天国地獄闇鍋番外編集

田原摩耶

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縁×齋藤

縁方人について

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 仲睦まじい恋人同士を見て、素直に羨ましいと思ったのはどれくらい幼い頃だろうか。
 目を合わせ、手を握るだけでお互いに満たされる。
 血も繋がっていない赤の他人同士がそれだけお互い心を通じ合わせる。
 それはとても素敵なことだと思った。
 けれど、どれもそれは創作物の世界での話だ。
 現実には有り得ない。
 ただでさえ、家族とも心を通い合うことが出来ないというのだから。

「方人、なんなの。あの酷い演奏は。言ったわよね、今夜はお父様の大切な客人が来るって」
「……」
「ただでさえ未熟な癖に譜面通りの演奏も出来ないなんて……貴方のような素人は素直に楽譜のまま弾けばいいのよ」
「……すみませんでした」

 前に、『お前の弾くヴァイオリンが好きだ』と父に褒められたからだろう。
 幼い頃の俺は自分の好きなようにして良いんだと勘違いしていた。
 けれど周りが求めているのは違う、譜面通りの完璧な演奏を求めているのだ。そこに俺は必要ない。
 そう思うと、なんのために自分が必死になっているのか分からなくて、いつからだろうか。あんな弓を握るのを辞めたのは。
 俺よりも上手いやつなんて山程いる。
 それなら、趣味に毛が生えた程度の技術しかもたない自分が努力する必要はないのではないか、と。

 それでも、部屋のヴァイオリンを捨てる気になれないのは何故だろうか。
 薄々は分かっていたが、正直認めたくはなかった。

「お前、ヴァイオリン辞めたのか?」

 伊織は、父の友人の息子で、たまにうちに来ては演奏を聞いていた。
 演奏会に出なくなってから全く会わなかったが、奴と再会したのは中学生の頃だった。
 同じ学校ということは知っていたが、同じクラスになるとは思わなかった。どうせ覚えられていないだろうと思っていたが、顔を合わせて早々奴はそんなことを聞いてくるのだ。

「爪、伸びてる。それに、タコ一つねえ綺麗な指になってんじゃねえか」
「……」
「なんで辞めた?」

 伊織のことは好きではなかった。
 周りの大人から可愛がられ、尋ねればなんでも答えてもらえると信じて疑わないその目が不愉快だった。

「んーなんていうかさ……飽きちゃったんだよね。それに、うちの家には兄さんも姉さんもいるし将来安泰ってね」
「何言ってんだ。お前んところの兄貴と姉貴には出来ないだろ、あの演奏は」

 ただのお世辞なら聞き飽きていた。
「そりゃどーも」と適当に返すけど、正直、胸の奥がざわついて仕方なかった。
「素晴らしい」とか「大人でも難しいのに」とか「子供とは思えない」とか、それっぽい言葉を並べただけの易い賛辞は腐るほど聞いてきたと思っていたのに、年端もいかないこんな生意気そうな子供に褒められて喜ぶなんて自分でも笑える話だと思った。
 けれど、後になって思う。自分と変わらない年の子供だからかもしれない、その言葉が素直に胸の奥へ入り込んできたのは。
 それからつるむようになってから分かったことだが、伊織はあまり人を褒めない。
 人をボロクソに貶すことはあっても、素直に褒めることは滅多にないのだ。
 だからこそ余計、部屋のヴァイオリンを捨てきることが出来なかった。好きだと言われたわけでもないが、それでも、自分を認めてもらえたような気がしたからだ。

 けれど、高校に上がって学生寮に暮らすことになって。
 自宅に置いてそれが他人の目に付くことが嫌だった俺はとうとう学生寮にそれを持ってくることにした。
 中学に上がる前に蓋をしたまま、それっきり開けていないヴァイオリンケース。ただの荷物になると分かっていても、それでも傍に置いて置きたかった。
 捨てることも出来ず、触れることも出来ない。有耶無耶なままにして全て誤魔化す。
 女々しいと、自分でも嫌気が差した。

 伊織は、あれ以来ヴァイオリンのことを話すことは無かった。けれど、街中、一緒に歩いているときにクラシックが流れているのを耳にすると俺の方を見るのだ。
「あの時、お前が弾いていたのもこの作曲家の曲だったな」と。言いたそうな目で。それを見てみぬふりをして俺はその店の前を通り抜けるのだ。

 忘れることもできないまま、たまに頭の中で音階をなぞるだけで良かった。
 けれど、俺は仕舞っていたヴァイオリンを壊した。何度も叩き付けて、弦を千切って、それを、ゴミ袋に突っ込んだ。
 発作のようなものだった。
 なんとなく流し見ていたテレビの中、始まった番組で特集を組まれていた世界で活躍する音楽家の姉弟の映像。そこに映る見覚えのある顔に、聞き覚えのある癖のない音楽に、何も考えられなくなったのだ。
 インタビューに答える母が「自慢の息子と娘です」と笑っているのを見て、出てくる昔の写真どれもに俺の姿がいないのを見て、馬鹿馬鹿しくなった。
 実力社会で、努力をすることをやめた俺の自業自得だと分かっていても、どうしようもなかった。
 壊してみたら案外あっさりしたもので、特に何も感じることはなくなっていた。
 寧ろ、肩の荷が降りたようだった。俺には何もないんだって、だから何も焦ることなんてないって。

