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2日目

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 それはまるで、真っ暗な深海の底から、光り輝く水面にふわりとからだが浮かび上がるような不思議な感覚だった。
 はっとして、僕は目を開ける。
 ここは、いったいどこだ……?
 突然夢から覚めたような心持ちだったせいか、目に入ってきたその光景を理解するのに、しばらく時間がかかった。
 ここは───。
 大浜高校2年C組の教室。僕のクラスだ。
 まだ授業前なのか、遅刻ギリギリセーフ!と叫びながら慌ただしく教室に駆け込んでくる男子もいれば、集まって噂話のマシンガントークを繰り広げる女子たちの姿がある。
 それは一番後ろの窓側にある僕の席から見える普段の朝の光景だった。
 最初はかすかだった教室内のざわめきがだんだんと大きくなり、僕の耳の中にどっとなだれ込んでくる。
 思わず顔をしかめて耳を両手で塞ぎながら、驚きのあまり声が漏れた。
「どういうことなんだ……」
 なんで僕は、学校なんかにいるのだろう。
 まだ、ぼんやりする頭で、なんとか記憶を取り戻そうと試みる。
 今日は日曜で、僕は家にいたはずだ。自分の部屋で出かける準備をしていたのだ。そう、1年ぶりにお寺へ行くために。
 美由が亡くなってから3年目の命日だった。
 美由の両親は去年、突然引っ越してしまって連絡先がわからないため、一緒にお墓参りすることはできないが、僕にとってひとりのほうが気分も楽だったりする。
 昼ごはんを食べたあと、礼服に見立てた白いシャツと黒色のズボンに着替えて、それから───。
 それから、の記憶が全くない。書いてあった文字を、消しゴムでごしごしと消してしまったかのように、頭の中からすっぽりと消え失せていた。
 ふと気づき、ポケットからスマホを出して、時計を見る。

 7月3日、月曜日 8時38分。

「嘘だろ……」
 僕は、スマホの画面を見つめながら呆然とした。
 あれから1日が経っている!?
 日曜の昼すぎから今まで、1日ぶんの記憶がすっぽりと抜け落ちていることに気がついた。
 そのとたん───。
「痛ッ……!」
 いきなり頭に、ズキリとした痛みを感じる。
 思わず声が漏れてしまうほどの強い痛みだ。
 頭に手を当てると、おでこの右上あたりに違和感があった。腫れて少しふくらんでいるようだ。
 どこかにぶつけたのかもしれないが、それも記憶にない。
 膨らみを手で押さえてしばらくじっと耐えていると、次第に痛みは引いていった。

 目を上げて、窓から外を眺めた。
 今にも雨が降り出しそうな灰色の暗い空と、その下に広がる黒い海原。風が強いせいか海は少し荒れていて、白い波頭が大きく立ち上がっているのが見える。
 大浜高校は、その昔七里の長さと言われた、ほぼ直線に伸びる海岸線のすぐ脇に建てられた学校だ。
 実際には東西にある小さな岬に挟まれた海岸線の長さは5キロほどだが、昔の人は長い距離のことを簡略的に七里と表現したらしい。
 記憶を無くす前、つまり昨日は、朝から雨が降っていた。
 朝からしとしとと、ずっと絶え間なく降り続いていたのを覚えている。
 でも今は、空が暗いとは言え、窓から見下ろした路面は濡れていなかった。
 この光景を見てもわかる。意識のない間に、いつの間にか日が経ってたのは本当だと。

 唐突に教室のスピーカーからチャイムが鳴り響き、僕はびくっとする。
 と同時に、タイミングを計ったかのように担任の藤崎先生が、がらりと扉を開けて教室へと入ってきた。
「はーい、みんな席について!」
 張り上げたいかにも元気なその声で、クラスメートたちはぞろぞろと自席に戻って行く。
 藤崎先生は20代なかばの、国語を教える常にはつらつとした若い女性教師だ。いかにも健康そうな丸みを帯びた小柄な体型で、いつもにこにこ笑みを絶やさない。
 特徴でもある大きくまんまるの目で教室内を見渡し、全員が席についたのを確認すると、うんうんと満足したように頷く。
 それは先生が朝のSHRを始める時の、いつもの癖だった。
「みんな、おはよう!」
 ひと際テンションの高いその声に、クラスのみんなは気後れしながら仕方なさそうにばらばらと、おはようございます、と返す。
「今日はね、新しい転校生を紹介します。男子のみんな、喜べ。すっごくかわいい女子だぞ」
 女子の転校生と聞いて教室がざわめいた。
 やったーと大声ではしゃぐのは、クラス一のお調子者、菊池新太きくちあらただ。
 藤崎先生は開いたままの扉に向かって、入ってらっしゃい、と声をかける。
 前の学校で着用していたのだろうか、見慣れない制服姿の女子が、俯きがちにゆっくりと教室に入ってきた。
 すらりとした体型。黒髪はショートで、艶があってきらきらと輝いていた。
 先生の横に立って、正面を向く。
 その顔を見たとたん、僕はあまりの衝撃に心臓が止まりそうになった。
 そんな……まさか……。

