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閉(とじる)

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 最初は言葉さえ通じれば……なんて考えていたが、ソレは全く甘いことを思い知らされた。言葉が通じても話題が無いから接点が作れない。必然的に俺の会話相手はアメジストを始めごく僅かとなってしまうのだが、誰も彼もが忙しい身であるからそうそう時間を取れる筈も無い。

 そんな俺に救いの手を差し伸べてくれたのはローズだった。彼女は手持ち無沙汰だった俺を見兼ねたのか仕事を1つ仲介してくれた。言葉や常識がわからなくても大丈夫な力仕事。荷物を指定場所まで運ぶだけという単純労働だったが、これが非常に助かった。言葉は通じてもそれ以外は全く無知な今の俺にすれば天職以外に表現しようがなく、だから肉体的にもそうだが特に精神的に楽だった。

 それにここ最近、身体の調子も良い。身体を動かしているからか、それとも僅かながらでも誰かの役に立っている実感か、それとも単純に金を稼ぐ手段を得た安心感か。恰好な重量の荷物を運んでいるのに殆ど疲れないどころか寧ろ絶好調。何れにせよ仕事を持ってきてくれたローズには感謝したい。

 しかも、当人曰く"時間があるから"という理由で一通りの指定業者への顔見せにまで付き合ってくれた。確かに今の俺は大多数から見れば素性不明の客人で、実際に1人で外をぶらついていればまるで腫れ物扱いされたモノだが、それもローズの介入以降は全く無くなった……のだが、1つだけ気になる事がある。俺と顔を合わせた誰もが俺と距離を取っている様な気がする。

 ローズに余程こっ酷く叱られたのだろうか?しかし誰に何を聞いても何も答えてくれないし……それに、何となくだが働き始める以前よりも余所余所しくなった様な気までしている。

 気のせいだろうと、俺は自分に言い聞かせた。卑下する訳ではないけど俺は余所者だし、あるいはこの都市でも段違いに知名度が高い4姉妹と行動を共にしているという理由もあるんじゃないかと、だから考えすぎだと言い聞かせた。が、しかしその奇妙な感覚は日を追うごとにドンドンと強くなっていく。図書館での勉強後、シトリンと外に出た時や、ルチルと都市外縁を走っている時に感じる奇異の視線とは明らかに違う、何とも説明しがたい視線に見つめられている気がする。だから荷物の運び先でそれとなく聞いてみたが……

『やだなあ。そんな風に見てませんよ。そりゃあ最初位は……ね。でも案外いい人だと分かりましたからね。』

 全員が全員、何とも素っ気ない返答を返すばかりだった。やはり勘違いなのか?疑問は膨らむけど、でもこれ以上を疑いたくない気持ちも強い。何より勘違いだったら仕事を紹介してくれたローズの顔に泥を塗る事にもなる。

『あの、ローズさんに贈り物の1つでもした方が良いですよ?ホラ、仕事の世話してもらったでしょ?』

 大量に貸し出された本と資料を運び終えた直後、何時もなら余所余所しく荷物整理に戻る筈の女性司書がそんな提案をしてきた。確かに、言われてみればそうだ。シトリンやルチルが何もしていない訳ではないのけど、特にここ最近はローズに頼りっぱなしだった。とはいっても何を贈ればいいんだ?4姉妹の一番年下で見た目だけなら他よりも少しだけ幼さが残るが、そんな彼女であっても俺よりも数百年以上も年上だ。

『ネック……いや首輪なんかどうです?』

 悩める俺に司書はそう助言してくれたが、正直なところ拒否感の方が強かった。首輪って……まだこの世界の事情には疎い俺でもソレは無いんじゃないかと分かる程度にはダメな選択だ。それじゃあまるでペットみたいじゃないか。

『そうですか?でもそれってアナタの世界の話ですよね?コッチでは一般的ですよ?』

 司書は淀みなくそう言い切った。確かに一理ある。この世界の常識はまだ全部覚えきっていないが、だからこそそう言われれば妙に納得してしまうのも確か。

 プレゼントに首輪か……妙に釈然としないが、でも考えておいても良いかも知れない。そう伝えると、何時もは本当に余所余所しい司書はどういう訳かご丁寧にそう言った贈り物を売っている店の場所まで教えてくれた。場所は商業区の外れ。ちょっと遠いが、まぁどうせ仕事が終われば暇だし寄り道位しても問題ないだろう。

 ※※※
 
 心地よい疲れと共に深い眠りに入ってからどれ位の時間が経過しただろうか。ふと意識を取り戻せば、漸く慣れたベッドとは違う場所に寝そべっている事に気づいた。霞む目をこすれば一面真っ暗な空間。また夢か?と思ったのだが、背中にフワフワとした何かの感触を感じる。コレは……多分カーペットだ。俺が当面の住まいとして借りている来賓室のソレを踏みしめた感触と同じ感覚を背中に感じる。

