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一、忌み子

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 生まれたそのときから、千尋ちひろ徒人ただびととは違っていた。はじめに気づいたのは千尋を取り上げたばあやで、分かった瞬間、屋敷中がさらなる喜びに沸いただとか、千尋はずっと後になって――自分が人と違うということが自分で分かるようになってから――聞かされた。

 千尋の父は、この世の人ではない。その父の力を確かに受け継いでいる証が千尋の姿には現れているのだ。左目に輝く、つややかな銀色。おまえの継いだものは言祝ぐべきものだ、と父は言った。

 だがそう聞かされたとき、千尋はすでに言祝ぎなど信じられなくなっていた。みずからを疎み、忌むようになっていたのだ。


 「さあ」

 千尋はほほえんで、老人を促した。老人は不安げに家族を振り返り見た。老人の息子とその妻は、おぼろげな老人の姿に気づくことなく、千尋の方ばかり見ている。

 老人はしばらく前に亡くなっていた。夏がはじまったばかりの空は明るく、柔らかな青い稲の間を風が通り過ぎる。

 「じゃ、そろそろいこうかな」

 生まれ、育ち、死ぬまで眺めてきた風景をもう一度目に焼きつけて、老人は名残惜しげに言った。それから、千尋に頭を下げた。

 「かたじけねえことです。若さまに見送っていただいて、稲も見られた。わしはこの時期の、この青い田んぼが大好きでね……風がざあっと通るたびに、この世にゃあなんてきれいなものがあるんだろって……」
 「この土地の神が聞けば喜ぶ。……あちらからいかれるといい」

 千尋は優しく言い、村の中を流れる川を指した。千尋は知っている――水の中には、この世ならざる国へ続く道がある。千尋には、水底に重なってたゆたうように開く通り道が見えるのだ。死んだあとで行き場の分からない魂を、千尋はこうしてときおり送ってやっていた。

 老人は何度も頭を下げながら、川の中へ姿を消した。

 「ひまろ殿は、川の中から還られたよ」

 千尋が老人の家族たちに言うと、息子と妻はほっとした顔で頭を下げた。

 「ありがとうございます。わたくしどもには、どうしてやることもできませんので……」
 「青い稲のそよぐ田を見たかったそうだ。田植えの前に亡くなったので、心残りだったのだろうな」
 「そういえば、そんなこと言ってたわよ、ととさま」

 と妻が声を弾ませた。息子も頷いた。

 「ああ、よかったな。そうかあ、よくこの辺りに座ってたもんなあ」

 家族たちはひとしきり千尋に礼を述べ、瓜をたくさん持たせてくれた。

 「この村には、神がいてくださる。千尋さまが……ありがたいことさ」

 息子がにこにこしながら言うので、千尋はつられて口の端を上げた。

 「神ならどこにもいるさ」
 「いやいや、こんなふうに道で話ができるのは、千尋さまくらいのもんだに。疾風はやてさまだって、お姿をひと目見たら目がつぶれるって話だ――本当かや? 」

 千尋は黙って自分の隣を見た。息子やその妻には、今ここに立っているひとの姿が見えていない。そのひとが、みずから姿を隠しているからだ。

 「……どうかな。母は平気そうだが」
 「だって、そりゃあ……小夜さまは、お嫁さまにだで……」

 息子はもごもご呟いて、しまいに妻がその頭を小突いた。千尋は笑って、瓜をありがとう、と言ってからふたりと別れた。

 そなたらがそうやってありがたがるわたしは、思っているほどよいものではないぞ、と胸の中だけで呟きながら。



 
 疾風の屋敷は山の竹林の中にあって、いつでもしんとして涼しい。貴人の住まいに似た長い廊のある雅びな屋敷は、村ではひそかに竹やぶ御殿と呼ばれている。

 千尋はきざはしを上がり、廊に集まっていたもののけたちに出迎えられた。みな、竹やぶや村に棲みついているものばかりだ。もののけたちは千尋の狩衣の露先や袖にじゃれつき、千尋が持って帰ってきた瓜を見て飛び跳ねた。もののけたちは走っていき、下の蔀のひとつをがたがたと揺すった。間もなく、千尋の母が顔を出した。千尋は母似で、人に言わせれば目元のあたりなどが瓜ふたつだということだが、母の方がずっと明るい顔つきをしているので、千尋は母と自分が似ていると思ったことはあまりなかった。