「はじめまして、岩崎楓いわさきかえでって言います。両親が転勤で海外に行ってしまいまして、私だけが親戚の貸し部屋があるこっちに引っ越して来ました。なんだか知らない土地で、ひとりぼっちっていうのも緊張しちゃって。とにかく、よろしくお願いします」
 そう言って、頭を下げるや否や新太が声を上げる。
「楓ちゃん! 俺ならその緊張をほぐせるから、付き合って!」
 新太のいきなりの告白にどっと教室内が爆笑の渦に包まれるが、僕はひとり唖然として固まっていた。
 くりっとしててキラキラした大きな目に、すっきりと通った綺麗な鼻筋。小ぶりだけど形の良い唇。
 そして、新太の言葉に照れたように微笑むその白いほっぺたには、かつて見慣れたえくぼが浮かんでいる。
 どう見たって、彼女は3年前に死んだ美由にそっくりだった。
 その、ちょっと鼻にかかった愛らしい声でさえも、美由が話しているとしか思えない。
「はい、俺、菊池新太っていいまーす! 楓ちゃんは、どこから来たのーっ!?」
「実はここからそんなに遠くない深沢市です。電車で2時間くらいのところですけど」
「ああ、山側にある深沢市ねっ。そういや、クラスの中にも深沢市からはるばる通ってる奴いたよな?」
 そう言って新太が興味深げに僕のほうに目を向けるが、頭が真っ白でそれどころじゃなかった。
 確かに僕は、深沢市から片道2時間かけてこの学校に通っているが、その理由は誰にも話したことはない。
 クラスで唯一の友人とも言える新太にさえも。まあ、友人といってもその関係はとても希薄なものだけど。
 岩崎楓は少しはにかむように微笑むと、いきなりとんでもないことを口にした。

「はい、知ってますよ。西島晴人くんですよね。私と彼、付き合ってますから!」

 そう言っていきなり視線を僕のほうに向け、笑みを口元に浮かべたまま、じっと見つめてくる。
「はあ!? ハルトと付き合ってる!?」
 新太がすっとんきょうな声を上げる。
 同時に僕も、同じ言葉を心の中で叫んでいた。
「ええ、中学2年からだから、もう3年目になります!」
 言っている意味がさっぱりわからず、ますます頭が真っ白になる。
 確かに美由にそっくりだが、岩崎楓は初めて会う全くの赤の他人だ。
 なのに、みんなの前で堂々と、付き合ってるだなんて。
 教室中がざわめく。
 そりゃそうだ。転校生が最初の挨拶でいきなり『私、このクラスの人と付き合ってます』宣言するなんて、そうそう見かけるシチュエーションじゃない。
 しかもその彼というのが、クラスでも目立たずぼっち状態の、僕。
「はいはい、みんな静かにして!」
 あわてたように藤崎先生が声を張り上げる。その顔には困ったような表情が浮かんでいた。
「興味深いお話だけど、その件はまた後にして。とりあえず岩崎さんの席を決めなきゃね。えっと、空いてる席は……」
「私、西島くんの隣がいいです!」
 岩崎楓は、臆することなく僕の隣の空席に向かって、まっすぐ手を伸ばす。
「ああ、そこは今骨折で入院中の坂元くんの席だから……」
「でも、どうしてもそこがいいんですっ!」
 戸惑う藤崎先生をよそに、岩崎楓はまっすぐ僕の方に歩み寄り、さも当たり前のように隣の席に腰掛けた。
 そして、さりげなく僕の顔を見やりながら、少し声を潜めて話しかけてくる。
 まるで、もう何年もの付き合いがあるかのように親しみを込めて、そして心配そうに。
「ねえ。昨日、あのあと大丈夫だった?」
 ……昨日? 昨日って、なんのことだ?





