたい。
✦✦✦
——ピンポーン。
不意に鳴り響いたインターホンの音に、心臓が大きく跳ねる。
最初は、無視しようとした。今さら誰にも会いたくなかったから。
それでも、少し間を置いてもう一度インターホンが鳴る。そして、まるで俺の逃げ道を塞ぐように、扉越しによく聞き慣れた声が聞こえた。
「瑪瑙、いるんだろう?」
……透輝さん、だ。
突然いなくなったこと、怒っているだろうか。いや、怒っているに決まっている。あんなに良くしてもらったのに、恩を仇で返すようなことをした上に、音信不通になったのだから……。
ちゃんと謝罪したい気持ちはある。でも、会うわけにはいかない。会えない。たとえメンバーが許してくれたとしても、俺は自分を許すことができないから。
そう思って居留守を決め込もうと思った矢先、また外から声をかけられた。
「歌が、外まで聞こえてたよ」
今度はクリス先輩の声だった。
彼のその言葉に、思わずもう歌っていないはずの己の口を塞ぐ。
……聞かれていた。迂闊だった。そんなに大きな声で歌っていたつもりはなかったけれど、防音環境もないごく普通のマンション、外まで聞こえてしまっていたとしても不思議ではなかった。
「……お願い。少しでいいから、話をさせてください」
……蛍。
今にも泣きそうなその声にも、心が揺れてしまった。
皆、なんで俺なんかにこんなに構うんだ。ワンマンライブも成功させたし、もういいじゃないか。そもそもこのバンドはメンバーの入れ替わりが激しく、特にボーカルは頻繁に変わったと聞いていた。だからこそ、俺がいなくなったくらいどうってことないし、特に歴が長い透輝さんにとっては「いつものこと」程度だろうに。
むしろ厄介者の俺が自ら身を引いたのだから、わざわざ家に訪ねたりして時間を割かずとも、さっさと新しいボーカルを探せばいい。それこそ、坪井さんが言っていた新人シンガーとか……。
中にいることがバレていても、頑として俺は居留守を続ける。こうしていれば、いつかは諦めて帰ってくれるはず。そうやって逃げ続ける自分にも嫌気がさしたが、それから何十分、何時間と経過しても、ドアの前の気配が消えることはなかった。
観念して、重たい体を引きずるように玄関へ向き、重苦しい気持ちのままゆっくりとドアを開ける。
「瑪瑙」
目の前に立っていたのは、透輝さんだった。その後ろに、クリス先輩と、蛍。
三人の姿を見た瞬間、現実が一気に押し寄せてきた。
何週間も外に出ず、ろくに食事も睡眠もとっていない俺は相当にみすぼらしい外見をしているだろう。しかしそれ以上に、三人とも俺が最後に見た時よりも疲れた顔をしているような気がして、そのことにちくりと胸が痛んだ。
「……やっと出てきてくれたな」
透輝さんがそう言って、静かに息を吐く。その声音に怒りの感情は見られなかったが、俺は反射的に視線を下に向け俯いた。怖くて、顔を見ることができない。
「……何しに来たんですか」
逃げ出したい気持ちを堪えて、ようやく掠れた声でそう口にする。すると視界の隅に映る透輝さんの靴が一歩ぶん手前に動き、そして彼は俺にある事実を告げた。
「あの話は断った。メジャーの話も、全部な」
俺は一瞬、言葉の意味が理解できなくて、思わず顔を上げてしまった。
「なんでそんなことしたんですか!?」
先程まで対話すら拒絶していたことも忘れて、透輝さんに掴みかかる。
久しぶりに大きな声を出した気がする。そのせいか喉がうまく開かなくて、痰の混じったような嗄れた声しか出ない。それでも俺は食ってかかるのをやめることができなかった。
「俺がバンドやめさえすれば、全部丸く収まる話だったじゃないですか! それなのに、なんで……っ!」
俺のせいで皆のチャンスがなくなるのなら、俺がいなくなればいい。
坪井さんに言われなくたって、最初からわかっていたことだった。俺は皆に釣り合っていない。実力も、ルックスも、メンバーの皆と同等のレベルになんか到底なれなくて、常に足を引っ張っている。俺だけじゃなくて、内心では誰もがそう思っていたことだろう。皆、優しいから口に出さなかっただけ。それを坪井さんに指摘された、それだけだ。
しかし、何故断ったのかと詰め寄った俺に対して、透輝さんは動揺することなく、それがさも当然であるかのような口調で、一言だけ答えた。
「瑪瑙がいないなら、意味がないからだ」
そのたった一言に、どうしようもなく心が揺さぶられる。
どうしてこの人は、俺なんかにここまで言ってくれるのか。歌声が気に入ったから、恋人だから。だが本当にそれだけで、メジャーの夢を捨ててまで俺にバンドに戻ってくれだなんて、言えてたまるものか。
