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【水の章:聖なる夜へ向けた計画】
2(1)「妄執に囚われた黒幕の証言/上」
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夜空に無数の星々が煌めている。くじら座もあるかも知れないが、俺では見つけることができない。そこに描かれた物語に、気付ける者と気付けない者とがいる残酷さを想う。
〈つがいの館〉の玄関先に、眞一郎は車を乗りつけた。外に出た途端、凍てつくような寒さが襲った。しかし雪や風はない。ひたすらに張り詰めた山の空気だった。
すぐ近くにもう一台、ガレージに入れずに停められている車があった。見覚えのある史哲のそれだ。運転席のドアが開きっぱなしになっている。覗き込んだ俺は、息を呑んだ。
「史哲さんです!」
摩訶子や眞一郎も近寄ってくる。座席の上で伸びている史哲は、既に絶命していると分かった。衣服が大量の血で赤黒く染まっている。顔面は蒼白で、恐れ戦いたような表情のまま動くことがない。
「銃殺だな」懐から取り出した懐中電灯で死体を照らし、観察した眞一郎がそう述べた。「警察署か交番の近くで、麻由斗に待ち伏せされていたのだろう。警戒せずに車に招じ入れたところ、銃で脅されて、此処まで運転することを強制されたに相違あるまい」
「爺上は狩猟が趣味ですから、猟銃を持っています」と摩訶子が頷いた。
「こいつは昨日の話だ。覚悟を決めねばならないぞ。館の中でも、惨劇は終わっている」
もはや死者へは振り返らずに、館へと歩み始める眞一郎。待ち受ける黒いシルエットは、昼間に見るよりも倍以上は大きく感じられる。やはりどの窓からも、一条の明かりさえ洩れていない。
彩華が俺に、ぴとりと身を寄せた。一瞬の躊躇いがあったが、彼女を安心させるため、俺はその腰に腕を回した。なんて華奢な身体……絶対に、守ってやらなければ……。
眞一郎が先陣を切り、次に摩訶子、最後に俺と彩華が続く。〈つがいの館〉――森蔵が資産を投じて築いた一族の住処――眞一郎は昔に一度訪れたきりだと云う。人生を共にしたと云っていい相棒の館が、その死後に連続殺人の舞台となってしまい、彼はどんな気持ちなのだろう。此処に来たのは、親愛なるワトスン役を弔う意味もあるのだろうか。
玄関ホールは照明が点いていて明るかった。ゆえに、小さな異変がすぐ目についた。
中央に置かれ、いつでも来訪者を威圧的に迎える、番人の如き西洋甲冑――その両手に握られているはずの大剣がなくなっていた。さらに足元には、血のついた火掻き棒が落ちている。血痕は床にも点々としており、ホールを何度か行き来した様子が窺えた。
「お兄様……怖いです……ごめんなさい……」
彩華の震えがじかに伝わってくる。俺まで震えそうになるのを、両脚に力を籠めて堪える。
「謝ることじゃないよ。車で待ってるか?」
「いいえ……お兄様と一緒に……お願いします……」
たしかに、暗闇の中でひとり残される方が心細いだろう。かと云って、俺まで車内にこもっているわけにはいかない。摩訶子だっているのだ。いざというとき、ご老体の眞一郎だけでは危険である。最後くらい、俺は俺の役割を果たしたい。
もっとも、「静かですね」と云う摩訶子には相変わらず、恐れを成している気配は微塵も見られなかった。明鏡止水の探偵は肝も据わっているのか。
眞一郎は周囲に気を配りつつ、ゆっくりと食堂の方へ進んで行く。両開きの扉が手前へ開け放たれて、俺らはその強烈な――滑稽でさえある惨状を、目の当たりにした。
人々が、長テーブルを囲んで、それぞれの席に着いていたのだ。
ただし、全員が死んでいる。絞殺された益美や未春や菜摘や名草や木葉、それに服毒自殺したかしこはもとより、林基や稟音、秋文や瑞羽まで……頭部が変形し、顔が血だらけになり、首が後ろへかくんと折れていた。ずり落ちてしまわないよう椅子にロープで縛られて、ずらりと勢揃い……。それが、シャンデリアの煌びやかな明かりで照らされている。
今回は予想していたとはいえ、こんな光景として叩き付けられれば、俺はどうしても身がすくみ、顔面の筋肉が引き攣った。声を出さなかっただけ立派かも知れないけれど、単に声を上げることもできないくらい、衝撃が飽和してしまったとも云える。
