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30「想像を超えた領域にようこそ」

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 香久耶が顔を上げた。

 僕を見るその視線や口元の感じが、どことなく緊張しているように見える。

「交くんと宮代さんのことは、脚本になかったことよ。もう脚本は関係なくなって、みんな、したいようにしているの。あの二人が出来ているのは、本当かも知れないわ」

「そんな……いや、あり得ないでしょう」

「どうして?」

「千鶴が文丈さんを好きになるのが想像できない。これは、文丈さんがどうって話じゃなくて、千鶴はそういうことに興味がないんだ」

「道雄くんがそう思ってるだけじゃない? 宮代さんだって誰かを好きになっていいでしょう。今まではその相手がいなかっただけじゃない?」

 しかし、文丈なんて……。なんて云ったら、文丈に失礼かも知れないが……。

「分からないけどね。そうだったとしても宮代さんの自由だわ。道雄くんは、宮代さんとそういう関係じゃないんでしょう?」

「それは、そうだけど……」

「なら、いつか訪れる話よ。宮代さんだけじゃなくて、ね!」

 香久耶は自分の手を僕の手に重ねてきた。

「道雄くん、あたしと付き合って」

「……本気で云ってる?」

「本気よ。あたしは道雄くんにアタックする役だった。そういう脚本だったんだけど、もう映画じゃないわ。本当に、道雄くんの彼女になりたいの」

 その言葉に嘘はないように聞こえる。

 僕をまっすぐ見詰める瞳。切実な響きとさえ感じる。

「道雄くんを好きって気持ちは、演技じゃなかったの。もちろん、あんなふうに遠回しなポエムとかは云ったりしないけど。『かしら?』とかも云わない。映画じゃなかったら、あそこまで積極的に攻めたりもしないし、できないわ。ごめんね? 道雄くんが『怖い』と云ったのも当然だと思う。言い訳になるけど、あれは交くんの演出もあったから」

「ああ……怖いなんて云ったのは、僕も云い過ぎだったよ。気にしないで」

「ううん。ちゃんと謝る。ごめんなさい。道雄くんに本当のことを隠して演技しなきゃいけないことが、途中からすごくつらかったわ。ふふ。女優失格よね?」

 崩れるようにして、彼女は僕に抱き着いた。

 背中に両手を回されて、肩に彼女の額が乗った。

「道雄くん、パラパラチャーハン対決で、あたしを勝たせてくれたでしょう? 実はあの対決も脚本で、宮代さんが勝つ予定だったのよ。映画として、探偵を立たせるためのシーンだったの。あたしのチャーハン研究会って名刺も嘘で。だけど、道雄くんがあたしを選んでくれたとき、本当に嬉しかった。道雄くんが優しい人なんだって分かって」

「うん……」

「告白の返事、聞かせてくれる?」

 思考が目まぐるしく回転している。それでいて、まったく解答に辿り着かない。どう答えたらいいんだ? 格好悪いところを見せたくないのに、焦る一方だ。

「道雄くん……」

「あの……香久耶さん、嬉しいんだけど、本当に僕でいいのかなって思って……。実は僕、誰かとそういう仲になったことがないんだ」

「あたしもそう。はじめて同士だなんて、むしろ嬉しいわ」

 僕を抱き締める力が強くなった。不安をかき消そうとするみたいに。

「あたし、プライドが高くて、十代のころは自惚れも強かったの。恋愛してこなかったのもそのせい……。だけどいまは、あたしだけが前に進めてないって、さっき話したでしょう? 女優としても思うようにいかなくて。あたしにはなにもないって、気付いたの……」