透輝さんの実力は本物だ、それこそプロにも通用するレベルで。だからこそ、俺なんかに構わなければとっくにミュージシャンとして大成できていたはずで、だけど俺がその邪魔をしてしまったから、悔しくて申し訳なくて、つらい。
だから自分から身を引いたのに、それでも透輝さんは頭を下げてまで俺に言うのだ。
「頼む、戻ってきてくれ」
その言葉が、胸の奥に突き刺さった。
どうしてだ。
頼む、だなんて。俺はそんなことを頼まれるほどの存在じゃないのに。こんなことになっても俺を見捨てないでくれる彼の言葉に、つい甘えたくなってしまう。透輝さんはずっと俺を可愛がってくれていたし、いつも自分に厳しいくせに俺にはことさら優しかった。だからこそ、甘えてはいけない。駄目だ、と自分自身に言い聞かせながら、俺は首を横に振った。
「できません。……俺、全部壊したから」
喉がひりついて、うまく言葉が出てこない。
頭が追いつかない。けれども、心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。俺には、戻れない理由があるから。
「メジャーの道も、バンドの未来も、全部……」
彼らに軽蔑されるのは……怖い。けれども自責の念に耐えきれなくて、俺は一ノ宮さんとのことを全部話した。
デビューのために枕をしようとした、なんてことがメンバーに知られれば、こうして優しい言葉をかけてくれた彼らも今度こそ俺を見限るだろう。それでも、こうなってしまった以上は話すほかないと思った。今ならまだ、坪井さんにもう一度話をすれば三人だけでデビューさせてもらえるかもしれない。こんな最低な行為に手を染めてまでバンドに縋り付こうとした俺に、皆の隣にいる資格なんてない。もう歌は歌えない。俺にはもう、二度と。
全てを話し終えた俺を、三人は唖然とした表情で見つめていた。覚悟はしていてもそんな目で見られるのがつらくなってしまって、俺はぎゅっと唇を噛む。
「瑪瑙」
名前を呼ばれて、とんと肩に手が置かれる。恐る恐る顔を上げると、クリス先輩が目の前に来ていた。その顔は、俺には怒っているように見えた。
ごめんなさい、と口から言葉が漏れる。今の俺にはそれしか言うことができなかった。怒って当然だ。こんなことをしようとした挙句に失敗して、責められないほうがおかしい。何より、今後の一ノ宮さんの出方次第ではそれこそメジャーデビューのチャンスがゼロになってしまうかもしれないのだから……。
「……あのね、よく聞いてほしい」
しかし、俺の予想に反してクリス先輩の声音は落ち着いたものだった。
「瑪瑙がいないDIAMONDなんて、俺たちはいらない。君の存在を失うくらいなら、メジャーデビューなんて一生できなくていいって、ここにいる全員が本気でそう思ってる」
怒っている。……いや、違う。普段の穏やかさが消え去るほど真剣に、俺と向き合おうとしてくれている。
クリス先輩は、誰よりも優しい人だ。最初に出会った時からずっと、地味で平凡でなんの才能もない俺に構ってくれて、気にかけてくれて、そして好きだとまで言ってくれた。俺が悩んでいたらいつも真っ先に気が付いて、俺が一番欲しい言葉をかけてくれた。そのくらい優しい人だから、俺が最低なことをしたと知った上でも、真正面から向き合ってくれる。
「だから……たとえ俺たちのためであっても、二度とそんなことはしないと約束してほしい」
責めるでもなく、諭すでもない声。それが余計に辛くて、俺は涙を流していた。
クリス先輩、俺のこと叱ってくれた。前に約束したからだ。間違えた時はちゃんと叱ってくれって、俺が言ったから。あの時、クリス先輩は困ったような顔をしながらも「必ず約束する」と言ってくれた。あんな何気ない会話を、先輩は……覚えていてくれた。
嬉しくて、でも胸が苦しい。自分が情けなくて、気付けば手のひらに爪が食い込むほど固く握りしめていた。その震える手を、誰かがぎゅっと掴む。
「先輩」
俺より小さくて、だけどあたたかい手。蛍だった。
蛍は唇を噛みしめたまま、ぽつりと言った。
「先輩が悩んでたこと、気付けなくてごめんなさい。もう絶対にこんな思いはさせないから……お願い。一緒にいてください」
俺が頑なに拒んでも、誰一人として引き下がる素振りを見せない。
どうして皆が俺のためにここまでしてくれるのかわからない。ボーカルとしても未熟だし、いくらお付き合いしているからって、恋人なんかそれこそ他に探せばいくらでも相手がいるじゃないか。それなのに、どうして?
