アナタシアに喝采を。

谷村ののは

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アナタシアに喝采を。

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 子どもが死ぬときの音が聞こえる。刻々と流れる血脈を踏みしめる、野蛮な大人の性根が聴こえる。それは決して非日常ではなく、そこかしこにある日常でもない。
 ーーーー少なくとも、彼女にとっては。

「ほら、こっちに来なさい」
 どこか剣呑な声とともに開かれる扉。認証用のコードをかざしながら入室してきたのはスーツ姿の男だった。
 入り込んだ人物に反応するようにのそりと起き上がりながら、彼女は小さく呟く。
「…まァた新入りかあ?」
 窓一つない真白の空間にはいささかサイズの大きなベッドしか置かれていない。部屋というにはあまりに簡素で、終末期患者の病室のように静かだった。
 男がため息を吐きながら言う。
「また、とは何ですか。みんながみんな貴方のように優秀なわけではないんですよ」
「ゆうしゅう、ねえ……さすが先生は言うことが変わってらっしゃる」
「……」
「まァまァんな顔しないでサ。先生たちも仕事だろ?分かってるよ」
 男はそこで何か口を開こうとして結局やめた。少しばかり苦しそうな表情で、唇を噛みしめたまま。
 両者の間にどこか緊張した空気が流れる中、不意に第三者の影が落ちる。
 男の後ろから現れたのは、日本人には珍しい宝玉の金糸を靡かせる異形の子。今にも折れそうなほど細い足首には重厚な鎖が付けられていた。
 しゃなり。しゃなり。ーー鎖の鳴る。
「これのナンバーは1013です。これより三か月間の調整期間に入ります。…それまではいつもどおりに」
 機械的にそう告げた男は一礼すると足早に部屋を出て行った。
 残された二人は互いに顔を見合わせ黙り込む。痺れを切らして先に口を開いたのは1013のほうだった。
「ぅ…あ、あの…、」
 その何が何だか分からず戸惑う様子に彼女はクツクツと笑う。ああこいつも果てのない地獄に連れてこられたのだ、二度とは戻れぬ底の底に来てしまったのだと。愛おしそうに、哀しそうに、目を細めた。
「お前さん、名前は?ナンバーじゃなくて、本当の名前」
「へ?ぅえ、あ…い、糸井優里、です…」
 その答えを聞くと、今度こそ彼女は声をあげて笑った。
「ーーそうか、いといゆうり…へえ。ーー私はアナタシア。お前のことはイトって呼んでも?」
「は、はい……」
 それが少女たちの出会いとなった。

⁂ ⁑ *

 最初の数日間は、二人ともろくに口を利かなかった。
 イトにとってみればアナタシアは得体のしれぬ恐ろしい存在で、アナタシアはイトがそう思っているであろうことは予想がついていたから。
 排泄と風呂はベッド下の小階段から地下へ。地下には最低限の便器とシャワー以外には何もなく、外の様子をうかがうことはできない。
 毎日毎日扉の下の小さな受け取り口に運ばれてくる食事以外には、お互いの呼吸音や生活音が響くだけだった。


「一切音のしない真っ白な部屋に閉じ込められると、人間は一時間も正気を保っていられないらしい」
 独り言のようにアナタシアが呟く。いや、実際独り言だったのだろう。彼女はそのまま話し続けた。
「もっとも、没頭できるようなことがある場合は少し変わってくるようだがね。あくまでも、娯楽の一つも用意されていない場合のデータだったはずだ」
「…」
 その発言に興味を持ったのか、はたまた怪しんでいるのか、今まで徹底的に避けられていた視線が交差する。そうして、少しだけ戸惑ったようにイトが口を開いた。
 ゆっくり、アナタシアは目を細める。優しい笑みだ。
「そ、れは本当の話…ですか」
「さあ?」
「え?」
「これらすべてが本当かもしれないが、半分は嘘かもしれない。私たちはすべての発言の真実を証明することはできないし、証明する義務もない。その采配は受け取る側に委ねられる。そうだろう?」
 ピコン。
 そのとき、壁に埋め込まれた時計がちょうど十二時を指した。食事の時間だ。いつも通り配膳されてきた食事を受け取ろうと立ち上がった彼女に、不意にイトが追い縋ってきた。
「…君は何者なの?どうしてここにいるの?ここはどこなの?ーー教えて。話していないと頭がおかしくなる。気が狂いそうになる…!それが嘘でも本当でも、どっちだってかまわないから……!」
 耳をふさいで駄々っ子のように叫ぶその声の悲痛さったら!
 初対面の時にはあんなに美しかった金髪が、たった数日の間に質を落としている。それが目に見えて分かるほどに、イトは不安を抱えていたのだ。
「ーー食事をしながら話そう。この場所のことを、私のことを。だから、お前さんも話しておくれ。自分が何者で、どういう存在なのかを」
 彼女のその言葉に、イトは確かに頷いた。