 「瓜をいただきました」
 「おかえり。…………」

 小夜は千尋の後ろを目を細めて見た。

「隠れてても分かるよ。何度やっても同じ」
「そなたの目だけはごまかせないな。何度やっても同じだ」

 朗らかに笑いながら現れたのは、この屋敷の主だ。里中を千尋とともに歩いたのに誰も気がつかなかったぞ、と誇らしげに言う疾風に、小夜は呆れた顔をした。

 「いくつか切ってくる。また隠れても分かるからね」

 もののけたちは喜んで、小夜の周りで大騒ぎしはじめた。小夜はもののけたちを踏まないようにしながら廊を歩いていった。

 千尋は父とともに、廊で母を待った。白鼠が膝に乗ってきたので、頭を掻いてやる。疾風が言った。

 「ひまろ殿は、満ち足りてゆかれたな」
 「はい」
 「わたしたちがこの村に来たときには、まだ黒い髪をしていたな。善い人だった」
 「はい。無事にお送りできてよかった」

 千尋はもともと口数の多い若者ではない。普段から父と話をするときはこんなふうだったし、千尋も普段と違う態度でいるつもりはなかった。

 しかし、疾風は息子が何か言葉を留めているのにすぐに気がついた。

 「みなおまえに望みをいだいている」

 千尋はぎくりとした。疾風は続けた。

 「おまえはそのことで、何か言いたいことがあるのではないのか」

 父の声は優しかった。

 「みながわたしに望みをいだいている。わたしが父上と同じように、力ある神だと……」
 「うん」
 「わたしは、……わたしの力を恐れています」

 千尋は静かに言った。もしかしたら、誰かの魂を送るたびに千尋が感じていたことに、父はとうに気がついていたのかもしれない、と思った。

 「わたしは、みなに望まれるようなものではない。……わたしの力はわたしの自由にならないのだから」

 疾風は風の神だ。銀の髪に、銀の目。およそ人とはかけ離れたその姿は、淡く光を帯びたように美しく、千尋の左目にも同じ色が受け継がれた。

 だが、父が自由自在に風を支配するのと同じような力は、千尋には芽生えなかったようだ。人の身ならざる力がないわけではない。だが、ないほうがましだったとすら千尋は思っていたし、間違っても何かの拍子に力が働かないように、人から隠すように生きてきた。だから、村人たちから望みをかけられるのは辛かった。死者を送るとき、魂には思い残すことのないようにと語り聞かせながら、神と名乗り、見送る側には迷いがあるなど滑稽だ。

 千尋は、風を呼ぶことも、雨を降らせることもできる。ずっと幼い頃には、その力で遊んでいたような覚えもあった。だがあるとき、千尋の起こした風が千尋の手を離れた。それから、一度も神として力を揮ったことはない。

 近頃では、本当ははじめから力を自由に扱うことなどできなくて、楽しい記憶はみな、夢で見たというだけかもしれないと千尋は思いはじめていた。そのくらい、その〈覚え〉はうっすらとしたものでしかなかった。

 「以前父上を訪ねて来られた方に、わたしのことを父上に似ていないと言われた方がいらっしゃいました。あのときからわたしは、本当にそうかもしれぬと――。父上は、里の人の前では姿を隠していらっしゃる。先ほど言われたとおりに、見たものの目を潰してしまうのかもしれない。わたしはそうする必要がない代わりに、神として揮えるような力がないのではないかと――」
 「あの神は、おまえとわたしが違ったものに見えたのだよ。違ったたちの神に。おまえが至らないからそんなふうに言ったのではない。姿を隠しているのは、里人たちが見るわたしの姿と、おまえや母上が見るわたしの姿が同じではないからだ」

 神に質の違いなどあるのだろうか、と千尋は思った。水の神と火の神だとか、風の神と土の神だとかいうことだろうか。父と、その客人まろうどとが違って見えたことなど千尋にはかつてなかった。

 「神にはふた通りあるだろう。ひとつは、常世の神。ひとつは、豊葦原の神。豊葦原では、ぼんやりとだが天津神あまつかみ国津神くにつかみと呼ばれているかな。この豊葦原というところに生まれた神は、人と近しい。あの神は豊葦原の神だから、わたしよりも自分の方に千尋が似ているのだと言いたかったのかもしれないな」

 疾風は友の顔を立てたが、千尋はそうは思わなかった。あの神は、疾風がそんなふうに言うのを聞けば、嫌な顔をするに違いない。

 「わたしは、豊葦原の神だということですか? 」
 「そうともいえるし、違うともいえる」

 疾風の言うことは、千尋には謎かけにしか聞こえなかった。だが、そのとき千尋は気がついた。千尋は初めて、自分が何であるかということを考えたのだ――おかしな感じがした。

 なぜわたしは今まで、みずからについて問うてこなかったのだろう? それまで自分で自分をどう思っていたかを思い出そうとしたが、得るものは何もなかった。

 「おまえ自身が言祝がれるものであるように、おまえの力も言祝ぐべきものというのは変わらない」

 疾風は言った。千尋は不思議だった。父は、千尋が支配できなかった風をその目で見ているのだ。力は強ければいいというものではない。従えることのできない力など災いに他ならないのだから。