「……俺、チャンス潰したんですよ」
俺のせいで、メジャーデビューの夢は消えてしまった。たとえメンバーが許してくれたとしても、それは紛れもない事実だ。俺はその事実に耐えられない。だから、戻ることはできない。
震える声でそう告げると、透輝さんはなんだそんなこと、とでも言うようにからりと笑って言った。
「チャンスなら、また作ればいいだろ。いくらでもな」
何度だって、掴んでみせる。
その言葉を聞いた瞬間、堪えていたものが一気に溢れ出して、何も言えなくなった。
俺はもう立っていられなくなって、ただその場で俯いた。涙が落ちるのを、止めることはできなかった。
「……もう一度……」
このバンドで、歌ってもいいですか。
俺の小さな問いに、一度と言わず何度でも、と返してくれる透輝さん。微笑んで頭を撫でてくれるクリス先輩も、泣きながら抱きついてくれる蛍も。
大好きだ。やっぱり、大好き。
実力が見合っていないのは、事実。そんな俺に皆が甘く接してくれていることも、きっと事実。
だから、これからもっともっと努力して、皆に見合う自分になろう。
大好きだから。大好きな皆と、ずっと一緒にバンドがやりたいから。
今すぐには無理かもしれない。それでも、どれだけ時間がかかったって、俺を見限らなかった皆の覚悟に恥じないくらい最高のボーカリストになってみせる。
心の中でそっと決意した想い。それは紛れもなく、俺の覚悟だった。
✦✦✦
久しぶりのライブは、なんだかとても目新しく感じた。
いつもお世話になっている、キャパ百五十人程度のライブハウス。観に来てくれるお客さんの面々も、見知ったものだ。メジャーのバンドがライブするような大きな会場ではないし、飛ぶ鳥を落とす勢いで新規ファンを獲得しているわけでもないけれど……やっぱり、俺はこの場所で歌うのが好きだし、俺たちの音楽を楽しそうに聴いてくれる人達のことが好きだ。皆の演奏に合わせて歌っていると、なんだか心の中の霧が晴れたかのようにすっきりとしているのを感じた。ステージから見える景色もキラキラと輝いている。今まで見てきたものと何ら変わらないはずなのに、不思議とそれは何よりも尊いものに思えた。
「瑪瑙くん」
ライブを終えて、ドリンクカウンターで飲み物を交換していると、ふいに背後から名前を呼ばれた。
振り返ると、そこにいたのは——なんと、一ノ宮さんだった。
「あ……」
「探してたんだよ。あれから連絡取れなくなっちゃったから」
あの時のことを思い出してしまい反射的に萎縮した俺に対して、一ノ宮さんはまったく意に介していないかのような、普段通りの笑顔を浮かべている。
久しぶりだね。そう言って、彼女は親しい友人のようにこちらに歩み寄ってきた。
それから、耳元でそっと告げられたのは、想像していたよりもずっと軽い言葉だった。
「この間のこと、別にいいよ。若い子にはよくあることだし」
その言い方が、逆に背筋を冷やす。
不義理を働こうとしたのは、他ならぬ俺自身だ。一ノ宮さんは最初から選択肢を与えてくれていた。その上で、彼女の誘いに乗ったのは俺だから。今回のことを一ノ宮さんが『なかったこと』にしようとしているのは想定外だったけれど、それでも……彼女にその気がなくなって、俺の中でこの事実は消えない。
固い表情を隠すことができないでいる俺に、一ノ宮さんは畳み掛けるように言う。
「ただ──全員でのデビュープランは、今日で白紙ね」
笑顔のまま、簡潔に彼女はそう告げた。
ぐ、と息が詰まる。わかっていたことだ。あんなことをしてしまって、その上で今さら俺の我儘がまかり通るわけもない。当たり前だ。透輝さんたちの励ましもあって、それはとっくに諦めていたことではあったが、やはり面と向かって告げられると心にきた。俺が最後まで耐えていれば結末は違ったのではないかと、そう思ってしまう。