⁂ ⁑ *

 昔々、〈天使の家〉と呼ばれた場所がありました。
 そこは行き場のない子どもたちを保護して育てる施設でした。よくある裏では汚いことをしていた、なんてこともない、極々普通の善良な施設にございました。
 しかしその場所に陰りが見え始めます。〈天使の家〉は国が秘密裏に推し進めるあるプロジェクトの拠点に選ばれてしまったのです。
 あけすけなことを言えば、天涯孤独の幼子のことなど社会は気にしない。ゆえに実験体にされるには十分な理由がありました。


「実験?」
「そう。権力のある大人が秘密でやりたいことなんてセックスか非人道的な実験かのどちらかしかないからね」
 アナタシアはそこで肩を竦めた。何もかもを見てきたようなその口調からは、さまざまな感情が渦巻いていた。
「君は〈天使の家〉の子どもだったの?」
「…そうだよ。多分だけど」
「多分?」
「忘れたことも多い。痛くて苦しい実験から逃げたくて、でも逃げられなくて。自分の本当の名前すら、もう出てこないんだ」
 苦笑いを浮かべるアナタシアを見て、イトはどこか感じたことのない気持ちを覚えた。それがどういうものなのかは、まだ分からなかったけれど。
「……今も、そのプロジェクトは続いているの?」
「続いている」
「実験が必要って、一体どんなプロジェクトなの?わたしは何に巻き込まれたの…」
 またも不安そうに俯くイトの手に、もう一つ手が重なる。歪に結ばれた少女たちの指は徐々に深く絡まり合って、深淵にたどり着くのだろう。
 しかしそんなことなど露知らぬ二人は、身を寄せ合って漠然とした恐怖に耐えるしかなかった。
「簡単に言えば、不老不死を目指す研究だ」
 アナタシアが告げた事項は恐ろしいものだった。ただイトが混乱しなかったのは、きっと隣で、支えてくれる体温があったからだろう。
 こんなところで出会ってしまったことも、また運命なのかもしれない。
 口には出さずとも、二人は同じことを考えていた。
「…お前を連れてきた男が言ってたこと、覚えてる?」
 しゃなり。鎖の音。
 初日から一層濃くなった、鎖の痕。
「みんながみんな貴方のように…って」
「…そう。あいつの言う優秀さっていうのはね、実験に適応できたか否かなんだよ」
 彼女はそこで目を閉じた。いつかの記憶を思い出すように、いや、思い出さないようにと。
 手を取り合ったまま、二人はベッドに倒れ込む。
「適応できなかった子どもたちは死んでいくしかなかった。ーーーー私のきょうだいたちは、もうどこにもいないんだ」
 イトは何も言わなかった。何も言わずに、その本心を受け止めた。
「私も一緒に死にたかったな…」
 雁字搦めで解けない心を、人間はどうやったって消せないものだ。
 きっと、そういうものだ。