 だが疾風の口振りは、父親が息子をかばっているというだけではなさそうだった。

 「おまえの力がおまえの思うとおりに動かせないのは、おまえのせいではないのだ。おまえの力の使い方を、おまえは知っているはずだ」
 
 このとき、ひそやかな足音とともに小夜が廊を渡ってきて、切り分けた瓜をたくさん盛った鉢をみなの前に置いた。そして、疾風の声が聞こえていたのだろう、夫の顔をちらりと窺った。疾風も妻を見た。両親のまなざしのやりとりに、千尋は言い知れぬ予感がした。

 胸に逸るものを感じながら、千尋は尋ねた。

 「わたしは、――わたしは、なぜこれまで自分がどこの神であるかを疑わなかったのでしょうか? なぜわたしは、みずからについてこれほど知らぬことが多いのでしょうか? 」
 「それは、おまえが本当はすべての答えを知っているからだ」

 疾風は千尋が口を挟む間もなく言った。

 「おまえは、人がどこから来てどこへ行くのか知っているか」
 「……いいえ」
 「常世国とは、どんなところだ? 」
 「父上のお生まれになったところです。それから――」

 千尋は訳が分からなかった。疾風がこれほど先の読めない話の進め方をしたことはこれまでになかった。

 正しいはずの答えにも自信がないような心もとなさを感じながら、千尋は続けた。

 「常世国は、死者たちの逝く国です。水底から、ひまろ殿を送ったように」

 疾風は頷いた。

 「そうだな。豊葦原にいる間は、その答えで間違っていない。豊葦原の人々は自分の魂の出所など知らぬし、常世国は死者の国だと思われているから。……豊葦原では、世は三つに分かれていて、天に高天原があり、地の底に黄泉国があると思われているだろう。その黄泉の方だけが、常世と結びつけられてしまった」
 「常世国のひとの答えは、違うのですか? 」

 千尋の膝で瓜をかじっていた白鼠が、手を止めて鼻をひくりと動かした。疾風はもう一度頷いた。

 「ああ、違う。そしてな、千尋、おまえは今の問いにすべて答えられるはずなのだ。豊葦原ものの持つ答えではなく、常世国の神の答えで。かつておまえがその答えを知っていたとき、おまえはおまえの力を自由に使っていたのだよ」
 「わたしが? 」
 「そうだよ」
 「――なぜ今、わたしの中に答えがないのですか? 」

 千尋は常になく張りつめたものをみずからに感じながら問いかけたが、それはこの場の誰もがそうであったに違いなかった。一瞬、沈黙があった。聴きたいか、と疾風が尋ねた。千尋は頷いた。

 「おまえから求められたら話をするようにと命じられていた」

 このとき疾風は、父の顔をしていなかった。一柱の男神。そのまなざしは気高かった。

 「おまえは昔、ずっと小さい頃に、常世国に出入りしていた。豊葦原に生まれたものは、豊葦原にいる限り神であってもできないことだ。だが、おまえにはそれができた。おまえは豊葦原に生まれながら、常世国の質を持つ特別な神だったのだ。おまえに支配できぬものはなかった。おまえは常世国に棲むようになり、多くのものを生み出していた。そのときのおまえは、千尋という名ではなかった。神としての名を持っていたのだ」

 支配できぬものはなかった? 千尋は信じがたい思いで自分の手を見下ろした。常世国に出入りしていた? 特別だった? 他に名があった? わたしが? だが、辛うじて口をつぐんでいた。

 疾風は続けた。

 「あるとき、常世国で何かが起こった。常世国へ置いておくのは危ういということになって、わたしはおまえを豊葦原へ連れて戻った。おまえはそのときには――呪いを身の内に抱いていた。おまえの心はもう、おまえのものだけではなくなっていた」
 「……呪い? 」
 「呪いとしか呼びようのないものだった。恐ろしく強い情の塊だ。おまえは常世の神としてのおまえを忘れてしまったが、そのときは忘れてしまった方がおまえのために良かったのだ。常世の神は、呪いとは相容れない。呪いは豊葦原でしか生まれない。わたしたちはおまえに人の子として千尋という名を与え、おまえが呪いの器となれるようにした。おまえに幸星さきぼしを渡したのも、すべてはそのためだ」

 疾風に促されて、千尋は懐から青い石を引き出した。赤い紐を通して、覚えている限りかたときも首から外したことはない。こうして表に出して見せることすらめったになかった。何があっても決して失くしてはならないと、かつて疾風は何度も千尋に言っていた――父に何か命じられることはあまりなかったが、その数少ない命のどれもが、必ず守られなければならないものだった。

