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俺の地元
俺達は
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渚沙が、「もっていて」と俺の胸に押し付けたリップグロス。固化もせず、それに近付きもせず、ドロドロと粘度を保ったままだ。未知の液体はプラスチックに入り俺の手の中で揺れ踊っている。自由自在に動くソレは、女の身体の柔らかさを表現しているように思える。綺麗だ。ラメにマッチしたラズベリー色のベースが神秘的に見える。
遠距離恋愛の彼氏と彼女は、携帯を持っていないとどうなるんだろう。
お互いを信じて待つ、という純愛の道を辿るのは俺には不安すぎた。渚沙は他の男を知らないし、今よりずっと沢山の人に会っていく筈だ。俺より優しい人、格好良い人、声の低い人、肩幅が広い人、気が利く人――。俺よりもずっと魅力的な人に会って、心惹かれる存在も出てくるだろう。向こうも渚沙が気に入れば、俺の知らない間にカップルが成立してしまうのだ。渚沙の近況が分からなくては、俺はどうしたら良いのかポリシーが狂ってしまう。
心配焼いて会いに行くのは過保護か。学校まで見に行くのか気持ち悪いか。向こうに彼氏が出来たら思い続けていたことは無駄になってしまうのか。
俺的にはずっと一途でいたいし、渚沙との未来があると信じ続けたい。俺が渚沙を思い続けることがもし非効率的だとして、それに何の意味があるのだろう。どういった意味が生まれるのだろう。嬉しいこと、悲しいこと……?
俺は皿洗いをする御袋に一声かけて、図書館に行くことを伝えた。結論が出ないことをこれ以上考えるのは気がひける。渚沙とは違うことに頭を向けようと思ったのだ。何か気持ちが楽になるようなことがあればと。
午前中は雨だったのでコンクリートがしっとりと濡れている。漁の仲間も家の中にいるのか、外は波の音しか聞こえない。――静かだ。
ぐーっと腕を高く伸ばし、縮まっていた身体を解放する。筋肉もその気になってくれたらしくウズウズして来たが、雨で滑ると危ないのでジョギングは出来ない。それにビーチサンダルなので走る気は毛頭ない。でも、身体が元気であるという証拠のように思えて嬉しいのだ。
親父なんぞ朝から、「今日も漁に行けない」としょげていて畳に丸くなって寝転んでいるのである。俺を見習え。
「行くか」
ボチボチ、歩き出す。雨で海が少し濁っていても、やっぱり空は恋しているらしい。同じ色をして、同じ時をゆっくりと刻んでいる。紫色にたなびく雲が東へ、波が雲の後を追うように音をたてる。大自然は美しい。
足元に目をやると、うっすらと出来た水溜りの界面に波紋が出来ている。ビーチサンダルの淵から泡状になって、雫が滴り落ちる。冷やかな質感を伴って、時々俺の足を濡らす。
渚沙の家がある方向には曲がらず、道を真っ直ぐに進む。曲がると海岸から遠くなるし津波を防げて良いのだが、土地が安かったので図書館は海に近い所に建てられた。全く、お金も持ってないし国からも配給されない村である。
図書館のオーナーは立地条件を改めて見詰め、この条件に開き直ったのだ。“林に囲まれた、海の見える幻想的な図書館”を売りにしているが……、こじんまりしているので人気でもない。知名度もない。図書館HPはプロのカメラマンによって良い感じの写真になっているが、詐欺でしかない。ほんとに。
林の浅い所に建てられた、2階建ての白壁の図書館。ささやかにチャペルでもありそうな外観をしているが、実際は古本屋の匂いがする小さな図書館である。図書館を探しに迷子になってみませんか? などという宣伝文句を雑誌で見たことがあるが、そんなロマンチックなものではない。ほんとに。
