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18日目

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 7月19日。
 今日は終業式で、午前中講堂で退屈な校長の講話を聞いたあと、教室で見るもおぞましい通知表を藤崎先生から受け取って、それで解散だ。
 これから長い夏休みが始まる。
 以前の夏休みは、毎日のように美由と遊んでいたが、美由が亡くなってからは殆ど家に篭って本を読んだりと、ひとりで静かに過ごすようになった。
 今年の夏休みは、どうだろうか。
 楓の『高校生になったらふたりでやることリスト』があと3つ残っている。
 それに付き合わされるような予感を、ひしひしと感じていた。
 前回、海でふたつ目のプランをコンプリートしてから、ここしばらく声が掛かってない。
 昼休みに食堂で楓とカレーライスを食べながら話したり、夜、スマホの着信音が鳴るたびに、新しいプランの開始を告げられるんじゃないかと心構えをしてたのだが、このところすっかりなりを潜めていた。
 だからこそ、夏休みに入って自由な時間が増えると、なにかとてつもなく壮大なプランが突如開始されそうで不安がよぎる。
 8時30分。楓はまだ学校に来ていない。
 僕は肩肘ついて、窓の外に広がる海を眺めた。
 昨日の梅雨明け宣言で長い間続いた雨の季節は終わり、空は真っ青に晴れ渡っている。
 陽に照らされた海面はきらきらと輝いていて、まるで天女が巨大な衣を広げたような美しさだ。
 10日ほど前に楓と行ったサーフィン、というかSUPの体験が、頭をよぎった。
 あの時の水の感覚は、今でも不思議と体にまとわりついているような気がする。それは決して嫌な気分ではなく、どこか懐かしく心地よい、そんな感触だった。

「おう」
 声を掛けられて振り向くと、そこには楓の机の上に手を付いて立っている新太の姿があった。
「ああ、なんだ新太か」
「なんだよその、つれない言い方は。もっと友達ってものを大事にしろよな」
 そう言って新太は僕の顔を睨む。
「ところでハルト、おまえ最近なんだか変わった?」
「はあ? いきなりなんだよ」
 新太は楓の席にどっかりと座ると、どうにも腑に落ちない、そんな表情で僕を見やった。
「いや、前はなんだか、いつも無愛想でとっつきにくいイメージだったんだけど、最近じゃなんだか少しだけ顔が明るくなった感じがする」
「明るくなった? 僕が?」
「なんとなく、だけどな」
「顔が黒くなったんならわかるけど。この前海で少し焼けたから」
「海? まさか楓ちゃんと一緒に? おまえ、楓ちゃんの水着姿を見たのか!?」
「……まあ、ちょっとだけ」
「かあー羨ましいっ。やっぱ明るく見えるのは楓ちゃんのおかげかなあ。そりゃ、彼女がいれば人生変わるもんなあ」
 新太はひとりで勝手に、うんうんと頷いている。
「か、楓のおかげって、そんなことあるわけない。逆に僕は楓に無理やり付き合わされて……」
「付き合わされて?」
 新太は興味深げに身を乗り出したが、僕は押し黙った。
 『高校生になったらふたりでやることリスト』のことは、誰にも言わないほうがいい。直感的にそう思ったからだ。
「まあ、いいや。それよりさ、その楓ちゃんのことでちょっと気になる話を聞いたんだけどよ」
「気になる話?」
 新太はコホンと咳をすると辺りを見渡し、僕に顔を寄せて声を潜めた。
「楓ちゃん、深沢高校から転校してきたって言ってただろ」
「ああ、そうだな」
「俺のダチに、深沢中学から深沢高校に進学したやつがいるんだが。そいつに聞いた話だと、岩崎楓って名前の女の子は記憶にないって言い張るんだ」
「そりゃ、女子の名前なんか全員覚えてられないだろ」
「それがよ、そいつ俺と同じく無類の女好きでさ。同級生の女子、全員の顔と名前を記憶してるんだよ。それに、楓ちゃんみたいなとびきり可愛い子がいれば、そいつが放っとくはずがない。つまり、楓ちゃんが深沢高校から転校して来たって言ってたのは、どうも嘘っぽいんだが」
 そんなバカな。表には出さないが、僕は激しく気が動転していた。
 楓が深沢高校からの転校生でないとすれば、彼女はいったい何者なんだろう。
「……そいつが、楓のことを忘れてるだけかもしれない」
「まあな。告ったあげく撃沈したんで、すっかり記憶から消し去ったというのも否定はできないが。でもなんか、腑に落ちないんだよなあ」

