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五、日照雨

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 早鷹の呼んだ風が、里を端から端まで吹き過ぎていった。

 瑞穂のそよぐ里の田は蓮の守る土に滋養があるために、ゆるゆるとした細い沢からしか水を引けなくともしゃんと伸びていた。日照雨が〈すべてのもの〉に還ってしまってからは、いつの年もこんなふうなのだろう。里に留められた魂たちは、誰でも田に入ることを許されていた。まだ未熟な、膨らみかけの稲をものほしげに横目で見ている子は、ほとんどが雀の霊と決まっていた。かつて豊葦原の稲田に棲みついていた蜻蛉やいなごは緑の茎にとまってみなを眺めながら、ふいに子どもらの鼻先へ飛び出てからかった。豊葦原で田を作っていたものは手際がよく、そうでなかったものが草の抜き方ひとつ知らないといって驚くのだった。

 「みな、みずからが本当にやりたいことを望め」

 早鷹が新しく里に迎えられた魂たちに言った。魂たちはみな顔色悪く神々を見返したが、彼らの目には地獄で苦役を強いられているようにでも見えているのだろう。

 「田を作るだけではない。ヒノメのところでは、星の作り方や読み方が分かる。ヒノトのところでは剣を鍛えたり、器を焼いたりできる。ヤエのところでは、みなのために米を炊ぎ、菜を切る。楽を奏でたいものはひざかと千松に。八雲は玉造りを教えてくれる。どんなことでもよい。みずからが心からやりたいことをやりなさい。そして、みずからが自由であることを知るのだ」

 それから、悠に笑いかけた。

 「おまえも、みなの様子を見てごらん。ここでやってはならないことは何もない」

 里は賑やかだった。悠は蓮とともに、順に見て回った――ヒノメが手を握り合わせて新しい星を作り、空に浮かべる。ヒノトが炎を起こし、剣を鍛える。ヤエが煮炊きをし、ひざかと千松が笛と琴を鳴らす。八雲は色とりどりの石を磨く。踊るもの、描くもの、恋するもの、眠るもの、食べるもの、走るもの、話し合うもの。

 「〈すべてのもの〉から国を造るときも、みんな好きなように造るの。自分が美しいと思うものを、好きなように」

 蓮がみなを見ながら言った。木々の葉擦れは優しかった。

 「光を通すひと、木を生やすひと、花を咲かせるひと、川を流すひと、岩を積むひと、闇を生むひと、星を光らせるひと、風を吹かせるひと。そうして造った国にこうしてみんなが住んで、今度は暮らしを造るひとが煮炊きしたり、何か作ったり、装ったり。常世国はそうやってできたし、豊葦原もはじまりはそうだった。今は閉じてしまっているけどね」
 「どうして閉じてしまった? 」
 「今豊葦原と呼ばれているところは、イザナギさまとイザナミさまがみんなをまとめて土地を造っていったでしょう。それまでで一番に、大勢で力を合わせて造ったんだって。だから豊葦原には、美しい場所がたくさんあるんだって」
 「だが、イザナミさまは……」

 悠は言いよどんだ。豊葦原に暮らしていた記憶しかなくとも、豊葦原を造った神々を語る物語の結末がどうであったかは、悠も知っている。多くの国や神々を産んだ末に火の神を産んだイザナミは、火傷を負ってイザナギと死に別れるのだ。イザナギはイザナミを取り戻すために黄泉国へ赴くが、腐り崩れたイザナミに恐れをなして逃げ出し、黄泉路に岩を据えて妻と離縁した――。

 蓮は頷いた。

 「〈すべてのもの〉から何かを造るのは、わたしたちのまだ知らないものを見つけるという意味もある。神が〈恐れ〉に出会ったのは、そのときが初めてだったの。それまで何か〈生む〉ことはあっても、その逆はなかった。イザナミさまは還るのは怖いことじゃないとそのときに知ったけど、イザナギさまはそうじゃなかった。イザナギさまにはもう、イザナミさまの本当の姿が見えなくなっていたの」
 「本当の姿……」