半弧状に向日葵と天使が描かれたステンドグラスが飾ってあり、その下にはペンキの代わりにチョコレートを塗ったような木の扉がある。俺がドアを押したその時だった、
「うひゃあっ!!!!」
高低の波が激しい叫び声が。驚いて眼球が痛くなるほど瞼を閉じた。次にゴッ――、と表現するのが難しい鈍い音が沢山。鼓膜が破れそうである。
「あいててててて……」
先程の人の声がして、ビクビクしながら瞼を開ける。直ぐ前には、一昔前の映画のような色のない世界。俺の視界が埃色に変わって古いフィルターと化している。2階から落ちる外の光を浴びた、宙に舞う浮遊粒子。
白練一色の四角形の窓。そこから動く浮遊粒子がはっきり見えた。きっとそれは年代物の埃だ。
「いらっしゃいませ……」
倒れた梯子の横でお尻と腰をさする女の子。ふたつのおさげ髪がなんとも知的な感じがする。オリーブ色のエプロンを着ている所をみると司書さんだろうか。女性というにはまだ性の魅力が足りないように見える、曖昧な年頃だ。垢の抜けない、無気力そうな女の子だった。
「だ、大丈夫ですか?」
「私は無事です。それほど痛くは……」
散らばった何冊かの洋書をクッションにしたらしい。司書さん自体は深刻なダメージを負っておらず、俺を見て苦笑しているくらいだ。服についた埃を払っている女の子に手を貸して、ゆっくりと立たせてやる。
「久し振りに2回もドアが開いたので、凄く驚きました」
「そうなんですか」
「毎日1人が来てくれたら良い方なので」
案外ケロリとした喋り方に内心ほっとした。……どうやらこんなに派手にコケたのは俺のせいだったらしい。でも流行らない図書館を呪うべきだとも思う。
というより。
「他に誰かいるんですか?」 誰がこんな図書館を利用しているのか、無性に気になって司書さんへと尋ねた。
「はい。あちらに」
司書さんが視線を向けた先には、スラリと長躯な女の子がひとり。2階の階段を丁度降りて来ている所で、俺と目が合うとピタリと止まった。一歩前に出された左脚の細さがスカートの膨らみから分かってしまい、数秒だけ凝視してしまう。
俺の行動は、いつの間にか女の子と同じくピタリと止まっていた。
まさか。こんな所に若い女の子がいるなんて。
*
happinessと黒色の文字でプリントされている白のシャツが第一に気になった。肩の部分がレースで透ける異素材になっている。俺には理解出来ない別次元を見た気持ちになったが、この部分が都会の方に行くとお洒落なんだろうか。その辺の事情が分からないので、なんとも不思議である。
花柄のフレアスカートは淡い黄色がベースとなっており、白い肌の彼女にはよく似合っている。所々に散りばめられたブルーの花弁が色のアクセントとなったデザイン。初めて見る色の組み合わせに目が慣れてくれない。
女のファッションに関してさほど知識がある訳でもないのだが、彼女の佇まいからして瞬時にそれは分かった。彼女はお洒落だ。それも身に付けている腕時計もネックレスもサンダルも、ハイブランドの物だろう。色のチョイスや気品が渚沙のものと違う。素人目にしても明らかだ。こんな育ちの良い女の子がどうしてこんな小さな図書館に来たというのか。
こんにちは、とだけ挨拶をしてきた女の子の人見知りそうな表情。本当は臆病なのに無理に社交的な笑みを作ってしまったような、そんなお堅い感じがあった。お嬢様の気まぐれで来たに違いない、と俺は確信にも似た憶測で納得することにした。あまり深くかかわってしまうと猫みたいに懐かれそうだ。
俺は埃のかぶった今週のおすすめコーナーから適当に一冊の小説を持って来て、1階にある長机にその本を置いた。改めてタイトルを見ると、あの垢が抜けなくて、賢そうな司書さんが好むのにピッタリな本だと思った。政治家ロボット工場とは、はて。