 胸のうちで、この上なく親身な情が湧いた。彼女が本心を吐露とろしているということが伝わって、僕も気持ちが弱っているところだったから、なにか呼応するものがあった。

「僕も……」と、口を開く。

「そうだね……僕も似たような感じかも知れない。実のところ。漠然とした不安があって。もう進まないといけないのに、十代のころから変わっていないような……」

「よく分かるわ」

「じゃあ、香久耶さん……付き合おうか。僕でいいなら」

「本当?」

「うん。こういう感じでいいのかな? 付き合い始めって」

「分からない。はじめてだから。だけど嬉しい!」

 応えるように、僕も彼女の背中に両腕を回した。

 抱き合ったまま、会話が途切れてしまう。自分の心音が聞かれてしまうんじゃないかと思って恥ずかしい。抱き締める強さは、これで合っているのだろうか……。

 しばらくして、香久耶が「道雄くん、」と沈黙を破ってくれた。

「なに?」

「寝袋、入ってみる? 二人で」

「いや、寝袋は……」

「もう卒アルは見終わったでしょう?」

 彼女は僕の肩に頬をつけたまま、くすくすと笑っているようだ。

 からかっているだけ? この悪戯っぽさは、彼女の素なのかも知れない。

「道雄くん、あたしのこと香久耶さんじゃなくて、美鳥って呼べる?」

「あー……すぐには難しいかも」

「美鳥ちゃんでもいいわ。美鳥ちゃんって、すごくいいかも」

「香久耶美鳥というのは本名なんだよね? 役名じゃなくて」

「ええ。現実に寄せるのがコンセプトだから、みんな本名よ。緩やかくんは違うけど、緩やかに落涙ってペンネームは普段からなの」

「変わったペンネームだ。名前っていうか文章?」

「そうね。あと沢子すくらむだけは、MCネームとして緩やかくんが決めた設定ね。本名は沢子みのりさん」

「へえ」

「美鳥ちゃんって呼んでくれたら、あたしも道雄ちゃんって呼ぶわ」

「道雄ちゃん? それはちょっと、やめてほしいな」

「ふふふ。可愛いじゃない。道雄ちゃんって」

 ぼふっ――と、横穴の外からなにかの音がした。

 続いて「うおーーーーい!」という文丈の声。

「浦羽ええ! 香久耶ああ! 出てきてくれええ!」

 僕と香久耶は顔を見合わせて、身体を離す。一瞬、いいところだったのになんて思ってしまったけれど、ネタばらしも終わったし引き上げに来たのかも知れない。

 先に僕が横穴の外に半歩ほど身体を出して見上げた。ふちから文丈の顔が覗いている。

「おお、浦羽ええ! 枕ああ、もうひとつ落とすぞおお!」

 足元に、香久耶が下りてきたときに使ったボロボロの枕のほかに、傷のないそれが落ちている。さっきの物音はこれだったようだ。

「僕らを引き上げるってことですよねえ!」

「そうだあ! ロープも垂らすからああ、身体に結んでくれええ!」

 しかしまあ、随分と危険なことをさせられたものだ。足を滑らせたら本当に死人が出ていた。普通の映画ならCGか、スタントマンを使う撮影だろう。

 それから香久耶、僕の順で無事に引き上げられた。崖の上には文丈のほかに、千鶴と沢子もいた。みなでロープを引っ張ったみたいだ。

 ようやく生きた心地がしたところで、僕は文丈に恨み言を云う。

「いやあ……本当、してやられましたよ。映画というより、僕からしたらドッキリ番組ですよ、これって」

 もちろん済んだことだし、恨み言というより苦言程度だけれど。

 彼はしかし、笑って応えるかと思いきや、深刻な表情を浮かべている。

「俺たちも、そのつもりだったんだけどな。事情が変わったんだ」

「なにがです?」

 見れば、千鶴と沢子も笑っていない。僕らを引き上げたので疲れた、というだけではなさそうだ。照り付ける陽光のもと、なにか異様に張り詰めた空気となっている。

 文丈は額の汗を腕で拭い、苦虫を嚙み潰すように告げた。

「殺されたんだよ、緩やかが。撮影じゃなくて、マジでな」
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