 悠は呪いを通してヒノメたちを見たときのことを思い出した。失われることへの恐れが、美しいものを歪めて見せてしまう。

 そして、新たな恐れが生まれる。

 「イザナギさまは死を拒んで、自分たちの造った国に〈死〉が存在できなくするために岩で道を封じてしまった。それから、常世国を黄泉国と呼ぶようになったの。死ぬというのは、〈すべてのもの〉に還ること。生きるというのは、自分であるということ。常世国ではそれが分かれていないから神でいられるのに、生きることだけを選んだ豊葦原では、魂を他の魂と分けておくために器が必要になった。豊葦原に生まれることを選んだひとは、自分が〈すべてのもの〉とひとつだったことも、力を持っていたことも忘れてしまう」
 「それでも、豊葦原へ生まれるものはたくさんいるね」
 「器を持っていないと分からないこともある。豊葦原ができたのも悪いことじゃない―――あれは〈学びの国〉だって、常世国では言われてる」
 「呪いを持つことも、何かの学びなのか」
 「持たなきゃ分からないことだってある」

 悠は蓮を見た。蓮は悠を見返した。悠が沈黙のうちに何を話そうとしているか、見出そうとしている。

 近くの田の青い稲の合い間に、蓮の姿が映っている。悠は水面越しに蓮を確かめ、蓮のさみどりの瞳を見つめた。出会ったときと同じ、偽りのない、健やかで美しい色。

 「蓮も、呪いを持っているのではないか」
 「……どうして? 」

 ややあって、蓮は聞き返してきた。瞳が揺れ、光の粒がきらめいた。蓮の声は縋るようだった。

 「思い出したの? わたしのこと? みんなのことも? 」
 「……いや、思い出したわけではない。ただ、気になることがあってね」

 蓮の首飾りの玻璃の表には、蓮の顔が逆さまになって映っていた。魂送りの晩肩越しに見、水田でひそかに確かめたときと変わらず、目だけが明るく見えるせいで辛うじて顔と分かるその影は黒く潰れ、前より崩れてきているようにさえ思えた。

 「その玻璃、水でできているのだな」

 蓮がはっとした。蓮が思っていたよりも怖い顔か、辛そうな顔か、どちらもを合わせた顔か、自分は今そういう顔つきなのだろうと悠は思った。蓮の目は少し見開かれたまま、次第に明るみを欠いていった。

 ああ、なんて隠しごとの下手なひとだ。

 「水面越しにひとの本当の姿が見えるようになったんだ。常世国に来てから。……自分の姿を見たよ。胸に呪いの影が重なって、黒く見えるんだ」

 蓮は黙っている。悠は静かに話し続けた。

 「わたしにはそなたの姿が、黒く隠れて見えない。そなたの目だけが、光って見えるんだ。まるで――」
 「呪いを抱いているみたいに? 」

 蓮はとても静かに、ぽつりと囁いた。

 「そなた、わたしの呪いと何か関わりがあるのではないか? 」

 悠は優しい声音になるように努めた。蓮のことを追いつめたいのではなかった。

 蓮は答えなかったが、違うとも言わなかった。

 はじめに泉でその目とまなざしを交わしたときから、蓮のことが気になってしかたがなかった。笑っていれば嬉しく、うつむけば、自分も切ないような気がした。風の宮で倒れたときは、心底ひやりとした――たとえば、悠の呪いを蓮が分かち合っているのだとしたら――。 

 呪いの記憶の主には、寄り添っている女の気配があったではないか。あの女の方の記憶を蓮が持っている、それとも蓮こそが、あの女そのひとだとしたら?

 蓮が呪いの片割れを抱いているとしたなら、記憶の主がかたわらの女を想う気持ちを、悠はそうとは知らず蓮に向けているのではないのか? それとも、想われていたのは蓮なのか? 想っていたのは誰だ?

 わたしは一体誰なんだ? 蓮にとって、わたしは何だったのだ?