「顔を合わせるのは初めてだな、渦目麻由斗。話は森蔵くんから聞いておったよ」
眞一郎が真っ直ぐ、正面を見据えて述べた。その先――長テーブルのさらに向こう――奥の祭壇の前には、もうひとりの老人がこちらへ背中を向けて立っていた。
「……興味深いね。奴は僕を何と評したかな。頼れる家庭教師か、侮れない食わせ物か」
振り返り、酷薄な笑みを見せたその男こそが麻由斗らしい。俺も初めて会うが……思っていたより若づくりな外見だ。まだ黒くて豊かな髪を後ろに撫でつけており、髭も綺麗に剃っていて、真っ白なシャツと相まって清潔感がある。七十過ぎだとは少し信じがたい。
かと思えば、俺らを見た彼は突然、両手を自分の目元にばちんと当てて天井を仰いだ。
「嗚呼っ、感動してしまう。喜びと悲しみの二重奏で、僕は感慨無量だよっ」
声まで裏返って、その様はどことなく変態じみていた。これが普段の彼と同じか否か俺では分からないけれども、摩訶子を見遣ると、彼女は実に落ち着いて祖父を見詰めている。
「爺上が犯人だったのですか。母上が自殺したのも、爺上がそうさせたのですか」
麻由斗は「ん……」と両手を外したものの、まだ天井を見上げたままだった。
「僕がそうさせたわけじゃないが、かしこの自殺は『渦目摩訶子は明鏡止水』に書かれていたし、彼女自身も望んでそうしたんだよ。遺書にあっただろう? 彼女はあそこまでしか耐えられなかったんだ。裏を返せば、あそこまでやり遂げれば死ぬことを許されていたから、ああやって頑張ってくれたんだね。だからお前にはともかく、僕や種仔さんに謝る必要はなかったんだけれど、まあそれが定められた文言だった。事実、美しい最期だ」
俺は、恐れる気持ちを必死で抑え込み――「紅代は?」と問うた。問わずにはいられなかった。
「ああ、彼女は愚かだったな。決定された宿命を覆せると思い込んでいたんだから」
麻由斗の目が、俺へと向いた。面白がるような、それでいて自嘲めいた色までが浮かんだ薄い表情。生きた心地がしなくなる。身体が芯から凍えきる。
「君が紅代を選ぶわけがないのにね。それなのに彼女は出過ぎた希望を抱いて、結果としては己が仕事を完遂したんだ。山野部家を滅ぼすにあたって、大きな働きをしてくれた。だから僕にも文句はない。詰まるところ、彼女の多分にロマンチストな部分まで種仔さんは織り込み済みだったという話だろう。素晴らしさに溜息が出るよ」
このとき、俺には唐突に分かってしまった。紅代がなぜ、ケートスなのか、その理由が。
ポセイドンによってつくられ、エチオピア人の王国を崩壊させるために送り込まれたケートス――渦目麻由斗によって命じられ、山野部家を崩壊させるために送り込まれた紅代。
涙が滲み出しそうになる。彼女は云っていたじゃないか。『勇者は、怪物のことを少しも気に掛けてくれないんですか?』『ボクはねぇ、本当に可哀想なのは、本当に救われるべきはこの海獣の方なんだって、そう思うんですよ』。どうして彼女は、抱え込んでいたものの正体を分かりやすく打ち明けてくれなかったのだ。俺と彼女には、たくさんの時間があったのに。どうして麻由斗に云われるがまま、破滅の道を――。
「紅代のことも、貴方が唆したんですね。貴方が彼女を弄んだんですね」
「だから僕じゃないって。たしかに伝達者や指導者としての役割は僕が担ったよ? ジェントル澄神のもとで探偵助手をやっていた彼女を見つけ出して、その出自や使命について教えたのも僕だ。それらすべてが、種仔さんの意思だったからね」
先程から出てくる種仔という名前。誰だそれは――と思っていると、摩訶子が云う。
「種仔というのは、爺上の妻の名前でしたよね。母上が産まれてすぐに死んでしまったと聞いていますが、その種仔が今度の事件にどうやって関与できるのですか」
そこで麻由斗よりも先に、口を開いたのは眞一郎だった。
「なるほど、おぬしが山野部家に復讐した所以が掴めたよ。種仔と云えば吾輩にとっては、森蔵くんの妹として記憶しておる名だ。おぬしと山野部家とは、そうやって繋がるのだな」
俺も――それから摩訶子も――眞一郎へ振り向いた。天涯孤独の身の上だったとして知られる森蔵に、妹がいただって? そして、それが麻由斗の妻の名前……?