⁂ ⁑ *
 
 それから少しずつ、会話が増えていった。
 いや、意識して会話を増やしていったというほうが正しいか。
 そうしなければお互いが潰れてしまうことを、彼女たちは十分に理解していた。
「ねえ、アナタシア」
「うん?」
「君はわたしが来る前はどうしてたの?」
 十一月も暮れる、出会ってから約一カ月が過ぎようとするころ。突然振られた話題にアナタシアは珍しく少し慌てた様子だった。
「あ、あー…えっと、」
 言葉を詰まらせるその様子にイトは疑問を抱いた。おかしい。今までそんなことはなかったのに、と。
「だって、ここに施設が研究所代わりにされてからずっとここにいたんでしょう?こんなところに独りぼっちって、本当に気が変になるよ」
 語気がどんどん強くなっていく。その声に一番驚いていたのはイト自身だった。
「…言えないことなの?」
「違うよ。あー…ホラ、それ、その鎖。お前にはついてて、私にはないだろ?あと呼び名も、お前は数字で私は一応固有名詞だった」
 アナタシアが指摘したことは確かにその通りだった。
「それは被検体と商品を分けるためのものなんだ」
「どういうこと?」
「うん。被検体はそれこそ実験用の材料というか…で、商品は内臓を売るため用というか…。被検体は実験に耐え切れなくてすぐ死んじゃうけど、商品は売り手探しのために必ず三カ月の調整期間があるから。話してるときは狂わんでしょ。今みたいに」
 それは端的に言えば後二カ月でイトが死ぬという宣言であることに、彼女たちはお互いに気づいていた。
 けれどもうそこに、恐怖も不安も感じることがなかっただけ。
(そうかこれが、これが忘れるっていうことなのね…。わたし以外の人もきっとこんな風にアナタシアに諭されてきたのかしら。それは、)
ーー腹が立つ。
 瞬間、イトの中に今まで知らなかった色彩が広がっていく。ああそうかこの気持ちは。
「…嫉妬か……」
 重苦しく寒々しい、世界一最低な…恋だ。

⁂ ⁑ *

 時がたつのは早く、もう明日明後日には調整期間が終わろうというときだった。
 二人の関係はずっと変わらず、寄り添いながら話をするだけだった。
 死の期限が迫っていることについてお互い言い合うこともなく、時折アナタシアが職員に連れて行かれては疲れた顔で帰ってくる。
 そういう、イレギュラーないつも通りを淡々と消化していくだけの日々。生も死も諦めてしまえば、そんな生活も苦とは思わない。
 しかし、そんなある日の夜、事件は起きてしまった。

 

「ーーァ、ぅあ…ゲボッ……!!」
「!?」
 同じように夕食を食べ始めたはずが、アナタシアが突然咳き込みながら倒れた。
 何が何だか分からないまま、イトは慌てて駆け寄っていく。
「だ、いじょうぶだよ…死にはしない、から…。たまに、あるんだ…ゔぇ、こういう、毒物への耐性実験、みたいな……ハハ…」
 そういえば今日はトレーの色が分けられていたなと、イトはそこで初めて気づいた。いつもは同じ色なのに。
 アナタシアは決して完璧な不老不死というわけではない。むしろまだ実験途中の未完成品なのだ。だからこそ、このような罠が仕掛けられることはままあった。
「…っ」
 本来ならこの光景を目にしたとしても他の商品たちが反応することはほぼない。普段普通に話せていても、内心正気を失っていることも多いからだ。
 ただし、今回は少し状況が違っていた。
 蒼白な表情を浮かべるアナタシアに、イトは酷い興奮を覚えたようだった。
 床に広がる吐瀉物をそっと指がなぞっていく。ぐちゃりと響く音がやけに生々しい。
「ァ、ォゔえ……」
 一度吐いてしまうと気持ち悪さはなかなか治まらない。何度目かの嗚咽に耐えながら、彼女は腹を抱えてその場に蹲った。
 しかし、次の瞬間。
「ーーッ!?んぶ、ふっ……!!?」
 千切れんばかりに勢いよく髪を引っ張られ、持ち上がった顔に迫る何か。行動とは裏腹にやわらかなそれがイトの唇であると気づくのに、そう時間はかからなかった。
 キス、されている。
(く、苦しい…息が、息ができな、い……!)
 口内を暴く舌はまだ幼い。ただでさえ詰まった喉がより圧迫されていく感覚に酔いしれつつも、アナタシアは大きく首を振って抵抗した。
「……ッはぁ!ハッ、ハァ、はあ………」
「あ、ごめん…!いきなり……!」
 ごめんだなんて殊勝に謝って見せる割に、その目は野生動物のようにギラギラと光っている。
 次捕まれば、きっともう逃してはもらえない。
 散乱した空白を埋めようと、焦るノイズをかき集めた。どうしよう、どうしよう、どうしよう。
「……こ、の部屋は常に監視されてる。床の掃除のために、すぐ職員がやってくるだろうサ。だから、な?落ち着いて。そんな、そんな…」
 欲を孕んだ顔でこっちを見ないで。