 午前中、授業なんてまるで上の空だった。 
 先生の指示で机を寄せて、転校したばかりでまだ用意できていない教科書を岩崎に見せてあげたのだが、彼女は必要以上に体を密着させてくる。
 前に本で知った、心理学で言うところのパーソナルスペース、つまりごく親しい人にだけ許される密接距離をとっくに侵害して、その顔はあまりにも近すぎる。
 それでも、朝みんなを驚かせた恋人発言に関しては一切触れずに、たまに授業内容のわからないことを聞いてくる程度の会話しかなかった。
 しかし時間が経てばたつほど、僕には彼女が美由にしか見えなくなってしまっていた。
 背中まで髪を伸ばしていた美由に比べて、ショートヘアーの岩崎は顔立ちも少し大人びて見えるけれど、あれから3年経っているとすれば理にかなう。
 その声といい、ふわっとした甘い香りといい、まるで美由がそこにいるみたいだった。
 思わず涙が出そうになるくらい、それは懐かしい存在感。
 いや、違うんだ。彼女は美由なんかじゃない。美由は3年前に死んだんだ。
 お葬式で棺に入れられた美由の白い顔を確かにこの目で見た。
 坊さんのお経が鳴り響き、お線香の香りが漂うその非日常な空間で、僕は歯をくいしばり、血が出るほど拳を強く握りしめながら美由の最後の顔を見届けたんだ。
 しっかりと目に焼き付けて、永遠に忘れることがないように。
 そう思いながらちらりと隣を見ると、そこには明らかに美由がいる。
 ずっと一緒にいたんだ。ただ似ているだけじゃ、僕もそんなことは思わない。
 だけど、今隣にいる彼女は名前こそ違うが、どこからどう見ても美由そのものだった。
 僕は激しく混乱していた。
 彼女は生き返った美由のゾンビだろうか。
 しまいには、そんな非現実的なことすら頭をよぎった。

「───くん、ハルくん」
 あまりにも頭が混乱していて、岩崎から呼びかけられているのさえ気づかなかった。
「……え?」
「どうしたの、ぼーっとして。もう12時だよ? お昼だよ?」
「あ、ああ。そうか」
「あのさ、この学校って、みんなお昼は手持ちのお弁当なの?」
「い、いや。校内に学食もあるけど」
「よかったー。今朝バタバタしてて、せっかく苦心して作ったお弁当、忘れちゃったんだよね。初めての自作弁当、早起きして気合いれて作ったのに!」
「そういや、一人暮らししてるんだっけ?」
「う、うん……そう、今は家に誰もいないんだ……」
 一瞬だが、岩崎は顔を曇らせた。
 両親がいなくて寂しいとか、そんな感じじゃない。なにかもっと深刻な問題を抱えていそうな、そんな思いつめたような表情だ。
 なにか、詳しく話せない事情でもあるのだろうか。
 だが、岩崎はすぐにその表情を打ち消して、もとの明るい顔に戻る。
 気づくとまわりにクラスの女子が集まってきていた。
 どうやら転入生(かつ僕の恋人?)ってことで、みな興味津々って感じだ。
「ねえ岩崎さん、よかったら一緒にお昼ごはん、どう?」
 クラスでもひときわ人の噂話が大好きな有川祐奈が、目を輝かせながら岩崎に話しかける。
「ありがとう、誘ってくれて。でも今日はハルくんと一緒に食べたいんだ」
 そう勝手に言い放つ岩崎は、すでに僕の腕を取って立ち上がろうとしている。
「きゃあ、ハルくんだって!」
 有川たちは嬌声を上げながら、僕のほうにも興味深げに視線を送るが、そこには疑念も含まれている。
 そりゃそうだ。ほとんどクラスの誰とも話さず、まるで空気のような存在の僕が、影でこっそりこんな美人と付き合っているってことになったら誰もが疑いの目を向けるだろう。
「じゃあハルくん、学食に連れてってよ」
 岩崎は、集まる視線を全く意に介さないように、さりげなく僕の手を握る。
 僕は茫然自失のまま、彼女に引っ張られるがままに教室を出た。





「うん、おいしい。これで300円なら、コスパ高いね」
 向かいの席の岩崎が、いかにも美味そうにカレーライスをむしゃむしゃと口にほおばる。
 僕はといえば、カレーライスにスプーンを突っ込んだまま、ひとり思案にくれていた。
 改めて考えを整理しよう。
 彼女は美由じゃない。美由にそっくりの全くの別人だ。
 でも、なぜ岩崎は初めて会う僕のことを、付き合っていると公言したのだろうか。
 そして、ずっと昔からの恋人のように振舞っているのは、なぜなんだ?
「なあ……」
「なに? ハルくん」
 カレーを口に運びながら僕を見つめるその顔の口元には、ごはんつぶがへばりついている。
「……君はいったい誰?」
「はあっ!?」
 岩崎は顔にごはんつぶをつけたまま、眉を歪めて僕を睨みつけた。
「何寝ぼけたこと言ってるの!? 私は、い・わ・さ・き・か・え・で! ずっと前からハルくんの彼女でしょうがっ!」
「い、いや……そう言われても」
「私を置いてハルくんだけ、地元からこんな遠く離れた大浜市の高校行っちゃってさ。でも私も大浜市に引っ越すことになって、これでまた一緒だね、良かったねって昨日話したばっかりじゃない!」
「は……?」
「なに寝ぼけてるの、ハ・ル・く・ん! まさか昨日のこと、すっかり忘れたわけじゃないでしょうねっ!」
「……昨日?」
 岩崎はぷうとほおを膨らますと、僕を叱りつける。
「まったくもう! 寝ぼけてる!? しっかりしてよ、ハルくん!」

