探偵・渦目摩訶子は明鏡止水

凛野冥

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【鏡の章:バラバラにされた海獣】

4「いつだって現実に引き戻される」

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 身体が強張こわばる寒さだった。道の端では踏み潰されてジュクジュクになった霜が、太陽光を反射してキラキラ輝いている。下校中の小学生たちが大量の荷物を抱えている姿が、あちらこちらで目についた。

 七つのアパートはどれも住宅地の中にあったけれど、香逗町内を贅沢に使う格好で散っており、徒歩で回るのは意外と骨が折れた。タクシーを利用したりしつつも、結局は〈カナエ・サウスシャトー〉〈空蝉荘〉〈マクベス横田〉〈SPERO HORTUS〉の四件に止めたのだった。

「夕希は自転車で移動したのね。うちのアパートの駐輪場、見てこなかったけど」

「でもペンキが運べないですよ。七色もあるんですし……あらかじめ落書きするアパートを決めていて、近くに隠しておいたんでしょうか」

「そうじゃない? きっと数日前から計画して、準備してたんだ。でないとひと晩で七件も回りきれないって」

「手間の掛かった悪戯ですね……」

 午後三時を過ぎ、俺と沙夜は国道沿いのファミレスに落ち着いている。四件回ってみても収穫と呼べるものは何もなく、五件目へ行かなかったのはそれが理由だった。この徒労ぶりには沙夜もさすがに苛立ったと見え、先程から立て続けに煙草をふかしている。

「何も見落としたりしてないよなー」

「ないと思います。これで見落としていたなら、そのときは出題者が悪いですよ」

 どのアパートも、おそらくは平常どおりの光景だった。野次馬もいなかったし、事件ではないので警察も出張ってない。落書きが為された他には目立った特徴も共通点もなく、メドゥーサの首云々と強調されていた嫉妬――藍色――〈マクベス横田〉なんか念入りに周囲を調べたけれども、夕希からの追加ヒントとおぼしきものは発見できなかった。

「やっぱり落書きの形? 模様? に注目すべきなのかな」

 紫煙を吐き出し、俺がテーブルの上に広げた例の落書きの図を眺める沙夜。直線は七色それぞれ、〈ヴィラ・アイリスB〉を除けば基本的に、外周上の一点から別の一点を途中で一度か二度方向を変えつつ結んでいる。

「絵とか文字とかならともかく、ただの味気ない直線ですからね……何かを表してるようには見えませんが」

「うーん。書き置きどおりに〈マクベス横田〉が頭、〈SPERO HORTUS〉が胸、〈メゾン・トリトマ〉が右腕だったり〈ヴィラ・アイリスB〉が左脚だったりってふうに見えるなら、まだ考えようもあったのに。繋げてみたって棒人間にはなりそうにないし……『バラバラにされた』とか『切り分けられた』とかって何なのよ?」

「さあ……こういう謎々って得意じゃないんですよ」

「あたしは推理小説を読む人間だからさ、いっちょ名探偵でもぶってみるかと意気込んでたんだけどねー、駄目だねー。夕希が悪いわ、夕希が」

 沙夜は煙草をメロンソーダに放り込んだ。ジュッと音が鳴る。マナーが悪い。

「妙案も浮かばなそうだし、とりあえず解散としましょーか。携帯の番号教えとくから、何か思い付いたら連絡ちょーだい」

「分かりました。お役に立てなくてすみません。夕希に指名されてるのは俺なのに」

「気にしないでよ。あたしも楽しかったし。良い子だねー、茶花くん。夕希には勿体ない」

 傍らの紙ナプキンを取って十一桁の番号を書き込む沙夜。俺も同じようにする。

 それを交換する際になって、彼女はフッと微笑んだ。

「これからも仲良くしてやってね、夕希と。寂しい奴なんだよ。昔から母子家庭で、その母親も二年前に過労で死んじゃって。かと云ってあたしが面倒見るって歳でもないし、あたしも大学がある方に下宿してるでしょ。つまりはあいつもひとり暮らしなんだ」

 知らなかった。夕希は家庭のことを一度も語ろうとしなかったし、俺も訊ねようとはしなかったから。

 だが時折、その横顔が崩れそうなくらい儚く映ることはあったのだ。

「家出が家出にならないっていうのは、そういう意味ですか」

「うん。金銭面では親戚に援助してもらってて、それほど困ってないよ。私立の高校にも入れたわけだし……まあ、お母さんがああなる前から助けてくれてればって恨み言も吐きたくなるけど、筋違いさね。それでも人間関係までは、どうにもしてあげられないんだ」

 こういうとき、ふと湧き上がる親身な感情に名前があったらなと思う。同情とも違う、庇護欲とも違う、責任感とも違う、ただ普遍的な愛おしさに。

「必ず見つけますよ」と俺は云った。「夕希がして欲しがってること、なるべくしてやりたいんです。あいつが俺に見つけてほしいなら、見つけてやりたい。なかなか手強いクイズですけど、家でもう一度しっかり考えてみます」

「ありがとう。そんなふうに云ってもらえるなら、いまの夕希は幸せ者だよ。いつの間にか、あたしより幸せになってんじゃないかな?」

 安心した――と、沙夜は穏やかに呟いた。

 それから彼女は席を立ってコートを羽織り、会計を済ませて店を出て行き解散というところで、改めて俺へと向き直った。

「ずっと気になってたこと訊いてもいい?」

「何でしょう」

 俺は真面目な顔付きで問い返してしまったのだが、彼女はぷっと噴き出して、俺の足元を指差した。

「どうして靴紐の色、揃ってないの? 赤色の方めちゃくちゃ合ってないんだけど」



 帰宅してしばらく自室で夕希の書き置きや落書きの図と睨めっこしていたものの、ひらめきがやってくる兆しは一向になく、落書き事件に続報があったり何か他の夕希の手によると思しき悪戯事件が起きたりしていないか調べるためにパソコンがあるリビングまで下りてきてはじめて、固定電話に留守電が残されていたことに気付く。再生してみてギョッとする。

『やぁ茶花くん。渦目摩訶子だ。どうにも厄介な事態になっていてね、犯人は山野部瑞羽じゃないなんて云うのだよ。私も君のすぐ後に帰っていたのだが、今しがた母上から電話がきて館に呼び出されてしまった。君への連絡は私がすると云って番号を聞いたのだ。もちろん、君にもまた来てもらわなければならない。香逗駅の南口改札で落ち合おう。先に行って――そうだな、午後七時までは待っていようと思うけれど、これを聞いたらなるべく急いでもらえると助かる。以上、よろしくお願いするよ』

 原稿を読み上げているみたいにスラスラと流れていく言葉に、しかし俺はヨロめくほどの衝撃を受ける。後ろの椅子にほどんど倒れるように腰を下ろし、ボーッとする意識で時計を見上げ……現在時刻は五時半。着信は一時。だいぶ待たせてしまっているんじゃないか?

 何も分からない。何も分からない。

 だがあと少しでもこのまま座っていたら、もう立ち上がれなくなりそうだった。俺は頭を振って両頬を叩いて歯を食いしばって、にもかくにも、十分も掛けずに支度したくして家を出て自転車に跨って、香逗駅へと、いっそ自棄やけにでもなったみたいに力いっぱいペダルを漕いだ。

 切りつけるような寒さ。耳が千切れそうになった。次々と横切っていく、家や街を飾るイルミネーションの明かりが、とても綺麗で余所余所しかった。
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