環楽園の殺人

凛野冥

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第一章:環楽園の殺人

1/3「蛇神信仰とミステリ談義」

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 杏味ちゃんは図書室で見つけた本を部屋に置いてから来ると述べて階段を上がっていった。僕は未だ戸惑ったままである。

 杏味ちゃんの性格は、いくつか想像していたそれらのどれにも当て嵌まらないものだった。霧余さんが『難しい子』と云っていたので良いとこのお嬢様らしく高飛車たかびしゃなところや、または豊富な教養とは裏腹に世間知らずなところでもあるのかと考えていたが、まったく別のところに異質さがある気がした。

 まだ大して打ち解けてもいない僕にああも宗教的な話を語って聞かせるところも普通じゃないし、考え方がやけに厭世的えんせいてきなのも意外だった。自分の両親を俗人呼ばわりしたのは言葉の綾だったとしても、この世界を軽蔑しているとははっきり告げていた。恵まれた暮らしをしている彼女を、一体何がそうさせるのだろうか。

 それからもうひとつ。有寨さんへの度が過ぎる心酔……。

 だが、こんなふうにネガティブな側面にばかり焦点を当てている僕の態度も問題である。頭を振って、杏味ちゃんの奇妙さについて考えるのは保留とした。

 食堂はロビーの階段を回り込むとその後ろに玄関扉と同じ木製の両開きの扉があって、その中だった。テニスコートが横向きにひとつ入るほどの広い空間で、正確にはリビングなのだが、此処が食堂も兼ねている。この広さからも窺えるが、屋敷を真上から見ると、このリビングの半分は北に突き出すかたちとなっている。

 中央にある大きな円卓は二十あまりの椅子に囲まれており、そのひとつに舞游が座って本を読んでいた。そう云えばさっきは楽そうなトレーナーを着ていたが、また制服に着替えている。晩餐にあたっての正装のつもりでもないだろうが、忙しい奴だ。

 舞游の隣の椅子に腰を下ろすと、彼女は僕に気付いた。

「おかえり」

「……なんだか変に楽しそうじゃないか?」

 いつもどおりと云えばそうかも知れないが、彼女の顔はいまにも笑い出しそうな、興奮を抑えようとしているようなそれだった。

「そうだね、楽しいよ。お泊りの夜って気分が高まるものじゃん」

「修学旅行のときはあんなに陰鬱だったのに」

「あれは、觜也とも別のクラスだったし、楽しいわけがなかったもん。まあ三日目は楽しかったけどー」

「ああ、思い出したくもない三日目か……」

 今年の秋にあった修学旅行で、二日目の深夜(日付は三日目に入っていた)、僕は舞游によって強引にホテルから連れ出され、共に夜の長崎の町をあっちこっち遊び回る羽目はめになったのだ。しかも陽が昇っても彼女は帰ろうとせず、僕がなんとか説得して昼ごろに担任教師に連絡を入れて迎えに来てもらった後、有り得ないくらい叱られた。各方面に多大な迷惑をかけたのだから当然であり、僕としてはあんな真似は二度としたくないという苦い思い出だ。

「なんだよー、その云い方ー」

 舞游は頬を膨らませて、読んでいた本を乱暴に閉じた。タイトルから察するに、彼女が一等愛好するミステリ小説の類らしい。

「ちょうど来たわね、結鷺くん」

 その声に振り向くと、霧余さんが夕食を乗せたお盆を持って調理室の扉から出てきたところだった。調理室はこのリビング兼食堂の西側に隣接している。

「いま、杏味ちゃんに有寨を呼びに行かせてるわ。……かなり時間がかかっちゃったけれど、ごめんなさいね。あんなに広いキッチンを使って料理するのは初めてだったから」

「全然良いですよ。それより、運ぶの手伝います」

「あら、ありがと」

 料理は本格的なイタリアンで、スパゲッティやピザやリゾットやグリル等、張り切りすぎなくらいに手が込んでいた。これらの食材は例の事前に屋敷中の掃除をしたという雇われの方々がそのときに運び込んでくれたらしい。食糧保管室が調理室の奥にあり、食べ物が足りなくなる心配はないとのことである。

