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【G章:悪魔の私と私の神様】
3、4「二度と孵らない卵を抱えて」
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銭湯に到着した。
俺と義吟は着替えを手提げバッグに入れるだけだが、亜愛は違う。彼女はシャンプーマニアであり、ベッド下の引き出しに三十種類以上のボトルをストックしてある。それが髪の手入れとして正しいのかは知らないけれど、気分によって毎回、別のものを持ち込むのだ。そして風呂上がりには、俺に髪を触らせて匂いを嗅がせて、感想まで求めてくる。俺はいつも地味に困っている。
銭湯の中では当然、男湯と女湯に分かれる。俺はひとりで熱い湯に浸かりながら、友餌のことを考えた。断片的に思い起こされる、会話や表情、細かい仕草など。あー可愛い……。近ごろの俺は、彼女のことしか考えられなくなっている。そうしている間は無意識に頬が緩んでしまい、義吟や亜愛からよく指摘される。
しかし昨日――日付としては今日だが、結局、訊くべきことを訊くことができなかった。友餌のことを考えるのは俺を充実した気分にさせてくれるが、それだけではなくなってしまっている。気掛かりは日に日に大きくなり、俺の胸を締め付ける。
のぼせそうになったところで、湯から上がった。長風呂になったけれど、それでも女子二人の方が長いだろう。先に駐車場へと戻る。すっかり夜になっている。
キャンピングカーの扉を開けようとしたとき、頭上から声が掛かった。
「荻尾さーん、こっちこっちー」
見覚えのある女子が、屋根の上に立って俺を見下ろしていた。白色のツナギを着て、黒髪を右側でサイドテールにしている。ビデオ通話のときと同じ格好だ。
「お前……ヨホロかコムラと云うそうだな」
突然のことに驚かされたが、努めて冷静に問う。
双子の片割れは、サイドテールの根元を掴んで、ふりふりと揺らして見せた。
「うちはコムラだよ。鵜足コムラ。仲良くしてね」
「するわけねえだろ。降りてこい」
「えー。荻尾さんがのぼって来てよ」
こいつ、なにを企んでいるんだ?
周囲を見回すが、特段変わったところはない。一般人だろう家族が歩いている。こんな場所でなにか、大胆な行動には出られないはずだ。
「警戒してるみたいだけど、こっちからしたらそんなの必要ないって分かるから、だるいんだよね。ただお話がしたいだけだよ。可愛い女の子とお話、したくないの?」
「お前は大して可愛くない」
「ほんとに? ショックなんだけど」
俺は車のバッグドアに回り、そこに取り付けてある梯子をのぼった。
停止した換気扇の上に胡坐をかいているコムラは、両手を広げて俺を迎える。
「やあやあ荻尾さん。改めまして、顔を合わせるのは初めてだね。〈悪魔のイケニエ〉茜条斎支部に所属、鵜足姉妹の妹の方、肉体派のコムラと申します」
「肉体派って、ちんちくりんじゃねえか。まだ未成年か?」
「はいー? 見くびってもらっちゃ困るよ? 困るってのは、荻尾さんの方が」
べらべらと喋る奴だ。茜条斎支部……戴天京の中にも複数の支部があるのだろうか。
「なんの話をしに来たんだ」
「雑談。なんでもいいよ。その銭湯、荻尾さんはサウナには這入った?」
「這入ってない」
「這入ったらいいのに。サウナは身体に良いんだよ。うちの地元に有名なサウナがあるんだけど、漢方薬を使ったサウナで、これ全身火傷したーと思うくらい熱いの。五分で限界だね。汗だらっだら掻くよ。出た後はすぐ、水風呂に入るの。天然水をじゃんじゃんかけ流してる水風呂で、これが堪らないんだよ! 水ってこんなに柔らかいのって驚くよ!」
本当になにしに来たんだこいつ。
「うちは週に一回は行くようにしてる。だからお肌がすべすべ。ほら、触ってみて」
「なんの話でもいいなら、世間を騒がせている連続殺人――あれはお前らがやってることだな?」
「それがなに? それより今はうちのお肌の話だよ」
ツナギのチャックを摘まみ、へそのあたりまで下ろすコムラ。その下には白と水色のストライプになったブラジャーをつけているだけで、健康的な肌が露出する。