「ーーーー嫌だ」

「え」

 今度は先ほどよりも優しい力で腕を引かれる。思わず立ち上がった彼女の体は、そのままそっとベッドに下ろされた。
 イトは押し倒したアナタシアに跨って、するりとヘアゴムを外す。
 途端に、解放された艶やかな長い金髪が降ってくる。それはまるで二人と世界を別つ境界線のように、仄暗い影をつくった。
「おぃ…~~ッ!!」
「ねえ聞いてアナタシア。わたしは、君が好きだよ」
 息を呑む。固まった思考も体も、何の役にもたってはくれない。きっと、ここから先は。
「わたしは君を抱きたい」
 頭の中が真っ白に染め上げられていく。これでは駄目だと分かっていて、動けない。
「君の一瞬だけ、わたしに愛させて。君の一生だけ、わたしにちょうだい」
 発展途上の少女たちの肌が切なく絡み合う。イトのしなやかな手が触れると、アナタシアは身を捩って快楽を享受した。
 ふと見上げた天井にカメラが見える。
 分かっているのだ。監視されていることも、もしかしたらこの行為そのものが見世物にされているであろうことも。
 けれど、もうどうでもよかった。ただ欲しいというその欲望しか残っていなかったから。
「…好きにしろ」
 彼女たちの夜が始まる。
 二人で吐息を奪い合って、朝まで交わってみようか。

⁂ ⁑ *

 太陽のない場所では、人間の時間間隔はいともたやすく狂ってしまう。
 それはアナタシアにとっても同じことだった。時計は確かに見えているはずなのに、今が昼だか夜だか分からない時がある。
 今もそうだ。
「ーーーー……?」
 気怠さを訴えてくる瞼をこじ開けて起床した彼女は、あれほど吐瀉物に塗れていたはずの床が掃除されていることに気づいた。
 そして、イトがいないことにも。

「…え?」

 その事実を認識するや否や、弾かれたように身を起こす。いない、ということはここでは異常事態だった。
 自発的に出て行くことはほぼ不可能だ。それに、イトの足にはずっと鎖が付いたままだった。
 勝手に部屋から出ようとしたときに発動する、電流付きの鎖が。
 ドクン。
 心臓の音がやけに大きく聞こえる。
 彼女は戸惑っていた。だって今まで一度だってこんなことなかったのだから。
 独りぼっちは、こんなにも寂しいものだっただろうか。こんなに心細いものだっただろうか。
「まさか、」
 可能性があるとすれば、調整期間終了に伴う出荷。だとすれば、もう、イトは…。
「…ッ!!」
 弾かれるように扉に目を向ければ、半開きになっていることに気が付いた。おかしい。コード認証以外では開かず、閉まるときは自動ロックになっているはずなのに。
 開きっぱなしになることなんて、ないはずなのに。
「イ、イト…どこだ……?いるのか…?」
 恐る恐る、彼女は部屋の外へ出た。
 実験室に連れていかれるとき以外は歩くことのない廊下。漂う空気は鬱蒼としていて、裸足の足裏が急速に冷えていく。
 ふと、どこかから奇妙な匂いを感じて立ち止まる。
「血…?嘘だろイト…!」
 衝動のまま駆け出すと、所々に鮮血が飛び散っているのが分かった。
 その赤はある一点に続いている。奥の部屋だ。普段なら被検体である彼女が近づくことのない、管理室。
 近づくにつれ強くなっていく匂いに、思わず鼻を抑える。最悪の事態も覚悟しながら、ゆっくり、室内を覗き込んだ。
「こ、れは…」
「あ、アナタシア!」
 かくして、探し人はそこにいた。全身を血まみれにしながら笑っている。
 見たところイト自身に怪我はなさそうだったが、ではなぜこんなに汚れているのか。
「見て、これ。これでもう自由だよ」
 そう言って無邪気な笑顔を見せるイトの足元には、死体、死体、死体。その全員がスーツか白衣を身にまとっていた。
 彼女はすぐに思い至った。これは、この施設の職員や研究者たちだ。そんな彼らが死んでいる。折り重なるようにして。
 イトの手には刃毀れしたメスが握られていた。それ一本でやったというのか。何人も何人も、殺したというのか。
「イト…足…」
「え?ああ……早朝に連れだされて、手術台に乗せられたんだけど、そのときに鎖が外されたの。そしたら思いのほか動けたから…動けた、から…メス………」
「動けたから、メスを奪って抵抗した?」
「そう。上手く殺せたの。このまま全員殺せたら、逃げられるんじゃないかって。ーー君を、解放できるんじゃないかって…わたし、駄目だった?迷惑だった?」
 不安そうな瞳が涙の海に沈んでいく。決壊してしまいそうな両目を、彼女が手をかざして閉じさせた。
「迷惑じゃないよ、ありがとう。怖くなかった?怪我はしてないかい?」
「怪我はないよ。ふふ、ありがとうだって、やったあ」
 本当に嬉しそうに口元を綻ばせるイトをアナタシアが抱きしめる。
 不思議と、怖いとは思わなかった。
「でも私はどこにも行けないよ。行き場所なんて、もう…」
「ねえ聞いてアナタシア。わたしのことよ」
 昨夜と同じ言い方に、また息を呑む。
「わたしね、お金持ちの家に生まれたの。愛人の子だった。父さんは私を愛したわ。母さんが死んでも、私を屋敷から追い出したりしなかった。けど父さんが死んだら、本妻の子たちに売られちゃったわ。まあ今では感謝してる。君に会えたもの」
 うっとりした声音につられるように、二人は自然と目を合わせた。昨日の奪われるそれとは違う、お互いに惹かれ合う優しいキス。
 たくさんの死体に囲まれながら、彼女たちはようやく、自由と愛を手に入れた。
「…わたしにも、行き場所なんてないの。だから、君がわたしの居場所になって。わたしと一緒に生きてほしいし、死んでほしいの」
 愛する人の提案に、彼女は迷わなかった。手を取り、朗らかに笑い合う。
「服はどこかで変えなくては」
「向こうに金庫があったよ。壊して中のお金持ってっちゃおう。どうせきれいなお金じゃないだろうし」
 少女たちは死体の山を背にして、手を繋いだまま歩き出した。
 これからの、未来の話をしながら。
 
