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【A章:ダンサー飲ザダーク】
1「自壊するこの世の模倣」
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1
正午。指定された駐車場にキャンピングカーを停めて降りると、先に停まっていた白い高級車の後部座席のドアが開き、続いて白い日傘が開き、中から女性が出てきた。
「わたくし、白いものが好きなんですの」
第一声がそれだ。白いワンピースを着て、白いヒールを履いている。肌も透き通るように白ければ、髪も白く染めており、後ろで三つ編みにしている。
「翠さんですか?」
訊ねると、彼女は「ええ」と白い歯を見せた。うりざね顔で、なかなかの美人だ。両の瞳だけ緑色なのは、カラーコンタクトを嵌めているのだろう。
「そちらのお車が事務所なんですってね。早速上がってもよろしくて?」
「どうぞ」
車内に案内する。義吟が「わっ、真っ白な人です!」と驚いたが、翠は微笑で応えた。
「貴女の頭、それはなんですの?」
「牛さんの角です。可愛いですよね」
「オホホ……それじゃあ、お乳を搾らないといけませんわね」
「ええ? そんなことされたら困ります」
自分の胸部を両手で覆い隠す義吟。
俺は翠にセカンドシートを勧めたが、彼女は頭を横に振った。
「形式的なことは省きましょう。みなさま、探偵でいらっしゃるからには、死体の写真を見たところで、眉を動かすこともありませんわね?」
白いレースの手袋を嵌めた手で、白いポーチから白いアルバムを取り出す。俺は「眉は動くかも知れませんが」と云いながら受け取った。
開いた途端、目に飛び込んできたのは惨殺死体の数々。どこかの部屋や路地裏で、全身をめった刺しにされたり、皮を剥がれて吊るされたり、内臓を引きずり出されたり、五体をバラバラにされたりと、凄惨極まる光景が写されている。
義吟が覗き込んでこようとしたところで、俺はアルバムを閉じた。
「なんですか、これは」
「眉、動かないじゃありませんか」
「表情筋が固いんです」
アルバムを返すと、今度は翠が開いた。
彼女の方は沈痛な面持ちとなって、ページをめくりながら話を始める。
「この子達はみな、わたくし達の大切な会員ですの。先月から相次いで殺害されています。写真を撮れたのは五名。同じ会員の者が発見する場合だけじゃありませんから。他にも四名が、やはり惨たらしく殺されています」
「どんな会なんですか」
「〈死霊のハラワタ〉と云います。もちろん、ご存知ですわね?」
その言葉に、場の空気が一瞬にして張り詰めた。
しばしの沈黙。義吟が「央くん……」と、俺の名前を呼ぶ。
俺は「分かってる」と云って頷く。翠と睨み合いながら。
「俺達は貴女個人のことは知りませんが、貴女は俺達を知っていて来たようですね」
「ええ。荻尾央さん、それから天亜愛さんもいまして?」
緑色の瞳が車内の奥へと向けられる。亜愛は大丈夫だろうか。
「しかし、遺恨は横に置いてくださらない? わたくしは依頼に参ったんです」
「その連続殺人についてですか? 警察には――まあ、頼めないでしょうね。自分達にもやましいところがある貴女達では」
「あら、やましいところなんてなくってよ」
「じゃあ――」と言葉を続けようとしたとき、車のドアが外から開けられた。
「分からんな。この最後のやつだけが、どうにも分からんよ」
這入ってきたのは仇鳴だった。平然と、それが当たり前であるかのように。
三日前にホテル〈オケアの巣〉で会ったときと同じ服装で、手には折り畳んだ雑誌を持っている。
「口にした瞬間になくなるもの。〈く〉で終わる四文字の言葉なんだが、分かるかね?」
こちらに向けられたページには、クロスワードパズルが載っていた。
「口にした瞬間になくなるもの、だ」
翠が「それはー……」と少し考えてから、「沈黙ではないかしら?」と答える。