個人的にあの司書さんのことも気になったこともあってか、俺は本を返しに行くのはまだ速いと判断する。つまらなかったら本を返せばいいか。
10P、20P、30P――。紙を捲っていくごとに何かが後ろから近づいてくる。初めは気のせいじゃないかと思ったが、読んでいた箇所に影が落ちてきた時点でもう御名答だった。軽く振り返ると吃驚顔の彼女が立っていた。
「……俺に何か用があるんなら後ろからくるのやめてもらえます?」
「す、すみません。変に緊張しちゃって」
「はあ」
「隣に座ってもいいでしょうか」
「どうぞ」
コホン、と小さな咳払いをして俺の左横に座る。石鹸とカモミールの匂いでほのかに鼻をくすぐられる。たったそれだけのことで彼女にドキリとしてしまった。嫌な動悸のせいで出される腐った血が全身を駆け巡るような、自分の肉体の存在すらも否定してしまいそうになる。なんだか全てが嫌になった。
俺には渚沙がいる。なのに、個人情報が定かでない女にときめいてしまうのはいかがなものか、と思うのだ。身なりは申し分なさそうだが、挙動不審な態は俺は許容できる範囲ではない。
心を落ち着ける暇もなく、厚みのない桜色の唇が俺に語りかけた。
「貴方はこの近辺に住んでいる方ですか?」
「一応……。そこで漁をやってる者です」
「まあ」
彼女の口から出た感嘆詞は品が良いお嬢様といった体。肩から落ちてきた弁柄色の髪が揺れて、またあの何とも言えない香りがした。
俺の持っている本を右手で取り押さえたのは流石にギョッとした。さっきの消極的な顔に花が咲いて、ぐいぐい俺に迫ってきた。別人だ。
「さっきここの近所を散歩していた時に船が見えたものですから、漁業を営んでいる人がいるのかと思って。誰かその人にお会いできたらと考えていたので、とても嬉しいです」
「俺なんかと会ってそう思ってもらえたんなら、まあ俺も嬉しいです」
「非常に謙虚な方なんですね。尊敬します」
「尊敬に値する人物では……」
ニコッと笑みを絶やさない彼女。背中をのけぞらせるが、彼女は喋りに熱が入るほど近付いてきた。――なんだコイツ。
「お幾つなんですか? 年は近いように見えます」
「17……」
「まあ。同い年です。同い年にこんなに立派な方がいるなんて。何処の高校に通っていらっしゃるのです?」
「高校は、ない。俺もこの地元の奴等も中卒ばっかだよ」
「中卒でいらっしゃるのですね」
「う、お」
「あ」
俺は無意識に彼女の額に自分の掌をくっつけていた。その、これ以上顔を近づけられたら鼻キスしそうなのだ。初対面相手にこれだけパーソナルスペースが狭い女がいて良いものか?
「す、すみません。私、興奮しちゃってツイ」
「あい」
ワントーン、声が上がった。顔にこの女の息がかかってくすぐったい。
「ふふっ」
足音と笑い声が背後から聞こえた。犯人はあの無気力な司書さんだろう。
遠距離恋愛の彼氏と彼女は、携帯を持っていないとどうなるんだろう。
お互いを信じて待つ、という純愛の道を辿るのは俺には不安すぎた。渚沙は他の男を知らないし、今よりずっと沢山の人に会っていく筈だ。俺より優しい人、格好良い人、声の低い人、肩幅が広い人、気が利く人――。俺よりもずっと魅力的な人に会って、心惹かれる存在も出てくるだろう。向こうも渚沙が気に入れば、俺の知らない間にカップルが成立してしまうのだ。渚沙の近況が分からなくては、俺はどうしたら良いのかポリシーが狂ってしまう。
心配焼いて会いに行くのは過保護か。学校まで見に行くのか気持ち悪いか。向こうに彼氏が出来たら思い続けていたことは無駄になってしまうのか。
俺的にはずっと一途でいたいし、渚沙との未来があると信じ続けたい。俺が渚沙を思い続けることがもし非効率的だとして、それに何の意味があるのだろう。どういった意味が生まれるのだろう。嬉しいこと、悲しいこと……?