 部屋が少し広くなってから、もう暫く経った頃。
 家と完全に疎遠になった俺は俺で好きに暮らしていた。
 伊織は生意気のまま成長したし、伊織の弟だっていう詩織も俺よりも学年の下ではあるが学園にやってきて、俺にも後輩が出来た。
 学年が下である知り合いはいるが、後輩と呼べるような間柄でもない。
 その点、齋藤君は俺のことを先輩と呼んでは何かと頼ってくれる子だった。
 ……まあ、伊織と付き合っていたけど。

「縁先輩って、何か楽器やってましたか?」

 そんなある日のことだった。
 齋藤君がそんな突拍子もないことを聞いてきたのは。

「……どうしてそう思うのかな?」

 なるべく平静を装ったつもりだったけど、声が少し上擦ってしまったことに後悔する。
 それでも、齋藤君は気付いていないようだった。

「先輩の左手の指、この二本が他の指よりも硬かったので……そうなのかなって思ったんですが……」
「へぇ、君の家族にも奏者がいたの?」
「親戚にヴィオラやっている人がいて」
「そうなんだ。……でも、俺のは違うよ。多分、伊織と徹夜でゲームしてたからじゃないかな」

 我ながら馬鹿みたいな返事だと思ったけど、正直長く続けたい話題でもなかった。
 齋藤君のことは好きだ。気は弱いけど基本的に良い子だし、けれど、たまにとても目障りになるときがある。
 それが、今だろう。何も知らないからこそ、彼はたまに遠慮なく大きく踏み込んでくるのだ。

「そう、ですか……」

 齋藤君は気付いているのかもしれない。俺の嘘に。
 それでもまあ。いいと思った。
 変に気遣って、それ以上余計なこと聞いてこなければ万々歳だ。

 自分を削ってまで打ち込むものがなくなってからの日々は俺に取って無味乾燥としたものだった。
 何をしていたのか自分でも覚えていない。淘汰するような毎日に、少しでも刺激を感じたくて生きてきた。
 弓を握っていた手は汚れ、一番近くで自分の音を聞いていた耳には何も聞こえない。

『そういうの、自暴自棄だって言うんだよ』

 何も知らないくせに、あいつはそう言った。
 自暴自棄。棄てるほどの自分が俺の中にあったのだろうか。
 言われた時は「俺の何を知ってるんだ」と殺してやりたい気持ちでいっぱいだったが、今となったら分かる。
 あいつが俺を自暴自棄だと言った意味も。
 最初から、掃いて棄てるつもりでいた。だから、誰に恨まれようがどうってことない。好かれたところで、何も満たされない。そこに自分がないからだ。そう言いたかったのだろう、やつは。

「……ッ、は、ぁ……うぅ……ッ」

 初夏の夜。地面の上で魘される齋藤君を眺めていた。
 あの綺麗な顔は青黒く腫れ上がり、跡形もない。
 可哀想だとも思わない。けれど、伊織が見たらどう思うのだろうかとは考えた。
 あいつは、自分を持っている。
 俺よりも、強固な自分を、芯を。

「っ、げほッ、……う゛ぇ……ッ」

 大きく跳ねたかと思えば、蹲った齋藤君は血の混じった反吐を吐き出した。
 そっとその頬に触れれば、ヤケドしそうな程の熱が薄膜から伝わってくる。その唇に自分の唇を重ねれば、酸と鉄が混じったような独特の味が咥内に広がる。

「っ、し……ま……」

 掠れた声。
 けれど、発せられたその言葉を俺は聞き逃さなかった。
 ……志摩。志摩亮太。

 目を覚ましたのかと思いきや、寝惚けているようだ。齋藤君は目を開けることはなかった。

 血も繋がっていない赤の他人同士がそれだけお互い心を通じ合わせる。
 それは、恋愛感情に限らずとも可能かもしれない。
 恋人である伊織でも、騎士である芳川でもなく、亮太を選んだ齋藤君。その目に映る世界はどんなものなのだろうか。興味があった。
 それがどれほど強固な絆なのか。
 どこまで耐えられるのか。
 ……ただ純粋な興味だった。

「……教えてよ、齋藤君」

 諦めないで、何度も殺意を向けてくる君のことが俺はただ純粋に好きだった。
 羨ましくて、こういう風に誰かに強く想われて殺されるのならばそれはとても光栄なことではないかと思えるのだ。
 いつまでも伊織の傍で犬でいてくれたら、こんな風に焦がれることもなかったのだろう。

「……齋藤君……」

 ずっと、憧れていた。
 幸福感に包まれ、仲睦まじく視線を交わす二人。
 その二人の絆を壊すのが。
 そんなものあるはずがないと、それを証明するのが。
 無償の愛なんて有りもしない。脳の誤認による錯覚だ。それを愛だの恋だの抜かして浮かれる馬鹿面をぐちゃぐちゃに踏み躙るのが、喜びだった。

 俺は、ホースを手に取った。土で汚れたそれを齋藤君の口に通す。少し咽ていたが、開いていた喉には少し強引に手を押し込めば滑り込んだ。

 恋愛感情なんてないと思っていたが、俺が齋藤君に焦がれるこの気持ちは嘘偽りもないんだから不思議なものだ。
 結局は、自分が感じられないものを信じたくないだけなのかもしれない。
 なんて、思いながら俺は蛇口を捻った。


 おしまい
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