「なるほど、そうか。沈黙と云った瞬間、もはや沈黙ではない。頭が柔らかいな、翠は」
「オホホ……恐縮ですわ」
「暗躍もありますよ!」
義吟が負けじと主張した。
仇鳴は「ふむ」と自分の顎を撫でる。
「云いたいことは分かるが、しっくり来ないな。それよりも誰だね、お前は」
品定めするみたいに義吟を眺める。俺は彼女の手を引いて、距離を取らせた。
「仇鳴……どういうつもりだ」
「よう、荻尾。先日は災難だったな。亜愛は奥かね?」
その足が一歩進むのを見て、俺は自分の身体で通路を塞ぐ。奥からはガサガサと音が聞こえる。数秒の後、仇鳴は詰まらなそうに鼻を鳴らし、セカンドシートに腰を下ろした。
「義吟、亜愛のところにいてやってくれ」
耳打ちする。義吟は仇鳴を知らないが、〈死霊のハラワタ〉のことは知っている。それで色々と察したらしく、大人しく引っ込んでいった。
「こんな窮屈なところで暮らすなど、私には我慢できんな」
仇鳴は車内を見回してから、馬鹿にしたような視線を俺に投げる。
「翠の説明はひと通り終わったかね?」
「あんたらの依頼なんて受けないぞ」
「酷いな。写真を見て、心が痛まないのか」
白々しく云うと、彼は雑誌を翠の手にあるアルバムと交換した。
「先日の一件を翠に話したところ、この件についても依頼したらどうだと云われてね。採用することにした。紹介が遅れたが、彼女は昨年から私の秘書をしている」
「他をあたれ。俺達よりも適任がいくらでもいるだろ」
「そうかね? お前達はたしかに打ってつけと思うがな。〈悪魔のイケニエ〉とかいう馬鹿げた集団についても詳しいのだろう?」
「それがどうした」
訊き返すと、仇鳴は翠を一瞥した。「まだ話せていないんですの」と彼女。
「写真もまだか? 写真は見た。ふむ。それなら気付いてほしいものだが」
アルバムがテーブルの上に広げられる。先ほどは死体にばかり目がいったけれど、改めて見れば他にも奇妙なものが写されていた。
簡易的な祭壇と、そこに架けられた逆さの十字架。幾本も立てられた蝋燭の残骸。引き裂かれた聖書。空になった酒瓶。赤黒く染まったワイングラス。ナイフとフォーク。バイブやディルドといったアダルトグッズ。縄。鞭。注射器……
「黒ミサ――サバトとも云うのだったか。なんにせよ、愚かしい所業だ」
「……これらが〈悪魔のイケニエ〉による犯行だと?」
「いかにも。逆十字や引き裂かれた聖書なんて象徴的だろう。そして犯人は女だ。遺体に性的暴行の痕はあるが、精液は残っていない。さしずめ、魔女と云ったところか。同じ女を蹂躙した挙句に惨たらしく殺害し、その血を飲み、肉を食らい、悪魔に捧げる。十六世紀フランスの法学者ジャン・ボダンを知っているかね? 彼は魔女が悪魔の教唆によって犯す十五の罪を挙げている。そらでは云えんが――翠、」
指名された真っ白な女は、携帯の画面を見ながら音読する。
「魔女は、神を否認し、神を呪い、悪魔を崇敬してこれに犠牲を捧げ、悪魔に子供を供し、受洗前にこれらの子供を殺して悪魔に献じ、生まれる前から子供を悪魔に捧げ、魔女のセクトに人々を熱心に誘い込み、悪魔の名にかけて誓い、近親相姦の罪を犯し、受洗前の子供を殺して種々の飲料をこしらえ、人肉を食し、呪術を使って毒殺したり殺したりし、家畜を死なせ、大地の生む糧を枯れさせ、悪魔と性的に交わる」
それらは後の十七世紀において、でっち上げと結論されている話だ。ジャン・ボダンが著した『魔女の悪魔狂』だって、ギイ・パタンに『一文の価値もない』と評された。
しかし二十世紀以降、絵空事であったはずの悪魔主義は現実のものとなる。小説、漫画、映画、音楽……あらゆる娯楽がそれをモチーフに使い、その影響からか、歴史的な文脈を踏まえることもせず、実践する者達が出現した。虐待事件や殺人事件まで多数起きている。
「先日捕まった〈悪魔のイケニエ〉構成員――ミヤと云ったかな? 彼女もサバトと称して乱交に耽り、仕舞いには殺した女の肉を料理して食おうとしたそうじゃないか」