 僕は美由が楓となって突然現れたことについて、自分なりにあれこれ仮説を立てていた。
 いろいろと考えを巡らせた結果、最終的にようやくたどり着いた答えはこうだ。
 深沢中の別のクラスに美由にとても良く似た楓という女子がいて、ふたりはとても仲が良かった。
 楓は僕らが付き合っていることも知っていたはず。美由からこと細かに僕のことを聞かされていたのだろう。
 きっと良い話し相手だったに違いない。おそらく、『高校生になったらふたりでやることリスト』のことだって、楓は美由から聞いて知っていたのだ。
 だけど、その望みを叶えることなく、美由は死んでしまった。
 楓は親友だった美由の遺志を継いで、進学した深沢高校から大浜高校への転入をきっかけに、さも恋人だったかのように僕に接近し、美由になりきって『高校生になったらふたりでやることリスト』を実行することにした───。
 今となっては美由に楓という親友がいたかどうか確かめようがないけど、理にはかなっている。
 それが僕が導き出した、ちょっと強引ではあるが、なんとか説明のつくストーリーだったのだが。
 だが、楓が深沢中学、高校にいなかったとすれば、根底からしてガラガラと崩れ去ってしまう。
「なあ晴人、おまえ本当に楓ちゃんとは、中学のときからの付き合いなのか?」
 何も答えられずに黙っていると、突然楓の机の上にバタンと音を立ててかばんが置かれた。
 はっとして見上げると、机の脇にいつの間にか登校して来た楓が仁王立ちしている。
「ちょっと、そこ私の席。どいてくれるかな」
「ひえっ!!」
 楓の姿を見た新太が大げさに驚いて席から飛び上がり、うやうやしく頭を下げる。
「どうぞお座りくださいませ、楓お姫さま」
「うむ。苦しゅうないぞ」
 新太は僕のほうにちらりと目を向けると、じゃあまた後でな、と言い残して自席へと戻って行った。
 その後ろ姿を、楓は眉をひそめて見やりながら席に腰掛ける。
「男どうしで、なにヒソヒソ話してたの?」
「……いや、大した話じゃないよ。夏休みどうするとか、その程度さ」
 とっさに嘘をついた。真実を確かめようにも、心の準備ができていない。
「ふうん。遊ぶ約束でもしたの?」
「別に。そんな仲でもないし。夏休みの予定なんかからっぽだよ」
「ハルくんってさあ、なんか人付き合い悪いよね。ぜんぜん青春というものを謳歌していない」
「大きなお世話だ。それに楓の強引な誘いには、いつも付き合ってるじゃないか」
「強引だなんてひどい! 『高校生になったらふたりでやることリスト』はふたりで決めたことでしょうがっ」
 ぷうと大きくほおを膨らます楓。
 その顔を見ながら僕は、すっかり頭の中が混乱していた。
 楓と美由に関連がないのであれば、楓はなんで僕のことを知っているのだろう。
 楓は何故これほどまでも、美由と決めた『高校生になったらふたりでやることリスト』を実行することにこだわっているのだろう。
 楓って、いったい何者なんだ……。