 「そなたのことが気にかかるんだ」

 悠は、自分が蓮に抱いている想いそのものを疑いはじめていた。その想いが呪いのものではなく本当に悠のものだったとしても、悠はなぜそんな想いを感じているのかを思い出せないのだから。

 「教えてくれないか。わたしがかつて、そなたにとって何であったのか」
 「……何であったのか? 」
 「蓮は、わたしとどう過ごした? わたしは、そなたとどんなふうに言葉を交わした? 仲がよかった? それともわたしが嫌いだった? わたしは、何かそなたにひどいことをしただろうか? 」
 「どうしてそんなふうに思うの」

 蓮は心底驚いたらしく、その顔から怯えのような暗いものが一瞬取り払われた。だがすぐに、冷たいものがゆっくりと蓮の心を這い上り、すっかり浸してしまったようだった。悠が何を聞こうとしているかが、蓮には分かったのだ。

 その唇は揺れ、ひときわ深い息とともに、何かを蓮の中へ抑えたようだった。それは涙かもしれなかった。

 「わたしに呪われたと思っているの? 」

 悠はためらったが、そうだと答えた。とても酷なことをしているように思えたが、悠はその思いを追いやった。聞いておかねばならないことだったから。それに、悠が蓮を傷つけるのを恐れているのではなく、悠の持つ呪いの記憶の主が、蓮を傷つけたくないと思っているだけかもしれないのだから。

 「違う」

 蓮は震える声で言った。我知らずであろうが、わずかに後ずさりしながら。

 「違う……」

 蓮が胸を押さえてうずくまり、口から噛み殺した悲鳴をもらした。悠は蓮を蝕んでいる痛みを感じ、自分の呪いがつられて疼きだすのを感じた。だが、悠は呪いを抑えることができた。

 どん、という凄まじい大音とともに、周りの屋形がぐらぐら揺れた。みしみしという不吉な軋みとともに、どん、どんと揺れが来て、家屋の柱が一瞬見たこともない形にねじれてから弾けるように折れた。

 どん、どん。大地がまるごと揺すられている。重たく扱いようのない力が、下から突き上げてくる。

 おのおのの屋形にいたものたちが飛び出してきた。

 「なにごとだ! 」

 ヒノトは造りかけの剣を手に持ったまま、魂たちのあとから屋形を出てきた。ひざかたちも急いで表へ出て、何が起きているのかと辺りを見回した。その間にも、地響きは続いた。

 あれほど明るかった空はにわかに暗くなり、雲にはどろどろと赤い光が混じった。どこからか狂気を誘う呻き声がする。うああ、うああ、うあああ。土から、水から、空から、草木から、青白くぼやける魂たちが吹き出して集まった。

 覚えのある眺めだった。あの橋の上で悠の呪いが死者たちを引き寄せたように、蓮の呪いが還りきらない魂を呼び集めているのだ。見ると、魂送りのときに里に残された魂たちも、ふらふらと悠と蓮に向かってくるのだった。その姿は、一様にむごたらしかった。肉を引きずり、骨を鳴らし、血だまりをあとに残しながら行進してくる死者たちの列は、地獄の光景を思わせた。

 里の空は暗く歪み、そうかと思えば、亡者の虚ろな顔が一面に現れた。みずから白く揺れる花のようなものがあまた生えだしたかと思えば、それは指を開いた人の手だった。

 「そなたたち――」

 悠は蓮をかばいながら魂たちを見回した。ふたりを取り囲む、青白い顔、顔、顔……。

 ぶつぶつと何か呟く声は蠅の羽音の集まりのようで、よくよく聞いてみればそれは、魂たちがこちらに語りかけているのだった。助けたまえ。導きたまえ。同じ。同じ。

 我らと同じ。

 「わたしは……大切だった……」

 蓮の声は消え入りそうだった。涙が白い頬を伝って落ちる。その涙を流させているのは、痛みだけではない気がした。

 「あなたが大切だったの……」

 悠は蓮を抱き寄せて魂たちの群れから守ろうとした。だが、押し寄せてきた魂たちが、ふたりを引き離した。魂たちには手ごたえがなく、実に頼りない存在だったが、儚いものたちが無数に集まったときに生まれる波のようなうねりは、思いがけない力を持っていた。