「大皿から各自好きに取って食べてもらおうかと思ったんだけれど、失敗したわね……このでかいテーブルじゃどう考えても非効率だわ」

 円卓は真っ赤なテーブルクロスが敷かれた木製のものだが、中華テーブルのように中央が回転するような気の利いた意匠はない。

「あらかじめ小皿に取り分けたらどうですか?」

「そうね。……五人の席は、これも一ヵ所に固まるんじゃなくて贅沢に使うべきかしら」

 準備がだいたい整ったころになって、有寨さんと杏味ちゃんがやって来た。杏味ちゃんは有寨さんを呼びに行く途中に図書室に寄ったのだろうが、時間的に、寄り道したのは正解と云えた。

 席は、僕と舞游が最もロビーに近い真南のそれで、有寨さんと霧余さんが北西、杏味ちゃんが北東といった按配である。よって僕と舞游の正面方向には、ロビーに通じる扉と向かい合うもうひとつの木の扉が見えている。これが北館に通じる廊下館に出るための扉であり、いまはかんぬきまで通されてしっかりと閉ざされていた。滞在中これが開くことはないだろう。南館だけでも持て余し気味なのだから、禁止されているものをあえて開こうとは思わない……少なくとも僕は。

 その扉の左右には大きなガラスの窓があり、そこから北館との間に広がっている中庭を臨めるのだが、いまは夜なので分厚いカーテンが掛かっていた。

「到着した時間が時間だったから、すっかり遅くなってしまったね。明日からは食事の時間くらいは規則正しくやろう」

 有寨さんはそんな前置きめいたことを述べてから、ていねいに「いただきます」の挨拶をした。

 主に霧余さんの手によるものと思われる料理の数々は、味もお世辞抜きに上等なものだった。僕と舞游の賛辞を受けた霧余さんの態度は相変わらず淡々としたものだったが、彼女もその彼氏である有寨さんも内心鼻が高いだろう。ただ杏味ちゃんは、普段から良いものを食べているためか、霧余さんを快く思っていないためか、特に感想は述べなかった。

「滞在中、なにかやることが決まっていたりはするんですか?」

 訊いてみると、有寨さんは「いや」と肩をすくめた。

「これといってプランはない。各々好きに過ごせば良いと思ってね。それに此処には遊戯室も図書室もAV室も、室内プールまであるから退屈はしないだろう」

「室内プールは北館なので使えませんわ」

「ああ、そうだったか。でも十二分だと俺は思う」

「そうですね、僕もそう思います。こんなに立派なお屋敷で短期間とはいえ生活すること自体、二度となさそうな貴重な体験ですし」

「卑屈だなー、觜也。事業でも一発当てて城でも建ててやるくらいの野心はないの?」

「あるわけないだろ」

 そんな目立つ真似を好き好んでやる人種ではない。舞游と出逢う前は他人から注目されるのも面倒と感じて避けてきた人間なのだ。

「それと結鷺くん、短期間と決まったわけじゃないわ」

 霧余さんは悪戯っぽい微笑を浮かべた。

「外は吹雪だし、このまま此処から身動きが取れなくなって、冬の間ずっと閉じ込められるなんて展開も考えられるわよ」

 そんな舞游みたいなことを……と思った矢先、やはり彼女が食いついた。

「あはっ、そうなったら素敵。吹雪の山荘、血みどろの殺人事件!」

「ふふ、舞游ちゃんはミステリを読むんだってね?」

「もしかして霧余さんも?」

「ええ。中でもクローズド・サークルものはひときわ好きよ。不純物の排された理想的な謎解き空間でこそ、ミステリの神髄は味わえるというものじゃない」

「うんうん。やっぱり閉鎖空間で次々と人が殺されていくのこそ醍醐味だよね。緊張感が増していくにつれてこっちの息も詰まるんだけど、それが解決編のカタルシスを最大限に高めてくれるんだからさ」

 舞游と霧余さんは二人でミステリ談義を始めてしまった。そういった小説を好む人間は、皆こうも荒唐無稽な妄想をたくましくする性分なのだろうか……。

「ご馳走様でした。私、先にお風呂に入って休みますわ」

 杏味ちゃんが空になった食器を持って席を立った。自分の食器を下げるあたり、家でも甘やかされてばかりいるわけではなさそうだ。もしかしたら一流の家には一流の家だからこその辛さみたいなものがあるのかも知れない。彼女が世間をうれいているのはそんな環境に関係しているとも考えられる。隣の芝は青く見えると云うが、安易に先入観でものを見るのは禁物と、僕は認識を新たにした。