やはり仇鳴も、その情報を掴んでいた。
俺の中で話が繋がる。
「そのミヤは、あんたのとこの会員である巻乃木真月――本名は奈田綾瀬から、媚薬を買っていたそうだな。あんたは奈田綾瀬をスパイだと云って、あのホテルに監禁していた。彼女から〈悪魔のイケニエ〉のことを訊き出すつもりが、まんまと逃げられて、手掛かりを失ったというわけだ」
「監禁とは人聞きが悪いが、概ねそのとおりだ。ああ、奈田を逃がしたあの清掃員も〈悪魔のイケニエ〉だったよ。私達で保護している。しかしあの娘はなにも知らんな。使い捨ての駒だ」
仇鳴は話しながら、翠に目配せをした。翠の方は携帯を操作する。
「話を戻そう。悪魔的儀式を模した連続殺人だ。どういうわけか、連中は私達を標的としているらしい。それに連中との内通者は、奈田だけではないようだ。被害者には幹部メンバーも多くてね、私達の内情をよく知らなければならん。親玉のスパイがいるのだよ」
「それを俺達に見つけろと云うのか」
「そうだ。お前達が〈悪魔のイケニエ〉の支部をいくつか壊滅させたという話も知っている。そのうえ〈死霊のハラワタ〉の元会員だからな、こちらも気を遣うことがない。これで理解できたかね? 話の流れを」
運転席のドアが開いて、知らない男が乗り込んできた。男は仕切りのガラス窓を開けると、仇鳴に茶封筒を手渡す。仇鳴はそれをテーブルの上に放る。
「三十万だ。親玉のスパイを暴いてもらえればいい。成功報酬には追加で七十万出そう」
「まあ! 大金ですわ!」と、翠がわざとらしく喝采する。
俺は運転席の男を指差した。前を向いて、シートベルトを締めてやがる。
「それよりも、そいつを其処から降ろせ」
「聞けないな。運転席に座らずに、どう運転するのだね?」
キーは差しっぱなしだ。やられた。直後、車が発進する。
「央くん!」という声。義吟が通路を歩いてくる。俺も運転席へ向かおうとするが、眼前に尖った先端が突き付けられた。翠の持つ日傘だ。
「オホホ……運転中は暴れてはいけませんわ。危険じゃありませんか」
「翠の云うとおりだ。座りたまえよ、荻尾もそっちの女も」
カーブするのに、車が大きく揺れる。俺は不承不承、サードシートに腰を下ろした。
「どこに向かってる」
「私が預かる西戴天京支部だ。ほら、金を受け取らないのかね」
「連れて行くのは俺だけにしろ。亜愛と義吟まで来る必要はない」
「ふん。亜愛がいなくてどうすると云うのだ」
仇鳴は隣に座った翠の肩に腕を回して、俺に見下げた視線を向けた。
「探偵業とは考えたものだ。亜愛の才能があれば造作もないだろう。死者の霊に犯人を訊けばいいのだからな」
「そんな便利なものじゃない。あんたも知ってるだろ」
「どうかな。亜愛は私達の最高傑作だぞ?」
「亜愛がお前らの施設に行けるはずが――」
「行くわ」
すぐ近くからその声がして振り向けば、亜愛が通路を抜けて姿を現した。
唇を引き結び、眉根を寄せた険しい顔で、仇鳴を見据えている。
「お前――亜愛か? 随分と地味になったものだな」
仇鳴は珍しく、本当に驚いた様子を見せた。
それから目を細め、その視線を亜愛の足元から頭の天辺まで、舐めるように這わせる。
亜愛の方は、そうされても動揺を一切、表に出さないでいる。
「まあいい。大事なのはお前の才能だ。衰えていないだろうな?」
「おかげさまでね」
気丈に応える亜愛。
義吟が「亜愛ちゃん……?」と心配そうに声を掛けても、彼女は仇鳴を見据えたままだ。
正面から、身体の向きも、視線も、まったく逸らさずに対峙している。
「さて、どうするのだ、荻尾」と、仇鳴が俺に向かって顎をしゃくった。
「……亜愛がそう云うなら、引き受けよう」
彼女がいま、どれほどの恐怖と嫌悪に耐えているのか。
それが分かる俺は、彼女の決意を尊重することにした。
「ただし、ひとつ条件がある。金はこの三十万でいい。成功報酬は別のものだ」
「なんだね?」
「知っていることを話してもらう。俺達が組織を抜けたときの、あの事件について」