俺は皿洗いをする御袋に一声かけて、図書館に行くことを伝えた。結論が出ないことをこれ以上考えるのは気がひける。渚沙とは違うことに頭を向けようと思ったのだ。何か気持ちが楽になるようなことがあればと。
午前中は雨だったのでコンクリートがしっとりと濡れている。漁の仲間も家の中にいるのか、外は波の音しか聞こえない。――静かだ。
ぐーっと腕を高く伸ばし、縮まっていた身体を解放する。筋肉もその気になってくれたらしくウズウズして来たが、雨で滑ると危ないのでジョギングは出来ない。それにビーチサンダルなので走る気は毛頭ない。でも、身体が元気であるという証拠のように思えて嬉しいのだ。
親父なんぞ朝から、「今日も漁に行けない」としょげていて畳に丸くなって寝転んでいるのである。俺を見習え。
「行くか」
ボチボチ、歩き出す。雨で海が少し濁っていても、やっぱり空は恋しているらしい。同じ色をして、同じ時をゆっくりと刻んでいる。紫色にたなびく雲が東へ、波が雲の後を追うように音をたてる。大自然は美しい。
足元に目をやると、うっすらと出来た水溜りの界面に波紋が出来ている。ビーチサンダルの淵から泡状になって、雫が滴り落ちる。冷やかな質感を伴って、時々俺の足を濡らす。
渚沙の家がある方向には曲がらず、道を真っ直ぐに進む。曲がると海岸から遠くなるし津波を防げて良いのだが、土地が安かったので図書館は海に近い所に建てられた。全く、お金も持ってないし国からも配給されない村である。
図書館のオーナーは立地条件を改めて見詰め、この条件に開き直ったのだ。“林に囲まれた、海の見える幻想的な図書館”を売りにしているが……、こじんまりしているので人気でもない。知名度もない。図書館HPはプロのカメラマンによって良い感じの写真になっているが、詐欺でしかない。ほんとに。
林の浅い所に建てられた、2階建ての白壁の図書館。ささやかにチャペルでもありそうな外観をしているが、実際は古本屋の匂いがする小さな図書館である。図書館を探しに迷子になってみませんか? などという宣伝文句を雑誌で見たことがあるが、そんなロマンチックなものではない。ほんとに。
半弧状に向日葵と天使が描かれたステンドグラスが飾ってあり、その下にはペンキの代わりにチョコレートを塗ったような木の扉がある。俺がドアを押したその時だった、
「うひゃあっ!!!!」
高低の波が激しい叫び声が。驚いて眼球が痛くなるほど瞼を閉じた。次にゴッ――、と表現するのが難しい鈍い音が沢山。鼓膜が破れそうである。
「あいててててて……」
先程の人の声がして、ビクビクしながら瞼を開ける。直ぐ前には、一昔前の映画のような色のない世界。俺の視界が埃色に変わって古いフィルターと化している。2階から落ちる外の光を浴びた、宙に舞う浮遊粒子。
白練一色の四角形の窓。そこから動く浮遊粒子がはっきり見えた。きっとそれは年代物の埃だ。
「いらっしゃいませ……」
倒れた梯子の横でお尻と腰をさする女の子。ふたつのおさげ髪がなんとも知的な感じがする。オリーブ色のエプロンを着ている所をみると司書さんだろうか。女性というにはまだ性の魅力が足りないように見える、曖昧な年頃だ。垢の抜けない、無気力そうな女の子だった。
「だ、大丈夫ですか?」
「私は無事です。それほど痛くは……」
散らばった何冊かの洋書をクッションにしたらしい。司書さん自体は深刻なダメージを負っておらず、俺を見て苦笑しているくらいだ。服についた埃を払っている女の子に手を貸して、ゆっくりと立たせてやる。
「久し振りに2回もドアが開いたので、凄く驚きました」
「そうなんですか」
「毎日1人が来てくれたら良い方なので」
案外ケロリとした喋り方に内心ほっとした。……どうやらこんなに派手にコケたのは俺のせいだったらしい。でも流行らない図書館を呪うべきだとも思う。
というより。
「他に誰かいるんですか?」 誰がこんな図書館を利用しているのか、無性に気になって司書さんへと尋ねた。
「はい。あちらに」
司書さんが視線を向けた先には、スラリと長躯な女の子がひとり。2階の階段を丁度降りて来ている所で、俺と目が合うとピタリと止まった。一歩前に出された左脚の細さがスカートの膨らみから分かってしまい、数秒だけ凝視してしまう。
俺の行動は、いつの間にか女の子と同じくピタリと止まっていた。
まさか。こんな所に若い女の子がいるなんて。
*