「そんなに離れてたら、触れないよ?」
「触らねえよ。チャックを上げろ」
「んー? 照れてるの?」
コムラは腰を上げて、にやにやと笑いながら、俺に近づいてくる。
そのとき「央くん!」と声がした。振り向くと、義吟と亜愛がやって来るところだ。
俺がそちらに気を取られた隙に、コムラは距離を詰めて俺に抱き着いた。
「おまえ――」
「姉ちゃん、これー」
なにかが放物線を描いて宙を舞う。車の下でそれをキャッチしたのは、いつの間にか現れたもうひとりのツナギ女子。左サイドテールのヨホロだ。
「ナイスだ、妹。そのまま押さえてろ」
彼女は受け取ったものを車のドアに差し込む。キーだ。ジーパンのポケットに入れておいたのを抜き取られた。
俺は屋根から飛び降りようとしたが、そこで胸倉を掴まれたかと思えば、次の瞬間、視界の上と下とがひっくり返って――直後、背中を強く打ちつける。
「いだあ!」
「お客様、ご乗車の間は大人しく、ね?」
コムラの逆さの顔が覗き込んでくる。エンジンがかかる音と、背中に伝わる振動。
「それでは、出発しまーす」
「嘘だろ?」
車が走り出す。遠くから義吟の声がする。ああ、つい最近もこんなことがあったが、さすがに俺は屋根の上なんかじゃなかった。コムラは両手で俺の顔を挟み、爆笑している。
「なに考えてんだ!」
「こうすれば、二人きりでお話できるでしょ?」
荒い運転で駐車場を飛び出す車。俺は仰向けとなったままソーラーパネルのふちに掴まり、振り落とされないようにする。コムラはしゃがみ込んだ姿勢でバランスを保っている。
「あー風が気持ち良いー」
「どこに行くつもりだ!」
「別にどこにも。ただのドライブだよ」
「もういい! 本題はなんなんだよ!」
「悪魔に栄光を。悪の限りを尽くすのがうちらだからね」
会話にならないが、これは拉致だ。ついに俺を直接、狙ってきやがった。
上等じゃないか。油断しているこいつらこそ、危険に気付いていない。
「どうして〈死霊のハラワタ〉の会員を殺してる」
「さあね。そういう方針なの。でも殺すだけじゃないよ。〈ハラワタ〉から〈イケニエ〉に入る人達も多いし、結構、通じるところがあるんだよね」
「巻乃木真月か」
「そう、マッキーちゃん! 可愛いよねー」
「スパイを送り込んで、勧誘もしているんだな? 翠という女がそうだろ」
「うん、正解。翠さんから聞いてるよ。荻尾さん、この前も大活躍だったんだってね」
「翠は俺に、協力し合おうと誘ってきた。お前らは、俺達も引き込もうとしてるのか」
「えー、どうだろ。リーダーの考えは――」
だんっ! と音がして、車体が揺れた。
首だけ上げて見れば、義吟が屋根に乗っている。カチューシャの耳と同じく、まるで狼のように両手両足を着き、尻を上げた格好だ。
「央くんから離れてください!」
「お~。さすが化け物。追いついて来たね?」
亜愛がうなじのダイヤル錠を『060』に合わせたのだろう。そうしてくれると思っていた。義吟の最高速度はそれこそ狼並みで、時速六〇キロを超える。
「車も停めてください。でないと両腕の肘を逆向きに曲げますよ!」
「それは困るね。ご飯が食べづらくなっちゃう」
ツナギのチャックを上げていくコムラ。
「ま、手合わせはうちも望むところだ――よ!」
首まで上げ終えたとき、彼女は屋根を蹴って俺を飛び越え、義吟に襲い掛かった。
俺は身体を起こす。ソーラーパネルにしがみつく。義吟がコムラの腕を掴んで振り回している。だがコムラは空中で器用に体勢を変え、義吟の肩の上で逆立ちしたかと思えば、その顔面に右の拳を叩き込もうとする。かわす義吟。コムラの拳は屋根をへこませて、彼女はそのまま縦に半回転して着地した。
まさか、義吟の動きに対応している?
義吟はすかさず足払いを繰り出したが、コムラはそれを飛び越えて、そのままドロップキックする。義吟の方も食らわない。その脚を掴み、コムラを大薙ぎで屋根に叩きつけた。
しかし終わりではない。コムラは踵で義吟の顎を打ち抜こうとする。義吟は今度もよけるが、コムラはそのまま両手を使って跳び上がり、両脚で義吟の頭をロックした。義吟が振り払おうとしても、身体をぐにゃりと曲げてしつこく絡みつく。
俺は瞠目する。なんだ――どういうことだ?