 そうだ。
 ハルくんってのも、美由が僕に対する呼び方だ。
 僕はどうかしちゃったのだろうか。
 今まで、ずっと夢でも見ていたのだろうか。
 柊木美由は実は岩崎楓で、事故なんて起きずに生きていて、これまでもずっと付き合っていた……。
 いやいや、バカげている。これが夢なのかもしれない。
 美由はもっとおとなしい性格だった。岩崎は、どちらかといえば強気でぐいぐいと押してくる積極的なタイプに見える。顔は信じられないほど似ているが、性格は正反対だ。
「あのさ、正直に言うよ」
「なに?」
「僕、昨日の記憶がないんだ」
「えっ!?」
 岩崎はひどく驚いたように、目を丸くして口を半開きにしたまま僕を見つめる。
 その口元から、ごはんつぶがぽとりと落ちた。
「昨日の昼、家にいた時からの記憶がなぜか飛んでいる。気づいたら月曜になっていて、いつの間にか学校にいると思ったら君が突然現れて……これ自体が夢なのか現実なのか、それすらもわからない」
 それを聞いてひどくショックを受けたように視線を下に落とした岩崎が、ぽつりとつぶやいた。
「全く、覚えてないんだ。昨日のこと」
「うん……」
「あの場所で、ふたりで大事な話をしたことも、記憶にないんだね」
「大事な話?……それって、どんな話?」
 困惑しながらそう答えると、岩崎はふと、何かを思い出したように呟いた。
「やっぱり、のせいかな……!」
「えっ。あれって何だよ?」
 岩崎は僕の問いには答えず、しばらく唇を噛み締めたまま俯いていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。
 その顔には、どこか吹っきれたような表情を浮かべている。
「とにかくハルくんは何も考えなくていいよ。だけど、これだけは忘れないで。ハルくんと私が付き合ってるのは事実だってこと。記憶を失っていようが、私はハルくんのことが大好きだし、ハルくんも私が大大大好きなんだよ。わかった?」
 その、まるで子供にしっかりと言い聞かせるような、ゆっくりと一語一句を強調した話し方に、僕は返す言葉が何も出て来なかった。
「いい? 大切なことは目に見えないの。心で見なきゃ真実は現れないんだよ」
「はあ?」
 唐突に放たれた謎めいた言葉が宙を浮遊し、僕をますます混乱させる。
「フランスの作家、サン=テグジュペリの言葉」
 そう言うと、岩崎はどこか得意そうに、にっと笑みを浮かべた。





 くたくたになって家に帰ると、キッチンから母さんが顔を覗かせた。
「おかえり。ご飯できてるよ」
 今日は仕事が早く終わったみたいだ。
 両親は共働きで、ふたりとも基本帰ってくるのが夜遅い。そのため、自分で晩飯を作るのがいつしか日課となっていた。料理は好きだ。作っている間は、何も余計なことを考える必要がないからだ。
 今日は料理しなくていいと思うと、なんだか残念な気持ちになってしまう。
「ねえ、おなか空いてるでしょ?」
 母さんがそう尋ねるが僕は何も答えず、階段を登って自分の部屋に向かった。
 このところ親との会話なんて殆どない。
 反抗期とかそういうやつではなくて、単に話をするのが億劫、それだけの理由でしかない。
 
 部屋に入ると制服を脱ぐのも面倒で、そのままベッドに寝転んだ。
 はあと大きくため息をついて、白く空虚な天井を見上げる。
 そこに浮かび上がるのは謎の転校生、岩崎楓の顔だった。
 美由がいないこの3年間という時間を埋めるかのように、突然現れた美由とうりふたつの彼女。
 しかも、本人は僕の恋人だと言い張る。
 全くありえないことだ。この事態をどう捉えていいのか、皆目見当もつかない。
 どうしてだか記憶を失ったこの1日にその謎を解く鍵があるような気がするが、いくら思い出そうと必死になったところで、それは深い霧に包まれたままだ。
 可能性について、疲れた頭でいろいろ思案してみた。しかしそれはどうにも馬鹿げた結論しか出てこなかった。
 やがて僕は考えるのを放棄した。そう、今日起きたことは全て───悪い夢なんだと。 

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