仇鳴は天井を見上げて、しばし考えた。
その視線が俺へと戻り、答えが出る。
「いいだろう」
正午。指定された駐車場にキャンピングカーを停めて降りると、先に停まっていた白い高級車の後部座席のドアが開き、続いて白い日傘が開き、中から女性が出てきた。
「わたくし、白いものが好きなんですの」
第一声がそれだ。白いワンピースを着て、白いヒールを履いている。肌も透き通るように白ければ、髪も白く染めており、後ろで三つ編みにしている。
「翠さんですか?」
訊ねると、彼女は「ええ」と白い歯を見せた。うりざね顔で、なかなかの美人だ。両の瞳だけ緑色なのは、カラーコンタクトを嵌めているのだろう。
「そちらのお車が事務所なんですってね。早速上がってもよろしくて?」
「どうぞ」
車内に案内する。義吟が「わっ、真っ白な人です!」と驚いたが、翠は微笑で応えた。
「貴女の頭、それはなんですの?」
「牛さんの角です。可愛いですよね」
「オホホ……それじゃあ、お乳を搾らないといけませんわね」
「ええ? そんなことされたら困ります」
自分の胸部を両手で覆い隠す義吟。
俺は翠にセカンドシートを勧めたが、彼女は頭を横に振った。
「形式的なことは省きましょう。みなさま、探偵でいらっしゃるからには、死体の写真を見たところで、眉を動かすこともありませんわね?」
白いレースの手袋を嵌めた手で、白いポーチから白いアルバムを取り出す。俺は「眉は動くかも知れませんが」と云いながら受け取った。
開いた途端、目に飛び込んできたのは惨殺死体の数々。どこかの部屋や路地裏で、全身をめった刺しにされたり、皮を剥がれて吊るされたり、内臓を引きずり出されたり、五体をバラバラにされたりと、凄惨極まる光景が写されている。
義吟が覗き込んでこようとしたところで、俺はアルバムを閉じた。
「なんですか、これは」
「眉、動かないじゃありませんか」
「表情筋が固いんです」
アルバムを返すと、今度は翠が開いた。
彼女の方は沈痛な面持ちとなって、ページをめくりながら話を始める。
「この子達はみな、わたくし達の大切な会員ですの。先月から相次いで殺害されています。写真を撮れたのは五名。同じ会員の者が発見する場合だけじゃありませんから。他にも四名が、やはり惨たらしく殺されています」
「どんな会なんですか」
「〈死霊のハラワタ〉と云います。もちろん、ご存知ですわね?」
その言葉に、場の空気が一瞬にして張り詰めた。
しばしの沈黙。義吟が「央くん……」と、俺の名前を呼ぶ。
俺は「分かってる」と云って頷く。翠と睨み合いながら。
「俺達は貴女個人のことは知りませんが、貴女は俺達を知っていて来たようですね」
「ええ。荻尾央さん、それから天亜愛さんもいまして?」
緑色の瞳が車内の奥へと向けられる。亜愛は大丈夫だろうか。
「しかし、遺恨は横に置いてくださらない? わたくしは依頼に参ったんです」
「その連続殺人についてですか? 警察には――まあ、頼めないでしょうね。自分達にもやましいところがある貴女達では」
「あら、やましいところなんてなくってよ」
「じゃあ――」と言葉を続けようとしたとき、車のドアが外から開けられた。
「分からんな。この最後のやつだけが、どうにも分からんよ」
這入ってきたのは仇鳴だった。平然と、それが当たり前であるかのように。
三日前にホテル〈オケアの巣〉で会ったときと同じ服装で、手には折り畳んだ雑誌を持っている。
「口にした瞬間になくなるもの。〈く〉で終わる四文字の言葉なんだが、分かるかね?」
こちらに向けられたページには、クロスワードパズルが載っていた。
「口にした瞬間になくなるもの、だ」
翠が「それはー……」と少し考えてから、「沈黙ではないかしら?」と答える。
「なるほど、そうか。沈黙と云った瞬間、もはや沈黙ではない。頭が柔らかいな、翠は」
「オホホ……恐縮ですわ」
「暗躍もありますよ!」
義吟が負けじと主張した。
仇鳴は「ふむ」と自分の顎を撫でる。