そこで、義吟が急に抵抗を止めた。糸が切れたみたいに、前方にばたんと倒れる。俺の目の前に彼女の頭――それを上から手で押さえつけたコムラと、俺は目が合う。
至近距離から、コムラはにやりと笑う。
「見くびったら荻尾さんが困るって、云ったよね?」
「お前……改造人間か?」
「そういうこと。姉ちゃんは頭脳で、うちは肉体」
絡みついていたときだ。義吟のダイヤル錠を『000』にされた。義吟は生命維持以外のすべての動きを停止している。まずい。俺は彼女のダイヤル錠に手を伸ばそうとして、その手をコムラに捕まれる。
「ぐああ!」
万力のような力で握られる。骨が砕けそうだ。
「可愛い顔してるねえ、荻尾さん。あんたのことも持ち帰って、お姉ちゃんと二人でたくさん虐めてあげたいけど、あんたに危害を加えるのは禁止されてるの。ばいばい」
ぐいっと引っ張られて、俺は体勢を崩す。胸倉を掴まれる。
そして為すすべもないまま、物凄い力で屋根の外へとぶん投げられた。
「う――ああああああああああああああああああっ!」
常軌を逸した混乱に襲われる滞空時間。空気抵抗を全身に受けながら、視界はあらゆる方向へ。夜空に浮かぶ月。遠くのビル群。工場地帯の灯り。真っ赤な橋桁。迫ってくる、暗い川面――――
4
郷義吟は本名ではない。
本名で呼ばれていたころの彼女は、云ってしまえば普通の女の子だった。
父は地方の銀行員、母は専業主婦、その一人娘で、人並みの愛情を受けて育った。近所の中学を卒業すると、地元の一般的な公立高校に入学した。非行に走ることはなく、自分の殻に閉じこもることもなかった。明るい性格のため、友達は多かった。所属していた女子テニス部の練習には真面目に参加し、学業はテスト前に慌てることが多かったけれど赤点は取らなかった。自分の生活に不満はなかった。
彼女が〈悪魔のイケニエ〉に拉致されたのは、ただ運が悪かっただけだ。
徹底的な改造と人格の矯正。人間扱いはされない。番号でのみ呼ばれ、改造の次には試験。それを繰り返される。周囲では、同じく各地から拉致されてきた者達が日々、改造が失敗するか、試験に耐えられずに死んでいく。
彼女の改造が成功したのは、これも偶然に過ぎない。彼女自身に特別なところはなかった。その偶然が幸運だったのか、不幸だったのかは分からない。改造自体は成功しても、心は完全に壊れてしまっていた。
俺が彼女を救出したとき、彼女は光のない目を俺に向けて、こう語った。
「貴方のために、なにをしたらいいですか? 私はどんな人でも殺せます……相手が何人でも構いません……どこにいても関係ありません……どんな場所だろうと侵入できます……突破できないセキュリティはありません……殺す以外でも、盗むとか、爆弾を仕掛けるとか、システムを書き換えるとか……なんでもできます……私は、どうしたらいいでしょう?」
俺は答えた。
「殺すのは無しだな。盗むもない。爆弾なんて、そもそも持ってないし」
「なら造れます。命令していただければ……」
「いや、造らなくていいよ。あと俺は、命令はしない。頼むとか、提案するとかだね」
「では、頼まれたことや提案されたことを、必ず実行します」
「それじゃあ命令と変わらないけど、まあ、そのへんはゆっくり慣れていこう」
「慣れていきます」
「で、最初の提案なんだけど、俺と一緒に探偵やってみない?」
「分かりました」
「即答だね……」
「なにをすればいいですか」
「色んな事件を解決するんだよ。きみがさっき挙げたようなことはしない。あ、セキュリティ突破は頼むかも。必要は法律を持たず――って場合はあるから」
「では、まずはどのセキュリティを?」
「まあ焦らないで。環境がいきなり変わって、混乱させちゃうと思うけどさ」
「あの……はい……」
「うーん……あと、きみの名前も考えないとな」
彼女が郷義吟として今のようになるまでは、決して簡単な道のりではなかった。俺や亜愛でなく、一番努力したのは彼女自身だ。あれほどの壮絶な経験をして、彼女が再び自分の意思を持ち、豊かな感情を持ち、それを表現できるようになるなんて。
彼女はいつも云っていた。「央くんに恩返しがしたいから」と。