 「悠! 」

 ヒノトが叫んでいるのが聞こえたかと思うと、悠は誰かに襟首を掴まれ、魂たちの中から引っ張り出された。血に濡れた袖が重たくまとわりついた。

 「大事ないか? 」

 悠を助け出したのは早鷹だった。早鷹は目を細めて悠の胸の辺りを見下ろした。

 「おまえの呪いではないのか……何があった? 」
 「蓮の呪いが……」

 悠はそう言うのがやっとだった。涙に濡れたさみどりの目が焼きついて、頭を離れない。

 蓮を助けなければ。蓮と言葉を交わさなくては。蓮のことを、思い出さなければ――考えが浮かんでは消え、目が魂たちの中に消えた蓮をひたすらに探した。今震えているのは悠の方だった。

 あなたが大切だった、と蓮は言った。それなのにどうして、わたしは蓮のことを忘れてしまったんだろう?

 「蓮……蓮は……? 」
 「今姉上が助けに行かれた」

 ところが、ヒノトがそう言い終わらないうちに、魂たちは常世の神々を恐れて押し合いへし合いしながら動きだし、氾濫した川のような光の渦が、不吉に目の前を流れはじめた。そして、ヒノメがやっとこちらへ抜け出してきた。

 「だめだ。数が多すぎる。あれらはあの子の呪いに引き寄せられているし――」
 「……やはり、蓮にも呪いが? 」

 ぽつりと尋ねた悠に、神々の目が一斉に向いた。

 「そうだ、と言っておこう。それも、あの子の呪いはおまえの呪いの片割れだ」

 早鷹が答えた。

 「おまえがおまえの心を責めないように先に言っておくが、おまえたちの呪いはあの子が作ったものではないぞ」

 早鷹の声はあくまで穏やかで、悠はかえって気が急いた。

 「なぜそんなに落ち着いていらっしゃるのですか」
 「我々が手を下さずとも、いずれ世はあるべき姿に還るからだよ。どれほど長くかかっても、いつまでも偽りの姿を保てるはずがない。偽りの姿でいることは、苦しい。亡者たちが駄々をこねるのも、ああして何かに抗うのが彼らのまことの望みではないからだ。誰も、嘆きに満ちたままでいたいわけではないのだ――それに、世は常にあるべき様であると言えなくもない」

 早鷹が起こした風は右往左往する魂たちに吹きつけ、彼らを散り散りに吹き飛ばす代わりに、何かを吹き払っていった。風が通ったところの魂は一様に生前の美しい姿に戻り、憑きものが落ちたような顔をしている。彼らを縛る情を払ったのだ、と早鷹は言った。

 「豊葦原ができてしばらくは、今のやり方で魂たちを魂送りしていたのだ。浄化を強いて学びを奪うからあまりよい方法ではないが」
 「だが、そうも言っていられまい。こんなありさまではな」

 ヒノトは持っていた剣を悠によこした。造りかけといっても飾りがついていないというだけのことで、よく鍛えられた銀色の刃は美しかった。

 「それは君のだ。君は、まだ力を使わない方がいいんだろう」

 そして、自分は佩いていた剣の一本を抜いて、近くにいた魂をばさりと斬った。刃は魂をすり抜けたが、魂が留めていた情を切り払った。

 ヒノメの手のひらからは温かい光が溢れ、照らされた魂たちの情を焼いた。ヒノメに寄り集まってきた魂たちは手を合わせて拝んだ。

 悠は胸の呪いを探った。呪いはもはや悠を支配することはできないようだったが、神々の力を受けてもまだそこに凝り固まっていた。

 「かつて、わたしたちにも浄化しきれなかったものがたったひとつだけあった」

 魂たちの流れを追っていこうとする悠に、早鷹が言った。

 「それがおまえたちの持っている呪いだ」
 
 魂たちは神々の里を逃れて森の中を流れ、やがて水霊たちの泉にまでやってきた。六花樹のあるところだ。

 「悠さま」

 みすずたちが顔を出し、剣を持って血まみれの悠と魂たちを見て悲鳴を上げた。

 「いったいどうなさったのですか? な、なにが起きているのですか? 」
 「蓮があの中にいるのだ――だが、見つからない」
 「なんですって! 」

 水霊たちは果敢にも赤黒い流れを覗きこもうとしたが、ふいに突き出してきた手に大慌てで飛びのいた。手はみすずの前髪を危うくかすめ、流れに戻った拍子に指が二本腐り落ちた。