 固唾をのんで父子の話に聞き入っていたもののけたちが、このときばかりは感嘆もあらわに幸星に見入った。曇りのない氷の塊に似たかけらの中に、青や緑や、紫の光が混ざり合いながら揺らめいている。瑠璃や瑪瑙や水晶ですら、比べものにならない。千尋が見ていると、銀色の輝く粒が星のように石の中を流れた。

 身を守る石だと、渡されたときに言われていた。

 「幸星は、境を作る石だ。豊葦原に生きるものは、おのれの器を固めて他と混ざらないようにしている。これはそのための力を持っている。常世の神の力は封じられるが、おまえを人と同じにして呪いから守ってくれる」
 「あのときわたしの力がわたしを離れたのは――呪いのためですか? 」
 「そうだ。呪いがおまえに成り代わって、おまえの力を使って起きたことだ。あのときにも言ったはずだ。おまえが望んだことではない、おまえのせいではないのだと」

 千尋は胸をさすった。確かではないが、呪いがあるとするならそこだという気がした―――自分自身に溶けきらない、黒い塊のようなものが、そこにはあるのだろうか? 

 「呪いはおまえが人でいて、呪いの器でいる限り、おまえを害することはない。今も、おまえが呪いに気がついたことは幸星が隠している。しかし、おまえが幸星を外し、神に戻ろうとするとき、呪いはおまえを妨げようとするだろう。呪いとて祓われたくはないのだ――おまえが神として力を使うとき、呪いがおまえに成り代わる。おまえの力を支配し、その情の強さのままに災いを振りまくのだ」

 しばらく、誰も口を開かなかった。疾風と小夜は千尋を見守っていたし、もののけたちは抜け目なく瓜を失敬しながらも、いつもの騒がしさはどこへやら、じっと黙っていた。

 千尋には考えなければならないことが多すぎた。呪いをもらったことになど、覚えはない。だが、そんなはずはないと父の話を退けるには、千尋の記憶には穴が開きすぎていた――そして、なぜそんなふうなのかということもまた、千尋には確かな理由がなかった。

 「幸星を持っている限り、神に戻ることはない」

 千尋がようやくそう言うと、それほど長く黙っていたわけではないのに、声がかすれてうまく出せなかった。

 「しかし、神に戻ろうとすれば、呪いが……」
 「わたしは、おまえがこの話を聞くことになったのが今だということにも意味を感じている。おまえがみずから道を選ぶことのできる力をつけたから、今なのだと」

 疾風は瓜をつまんだ。気楽にも見えるその仕草は、何も案ずることはないと千尋に言っていた。

 「おまえが呪いを宿すことを許し、人の身のままいたいというのなら、それでもよい。呪いを鎮め、神に戻るというなら、それもまたよい。いずれどちらかにはしなければならないが、選んではならない道などないのだ。どちらにも勇気が要る。どちらでも幸福に繋がっている。どちらを選ぶにしても、わたしたちがおまえを助けよう」
 「この呪いは、誰の情だったのでしょうか」
 「それはおまえにしか分からぬ。あるいは、常世国へ還った死者の誰かが、豊葦原に思い残すことがあって、おまえに縋ったのかもしれぬ。ただひとつ言えるのは、呪いは円満なものからは生まれぬということだ。呪いを生んだものの心は、主に顧みてもらえぬ。主が見てくれるまで、呪いを生み続けるのだ。その呪いのもとの主は、まだ助けを求めているかもしれぬな」

 千尋はどうしたらよいのか分からなかった。分かったことが増え、分からないことも同じくらい増えてしまった。

 千尋はいずれ幸星を手放し、神に戻りたかった。みずからを疎み、忌むべきものとして隠し続けるのは、楽しいことではない。

 しかし、そのために立ち向かうべきものは、あまりに恐ろしく思えた。わたしは、わたしの力を知っている。幸星を手放したあと、千尋が神に戻ろうとしていることを呪いに隠しおおせるわけがない。自分の心に、どうやって隠しごとができるというのだろう! 自分ひとりに害があるだけならまだいい。そうでなかったとき、わたしはどうしたらいいのだろう? ……

 さあ、もう少し瓜を切ろうかと言って、小夜が鉢を持って立った。もののけたちがあとをついて行く。疾風のまなざしを感じながら、千尋はいつしか、最後に青い田を見たいと言ったひまろのことを思い浮かべていた。

 いつまでも見ていたいものがあるのは幸福なことだ。だが、もしそれをみずからが壊してしまうかもしれないのなら、果たして幸福なだけなのだろうかと。
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