 が、分かるのはココまで。俺はココに連れてこられたのだろうか?だとするならば何時の間に?もしや誘拐か、あるいは監禁されたのかとも考えたが、暗闇の中でもはっきりと分かる状態がその全てを否定した。手足は自由に動いた。そもそも誘拐するならフラリと立ち寄った商業区とかもっと場所があった筈だし、手錠とか縄と言った物で拘束していないのも変な話だ。一体何がどうなってこんな事になっているのか……そんな思考を切っ掛けに今までを振り返ってみれば、ここ最近の波乱万丈ぶりに驚く暇も無かったと気付いた。

 地球から名前も知らない星に飛ばされ、ソコで暮らす羽目になった。約1名から実害ほぼ無しのストーキングっぽい何かを受けているが、それ以外に何らの危険性も無く穏やかに過ごす今の暮らしは確かに幸せかも知れない。

 ――幸せ?本当にそうか?そもそも地球での思い出は転移される直前の記憶だけが綺麗に抜け落ちている事を除けば大抵覚えている。嫌な事だらけだったけどコッチと比較すれば大分マシな部類で……なのに、どうして無条件に幸せなんて思ったんだ?
 
 そもそも俺は一体忘れているんだ?その事実に気づき、現状よりも自分自身への不安が大きくなる最中……コツコツと誰かが此方へと向かってくる足音が聞こえた。やがてギィと静かに扉が開く音が薄暗い部屋に木霊すと同時に、心なしか湿った冷たい空気の中に蠟燭の灯りが灯り、その中に誰かの姿が浮かび上がった。ボウッと浮かび上がった特徴的な曲線美が女性であることを強調している。

 薄暗い部屋の中に静かに歩く足音が響き、またソレに合わせ蝋燭の頼りない揺らめきが部屋をほんの少しだけ照らす。そして……俺の直ぐ傍までやって来たところで、灯りの中に1人の女の姿が浮かび上がった。

 彼女は……ローズだ。黒く長い髪を後ろで纏めたローズは無表情のまま俺の前までやってくると、そのまま通り過ぎた。視界を灯りの中に浮かび上がる彼女へと向ければ、その灯りの下に机が照らされた。手に持った灯りをソコに置いた彼女は次に何もない真っ暗な空間に触れると力強く押し、何かを開け放った。バンという音が部屋中に広がる。

 ソコには窓があった。真っ暗な空間は開け放たれた窓から飛び込む光の中に溶けて消えた事で漸くこの辺りの状況が明らかになった。ココは、どうやらかなり大きな部屋のようだった。窓の傍には木製の机があり、その上には外から吹きつけた風で火が消えてしまった燭台が見えた。

 日の光に照らされた事で漸く部屋全体の景観が明らかとなった。全体を見回せば、質素で殆ど何もない。机の他にはダブルサイズのベッドがあり、白い壁を見れば一面に……
 
『おはよう。気分はどうですか?』
 
 窓から吹く風を受けながらこちらを見たローズはにこやかに微笑みながらそんな事を言った。彼女だ。俺をココに連れてきたのは間違いなく彼女だ。だけど……壁を見た俺は混乱してその質問に答えられなかった。が、そんな感情は次の瞬間には容易く塗り替えられた。気が付けば彼女の顔が目の前にあった。素直に綺麗だと思う。多分、地球は元よりこの世界でもこれ以上を探すのは無理だと思える美しい顔が間近にあり、俺を心配そうに見つめる。が……

『お腹、空いていませんか?』

 いや、そんな事を言いたいんじゃない。彼女、明らかにこの部屋の異様な光景から目を逸らして……いや、何も感じていない。同時に直感した。俺がなんとなくそう感じていて、この都市の大半が信じて疑わない穏やかで優しいローズという女性の性格は表向きで、全員を偽っているのだと。

「あの、コレは何ですか?」

『コレって、具体的にどれです?』

 やっぱり。彼女は壁一面に掛けられた物を何とも思っていない。

『ウフフ。良く残せていると思いませんか。特にコレ、苦労したんですよ。あぁ。後コレも、それからコレも……』

 満面の笑顔で答えた彼女は、立ち上がると壁一面に飾られた額縁を恍惚とした表情で見つめる。より正確にはその中に映った俺の顔を、だ。以前、水晶を通して遠方の景色を見せてもらった事があったが、目の前にあるコレは少なくともその手のモノとは違う。ならば、以前シトリンが"地球のカメラと同じ機能を魔導で再現できるかも"とか何とか話をしていたアレ、まさかもう再現に成功したのか?