⁂ ⁑ *



閑話休題。

 

⁂ ⁑ *

 男は揺らぐ頭を押さえて立ち上がった。
 朦朧とする視界の中で、自分がもうすぐ死ぬであろうことを悟る。
 何があったかなど思い出すまでもない。自分たちがさんざん利用してきた存在に牙をむかれただけだ。当然の報いだった。
 〈天使の家〉を銘打たれたこの場所が地獄と化したのは、実はそう昔の話でもない。せいぜい十年前の話だ。
 けれど、あのとき五歳だったあの子が壊れていくには十分な時間だった。
(研究所の正面ゲートは彼女たちには開けられないだろう。パスワードをこちらから入力してやらないと…)
 少しでも動けば激痛が走る。しかし男は震える指でメインシステムを起動させた。
 ここで働くすべての人間がこの研究に賛成していたわけではない。そもそも成果が出せずに国からの援助を減らされて焦っている研究者か、反対したくても立場を気にして言えない臆病者しかいなかったのだ。
 男は後者だった。
(商品、なんて売り出した時点で、この場所にもう先はなかった。逃げなさい。大丈夫、貴方はまだ死ねる。不老不死になんてなっていません。貴方たちは自分の意思で、自分の生死を選べます)
 咳き込むと、口から勢いよく血が噴き出した。気持ち悪いと思いつつ、毒に苦しむあの子の様子を思い出す。
 苦しかったろうに、痛かったろうに。
(逃げて、逃げて、生き延びなさい。こんなところの記憶なんて消し去って、どうか…幸せに)
 いよいよ息が荒くなる。ディスプレイに浮かぶ文字を追うのももう難しくなっていた。
『パスワードを認証しました。ゲートを解放しています』
 人工知能の抑揚のない声が脳内に反響していく。男は安堵ともに床に倒れ込んだ。
 目の前にあるのはさっきまで同僚だったはずの肉塊と血だまり。最期の光景というにはあまりにグロテスクだったが、視界の端に映った少女たちはとても楽しそうで。
「アナタシア…貴方の人生に、喝采を」

 その呟きは誰に届くこともなく、彼の意識はそこで途絶えた。

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