俺は彼女を誇りに思う。恩返しなんていらない。彼女が俺達といて、それを幸福に感じてくれるなら、それでいい。それがどんなに掛け替えのないことなのか、知っているから。
銭湯に到着した。
俺と義吟は着替えを手提げバッグに入れるだけだが、亜愛は違う。彼女はシャンプーマニアであり、ベッド下の引き出しに三十種類以上のボトルをストックしてある。それが髪の手入れとして正しいのかは知らないけれど、気分によって毎回、別のものを持ち込むのだ。そして風呂上がりには、俺に髪を触らせて匂いを嗅がせて、感想まで求めてくる。俺はいつも地味に困っている。
銭湯の中では当然、男湯と女湯に分かれる。俺はひとりで熱い湯に浸かりながら、友餌のことを考えた。断片的に思い起こされる、会話や表情、細かい仕草など。あー可愛い……。近ごろの俺は、彼女のことしか考えられなくなっている。そうしている間は無意識に頬が緩んでしまい、義吟や亜愛からよく指摘される。
しかし昨日――日付としては今日だが、結局、訊くべきことを訊くことができなかった。友餌のことを考えるのは俺を充実した気分にさせてくれるが、それだけではなくなってしまっている。気掛かりは日に日に大きくなり、俺の胸を締め付ける。
のぼせそうになったところで、湯から上がった。長風呂になったけれど、それでも女子二人の方が長いだろう。先に駐車場へと戻る。すっかり夜になっている。
キャンピングカーの扉を開けようとしたとき、頭上から声が掛かった。
「荻尾さーん、こっちこっちー」
見覚えのある女子が、屋根の上に立って俺を見下ろしていた。白色のツナギを着て、黒髪を右側でサイドテールにしている。ビデオ通話のときと同じ格好だ。
「お前……ヨホロかコムラと云うそうだな」
突然のことに驚かされたが、努めて冷静に問う。
双子の片割れは、サイドテールの根元を掴んで、ふりふりと揺らして見せた。
「うちはコムラだよ。鵜足コムラ。仲良くしてね」
「するわけねえだろ。降りてこい」
「えー。荻尾さんがのぼって来てよ」
こいつ、なにを企んでいるんだ?
周囲を見回すが、特段変わったところはない。一般人だろう家族が歩いている。こんな場所でなにか、大胆な行動には出られないはずだ。
「警戒してるみたいだけど、こっちからしたらそんなの必要ないって分かるから、だるいんだよね。ただお話がしたいだけだよ。可愛い女の子とお話、したくないの?」
「お前は大して可愛くない」
「ほんとに? ショックなんだけど」
俺は車のバッグドアに回り、そこに取り付けてある梯子をのぼった。
停止した換気扇の上に胡坐をかいているコムラは、両手を広げて俺を迎える。
「やあやあ荻尾さん。改めまして、顔を合わせるのは初めてだね。〈悪魔のイケニエ〉茜条斎支部に所属、鵜足姉妹の妹の方、肉体派のコムラと申します」
「肉体派って、ちんちくりんじゃねえか。まだ未成年か?」
「はいー? 見くびってもらっちゃ困るよ? 困るってのは、荻尾さんの方が」
べらべらと喋る奴だ。茜条斎支部……戴天京の中にも複数の支部があるのだろうか。
「なんの話をしに来たんだ」
「雑談。なんでもいいよ。その銭湯、荻尾さんはサウナには這入った?」
「這入ってない」
「這入ったらいいのに。サウナは身体に良いんだよ。うちの地元に有名なサウナがあるんだけど、漢方薬を使ったサウナで、これ全身火傷したーと思うくらい熱いの。五分で限界だね。汗だらっだら掻くよ。出た後はすぐ、水風呂に入るの。天然水をじゃんじゃんかけ流してる水風呂で、これが堪らないんだよ! 水ってこんなに柔らかいのって驚くよ!」
本当になにしに来たんだこいつ。
「うちは週に一回は行くようにしてる。だからお肌がすべすべ。ほら、触ってみて」
「なんの話でもいいなら、世間を騒がせている連続殺人――あれはお前らがやってることだな?」
「それがなに? それより今はうちのお肌の話だよ」
ツナギのチャックを摘まみ、へそのあたりまで下ろすコムラ。その下には白と水色のストライプになったブラジャーをつけているだけで、健康的な肌が露出する。
「そんなに離れてたら、触れないよ?」
「触らねえよ。チャックを上げろ」