 彼女は俺を見ると再び笑顔を見せた。満面の笑みはとても眩しく輝いていた。が、怖かった。さっきまでの笑顔と同じなのに、記憶の中に残る朗らかで優しい笑みが今は途轍もなく怖かった。温かな風と光に照らされた部屋の中で俺は身震いしていた。

『私ね。』

 そう聞こえた直後、彼女の顔が目の前にあった。ほんの僅か気を逸らしただけなのに、気が付けば吐息を感じる距離にまで近づいていた。

『あの時、アメジスト姉さんがアナタに運命を感じた様に、私も同じ……いえ、それ以上を感じたの。だから……』

 次の瞬間、右手に鋭い痛みが走った。視線を移せばナイフが俺の手を貫いている光景が見え、鋭く光る鈍色の刃の先から柄へと目を移せばローズの細い指が見えた。彼女は俺の手を突き刺した。でもどうして?何故こんな事をする?

『コレが私。抑えようと思っても抑えきれない、血を死と破壊を望む暗い心が私の本性。』

 驚き混乱する俺がローズを見つめれば、ローズは恍惚とした表情で俺を見つめながら答えた。ソレはとても熱っぽく情熱的に見えたが、だけどそれ以上に暗く淀んでいる。
 
『でも、アナタは私の心に光を当ててくれた。』

 彼女はそう続けた。が、正直なところ全くこれッぽっちも微塵も記憶にないんですが……アメジストといい目の前のローズと言い、どうして身に覚えのない理由で俺に執着するのかサッパリ理解できなかった。あるいはコレがツガイの運命だというのか。

『だから決めたの。私……私をあなたのモノにしてもらおうって。』

 何を言っている?と、そう質問しようと思った直後、異変に気付いた。何故か喋れない。ソレどころか動けない、指一本さえ自由にできない。まるで身体を縛られている……いや、そんな生温い状態じゃない。

『ウフフ。コレが私の魔導。私ね、この世界で私だけの特別な力を持っているの。支配。全てを支配し制御する力。その気になれば言葉だけで他人を操る事も出来る力よ。』

 彼女はそう言うと血が滲み出る俺の手を愛おしそうに撫で、次に手を貫通するナイフを引き抜き、ポタポタと血が滴る手を握ると口元まで寄せ、そして優しく口づけをした。直後、暖かく湿った柔らかい何かの感触が手を伝い、次にぴちゃぴちゃと言う何とも淫靡な音が聞こえた。

 彼女……手を、血を舐めている。嬉しそうに、さっきよりもより一層恍惚とした表情で、一心不乱に、血が溢れる傷口を舐め、血が止まれば今度は手のひらから指先まで、血が伝った跡を綺麗にふき取る様に舐め続けた。ピンクの舌が怪しく動くその光景はとても煽情的だと思うのだが、正直なところ恐怖が先立っていてそれどころではない。

『血って魔導においてとても重要な要素なの。魔力は血流に乗って身体を巡る、血は魔導の媒介なんですよ。』

 ローズは名残惜しそうに舌を指先から離しながら血と魔力の関連性を俺に説いた。唾液が糸を引く彼女の口から語られた説明を聞いて血の気が引いた。まさか。と、最悪の可能性が過った。が、気づこうが気付くまいが既にどうにもできない状態になっていた。

 身体の自由が利かない……それどころか俺の意志を無視して勝手に動き始める。何時の間にか傷が塞がった手はゆっくりと彼女の背中に回り、身体も不自然に動き、やがてローズをギュッと強く抱きしめるような体勢を強制された。

 あぁ、と甘い吐息が耳をくすぐった。きっと、もっと真っ当に真っ直ぐに好意をぶつけられていたら、多分俺はその声と同時に理性を窓の外に投げ捨てていただろう。しかし彼女の言動は真逆の結果を生む。理性と生存本能が同時にかつ最大限に警戒する。彼女は危険すぎると、うっかり手を出したら確実に死ぬと全力で警戒信号を発する。

『ウフフ。でも、コレは私の望みじゃないの。』

 抱きしめられながら、嬉しそうに彼女はそう言う。なら何が望み何だろう。というかその前にローズと言い、アメジストと言いなんでこう性格がアレなのか。真面なのは2/4とは……意外と普通なのか?