「業界は甘くないし、約束を守れない子にチャンスは与えられない。実力で掴めるなら、掴んでみなよ」
——でも、二度とあんなことはしない。約束したから。俺のために怒ってくれたクリス先輩のために。俺のために泣いてくれた蛍のために。俺がいなければ意味がないと言ってくれた透輝さんのために。……そして、俺自身のために。
俺は震える唇を開いて、彼女に告げた。
「……約束を守れなかったことは、申し訳ないと思っています」
心臓がばくばくと音を立てているのがわかる。怖い。ただでさえ大人の女性が相手であるというだけでも恐ろしいのに、いま目の前にいるのは一度は身体の関係を持とうとした女性なのだ。一刻も早くこの場から逃げ出したい、というのが本音でもあった。……けれど、そうやって逃げてばかりでは、今までの俺と何も変わらないから。
「ちなみにだけど、君だけならデビューさせてあげる……って言ったら、どうする?」
一ノ宮さんからの問いに、俺は間髪入れずに首を横に振る。
そして溢れそうになる涙を堪えながら顔を上げ、一ノ宮さんをまっすぐ見据えた。
「お断りします。もう、二度とあんなことはしないって誓ったから。あなたの言う通り、今度はちゃんと……実力で、掴んでみせます」
俺のその言葉を受けた一ノ宮さんは「へえ」と面白そうにこちらを見返してきた。その意図の読めない視線に内心びくつきながらも、俺は彼女と目を合わせ続ける。
お互いに少しの間そうしていたが、やがて一ノ宮さんは目を伏せるようにして俺から目線を逸らし、肩を竦めた。
「期待してたんだけどなぁ、残念。まあ、仕方ないか」
そう言うと、あっさりと俺に背を向けて歩き出す。枕未遂のことで俺を強請るでもなく、これっきりで全て終わり、といった態度だった。そんな一ノ宮さんの様子に、きっと彼女とはもう二度と会うことはないのだろうと、なんとなくそう思った。
なんだか淡白だ。音楽業界の人は、皆こんな感じなのだろうか。
見込みのあるアーティストには目をかけて、それ以外は切り捨てる。売れなければ意味がなくて、逆に売れるのであればそれまで積み上げてきたもの全てを崩してでもその通りにしなければならない。なぜなら、売れなければ生き残れないから。何をするにしても、まず売れることが大前提だから。
これを理不尽だとか、嬉しくないことだと感じてしまう俺は……やっぱり、メジャーに行くにはまだ早かったのだと思う。
そんなことを考えながらその場に立ち尽くしていた俺の方を、一ノ宮さんは最後に一度だけ振り返った。
「ああでも、今日の歌はわりと良かったと思うよ」
そう言い残してから、彼女はじゃあねと軽く手を振り、ライブハウスを去って行った。
✦✦✦
――三年後。
俺たちはあの頃と相変わらず、インディーズバンドとしてライブ活動を続けている。
あれから俺たちメンバーは進級や就職を迎えたりして、それぞれ環境が変わった。俺も就職して社会人になった。それでも『DIAMOND』のメンバーは入れ替わることはなく、今でもあの頃と同じメンバーで活動を続けられている。些細なことかもしれないけれど、俺はそれを奇跡のように感じているし、何よりも嬉しく思っている。
今夜は、長年お世話になっているライブハウスで何度目かのワンマンライブだった。
客席を埋め尽くす光と歓声。スポットライトの中で歌うこの瞬間が、やっぱり何よりも好きだと心から思う。
あれからもう数え切れないほどの曲を作って、覚えていられないくらいたくさん練習して、ライブで披露してきた。上手くいかなくて悔しい思いや、努力が実らなくて歯痒い思いだって、何度も何度もしてきた。
決して、良い思い出だけとは言えない。それでも……新しい曲も、懐かしい曲も、メンバーと作り上げた全てが俺の宝物だ。
所詮アマチュアだと言われればそれまでかもしれない。けれども、大好きなメンバーと共に作り上げて、ファンの皆とひとつになれるこの空間は、何にも代え難い俺の財産だ。