「んー? 照れてるの?」
コムラは腰を上げて、にやにやと笑いながら、俺に近づいてくる。
そのとき「央くん!」と声がした。振り向くと、義吟と亜愛がやって来るところだ。
俺がそちらに気を取られた隙に、コムラは距離を詰めて俺に抱き着いた。
「おまえ――」
「姉ちゃん、これー」
なにかが放物線を描いて宙を舞う。車の下でそれをキャッチしたのは、いつの間にか現れたもうひとりのツナギ女子。左サイドテールのヨホロだ。
「ナイスだ、妹。そのまま押さえてろ」
彼女は受け取ったものを車のドアに差し込む。キーだ。ジーパンのポケットに入れておいたのを抜き取られた。
俺は屋根から飛び降りようとしたが、そこで胸倉を掴まれたかと思えば、次の瞬間、視界の上と下とがひっくり返って――直後、背中を強く打ちつける。
「いだあ!」
「お客様、ご乗車の間は大人しく、ね?」
コムラの逆さの顔が覗き込んでくる。エンジンがかかる音と、背中に伝わる振動。
「それでは、出発しまーす」
「嘘だろ?」
車が走り出す。遠くから義吟の声がする。ああ、つい最近もこんなことがあったが、さすがに俺は屋根の上なんかじゃなかった。コムラは両手で俺の顔を挟み、爆笑している。
「なに考えてんだ!」
「こうすれば、二人きりでお話できるでしょ?」
荒い運転で駐車場を飛び出す車。俺は仰向けとなったままソーラーパネルのふちに掴まり、振り落とされないようにする。コムラはしゃがみ込んだ姿勢でバランスを保っている。
「あー風が気持ち良いー」
「どこに行くつもりだ!」
「別にどこにも。ただのドライブだよ」
「もういい! 本題はなんなんだよ!」
「悪魔に栄光を。悪の限りを尽くすのがうちらだからね」
会話にならないが、これは拉致だ。ついに俺を直接、狙ってきやがった。
上等じゃないか。油断しているこいつらこそ、危険に気付いていない。
「どうして〈死霊のハラワタ〉の会員を殺してる」
「さあね。そういう方針なの。でも殺すだけじゃないよ。〈ハラワタ〉から〈イケニエ〉に入る人達も多いし、結構、通じるところがあるんだよね」
「巻乃木真月か」
「そう、マッキーちゃん! 可愛いよねー」
「スパイを送り込んで、勧誘もしているんだな? 翠という女がそうだろ」
「うん、正解。翠さんから聞いてるよ。荻尾さん、この前も大活躍だったんだってね」
「翠は俺に、協力し合おうと誘ってきた。お前らは、俺達も引き込もうとしてるのか」
「えー、どうだろ。リーダーの考えは――」
だんっ! と音がして、車体が揺れた。
首だけ上げて見れば、義吟が屋根に乗っている。カチューシャの耳と同じく、まるで狼のように両手両足を着き、尻を上げた格好だ。
「央くんから離れてください!」
「お~。さすが化け物。追いついて来たね?」
亜愛がうなじのダイヤル錠を『060』に合わせたのだろう。そうしてくれると思っていた。義吟の最高速度はそれこそ狼並みで、時速六〇キロを超える。
「車も停めてください。でないと両腕の肘を逆向きに曲げますよ!」
「それは困るね。ご飯が食べづらくなっちゃう」
ツナギのチャックを上げていくコムラ。
「ま、手合わせはうちも望むところだ――よ!」
首まで上げ終えたとき、彼女は屋根を蹴って俺を飛び越え、義吟に襲い掛かった。
俺は身体を起こす。ソーラーパネルにしがみつく。義吟がコムラの腕を掴んで振り回している。だがコムラは空中で器用に体勢を変え、義吟の肩の上で逆立ちしたかと思えば、その顔面に右の拳を叩き込もうとする。かわす義吟。コムラの拳は屋根をへこませて、彼女はそのまま縦に半回転して着地した。
まさか、義吟の動きに対応している?
義吟はすかさず足払いを繰り出したが、コムラはそれを飛び越えて、そのままドロップキックする。義吟の方も食らわない。その脚を掴み、コムラを大薙ぎで屋根に叩きつけた。
しかし終わりではない。コムラは踵で義吟の顎を打ち抜こうとする。義吟は今度もよけるが、コムラはそのまま両手を使って跳び上がり、両脚で義吟の頭をロックした。義吟が振り払おうとしても、身体をぐにゃりと曲げてしつこく絡みつく。
俺は瞠目する。なんだ――どういうことだ?