「とにかく、ハルくんの夏休みの予定が空白であることは大変喜ばしい。友達と遊んでる暇なんてないよ、残りのプランの日程が目白押しなんだからね」
 そう言って、楓は不敵な笑みを見せる。
 僕が口を開きかけたその時、始業のチャイムが鳴って、待ってましたとばかりに藤崎先生が教室に入ってきた。
「はーい、みんな席について!」
 いつもの大きい声が、教室中に響き渡る。
「明日から、みんなが待ちに待った夏休みが始まりますね。家族で旅行に行ったり、友達と遊んだり、はたまた部活に明け暮れたりと、それぞれの予定があることと思います」
 勉強の予定だけはありませんっ! と新太が叫び、教室内がどっと笑いに包まれる。
 先生はにこやかな顔でうんうんと頷くと、話を続けた。
「ここからは、先生としてではなく、人生の先輩として話すわね。みんなは気づいてないだろうけど、高校2年の夏休みっていうのは、他と違ってかけがえのない特別な期間なのです。なぜだかわかるかな? じゃあ、西島くん」
 突然名前を呼ばれ、僕はうろたえながら言葉を探した。
「……ええと。それは……高校2年が、今年だけだから……?」
 あちこちから失笑が漏れる。
 我ながら間抜けな答えに、言ったことを後悔し自己嫌悪に陥った。
 ところが藤崎先生は、大きく頷いて拍手をする。
「そう、そのとおり! 高校2年の夏休みは、君たちにとって今年限りで、もう二度とやってこないんです。あのね、私はこんなふうに思ってます。高校2年っていうのは、子供でもなく、かといって大人でもない微妙な年ごろ。1年生の頃と比べて、明らかに体も成長してるし、ものの考え方だってずっと大人に近づいている」
 藤崎先生はそこで言葉を切って、優しげな目でみんなを見渡した。
「高校3年生になれば、差し迫った受験や就職を控えて勉強漬けの毎日を送ったりして、ああ、2年生の時に、もっと楽しんでおけば良かったな、と後悔するかもしれません。つまり2年生の夏休みというのは子供と大人の中間にいる君たちにとって、何事にも縛れない、かけがいのない最後の自由な時間だってこと。だからこそ、この夏でしかできないことを思う存分やって欲しい。先生はそう思います!」





 お決まりの行事を全て終え、晴れて下校となった。
 僕は楓と一緒に学校を出て、駅へと続く並木通りを歩いて行く。
 灼熱の太陽の光と、ここぞとばかりに鳴き叫ぶセミの声が、あたり一面に降り注いでいた。
「今しかできないことを、思う存分やれ、か」
 僕がぼそっと放った呟きに、楓がにやけながら顔を覗きこんでくる。
「なに、響いちゃった? 先生の言葉」
「うんまあ、なんか考えさせられる話だったな」
「私も。頑張ろうって気がみなぎってきたよ」
「なにを頑張るんだ?」
「また、とぼけちゃって!」
 楓に脇腹を小突かれて、僕はうっと苦悶の声を漏らす。
「私たちが頑張ることと言ったら、『高校生になったらふたりでやることリスト』の制覇に決まってるでしょ!」
「はあ、やっぱりそれか……」
「高校2年の夏は、もう2度とやってこないんだからね! やりたいことを思いっきりやる最後のチャンスなんだよっ!」
「はいはい、わかりましたー。じゃあ頑張って、ちゃちゃっと終わらせますかー」
 そう言うと、楓はぷうとほおを膨らませる。
「なに、その全くやる気の感じられない言い方は! 残り3つのプランは、生半可な気持ちじゃ、到底達成できないってことわかってる?」
「へっ? サーフィンより大変とか言わないだろうな。あれはこれまでの僕の人生のなかでも相当きついミッションだったんだが」
「さて、どうでしょう。まあ、コンプリートするには時間がかかるってのは間違いないけど」
「時間がかかるって、どういうことだよ?」
「まあそれは、明日からのお楽しみ。びっちり予定が詰まってるから覚悟してね」
「ええっ、早速明日からかよ……」
 僕はため息をついて、青空を見上げる。
 大きなわた雲が、ゆっくりと空を流れていた。
 あのこと、について触れて良いものか悩む。
 楓がいったい何者で、どこからやってきたのか───。
 そんな僕の心を見透かしたかのように、楓は急に立ち止まって真剣な眼差しを向けてきた。
「……ハルくんさあ、なんか私のこと疑ってる?」
 その唐突な問いかけに、僕はたじろいで声が詰まってしまう。
「得体が知れないけど、仕方なしに付き合ってる、とか」
「……」
 なにも答えることができない。心臓が早鐘を打つ。
 僕が固まって黙りこんでいると、楓はぷっと吹き出した。
「なーんてね。ハルくん、気づいてないんだもんね」
「……気づくって、どういう意味だよ?」
「それはね、ハルくんが記憶を失った7月2日の日曜日に、全ての秘密が隠されてるんだよ」
 謎めいた言葉を口にすると、楓は怪しげな笑みを浮かべた。


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