 「蓮さまが、本当にこの中に? 」

 みすずの唇は震えていた。悠も、自分が青ざめていることを知っていた。

 鼓動が急かす。蓮が、あんなところに。あんな、恐ろしい、汚らわしい、おぞましい中に。早く助け出さなくては。早く、こちらに連れ戻さなくては。早く、早く――。
 

 痛みもなく、まるで滑り落ちるように、悠はまた自分のものではない記憶を垣間見た。灯りひとつない真闇だ。だが、心だけが先へ先へ逸る。早く連れ戻さねば。早く、会いに行かねば。早く、早く――。

 「悠さま! 」

 水霊たちに泣きそうな声で呼ばれ、悠はやっと我に返った。みすずが指差す先で、魂たちの中から黒いものが起き上がり、みずからの体を重そうに引きずりながらこちらへやってくる。蓮だった。顔は見えない。血を吸った真っ黒な髪が細い背に張りつき、代わりにその肌はぞっとするほど白かった。

 「蓮! 」

 駆けより、両肩を掴むと、蓮ががくりと悠を見上げた。悠は思わず手を放した。暗い目。あれほど健やかできらきらと澄んでいた蓮の目が、濁っている――これは、蓮ではない。呪いが蓮を支配している。

 「蓮」

 揺することすらためらわれて、悠は指先で冷たい頬に触れた。蓮の目は開いているが、何も見てはいない。

 「蓮……」

 呼び戻せないと分かった。なぜなら、悠は蓮と同じ呪いを分かち合っているからだ。

 だから、蓮にはもう耐えられないのだということも分かった。

 今ならば、剣で斬り祓えば蓮を助けることができるかもしれない……だが、傷つけることはないと分かっていても蓮に斬りつけることなどできなかった。どうしてもできなかった。悠は剣を手放した。

 みすずたちが叫んでいるのが聞こえる。このまま蓮とともに死ぬのだとしても構わないと悠は思った。いや、還るというのだったか? 痛みはない。何も感じていないだけかもしれない――。

 悠は蓮を抱えたが、蓮と触れているところで、互いの呪いが暴れ、ひとつに戻ろうとしているのを感じた。大地の唸りと、白い熱。さまざまな色形が明らかでなくなり、記憶のかけらが散りぢりになってはふいに浮かんでちらついた。切られた瓜。遥かに望む眼下の海。疾風の目。雲間の光。大雨。織り糸を手繰る手。薄赤い世界。帯を握りしめて仰いだ天上。去っていく遠い背。透明な玉の中に輝く月の光。

 どれほど経ってか、誰かが誰かを呼ぶのを悠は聞いた。蓮、と呼ぶ自分の声だと悠が気がつくまでに、少しかかった。悠にとっての記憶だけが、今は思い出された。

 蓮は悠とともにいたが、重みがまるでなかった。その目が、悠を見つめた。濁りはない。初めて出会ったときがそうだったように。



 ……誰かに名を呼ばれた。そこは湿っても、乾いてもいなく、音も、匂いも、光も、闇すらなかった。そして、すべてがそこにはあった。みずからが在るのかさえ分からなくなるようなところで、果てもない。だが、悠は悠のままでいた。悠でもあった、という方が正しいかもしれない。大勢の記憶や情が本来の主人を離れ、混ざり合う。そのすべてをみずからの記憶のように感じることができた。

 自由があった。懐かしいような気持ちもした。あらゆるものの凝った力そのものとなった。その内には今にも生まれ出ようとするものがみなぎり、一方ではいっとき盛り上がったものがまた小さくなっていくのを受けとめようとしていた。膨張と収縮。何かが生まれ、死ぬ。