今日のワンマンライブはバンド史上最高動員を記録し、大成功のうちに終わった。
俺たちの音楽が洗練されているのがわかる。少しずつ集客も増えてきている。メジャーに行けなくたって、皆が羨むような大スターになれなくなって、大好きなメンバーと一緒にライブができるのなら、それでもいい。いや、それも悪くないと、今なら心から思えるんだ。
アンコールまで終わったあとの楽屋は、妙に静かだった。さっきまであれだけ大きな音に包まれていたのに、今は余韻だけが残っている。誰もすぐには口を開かなかった。けれど、その沈黙は気まずいものではなく、ただそれぞれが同じ余韻に浸っているだけだとわかる。
「……終わったな」
透輝さんがぽつりと言う。
「はい」
自分の声が、まだ少し震えているのがわかった。ステージの上ではあんなに堂々としていられたのに、終わった途端に現実に引き戻されたみたいだ。それでも、まだ胸の奥がじんわりと熱い。
「どうだった?」
クリス先輩が優しく尋ねてくる。
どうだった、なんて……そんなの、決まっている。
「……すごく、楽しかったです」
言葉にした瞬間、涙が出そうになって慌てて俯く。
「皆の音、ちゃんと聴こえてました。クリス先輩のギターも、透輝さんのベースも、蛍のドラムも……全部。ああ、俺、このバンドで歌ってるんだなって、改めて実感して……」
言いながら、自分でもおかしくなる。当たり前のことなのに、どうしてこんなに特別に感じるんだろう。どうして泣くほど嬉しいんだろう。
「お客さんの反応も良かったですよね!」
蛍がこちらに寄ってきて、珍しく弾んだ声で言う。
「ああ。特に新曲のところ、手応えがあったな。瑪瑙の声が一番伸びてた」
透輝さんのその一言に、胸がとくんと跳ねる。
「そ、そんなこと……」
「あるよ」
間髪入れずに言い切られて、言葉が詰まった。
「今日のライブ、引っ張ってたのは間違いなく瑪瑙だった」
透輝さんから真っ直ぐすぎる言葉を向けられて、つい頬が緩みそうになるのを必死に堪える。認められるほど、自分がそれに見合っているのか分からなくなる。けれど、そんな俺を認めてくれた皆のことは、信じているから……今は俺も、きっと努力は実っているはずだって、自分を信じることができている。
「……俺、まだ全然です」
それでもやっぱり、足りない部分だってまだまだ多いと感じているのだけれど。
俺が苦笑しながら答えると、隣にいた蛍がじっとこちらを見つめてくる。
「神崎先輩は、自分で思ってるよりずっとすごいですよ」
「……やめろよな、そういうの……」
照れ隠しのつもりで言ったのに、声が掠れてしまう。そんな俺の背中を、蛍はとんと撫でるように叩いた。そんな何気ない励ましに、心臓が高鳴った。
蛍のやつ、この三年ですっかり格好よくなっちゃって。いや、顔は相変わらずずっと可愛いままなんだけど、なんて言うんだろう。……俺の甘やかし方が様になってきた、っていうか。
クリス先輩だって、透輝さんだって同じだ。元から俺に甘いところが多かったけれど、最近は特に甘い。俺の努力を正当に認めてくれているのは勿論わかっている。だが、恋人としての欲目も少なからずあるだろう。そうに決まっている。もしそうじゃなかったら、俺……今なら皆の横に並んでいてもいいんだって、つけ上がってしまいそうだから。
ドキドキしながら俯いている俺の頭を撫でてから、透輝さんがフォローをするように言う。
「今日の手応えは偶然じゃない。俺はそう確信してる。今後の活動で、ファンに対してもそれを証明していかないといけないな」
透輝さんのその言葉に、自然と背筋が伸びた。
そうだ。これで終わりじゃない。むしろ、ここからなんだ。