そこで、義吟が急に抵抗を止めた。糸が切れたみたいに、前方にばたんと倒れる。俺の目の前に彼女の頭――それを上から手で押さえつけたコムラと、俺は目が合う。
至近距離から、コムラはにやりと笑う。
「見くびったら荻尾さんが困るって、云ったよね?」
「お前……改造人間か?」
「そういうこと。姉ちゃんは頭脳で、うちは肉体」
絡みついていたときだ。義吟のダイヤル錠を『000』にされた。義吟は生命維持以外のすべての動きを停止している。まずい。俺は彼女のダイヤル錠に手を伸ばそうとして、その手をコムラに捕まれる。
「ぐああ!」
万力のような力で握られる。骨が砕けそうだ。
「可愛い顔してるねえ、荻尾さん。あんたのことも持ち帰って、お姉ちゃんと二人でたくさん虐めてあげたいけど、あんたに危害を加えるのは禁止されてるの。ばいばい」
ぐいっと引っ張られて、俺は体勢を崩す。胸倉を掴まれる。
そして為すすべもないまま、物凄い力で屋根の外へとぶん投げられた。
「う――ああああああああああああああああああっ!」
常軌を逸した混乱に襲われる滞空時間。空気抵抗を全身に受けながら、視界はあらゆる方向へ。夜空に浮かぶ月。遠くのビル群。工場地帯の灯り。真っ赤な橋桁。迫ってくる、暗い川面――――
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郷義吟は本名ではない。
本名で呼ばれていたころの彼女は、云ってしまえば普通の女の子だった。
父は地方の銀行員、母は専業主婦、その一人娘で、人並みの愛情を受けて育った。近所の中学を卒業すると、地元の一般的な公立高校に入学した。非行に走ることはなく、自分の殻に閉じこもることもなかった。明るい性格のため、友達は多かった。所属していた女子テニス部の練習には真面目に参加し、学業はテスト前に慌てることが多かったけれど赤点は取らなかった。自分の生活に不満はなかった。
彼女が〈悪魔のイケニエ〉に拉致されたのは、ただ運が悪かっただけだ。
徹底的な改造と人格の矯正。人間扱いはされない。番号でのみ呼ばれ、改造の次には試験。それを繰り返される。周囲では、同じく各地から拉致されてきた者達が日々、改造が失敗するか、試験に耐えられずに死んでいく。
彼女の改造が成功したのは、これも偶然に過ぎない。彼女自身に特別なところはなかった。その偶然が幸運だったのか、不幸だったのかは分からない。改造自体は成功しても、心は完全に壊れてしまっていた。
俺が彼女を救出したとき、彼女は光のない目を俺に向けて、こう語った。
「貴方のために、なにをしたらいいですか? 私はどんな人でも殺せます……相手が何人でも構いません……どこにいても関係ありません……どんな場所だろうと侵入できます……突破できないセキュリティはありません……殺す以外でも、盗むとか、爆弾を仕掛けるとか、システムを書き換えるとか……なんでもできます……私は、どうしたらいいでしょう?」
俺は答えた。
「殺すのは無しだな。盗むもない。爆弾なんて、そもそも持ってないし」
「なら造れます。命令していただければ……」
「いや、造らなくていいよ。あと俺は、命令はしない。頼むとか、提案するとかだね」
「では、頼まれたことや提案されたことを、必ず実行します」
「それじゃあ命令と変わらないけど、まあ、そのへんはゆっくり慣れていこう」
「慣れていきます」
「で、最初の提案なんだけど、俺と一緒に探偵やってみない?」
「分かりました」
「即答だね……」
「なにをすればいいですか」
「色んな事件を解決するんだよ。きみがさっき挙げたようなことはしない。あ、セキュリティ突破は頼むかも。必要は法律を持たず――って場合はあるから」
「では、まずはどのセキュリティを?」
「まあ焦らないで。環境がいきなり変わって、混乱させちゃうと思うけどさ」
「あの……はい……」
「うーん……あと、きみの名前も考えないとな」
彼女が郷義吟として今のようになるまでは、決して簡単な道のりではなかった。俺や亜愛でなく、一番努力したのは彼女自身だ。あれほどの壮絶な経験をして、彼女が再び自分の意思を持ち、豊かな感情を持ち、それを表現できるようになるなんて。
彼女はいつも云っていた。「央くんに恩返しがしたいから」と。
俺は彼女を誇りに思う。恩返しなんていらない。彼女が俺達といて、それを幸福に感じてくれるなら、それでいい。それがどんなに掛け替えのないことなのか、知っているから。
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