「ようやく辿り着いたか。君たちも、この理の一端に」
麻由斗は感じ入るように、二度三度と頷いた。
「若かりしころの僕と種仔さんの恋物語――孤独だった僕を彼女がどのように癒してくれて、僕も彼女を癒してやりたいとどれほど強く願ったかの思い出話は、ここではやめておこう。ともかく僕と彼女とは出逢って、そして子供まで設けた。でも妻と云うのは正確ではない。僕らは結婚しなかったからね。種仔さんが、どうしても結婚だけはできないと拒んだんだ。さらにはその子供・かしこを残して、彼女は僕の前から消えてしまった」
彼はどこか軽薄な情感を籠めて滔々と語りつつ、懐から数枚の便箋を取り出した。
「これは失踪から一ヵ月が経って、僕のもとへ送られてきた手紙だよ。何度も何度も読み返して全文を暗記しているが、要点だけ搔い摘もう。ここには自分が、当時で既に有名だった推理作家・山野部森蔵の実妹なのだということがまず記され、さらに驚くべき告白が続いていた。彼女はずっと兄から性的虐待を受けていて、十六歳のときと十八歳のときに子供まで産まされていたと云うんだ。それが林基と稟音だよ。森蔵が独身だったのは、孕ませた相手が実の妹だったからなんだね」
「知っているのは吾輩だけと思っておったよ」眞一郎が、麻由斗の言を肯定する。「森蔵くんは妹の存在そのものさえ、秘密にしていたからな」
俺はもう、驚いたら良いのか呆れたら良いのか、何も分からなくなってしまった。一体、山野部家は何度、近親相姦を繰り返しているのだ。それがこの家の血というものなのか。何と云う異常。何と云う倒錯。俺は自分でも気付かぬうちに、彩華の腰から手を離していた。
そんな俺を、麻由斗が一瞬、蔑むように嗤った気がした。
夜空に無数の星々が煌めている。くじら座もあるかも知れないが、俺では見つけることができない。そこに描かれた物語に、気付ける者と気付けない者とがいる残酷さを想う。
〈つがいの館〉の玄関先に、眞一郎は車を乗りつけた。外に出た途端、凍てつくような寒さが襲った。しかし雪や風はない。ひたすらに張り詰めた山の空気だった。
すぐ近くにもう一台、ガレージに入れずに停められている車があった。見覚えのある史哲のそれだ。運転席のドアが開きっぱなしになっている。覗き込んだ俺は、息を呑んだ。
「史哲さんです!」
摩訶子や眞一郎も近寄ってくる。座席の上で伸びている史哲は、既に絶命していると分かった。衣服が大量の血で赤黒く染まっている。顔面は蒼白で、恐れ戦いたような表情のまま動くことがない。
「銃殺だな」懐から取り出した懐中電灯で死体を照らし、観察した眞一郎がそう述べた。「警察署か交番の近くで、麻由斗に待ち伏せされていたのだろう。警戒せずに車に招じ入れたところ、銃で脅されて、此処まで運転することを強制されたに相違あるまい」
「爺上は狩猟が趣味ですから、猟銃を持っています」と摩訶子が頷いた。
「こいつは昨日の話だ。覚悟を決めねばならないぞ。館の中でも、惨劇は終わっている」
もはや死者へは振り返らずに、館へと歩み始める眞一郎。待ち受ける黒いシルエットは、昼間に見るよりも倍以上は大きく感じられる。やはりどの窓からも、一条の明かりさえ洩れていない。
彩華が俺に、ぴとりと身を寄せた。一瞬の躊躇いがあったが、彼女を安心させるため、俺はその腰に腕を回した。なんて華奢な身体……絶対に、守ってやらなければ……。
眞一郎が先陣を切り、次に摩訶子、最後に俺と彩華が続く。〈つがいの館〉――森蔵が資産を投じて築いた一族の住処――眞一郎は昔に一度訪れたきりだと云う。人生を共にしたと云っていい相棒の館が、その死後に連続殺人の舞台となってしまい、彼はどんな気持ちなのだろう。此処に来たのは、親愛なるワトスン役を弔う意味もあるのだろうか。
玄関ホールは照明が点いていて明るかった。ゆえに、小さな異変がすぐ目についた。