あれから幾度となくライブをしてきた。それでも色褪せることのない高揚感。何度だって体験したい、特別な時間。ファンの皆にもこの感触を共有し続けていてほしいと、俺は思う。だからこそ、これからもこのメンバーで走りたい。
楽屋の空気が引き締まったものに変わる。きっと、メンバー全員が同じ気持ちでいてくれているのだろう。それが伝わってくる。
誰からともなく、俺たちは見つめ合って微笑んだ。これから先、何があってもこの四人でライブをしていきたい。そんな決意がそれぞれから伝わってきた。
言葉を交わさずともわかるほど、強い意志。その思いを噛み締めるようにしばらく全員が無言のままでいたが、少しして、空気を和らげるようにクリス先輩が手を叩いた。
「ひとまず、今日はお疲れ様。この後はどうしようか。時間があれば、このまま打ち上げする?」
クリス先輩の提案に、俺はあ、と声を上げる。
「すみません。明日、お母さんのお見舞いに行くので」
そう言うと、三人が一斉にこちらを見た。
俺の母親が入院していることは皆、知っている。最近はたまにお見舞いに行くようになったことも。母親との関係はまだぎこちないし、修復を焦ることもしたくない。だけど、最近は少しずつ、自分の話やバンド活動の話を母親にもするようになっていた。時間はたくさんかかるだろうけれど、いつか、普通の親子に戻れる日が来たらいいなと……心の内でそう願っている。
「そっか。じゃあ、打ち上げはまた今度ですね」
「お母さんによろしくな」
「はい。きっと、すごく喜ぶと思います。ワンマン成功したって言ったら」
「ああ、そうだな」
母親のお見舞いに行く、と言った俺に、三人とも優しい言葉をかけてくれた。
俺の女性恐怖症は今も治っていない。家族との事情も、すべては話せていない。それでもこうして俺の背中を押して応援してくれる彼らのことが、俺は大好きだ。きっとこれから先も、彼ら以上に好きになれる人は現れないのだと、そう確信しているくらいに。
俺は長い間、忌々しい過去からひたすらに目を背けてきた。けれども今は彼らのお陰で、少しずつだけど向き合うことができている。だから——いつか、すべてを打ち明けられる時が来るのかもしれない。未来のことは何もわからないけれど、なんとなく、そんな予感がしているんだ。
大切な人たちに囲まれて、こんなふうに未来の話ができる日が来るなんて、あの頃の俺は想像もしていなかった。
俺、バンドやめなくてよかった。歌うことを諦めないでいてよかった。
願わくばこの先も『DIAMONDの神崎瑪瑙』として皆と歩んでいけたら、他には何もいらない。……なんて言ったら、三人ともどんな顔をするんだろうな。
——コンコン。
不意に、楽屋の扉がノックされる。
透輝さんが「どうぞ」と声をかけると、スーツ姿の男性が一人、静かに入室してきた。見覚えのない人物に、俺たちは顔を見合わせる。
「突然失礼します。私、ツルマキレコードでプロデューサーをしております、春田と申します」
そう言って、その男性は丁寧に頭を下げ、名刺を差し出した。一枚ずつ受け取った俺たちは、同時に息を呑む。
「本日のライブ、拝見させていただきました」
静かだがよく通る声が、楽屋に響く。
「ぜひ——DIAMONDの皆さんに、正式にお話をさせていただきたく参りました」
心臓が、どくんと大きく跳ねた。誰もすぐには言葉を発することができない。
俺は三人と視線を交わし、小さく頷いた。それから、四人で同じ方向を見る。それだけで充分だった。
もう迷いはない。
「……よろしくお願いします」
透輝さんが代表してそう答えると、俺たちは自然と笑い合った。
あの日、壊れたと思っていた未来が、確かにここに繋がっている。ステージの熱気がまだ残る楽屋で、俺たち四人は名刺を握りしめながら、静かに次の夢を見据えていた。
end,
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