「云いたいことは分かるが、しっくり来ないな。それよりも誰だね、お前は」
品定めするみたいに義吟を眺める。俺は彼女の手を引いて、距離を取らせた。
「仇鳴……どういうつもりだ」
「よう、荻尾。先日は災難だったな。亜愛は奥かね?」
その足が一歩進むのを見て、俺は自分の身体で通路を塞ぐ。奥からはガサガサと音が聞こえる。数秒の後、仇鳴は詰まらなそうに鼻を鳴らし、セカンドシートに腰を下ろした。
「義吟、亜愛のところにいてやってくれ」
耳打ちする。義吟は仇鳴を知らないが、〈死霊のハラワタ〉のことは知っている。それで色々と察したらしく、大人しく引っ込んでいった。
「こんな窮屈なところで暮らすなど、私には我慢できんな」
仇鳴は車内を見回してから、馬鹿にしたような視線を俺に投げる。
「翠の説明はひと通り終わったかね?」
「あんたらの依頼なんて受けないぞ」
「酷いな。写真を見て、心が痛まないのか」
白々しく云うと、彼は雑誌を翠の手にあるアルバムと交換した。
「先日の一件を翠に話したところ、この件についても依頼したらどうだと云われてね。採用することにした。紹介が遅れたが、彼女は昨年から私の秘書をしている」
「他をあたれ。俺達よりも適任がいくらでもいるだろ」
「そうかね? お前達はたしかに打ってつけと思うがな。〈悪魔のイケニエ〉とかいう馬鹿げた集団についても詳しいのだろう?」
「それがどうした」
訊き返すと、仇鳴は翠を一瞥した。「まだ話せていないんですの」と彼女。
「写真もまだか? 写真は見た。ふむ。それなら気付いてほしいものだが」
アルバムがテーブルの上に広げられる。先ほどは死体にばかり目がいったけれど、改めて見れば他にも奇妙なものが写されていた。
簡易的な祭壇と、そこに架けられた逆さの十字架。幾本も立てられた蝋燭の残骸。引き裂かれた聖書。空になった酒瓶。赤黒く染まったワイングラス。ナイフとフォーク。バイブやディルドといったアダルトグッズ。縄。鞭。注射器……
「黒ミサ――サバトとも云うのだったか。なんにせよ、愚かしい所業だ」
「……これらが〈悪魔のイケニエ〉による犯行だと?」
「いかにも。逆十字や引き裂かれた聖書なんて象徴的だろう。そして犯人は女だ。遺体に性的暴行の痕はあるが、精液は残っていない。さしずめ、魔女と云ったところか。同じ女を蹂躙した挙句に惨たらしく殺害し、その血を飲み、肉を食らい、悪魔に捧げる。十六世紀フランスの法学者ジャン・ボダンを知っているかね? 彼は魔女が悪魔の教唆によって犯す十五の罪を挙げている。そらでは云えんが――翠、」
指名された真っ白な女は、携帯の画面を見ながら音読する。
「魔女は、神を否認し、神を呪い、悪魔を崇敬してこれに犠牲を捧げ、悪魔に子供を供し、受洗前にこれらの子供を殺して悪魔に献じ、生まれる前から子供を悪魔に捧げ、魔女のセクトに人々を熱心に誘い込み、悪魔の名にかけて誓い、近親相姦の罪を犯し、受洗前の子供を殺して種々の飲料をこしらえ、人肉を食し、呪術を使って毒殺したり殺したりし、家畜を死なせ、大地の生む糧を枯れさせ、悪魔と性的に交わる」
それらは後の十七世紀において、でっち上げと結論されている話だ。ジャン・ボダンが著した『魔女の悪魔狂』だって、ギイ・パタンに『一文の価値もない』と評された。
しかし二十世紀以降、絵空事であったはずの悪魔主義は現実のものとなる。小説、漫画、映画、音楽……あらゆる娯楽がそれをモチーフに使い、その影響からか、歴史的な文脈を踏まえることもせず、実践する者達が出現した。虐待事件や殺人事件まで多数起きている。
「先日捕まった〈悪魔のイケニエ〉構成員――ミヤと云ったかな? 彼女もサバトと称して乱交に耽り、仕舞いには殺した女の肉を料理して食おうとしたそうじゃないか」
やはり仇鳴も、その情報を掴んでいた。
俺の中で話が繋がる。