中央に置かれ、いつでも来訪者を威圧的に迎える、番人の如き西洋甲冑――その両手に握られているはずの大剣がなくなっていた。さらに足元には、血のついた火掻き棒が落ちている。血痕は床にも点々としており、ホールを何度か行き来した様子が窺えた。
「お兄様……怖いです……ごめんなさい……」
彩華の震えがじかに伝わってくる。俺まで震えそうになるのを、両脚に力を籠めて堪える。
「謝ることじゃないよ。車で待ってるか?」
「いいえ……お兄様と一緒に……お願いします……」
たしかに、暗闇の中でひとり残される方が心細いだろう。かと云って、俺まで車内にこもっているわけにはいかない。摩訶子だっているのだ。いざというとき、ご老体の眞一郎だけでは危険である。最後くらい、俺は俺の役割を果たしたい。
もっとも、「静かですね」と云う摩訶子には相変わらず、恐れを成している気配は微塵も見られなかった。明鏡止水の探偵は肝も据わっているのか。
眞一郎は周囲に気を配りつつ、ゆっくりと食堂の方へ進んで行く。両開きの扉が手前へ開け放たれて、俺らはその強烈な――滑稽でさえある惨状を、目の当たりにした。
人々が、長テーブルを囲んで、それぞれの席に着いていたのだ。
ただし、全員が死んでいる。絞殺された益美や未春や菜摘や名草や木葉、それに服毒自殺したかしこはもとより、林基や稟音、秋文や瑞羽まで……頭部が変形し、顔が血だらけになり、首が後ろへかくんと折れていた。ずり落ちてしまわないよう椅子にロープで縛られて、ずらりと勢揃い……。それが、シャンデリアの煌びやかな明かりで照らされている。
今回は予想していたとはいえ、こんな光景として叩き付けられれば、俺はどうしても身がすくみ、顔面の筋肉が引き攣った。声を出さなかっただけ立派かも知れないけれど、単に声を上げることもできないくらい、衝撃が飽和してしまったとも云える。
「顔を合わせるのは初めてだな、渦目麻由斗。話は森蔵くんから聞いておったよ」
眞一郎が真っ直ぐ、正面を見据えて述べた。その先――長テーブルのさらに向こう――奥の祭壇の前には、もうひとりの老人がこちらへ背中を向けて立っていた。
「……興味深いね。奴は僕を何と評したかな。頼れる家庭教師か、侮れない食わせ物か」
振り返り、酷薄な笑みを見せたその男こそが麻由斗らしい。俺も初めて会うが……思っていたより若づくりな外見だ。まだ黒くて豊かな髪を後ろに撫でつけており、髭も綺麗に剃っていて、真っ白なシャツと相まって清潔感がある。七十過ぎだとは少し信じがたい。
かと思えば、俺らを見た彼は突然、両手を自分の目元にばちんと当てて天井を仰いだ。
「嗚呼っ、感動してしまう。喜びと悲しみの二重奏で、僕は感慨無量だよっ」
声まで裏返って、その様はどことなく変態じみていた。これが普段の彼と同じか否か俺では分からないけれども、摩訶子を見遣ると、彼女は実に落ち着いて祖父を見詰めている。
「爺上が犯人だったのですか。母上が自殺したのも、爺上がそうさせたのですか」
麻由斗は「ん……」と両手を外したものの、まだ天井を見上げたままだった。
「僕がそうさせたわけじゃないが、かしこの自殺は『渦目摩訶子は明鏡止水』に書かれていたし、彼女自身も望んでそうしたんだよ。遺書にあっただろう? 彼女はあそこまでしか耐えられなかったんだ。裏を返せば、あそこまでやり遂げれば死ぬことを許されていたから、ああやって頑張ってくれたんだね。だからお前にはともかく、僕や種仔さんに謝る必要はなかったんだけれど、まあそれが定められた文言だった。事実、美しい最期だ」
俺は、恐れる気持ちを必死で抑え込み――「紅代は?」と問うた。問わずにはいられなかった。
「ああ、彼女は愚かだったな。決定された宿命を覆せると思い込んでいたんだから」
麻由斗の目が、俺へと向いた。面白がるような、それでいて自嘲めいた色までが浮かんだ薄い表情。生きた心地がしなくなる。身体が芯から凍えきる。
