探偵・渦目摩訶子は明鏡止水

凛野冥

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【明の章:あみだくじの殺人】

5(2)「ミステリ評論家とヒステリ患者の証言」

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 どうやら年齢順に回っていくつもりらしい。東と西を行ったり来たりする格好にはなるが、話を聞くにはそれが好都合なのだろう。次は史哲と稟音の部屋だった。

 稟音はだいぶ待たされたせいか、機嫌が悪かった。ロッキングチェアを前後に揺らしながら、肘掛けを指でトントン叩き、険しい目つきで摩訶子の爪先から頭の天辺まで眺め回している。

「調べは順調なのかしら? えらく涼しげな顔をしてますけど」

 棘がある感じのその問い掛けに、摩訶子は「順調です――が、この部屋はいささか暖房が効きすぎていますね。長居していると、のぼせてしまいそうです」だなんて、茶化しているのか何なのかよく分からない返事をした。稟音のこめかみがピクッと動く。

 史哲の方は、俺らが部屋に這入っても反応らしい反応を示していない。離れた位置に置かれたベッドのふちに腰掛け、眼鏡の奥にある虚ろな瞳で壁の一点を見詰めているばかりだ。

「なので手短に済まさせていただきます。史哲さん、貴方は学生のころから作家・山野部森蔵の熱心な研究者でしたね」

 そのとおり、史哲は主にミステリ評論を手掛ける文筆家で、中でも山野部森蔵には重点を置いていた。十九歳のときに雑誌上で発表した初の評論が彼を取り扱った内容だったし、間もなくして稟音と結婚――山野部家に婿入りして以降も、そのポジションを活かした山野部森蔵論を展開することにてらいがなかった。有名な話である。

「そんな貴方が稟音さんと結婚するに至った経緯を教えてください」

「……事件と関係あるのかな、それは」

 一晩ですっかり憔悴した禿頭とくとうの老人は、枯れた声で問うた。「はい」と即答する摩訶子。

「……私は、林基さんが在籍している大学を受験した。無事に合格し、彼に会いに行った。今にして思えば強引が過ぎるが……当時はひたむきな気持ちだったよ。林基さんも嫌な顔ひとつしなかった。稟音さんを紹介してもらって、懇意になった。彼女が高校を卒業したところで……私はまだ学生であったが、林基さんと益美さんも学生結婚をしていたしね……私も稟音さんと結婚したんだ」

 史哲が語る間、稟音が肘掛けを叩く音はトントントントンと苛立たしげに早まっていた。

「今の談を聞くに、はじめ貴方が同じ大学に入ってまで林基と親しくなろうとしたのは、ひとえに彼が山野部森蔵の息子であったからのようですね」

「そうだね。私は子供時代からずっと、山野部森蔵のファンだった……いまも変わらない。評論も高校生のころから書き始めていたんだ。発表の機会を得られたのは、林基さんがそう取り計らってくれたんだよ……」

「そうなりますと、ひとつ疑問が生まれます。婿入りによって山野部姓となったのを見ましても――貴方にとっては稟音さんとの結婚でさえ、憧れの山野部森蔵に近づくための手段に過ぎなかったのではありませんか?」

「どういう意味!」――稟音がすかさず反応した。椅子から腰が浮いている――「何が云いたいのですか、貴女は!」

「落ち着いてください、稟音さん」

 血相を変えている彼女とは対照的に、摩訶子はそれこそ涼しげなものだ。

「史哲さんと貴女はだいぶ以前から、夫婦としては形骸化しているそうですね。ならばその結婚がはなから打算的な意味しか持たないものだったのだとしても頷けます。貴女だって、兄の林基と親しくするばかりで、史哲さんとは会話さえ、ろくに交わさないのでしょう?」

 稟音は顔を真っ赤にしてぷるぷると震えている。肘掛けを握りしめる手に血管が浮き上がっている。呪詛じゅそでも吐くかのように、唇から低音の声が洩れ出す。

「兄様が……そう云ったのですか……?」

「はい、今しがた林基から聞いて来ました」

 正確にはかしこから聞き出した内容だったけれど、林基も認めていた。嘘にはならないだろう。もっとも、林基が認めておらずとも、この探偵なら同じ答え方をしたのではないかと思うが……。

 稟音は全身の力が抜けたかの如く椅子に沈み込み、恨めしそうに天井を仰いだ。

嗚呼ああ――なんてこと! だから嗅ぎ回られるのはいやなのよ……まるで全身を蟲に這い回られているみたいだわ……!」

「それで、史哲さん、どうなのですか」

「……穿ち過ぎだよ、お嬢さん」

 小さくかぶりを振る史哲は、口元がやや自嘲気味に歪んでいた。

「私達は良い夫婦になれると思って結婚した。婿入りは山野部家の側からの条件だった……結婚とは双方の合意があって成り立つということを忘れてはいけない。ただ、実際に結ばれてみると、あまり上手くいかなかったというだけだ。そういうものだよ……」

「その点、林基の妻である益美とはよく合ったみたいですね」

「……林基さんと稟音さんは、兄妹で一緒にいるのが最も安らぐようだ。すると次第に、余り者は余り者同士でつるむようになる。そういう関係は、意外と付き合いやすい……」

「なるほど、納得しました」

「ねぇ、」稟音が舌打ちした。「いつになったら事件についての質問をするのかしら」

「質問は以上ですよ」

 平然と答える摩訶子。目を丸くした稟音は、魚みたいに口をパクパクさせた後、

「呆れた! 貴女――インチキね! インチキ探偵だわ!」

 昂奮する妻とは反対に、史哲はもう我関せずとばかりに壁を見詰めている。彼の意識はどこか遠く……おそらくは益美や未春が殺された時点に、落としてきてしまったらしい。

「約束どおり、事件は今日中に解決します。ご協力、ありがとう御座いました」

 摩訶子は丁寧に頭を下げると、きびすを返した。稟音からの痛い視線に遭いながら、俺も逃げるように続く。

 それにしても、今の史哲と稟音からは、たしかに夫婦らしい様子がまったく感じられなかった。部屋に這入ったときから既にである。これまでの彼らは、少なくとも俺の前では、十何年に渡って演技をしてきたのだ……。それが、おそらくこの殺人事件によって、崩壊しかけている……。

 摩訶子がそこに推理の基点を置いている理由が、俺にも遅れて了解されてきた。
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