「私もちょっと失礼。すぐに戻ってくるわよ。煙草たばこを取るのと、ウロちゃんも連れてきたいから」

「ウロちゃんって?」

 舞游が訊ねた。

「ペットよ」

 車内ではペットらしき動物は見当たらなかったが、トランクに入れていたのだろうか。鳴き声は一度として聞かなかったし、此処に持ち込む際にも目に留まらなかったので犬や猫ではなさそうだが。

 杏味ちゃんに続くかたちでリビングを出ていく霧余さんに、有寨さんが「食器、片付けておくよ」と声を掛けた。

「ありがと。洗うのは後で私がやるからいいわ。それとお酒の用意、お願いできるかしら。有寨のチョイスに任せるわ」

「分かった。……觜也くんは?」

「僕はいいです。未成年ですし」

「え、私は飲んでみたいなー」

「舞游は駄目だ。俺の目があるところでは非行はさせられないからね」

「なにそれ。觜也のことは誘うのに、お兄ちゃん意味分かんない」

「觜也くんはひとりで来ている以上自己責任だけれど、舞游に関しては俺に責任があるんだよ」

 さすが有寨さんは舞游の扱いも上手く、適当に笑ってあしあいながら調理室に引っ込んでいった。

「どう思う? お兄ちゃんのあの理屈っぽいところ、いけ好かなくない?」

 舞游はぷりぷり怒っている。僕はそれには答えず、改めて広大な室内をぐるりと見回した。

「……二人だけになると、この部屋はますます落ち着かないな」

 部屋の隅には背の低いテーブルやソファーが固まっている一角がいくつかあり、その中にピアノが置かれていたり造花が飾られていたりする。他にも柱時計や収納棚等、すべての調度品がいちいち洒落ていた。間違ってひとつでも傷付けたら大変なことになりそうで、庶民の僕は眺めているだけで恐縮してしまう。

「慣れるんじゃない?」

「慣れるかなあ。これに慣れちゃったらそれはそれでまずい気もするし」

 調理室から有寨さんが盆にグラスや飲み物を乗せて出てきた。

「こっちに座ろう」

 彼は低いテーブルの三面をソファーが囲っている一角を指した。この円卓は互いの距離が必要以上に遠くなるせいで談笑には向かないと判断したのだろう。

 有寨さんと向かい合う位置に、僕と舞游は並んで座った。それを見た有寨さんはごつごつした氷を入れたグラスにウイスキーを注ぎ、続いて炭酸水を注いでハイボールをつくりながら「君達二人は本当に仲が良いんだね」と笑った。……云われてみると、必ずしも隣同士に座らなくてもソファーには余裕がある。

「有難いことだよ。舞游に友人ができるのかというのは俺としても長い間、懸案けんあん事項だったからね。こうして会う機会がなかなか巡ってこなかったせいで云うのが今更になってしまったけれど、觜也くんには感謝している」

「いえ、そんな」

 舞游も「余計なお世話ー」と不満そうな声をあげる。

「お兄ちゃんが気を揉むまでもなく、私だってひとりで友達くらいつくれるもん」

 それはどうだろう……。僕は出逢った当初の強烈な舞游を想起しながら、心の内で首を傾げた。いまでも僕の他には満足に会話を交わせる相手すらいない彼女である。僕がいなかったら、まだひとりきりで奇行を続けるばかりだったのではないだろうか……。これは僕が特別な例だったなんて己惚れているわけではないけれど、思えば、僕が彼女とこうして打ち解けられたのは一体なにが決め手だったのか判然としない。

「だいたい、最初に觜也に積極的に働きかけたのも私だったんだからね。それがなかったら、受け身の権化みたいな觜也なんだから、私達の仲だってずっと平行線だったよ」

「そう云えば、俺は二人のめをまだ聞いていなかったよ。舞游から働きかけたというのは、どんなふうだったんだい?」

 自分の表情が強張こわばるのが分かった。学校ではもう塗り替えられない周知の事柄だが、舞游の兄である有寨さんに聞かせられる内容ではない。

「どうでもいいでしょ。全部お兄ちゃんに知らせる義務もないんだし」

 舞游もこれは強引にはぐらかした。彼女も本来は性に放縦な性格でもない。だからあの、僕と肉体関係を持った等と学校中に知らせて回ったのは彼女にとっても正気の沙汰ではなかったらしい。若気の至りで済ますにはあまりに蛮行ばんこうが過ぎたし、それがいまでも尾を引いて僕ら二人が孤立している要因ともなっている。

