柑橘家若様の事件帖

鋼雅 暁

文字の大きさ
上 下
23 / 25
◆第八記録◆ 記録者……仔細不明

其之参

しおりを挟む
 誰もが、息を呑んで晩白柚をみつめた。
 秀吉が忌まわしい『本能寺の変』のあとに「中国大返し」を行って迅速に明智光秀を討った事は、はっきりと皆の記憶に残っている。とてつもなく鮮やかな手腕だったからだ。
 だが、どうやって大軍が高速で移動したのかは、未だに謎のままなのだ。
 ここまでくるとさすがに若い世代も、晩白柚が『たんなる南蛮商人』などではない……『名の知れた大物』であることがうすうすわかってくる。
「短時間で通常では考えられぬ距離を移動したと聞いても、余は驚かなんだぞ。そちは、一晩で墨俣に築城してみせた男であるからな」
 秀吉が、口をぱくぱくと開閉しているのを楽しげに見つめる晩白柚は、朱色の唇を持ち上げて薄く笑った。
 楽しそうであり、残虐そうでもある不思議な笑みである。
「備前牛窓という土地を余に教え、瀬戸内の海賊どもを我が城に連れて来て皆に紹介したは……柑橘蜜柑であった。そうであったな、蜜柑!」
 いきなり話をふられて、傍観者を決め込んでいた蜜柑は文字通り飛びあがった。
「そ、それがし、そのような事をいつ?」
「ふむ……そなたが、置手紙一つ残して安土城を出奔した数日前であったかな」
 その場の誰もがため息をついた。
 この、破れかぶれの柑橘蜜柑なら、それくらいのことをやってもちっともおかしくはない。
 ひえぇぇ、と情けない声が響き、どさり、と何かが倒れる音がした。
 間髪をいれず、「お前さま、しっかりなさいませ!」と伊予の御方様の声がした。
 言うまでもない。柑橘八朔が白目をむいて倒れたのだ。無理もなかろう、と一同が同情の眼差しを送る。

「その時に、猿も同席しておったのを、余はしかと覚えておる。ここへ来る直前、余は海賊どもの根城を尋ねた。金子では喋らなんだが珍品を渡すとするすると吐いたぞ。密かに羽柴軍より依頼があって、物資を船で運んだ、とな。それまで何の親交もなかったのに妙な話だったと首をかしげておったわ」
 唖然とした一同をぐるりと見渡した晩白柚こと織田信長は、得意げにマントを翻してみせた。
「余は本能寺の地下道を通って脱出し、南蛮寺を頼った。南蛮寺の手引きで堺から南蛮船に乗り、密かに瀬戸内海へ移動した。そして蜜柑の話を頼りに海賊砦を探し、身を寄せた。そうそう、瀬戸内一帯では蜜柑の名が至極便利であったぞ。礼を言う。そして海賊どもと共に暮らし、そのままこの国を出て船旅をして戻ってきた。この世は広いぞ、猿!」

 ふうっ、と太いため息を漏らしたのは、家康だった。

「上様の本能寺脱出、羽柴どのの中国大返し、どちらも蜜柑どのが絡んでいたとは驚きの一言に尽きるぞ……」
 これには、さすがの蜜柑も慌てた。
「そ、それは大きな誤解でござる! それがしは何もしておりませぬ!」
「直接は何もしておるまい。しかし、瀬戸内の海路と海賊を、上様と羽柴どのに紹介しておる。これが諸々の明暗をわけた気がして仕方ないのじゃ……」
 ふふふ、と信長が笑った。
「竹千代、情報が大事ということじゃな」
「左様にござりまするなぁ」
 ときに、と、信長が首を傾げた。
「十兵衛はどうした?」
 十兵衛? 誰でござろう、と、幸村が呟き、首をかしげていた政宗が膝を打った。
「明智殿が確か十兵衛だったはず……え? と言うことは……」
 信長が、政宗と幸村を見ながら頷いた。
「あやつも生きておるぞ。三河に行くと申しておったが……」
 家康が、慌てたようにぶるぶると首を横に振った。
「ぞ、存じませぬ!」
「よい、竹千代。奴は知恵者ぞ。うまくやれ」
 家康だが、ははーっ、と平伏した。

 そのまま、信長――否、南蛮商人晩白柚を中心にして宴が再開される。どこかぎこちないが、若者と家康は競って晩白柚の傍へ行く。
「上様、竹千代はこの国の外のことを知りとうござります」
 こくこく、と、政宗と幸村の目も輝く。
「それはよい心がけである。しかし竹千代、その上様というのは止めぬか? 余はもう大名でも武将でもない、たんなる南蛮商人ゆえ……」
「では、吉法師様ではいかがでしょう?」
「ふむ、それも懐かしゅうて良いな。これ! 犬千代、茶はまだか!」
「はっ、ここに!」
 前田利家がいそいそとお茶を運び、慶次郎もそれに続く。
「俺も、いろんな話がききたい」
と、政宗が自分の膳を持って移動し、幸村も蜜柑も、柚姫までもが一緒に動いた。
「そうじゃな……その方ら、阿蘭陀《おらんだ》や葡萄牙《ぽるとがる》を存じておろう?」
 信長が、この後しばらく柑橘城に滞在することになり、秀吉がそっと柑橘城から逃げ出したのはその日のうちだったとか……。

しおりを挟む

処理中です...