「君が紅代を選ぶわけがないのにね。それなのに彼女は出過ぎた希望を抱いて、結果としては己が仕事を完遂したんだ。山野部家を滅ぼすにあたって、大きな働きをしてくれた。だから僕にも文句はない。詰まるところ、彼女の多分にロマンチストな部分まで種仔さんは織り込み済みだったという話だろう。素晴らしさに溜息が出るよ」
このとき、俺には唐突に分かってしまった。紅代がなぜ、ケートスなのか、その理由が。
ポセイドンによってつくられ、エチオピア人の王国を崩壊させるために送り込まれたケートス――渦目麻由斗によって命じられ、山野部家を崩壊させるために送り込まれた紅代。
涙が滲み出しそうになる。彼女は云っていたじゃないか。『勇者は、怪物のことを少しも気に掛けてくれないんですか?』『ボクはねぇ、本当に可哀想なのは、本当に救われるべきはこの海獣の方なんだって、そう思うんですよ』。どうして彼女は、抱え込んでいたものの正体を分かりやすく打ち明けてくれなかったのだ。俺と彼女には、たくさんの時間があったのに。どうして麻由斗に云われるがまま、破滅の道を――。
「紅代のことも、貴方が唆したんですね。貴方が彼女を弄んだんですね」
「だから僕じゃないって。たしかに伝達者や指導者としての役割は僕が担ったよ? ジェントル澄神のもとで探偵助手をやっていた彼女を見つけ出して、その出自や使命について教えたのも僕だ。それらすべてが、種仔さんの意思だったからね」
先程から出てくる種仔という名前。誰だそれは――と思っていると、摩訶子が云う。
「種仔というのは、爺上の妻の名前でしたよね。母上が産まれてすぐに死んでしまったと聞いていますが、その種仔が今度の事件にどうやって関与できるのですか」
そこで麻由斗よりも先に、口を開いたのは眞一郎だった。
「なるほど、おぬしが山野部家に復讐した所以が掴めたよ。種仔と云えば吾輩にとっては、森蔵くんの妹として記憶しておる名だ。おぬしと山野部家とは、そうやって繋がるのだな」
俺も――それから摩訶子も――眞一郎へ振り向いた。天涯孤独の身の上だったとして知られる森蔵に、妹がいただって? そして、それが麻由斗の妻の名前……?
「ようやく辿り着いたか。君たちも、この理の一端に」
麻由斗は感じ入るように、二度三度と頷いた。
「若かりしころの僕と種仔さんの恋物語――孤独だった僕を彼女がどのように癒してくれて、僕も彼女を癒してやりたいとどれほど強く願ったかの思い出話は、ここではやめておこう。ともかく僕と彼女とは出逢って、そして子供まで設けた。でも妻と云うのは正確ではない。僕らは結婚しなかったからね。種仔さんが、どうしても結婚だけはできないと拒んだんだ。さらにはその子供・かしこを残して、彼女は僕の前から消えてしまった」
彼はどこか軽薄な情感を籠めて滔々と語りつつ、懐から数枚の便箋を取り出した。
「これは失踪から一ヵ月が経って、僕のもとへ送られてきた手紙だよ。何度も何度も読み返して全文を暗記しているが、要点だけ搔い摘もう。ここには自分が、当時で既に有名だった推理作家・山野部森蔵の実妹なのだということがまず記され、さらに驚くべき告白が続いていた。彼女はずっと兄から性的虐待を受けていて、十六歳のときと十八歳のときに子供まで産まされていたと云うんだ。それが林基と稟音だよ。森蔵が独身だったのは、孕ませた相手が実の妹だったからなんだね」
「知っているのは吾輩だけと思っておったよ」眞一郎が、麻由斗の言を肯定する。「森蔵くんは妹の存在そのものさえ、秘密にしていたからな」
俺はもう、驚いたら良いのか呆れたら良いのか、何も分からなくなってしまった。一体、山野部家は何度、近親相姦を繰り返しているのだ。それがこの家の血というものなのか。何と云う異常。何と云う倒錯。俺は自分でも気付かぬうちに、彩華の腰から手を離していた。
そんな俺を、麻由斗が一瞬、蔑むように嗤った気がした。
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