 話の流れが都合の悪い方向に向き始めていたが、そこに霧余さんが戻ってきてくれた。彼女がマフラーの要領で首に巻き付けているものを見た僕と舞游は思わず「えっ」と声を洩らしてしまった。

 白い蛇だった。

「あら、そんなに目をお皿にしてもらえるとは思わなかったわ。この子がウロちゃんよ」

「あは、ペットが蛇なんてお洒落」

 舞游はすぐにはしゃぎ始めたが、蛇が苦手な僕は座ったままソファーの奥へ身を引いた。

「ペットとしては一番ポピュラーなコーンスネークよ。毒も持ってないわ。ウロちゃんはアルビノと云ってね、ほら、身体が白くて目が紅いでしょう?」

 そのとおり、毒々しい色合いでないだけ良かった。胴も細いし、長さも一メートルないくらいだろうか。これが巨大だったら悲鳴を上げてしまったことだろう。さいわい、霧余さんは有寨さんの隣――僕から遠い位置に腰掛けてくれたのでひと安心だった。

「うん、綺麗……」

 舞游はすっかり見惚れている。

「ふふ、妖艶よね。この官能的な姿にひと目惚れしたのよ」

「神々しいよ。白蛇は見た目の美しさと希少性がゆえに、神様の使いとか吉凶の前触れとして古くから信仰を受けてたし」

「舞游ちゃんはそういう風習や伝承といった話にも詳しいの?」

 舞游は二度三度、繰り返し頷いた。そういった内容こそ彼女の得意分野だ。

「そもそも蛇神信仰というのが日本では各所に根付いてたんだよ。古代人は蛇を可畏かしこき神と呼んだんだけど、これは蛇が邪悪な毒を持つ一方で叡智えいちを備えているという、背反する属性を一身に併せ持った超越性に対する畏敬の念の表れだったんだ」

「日本には蛇巫というものもいたんだよ」

 ここで意外にも有寨さんが妹の説明を引き取った。彼にも舞游と同じ趣味があるのだろうか。

「毒蛇に噛まれて錯乱状態に陥った人間を見て、毒蛇が聖なる狂気を人間に与えるものと考えられたのかも知れない。そしてこれはシャーマンの神懸かみがかりの様子に似ている。かなり現実的な想像として、蝮の毒に免疫のできた女性がそれを手なずけ、衆人を相手に奇跡を演じるというのも有り得そうな話だ。巫女というのは衆人の共同幻覚に一定の指標を与えるものだからね」

「それに蛇を神聖視する見方は日本に限ったことじゃない」

 兄に張り合うかのように、舞游がさらに語り始める。

「蛇は脱皮して成長する。長い飢餓状態にも耐えられる強い生命力も持ってる。これらから〈死と再生〉、〈不老不死〉の象徴とされたんだよ。そこからイメージが膨らんで、自分の尾を噛んで環になった蛇は〈終わりのない〉〈永遠〉、〈始まりも終わりもない完全〉として……あ、そのウロちゃんって名前……」

 霧余さんが微笑した。彼女はウイスキーをストレートで飲んでおり、テーブルにはチェイサーとして大きめの氷と水で満たされたグラスも置かれている。

「ええ、そうよ。〈ウロボロスの蛇〉から取ったの」

〈ウロボロスの蛇〉くらいなら僕でも知っている。宗教に限らず、様々な文化圏でモチーフとして使われるので、その絵を目にしたことのない人間の方が珍しいだろう。

 舞游はその後も、語源はそのまま古代ギリシャ語で〈尾を飲み込む〉の意である〈ουροβóρος(ウーロボロス)〉だとか、その起源がいつごろだったかとか、様々な宗教で蛇がどんな役割を負ったかだとか、どこから仕入れてくるのか疑問な薀蓄うんちくをすらすら並べ立てた。

 まさか自分がそんなにスケールの大きな話題に引き合いに出されているなんて理解しているはずもないウロちゃんは、終始霧余さんの顔の横で固まっていて、時折舌をチラチラと覗かせた。その妖しい光を秘めた紅い瞳は僕の心の奥底を覗いているかのようで、見ているとちょっと寒気がした。