happinessと黒色の文字でプリントされている白のシャツが第一に気になった。肩の部分がレースで透ける異素材になっている。俺には理解出来ない別次元を見た気持ちになったが、この部分が都会の方に行くとお洒落なんだろうか。その辺の事情が分からないので、なんとも不思議である。
花柄のフレアスカートは淡い黄色がベースとなっており、白い肌の彼女にはよく似合っている。所々に散りばめられたブルーの花弁が色のアクセントとなったデザイン。初めて見る色の組み合わせに目が慣れてくれない。
女のファッションに関してさほど知識がある訳でもないのだが、彼女の佇まいからして瞬時にそれは分かった。彼女はお洒落だ。それも身に付けている腕時計もネックレスもサンダルも、ハイブランドの物だろう。色のチョイスや気品が渚沙のものと違う。素人目にしても明らかだ。こんな育ちの良い女の子がどうしてこんな小さな図書館に来たというのか。
こんにちは、とだけ挨拶をしてきた女の子の人見知りそうな表情。本当は臆病なのに無理に社交的な笑みを作ってしまったような、そんなお堅い感じがあった。お嬢様の気まぐれで来たに違いない、と俺は確信にも似た憶測で納得することにした。あまり深くかかわってしまうと猫みたいに懐かれそうだ。
俺は埃のかぶった今週のおすすめコーナーから適当に一冊の小説を持って来て、1階にある長机にその本を置いた。改めてタイトルを見ると、あの垢が抜けなくて、賢そうな司書さんが好むのにピッタリな本だと思った。政治家ロボット工場とは、はて。
個人的にあの司書さんのことも気になったこともあってか、俺は本を返しに行くのはまだ速いと判断する。つまらなかったら本を返せばいいか。
10P、20P、30P――。紙を捲っていくごとに何かが後ろから近づいてくる。初めは気のせいじゃないかと思ったが、読んでいた箇所に影が落ちてきた時点でもう御名答だった。軽く振り返ると吃驚顔の彼女が立っていた。
「……俺に何か用があるんなら後ろからくるのやめてもらえます?」
「す、すみません。変に緊張しちゃって」
「はあ」
「隣に座ってもいいでしょうか」
「どうぞ」
コホン、と小さな咳払いをして俺の左横に座る。石鹸とカモミールの匂いでほのかに鼻をくすぐられる。たったそれだけのことで彼女にドキリとしてしまった。嫌な動悸のせいで出される腐った血が全身を駆け巡るような、自分の肉体の存在すらも否定してしまいそうになる。なんだか全てが嫌になった。
俺には渚沙がいる。なのに、個人情報が定かでない女にときめいてしまうのはいかがなものか、と思うのだ。身なりは申し分なさそうだが、挙動不審な態は俺は許容できる範囲ではない。
心を落ち着ける暇もなく、厚みのない桜色の唇が俺に語りかけた。
「貴方はこの近辺に住んでいる方ですか?」
「一応……。そこで漁をやってる者です」
「まあ」
彼女の口から出た感嘆詞は品が良いお嬢様といった体。肩から落ちてきた弁柄色の髪が揺れて、またあの何とも言えない香りがした。
俺の持っている本を右手で取り押さえたのは流石にギョッとした。さっきの消極的な顔に花が咲いて、ぐいぐい俺に迫ってきた。別人だ。
「さっきここの近所を散歩していた時に船が見えたものですから、漁業を営んでいる人がいるのかと思って。誰かその人にお会いできたらと考えていたので、とても嬉しいです」
「俺なんかと会ってそう思ってもらえたんなら、まあ俺も嬉しいです」
「非常に謙虚な方なんですね。尊敬します」
「尊敬に値する人物では……」
ニコッと笑みを絶やさない彼女。背中をのけぞらせるが、彼女は喋りに熱が入るほど近付いてきた。――なんだコイツ。
「お幾つなんですか? 年は近いように見えます」
「17……」
「まあ。同い年です。同い年にこんなに立派な方がいるなんて。何処の高校に通っていらっしゃるのです?」
「高校は、ない。俺もこの地元の奴等も中卒ばっかだよ」
「中卒でいらっしゃるのですね」
「う、お」
「あ」
俺は無意識に彼女の額に自分の掌をくっつけていた。その、これ以上顔を近づけられたら鼻キスしそうなのだ。初対面相手にこれだけパーソナルスペースが狭い女がいて良いものか?
「す、すみません。私、興奮しちゃってツイ」
「あい」
ワントーン、声が上がった。顔にこの女の息がかかってくすぐったい。
「ふふっ」
足音と笑い声が背後から聞こえた。犯人はあの無気力な司書さんだろう。
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