「そのミヤは、あんたのとこの会員である巻乃木真月――本名は奈田綾瀬から、媚薬を買っていたそうだな。あんたは奈田綾瀬をスパイだと云って、あのホテルに監禁していた。彼女から〈悪魔のイケニエ〉のことを訊き出すつもりが、まんまと逃げられて、手掛かりを失ったというわけだ」
「監禁とは人聞きが悪いが、概ねそのとおりだ。ああ、奈田を逃がしたあの清掃員も〈悪魔のイケニエ〉だったよ。私達で保護している。しかしあの娘はなにも知らんな。使い捨ての駒だ」
仇鳴は話しながら、翠に目配せをした。翠の方は携帯を操作する。
「話を戻そう。悪魔的儀式を模した連続殺人だ。どういうわけか、連中は私達を標的としているらしい。それに連中との内通者は、奈田だけではないようだ。被害者には幹部メンバーも多くてね、私達の内情をよく知らなければならん。親玉のスパイがいるのだよ」
「それを俺達に見つけろと云うのか」
「そうだ。お前達が〈悪魔のイケニエ〉の支部をいくつか壊滅させたという話も知っている。そのうえ〈死霊のハラワタ〉の元会員だからな、こちらも気を遣うことがない。これで理解できたかね? 話の流れを」
運転席のドアが開いて、知らない男が乗り込んできた。男は仕切りのガラス窓を開けると、仇鳴に茶封筒を手渡す。仇鳴はそれをテーブルの上に放る。
「三十万だ。親玉のスパイを暴いてもらえればいい。成功報酬には追加で七十万出そう」
「まあ! 大金ですわ!」と、翠がわざとらしく喝采する。
俺は運転席の男を指差した。前を向いて、シートベルトを締めてやがる。
「それよりも、そいつを其処から降ろせ」
「聞けないな。運転席に座らずに、どう運転するのだね?」
キーは差しっぱなしだ。やられた。直後、車が発進する。
「央くん!」という声。義吟が通路を歩いてくる。俺も運転席へ向かおうとするが、眼前に尖った先端が突き付けられた。翠の持つ日傘だ。
「オホホ……運転中は暴れてはいけませんわ。危険じゃありませんか」
「翠の云うとおりだ。座りたまえよ、荻尾もそっちの女も」
カーブするのに、車が大きく揺れる。俺は不承不承、サードシートに腰を下ろした。
「どこに向かってる」
「私が預かる西戴天京支部だ。ほら、金を受け取らないのかね」
「連れて行くのは俺だけにしろ。亜愛と義吟まで来る必要はない」
「ふん。亜愛がいなくてどうすると云うのだ」
仇鳴は隣に座った翠の肩に腕を回して、俺に見下げた視線を向けた。
「探偵業とは考えたものだ。亜愛の才能があれば造作もないだろう。死者の霊に犯人を訊けばいいのだからな」
「そんな便利なものじゃない。あんたも知ってるだろ」
「どうかな。亜愛は私達の最高傑作だぞ?」
「亜愛がお前らの施設に行けるはずが――」
「行くわ」
すぐ近くからその声がして振り向けば、亜愛が通路を抜けて姿を現した。
唇を引き結び、眉根を寄せた険しい顔で、仇鳴を見据えている。
「お前――亜愛か? 随分と地味になったものだな」
仇鳴は珍しく、本当に驚いた様子を見せた。
それから目を細め、その視線を亜愛の足元から頭の天辺まで、舐めるように這わせる。
亜愛の方は、そうされても動揺を一切、表に出さないでいる。
「まあいい。大事なのはお前の才能だ。衰えていないだろうな?」
「おかげさまでね」
気丈に応える亜愛。
義吟が「亜愛ちゃん……?」と心配そうに声を掛けても、彼女は仇鳴を見据えたままだ。
正面から、身体の向きも、視線も、まったく逸らさずに対峙している。
「さて、どうするのだ、荻尾」と、仇鳴が俺に向かって顎をしゃくった。
「……亜愛がそう云うなら、引き受けよう」
彼女がいま、どれほどの恐怖と嫌悪に耐えているのか。
それが分かる俺は、彼女の決意を尊重することにした。
「ただし、ひとつ条件がある。金はこの三十万でいい。成功報酬は別のものだ」
「なんだね?」
「知っていることを話してもらう。俺達が組織を抜けたときの、あの事件について」
仇鳴は天井を見上げて、しばし考えた。
その視線が俺へと戻り、答えが出る。
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