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15「愛に戸惑い揺られる心」

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 その後もビリヤードを続けて、ふと腕時計を見ると十六時。真夏日だし、昼に干した洗濯物は充分に乾いたはずだ。取り込んでおこうと思い、僕は一旦娯楽室を出た。

 そのまま廊下を進んで玄関を出ると、外はまだ太陽がギラギラと照り付けている。頭上に片手をかざして日光を遮りつつ、南東に設置された物干し台のもとまで行く。

 やはり乾いていた洗濯物をカゴに入れ、引き返そうとしたところで、隣の物干し台に干されている物が目に留まった。紙幣が一枚一枚、洗濯バサミで挟んである。誤って財布ごと洗濯した沢子のものだが、こちらも既に乾いているようだ。

 それにしても、本当に紙幣を天日干しにするとは……。

 お金だし、下着を含んだ衣類もあるから、一緒に取り込んで持って行くのは得策じゃないだろう。建物の中に戻った僕は、カゴを洗面所の前あたりに置いて、沢子の部屋を目指した。一階を北側まで迂回せねばならず、つくづく不便な構造の建物だ。

 西側の階段を上がって左へ曲がる。そこで後ろから「道雄さん」と呼び止める声があった。振り返ると、香久耶が彼女の部屋から出てきたところだった。

「運命が糸を手繰たぐる、そんなタイミングね。ちょっと来て」

「なんですか?」

「来て。朝露が地面に滴るのと同じ、少しの時間で済むから」

 小さく手招きして部屋に戻る。沢子は後にして、僕も彼女の部屋に這入った。

 天井から、たくさんのブランコが吊るされている。そのほか、ベッドも机も収納もすべてが同様にチェーンで吊るされ、床に置かれている物がひとつもない。

 香久耶はそれらの間を縫いながら、語り掛けてくる。

「道雄さん、貴方を知ってから、時間の進みが遅い。貴方と一緒にいないときの話ね。反対に、貴方と一緒にいるときには速い。いまだってきっと、まばたきを一度するだけの間に、過ぎ去ってしまう」

「気に入ってもらえてるのは、嬉しいですけど……」

「この部屋のブランコ、計算されていないの。よく観察すると分かる」

「なんの計算ですか?」

「乗って、大きく揺られたとき、他に吊られている物にぶつかる。わずかに揺れる程度ならいいけれど、欲求は満たされないわ」

「ああ、本当ですね」

「でも、さらに観察すると、ひとつだけ正解があるの。それがこれ」

 彼女はブランコのひとつに座った。たしかに、それを揺らした場合の直線上にはぎりぎり、他に吊るされている物がないみたいだ。

「遊びたいわ。後ろから背中を押してくれるかしら?」

「いいですけど」

 相変わらず次の言動が読めず、噛み合っている感じがしない。それが嫌というわけじゃないけれど、彼女の方はそれでいいのか、段々と不安になってくる。

「パラパラチャーハン、あたしを選んでくれてありがとう」

「いえ。本当に美味しかったので」

 ブランコに揺られながら話す香久耶。僕は後ろに立ち、彼女がこちらに来るたび、肩甲骨のあたりを軽く押す。触れていることを意識する。抱き着かれたときにも思ったが、驚くほど華奢きゃしゃだ。そうでなければ、チャイナドレスだってこんなに似合わないか。

「優しいのね、道雄さん」

「そんな優しくもないですよ」

「どうしてそう思う?」

「うーん……僕はたぶん、事を荒立てないようにしているだけなんです。それが優しいって捉えられますけど。実際はただの臆病ですよ」

「そうやって考えられるのが、優しい証拠。本当の優しさは、臆病を理解することだから」

「そういうものですか」

「自分を優しい人だと思って疑わないなら、それは傲慢ごうまんでしょう」

「たしかに。自分を省みない人は、少し苦手ですね」

「ああ……言葉を重ねるたび、貴方のことを好きになっていく」

 反応に窮《きゅう》して、僕は黙って背中を押す。

「道雄さんみたいな人、はじめてなの。なぜなに期の赤子に戻ったかのよう。もっと知りたい。時間をかけて。それなのに、煩わしいものが多すぎるわ」

「知っていくにつれて、期待外れになるんじゃないかと思いますよ」

「大丈夫。期待を持ってるわけじゃないの。ゼロベースから、道雄さんそのものを受け入れていくから。ひとつひとつが、目覚めの良い朝みたいに新鮮なことよ」

 また返事がしづらい。話題を変えたい。

「こう云ったら失礼かも知れませんけど、やっぱり表現の仕方が詩人ですね」

「道雄さんは普段、詩を読むことはある?」

「すいません、あまりないです」

「あたしも。詩って、なにが良いのかしらね?」

「ええ?」

「憶えてるかしら? パラパラチャーハンで勝ったら、抱き着かせてもらう約束だった」

「あー、そういえば……」

 ブランコの上で、香久耶がくるりと振り返った。そのまま僕の方に揺られてきて、抱き着かれた。飛び付かれたと云った方が正しい。突然のことで僕は構えられておらず、後ろ向きに倒れた。絡み付いた香久耶も一緒に。

「い、いったあ……」

 別のブランコに肩をぶつけたのと、床に頭を打ったことで軽くうめく僕の上で、香久耶は「あはははっ」と、意外なほど屈託なく笑っている。

「こういう冒険、したことある?」

 そして僕がまだ対応できていないうちに、なんの躊躇いもなくキスをしてきた。僕はすぐに顔を背けたけれど、既に唇同士が触れた感触があった。混乱だけが前面に出る。

「な、なにするんですかっ」

「あはっ。あたしも分かんない」

 とにかく、乱暴にならないよう彼女の両肩を押すようにしてどけて、起き上がる。彼女は愉快そうに僕を見ている。悪戯っぽいと云うか、こういう表情もするのか。

「もう一度する? よく分からなかったから」

「いえ……からかわないでくださいよ」

 恥ずかしいくらい動揺している。顔が熱い。

「僕、沢子さんに用があったんです。行きますね」

「道雄さん、今日の夜、お風呂から上がった後、娯楽室で待ってる」

 その言葉には返事せず、僕は逃げるように部屋を出た。

 香久耶はどういうつもりなんだ? 本当にからかっているだけ……?

 地に足がつかない心地のまま、沢子の部屋の扉をノックする。「はーい」と声がしたので扉を開けて中に這入ると、彼女はオープンカーの運転席に座って携帯をいじっていた。

 スピーカーからはゴージャスな感じのインスト曲が流れており、彼女は頭を揺らしてリズムを取っている。

「リリック書いてました!」

「へえ。この曲に乗せるんですか?」

「そうっすねー。エイッ……エイッ……あんたが欲しがるその現のナマ、うちは飛び出すこの線路から。欲に目がくらみ、恨みつらみ、まるでつわり、まとわりつく無駄な愚痴。サノバビッチ、頭にくる歌は無理。マイク一本、愛と希望、あーい」

「おおー」

 高速で言葉を繰り出されて、よく分からないけれど圧倒された。

 沢子は「にへへへ」と得意そうに笑っている。

「今朝の続き、聴きに来てくれたんすか?」

「あっ、そうですね。あと洗濯物、沢子さんの乾いてましたよ」

「そうでした! お金! 鳥に持って行かれたりしたら大変っす!」

 そのリスクは干した時点から存在しているものだと思うが。

 沢子は待っててくださいと云って、大急ぎで部屋を出て行った。僕は手持ち無沙汰ながらボンネットに腰掛け、スピーカーから流れるインスト曲を聴いて待った。香久耶にキスされたときの感触が、まだ唇に残っている。
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