『今、誰の事を考えてた?』

 耳元で囁かれた声はとても澄んでいた。だが透き通ったその声は、同時にとても冷めた冷酷な声だった。聞くだけで心臓をギュッと握り締められるような、そんな感覚に襲われた。怖い……心と感情がソレ一色に染まる。

『うふふ。まぁいいわ。私ね、初めてなの。今まで、誰一人、姉妹も母でさえどうでも良いゴミとしか思えなかったのに。でもアナタだけは違う。私ね……あなたのモノになりたい。アナタに支配されたい。心も身体も全部、全部ぜんぶゼンブゼンブゼンブゼンブゼンブゼンブゼンブゼンブゼンブゼンブゼンブゼンブゼンブゼンブゼンブゼンブゼンブゼンブ……』

 支配されたい、そんな事を言った彼女はまるで狂ったように同じ言葉を繰り返す。危険だ。直感どころの騒ぎじゃない。というか超ド級の危険人物じゃないか。それこそアメジストが可愛く見える、というか彼女は思考の危険さの割にポンコツ過ぎるから結果的に人畜無害なだけだが。

 だけどローズは違う。明らかに危険、傷つけるという行為に対する躊躇いが微塵もない。そんな彼女が今まで隠していた本性を晒すという事は、もう隠す必要も理由もないという事。つまり俺はこのまま……
 
『焦らないで?私、好きなものは最後まで取っておくタイプなの。じゃあ、おやすみなさい。』
 
 またもや意味不明な事を、と叫ぼうとしても相変わらず身体の自由が利かない。直後、再び真っ暗な闇に放り出された。記憶と意識が混濁する……

 ※※※
 
 朝。豪奢なカーテンの隙間から暖かい日差しが射し込み、小鳥の囀りが聞こえる中、俺は目を覚ますと何時もの如く目覚ましがわりの携帯を探して、暫くもすればあぁと気づく。ここは地球ではなくて、俺はもう会社に行かなくていいんだ、と。

 しかし、何故だろうか。今日の寝覚めは異様に悪い。来賓用の豪華な部屋も豪華でふかふかすぎるベッドにも慣れた。覚束ない視界で窓へと目を向ければ、カーテンの隙間から零れる白い光が見える。朝。今日も気持ちが良い位の快晴……なのに俺の心はそれとは真逆に淀んでいる。

 思い当たる節と言えば、何か怖い夢を見たような気がする位か。が、全く記憶にない。だがソレが原因だとしたら、ここまで身体に変調を来す夢って一体……そう考えた直後、何か嫌な映像がフラッシュバックした。

 脳裏に浮かんだのは黒い髪の女性に手を突き刺される映像。誰だ?しかし手を見ても傷は何処にもない。と思うがそりゃあそうだ、夢だし。

 きっと疲れているのだろう。そう言えばルチルとの約束でここ最近は走り込みやら筋トレやらも始まっていて、ソコにローズが仲介してくれた仕事が加わった。だからきっとそのせいだと、そう思って毛布を頭から被った直後、ギイと部屋の扉が開く音が聞こえた。

 毛布の中の俺は、何故か怯えていた。無意識に身体が震える。誰だ?授業は休みだからシトリンとルチルは有り得ない。ならアメジストか。でも彼女は何時もこっそりと、どうやってか知らないが扉を使わないで侵入してくるから彼女も違う。ならば……そう考えた俺は毛布の隙間からこっそりと誰かを覗き見たが……アレ、誰もいない?

『どうしたんですか?』

 不意打ち。毛布の上から女性の声が聞こえた。ローズだ。だけど、そう気づいた直後から俺は酷く震え出した。なんでだ?

『うふふ。今日はお休みですものね。でも余り寝すぎても身体に良くないですよ?ホラ。』

 彼女はそう言うと優しく毛布をはがした。ローズと目が合う。が、ソコには何時もの彼女だった。穏やかで優しく朗らかで人当たりの良い4姉妹の末妹、ローズがそこにいる。気のせいだよな、俺は自分にそう言い聞かせた。そうだ、彼女に人を怖がらせるような素養は無い筈だ。何を怖がっていたんだろう。

「いや、確かにそうだ。」

『うふふ、そうでしょう?』

 彼女はそう言うと殊更に眩しい笑みを浮かべながら窓へと向かい、そしてカーテンを開け放ち、次に窓を全開にした。開け放たれた窓から飛び込む光の中にローズが立つと、彼女の背後に影が落ちる。直後、また脳裏から記憶にない光景がフラッシュバックした。窓辺に立つローズの姿とフラッシュバックする光景が……夢と重なった。暖かい風がそよぐのに部屋の中は異様に寒い。身体が震える。

 俺は窓から外を見つめるローズをジッと見つめるしか出来なかったが、やがて彼女は俺の方を振り向いた。その顔には満面の笑みが浮かんでおり、また同時に優しく俺を見つめている。一見すれば見惚れそうな、理性を熔かしそうな笑顔。そんな笑顔に貼りついた血の様に真っ赤なルージュを引いた口元がゆっくりと動き……
 
『続きは、また今度ね。』
 
 意味不明な言葉を呟いた彼女の笑顔は……狂おしい位に眩しかった。
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