 呪いが悠に見せた記憶もあった。ふたりのひとのものだ――悠の中にはなかった、女の記憶もあった。女が命を終える。男が真闇の中を、手探りで進む。ふたたび女の目と、まなざしを交わすことを夢見て。だが望みは叶わず、天を仰いで涙を流す。そこで記憶は途切れる。温もりや、高ぶりや、悲しみや怒りをすべてない交ぜにして残った、一抹の空しさとともに。

 だがそれは、もはや悠からも蓮からも離れた大勢の記憶のひとつでしかなかった。

 次いで、今度は悠の記憶ばかりが見えた。まだほんの幼い頃の、こうして見るまでは思い出しもしなかったものから、ごく近い記憶までが。

 悠、とまた呼ばれた。女の声だ。どの記憶の声なのかと、悠は探した。

 「悠」

 声の主が悠の肩を叩き、悠を振り向かせた。女神だ。暗く波打つ髪に、深い藍色の瞳。肉の体があるわけではない。だが、悠は一度、滝でこのひとを見たことがあった。魂送りのときに、同じ気配を感じた。

 「おばあさま」
 「久しぶりだね。まさか、こんなところで会うことになろうとはさすがに思ってもみなかったけれど」

 日照雨はほほえんだ。悠はすっかり我に返って、辺りを見回した。

 「蓮がどこにいるか、ご存知ありませんか? わたしは気がついたら、ここにいたのですが……」
 「おまえはあいかわらずだね」

 日照雨は穏やかに言った。

 「ここが何なのか、分かるか? 」
 「……〈すべてのもの〉ですか? おばあさまが還られたとみなが言っていましたが」
 「そうだ。察しがいいね。では、なぜおまえが今ここにいるのかは? 」

 悠は首を振った。結局、悠に分かったことは数えるほどもなかったのだ。誰から呪いを受けたのか、なぜ呪われたのか。蓮とはどのような関わりがあったのか。真珠とは誰なのか。何ひとつ分からないままこうして〈すべてのもの〉に還ってきてしまい、なぜそうなったかさえも、やはり分からないのだった。

 還ったことに悔いはない。だが、ならばともにいるはずの蓮の姿が見えないのが気がかりだった。

 日照雨が腕を組んだ。

 「おまえたちは、浄化されたんだ。蓮の力で」
 「浄化? 」
 「蓮はおまえと違って、もともと呪いの器にはなれない身だった。あの子も豊葦原にいたことはあるが、今は常世の神だからね。人の嘆きやら、悲しみやら、苦しみやらとは相容れない。よく今まで耐えたものだ。呪いの方でも居心地が悪かったろうに」

 悠は恐ろしい予感がした。悠は〈千尋〉であることで呪いを収めておけたが、蓮はそうではなかった――蓮にとっては、呪いは毒でしかなかったのだとしたら……。

 「呪いが毒であることは、神も人も変わらない。だが、常世の神は呪いを生まないから、蓮の魂は呪いがあることを許さなかった」

 日照雨は幻のように浮かんでは消える記憶の群れをしばらく眺めた。

 「豊葦原から戻ったものたちは魂送りされてここへ還り、生きていたときのことをここへ置いていき、また生まれる。常世国では分からないことばかりだ。〈すべてのもの〉にはないものはないが、見えていないところはある。それが少しずつ、見えるようになる」
 「わたしたちはなぜ己を保っているのですか? 」
 「常世の神は、みずから在ることができるからだ。器がなくてもそこにいることができる。わざわざ分けなくとも分かれることができ、また交わることもできる。――それにね、わたしがおまえを呼んだんだよ。そうした方がいいと思って」

 悠のすぐかたわらに、呪いの記憶が現れた。悠の中に戻ることはないが、意志を持つかのようにそばを離れていかない。

 「その呪いはもはや、おまえを妨げることはできない」

 話してやろうか。日照雨の言葉に、悠は頷いた。

 すべてを知るときがきたのだ。

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