赤ひげ歯医者の独り言

ぴいち

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阪神大震災と世界平和団体とカンボジア

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1994年11月に朝日新聞アエラに「日本中の新築は、ホルムアルヒド」という発がん性物質に汚染されているとエビデンスを元に発表した2カ月後、1995年1月17日朝6時前ベットがドンと突き上げられる感触で目を醒ましました。

すぐに揺れが落ち着きましたので再度睡眠に戻り7時過ぎに起きてTVをつけるとまるでパニック映画の様な模様が映っていました。

ビルの3階部分がペシャンコのビル。橋桁が落ちた高速道路、あちらこちらから火の手が上がっていました。

大阪と神戸を繋ぐJR、阪神、阪急は全て止まり人々は線路を通って移動していました。

医療団体の呼びかけに応じ、大阪港から観光用の帆船に乗りメリケン波止場に着きましたら道路はゆがみ、駅前は、パニックで仮設トイレは汚物でいっぱいでした。

我々は、被災者の避難先の小学校を周り、必要なニーズを把握して具体的な支援メニューを考えて、団体に報告しました。

その際に同じく被災地にボランティア入りしていた労働組合の人達とシックハウスの話をしました。

すると数日後、組合の学習会で話をしてほしいと言われ、尼崎の大手化学メーカーに行って話をさせて頂きました。

その際、上品な初老の紳士が、参加され講演後、尼崎の駅までご一緒し、簡単な会話を交わしました。

その数日後、組合のリーダーから「大変だ」と電話がありました。
その方は、日本の歴代の大物財界人が代表を務めてきた世界平和団体の、会長で、毎月肥後橋の住友クラブで行われる会合に招待されたとの事でした。

この会合には、台湾やカンボジア等の社会運動のリーダーがゲストにお越しになり、様々な事を学びました。

その行動指針が「誰が正しいかでは無く、何が正しいか」「一本の指を指せば、3本の指が返ってくる」「絶対無私」でした。

私は、家医療関係者として、カンボジアの医療に関して質問し、現地のニーズを知る為にカンボジアを訪問することになりました。

当時は直行便が無く、バンコクからプロペラ機に乗り換えてプノンペンに入りました。

その際いきなりのカルチャーショックが自動操縦マシンガンを肩に兵士が街角に立ち、新聞には銃で撃たれた顔が潰れた写真が載っており、住民が驚きも、せずに見ていた事でした。

後ほど、海外ても仕事をされた元官僚から言われた「世界はカオス」だ日本ほど安心して暮らせる国は無いという言葉を実感しました。

次回は、王族で社会運動家のレニー、パンさんとナマズを食べて話あった事と支援と、問題点をご報告します。
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