 場は舞游の薀蓄披露会の様相を呈していたが、それを中断させたのは風呂から上がってきた杏味ちゃんだった。薄桃色のこれまたお嬢様チックなパジャマに着替えていた彼女は「お風呂が空きましたわ。ではおやすみなさい」とだけ告げて出て行った。

「じゃあ次は俺が入ってこようかな。少し寝ただけではまだ疲れが抜けてなくてね」

「そうね、有寨も早く休んだ方が良いわ」

 有寨さんがリビングを出ていくと、仕切り直しといった感じになった。

「ところで舞游ちゃん、夕食のとき、此処で血みどろの殺人事件が起きたら面白そうと云ってたわね」

 霧余さんは煙草に火を点けた。漂ってくる紫煙しえんの香りはどことなく甘い。

「もし此処がクローズド・サークルになって、本当に誰かが殺されたとしたら、犯人は誰なんでしょうね」

 雑談とは分かるが、あまり気持ちの良い話題ではなかった。

「んー、被害者は觜也で間違いないと思うけど」

「おい待てよ。どうして僕が」

「だって觜也が一番間抜けっぽいし?」

 舞游はお茶目なふうに云うが、腹が立つだけだ。

「結鷺くん、そんなに本気になることないわよ。此処を舞台に、私達を登場人物とした殺人事件を空想してみるのも一興でしょう?」

「おお、〈環楽園の殺人〉だね。でもやっぱり被害者は觜也かなー」

「僕が犯人だったら、被害者は舞游だな」

「わあ恐い」

 わざとらしく僕から距離をおく舞游だったが、彼女はそうしてから人差し指を立てて横に振った。

「でも私は被害者なり得ないよ。探偵が死んだらお話にならないじゃん」

「そんな都合の良い……。前々から思ってたんだけど、実は全部の殺人事件は探偵が仕組んでるんじゃないか?」

 マニアでもない僕なので適当に述べただけだったが、霧余さんが「そういう小説もあるわよ」と反応してきた。

「事件があまりにも名探偵にとって都合良く収まるものだから、そのためには事件が名探偵にとって都合良く仕組まれてる必要があって、すなわち名探偵が犯罪に一枚噛んでるに違いないって理屈ね」

「よく考えるものですね……」

 すると今度は舞游が引き取った。

「もっと多いのは、探偵に看破かんぱされるのを前提に犯人が犯罪をおこなったってパターンだよ。つまり探偵の手のうちを読む犯人だね。偽の手掛かりで誘導したりして、偽の真相を暴かせるの。犯人の陰に真犯人が隠れてるってわけ。でもこういう〈操り〉が横行したせいで真相を一義的に決定できなくなっちゃったんだよね。〈後期クイーン的問題〉っていうんだけどさ」

「そんなに難しく考える必要があるのか……?」

 ミステリというものには殊更ことさらにロジックを厳格にしなければいけないという強迫観念が働いているのだろうけれど、それを突き詰めていった挙句あげくに哲学めいた答えのない迷路に入り込んでしまったのでは元も子もない。

「ミステリ読みにとっては死活問題よ」

 霧余さんの言葉に、舞游は真剣な顔でうなづく。

「考えてご覧よ、觜也。作中で開かされる真相が、唯一絶対のそれじゃなくて、その裏にこそ本当の真実があるのだとしたら、すべてのミステリが根本から覆されちゃうんだよ。あまねく作家達が真相を限定するために様々な努力をしたけど、確かな解決策はまだ発見されてない。作者がメタ的な視点から真相を保証しても、物理的に他の可能性がすべて潰されても、真犯人の知略が、真実の領域がそれらを上回っているかも知れないって揺らぎは否定しようがないんだから」

「それはなにも物語の中に限ったことじゃないわよ、結鷺くん」

 霧余さんは煙草の煙を吐き、どこか遠くを見るような眼差しを宙に向けている。

「現実世界においても、それは同じこと。ミステリが長い歴史でその構造的な欠陥を露呈ろていしてしまったのと仕組みは一緒よ。真実に至るっていうのは、土台無理な話なのよね……」

 その顔はアルコールが入ってわずかに紅潮している半面、幽愁ゆうしゅうたたえているようでもあった。

「だからこそ、私は強く焦がれるし、憧れるわ。真実というものにね」
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