蝶々ロング!

蒲公英

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先行発注は三ヶ月前に行われます

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 七月の最終週に、何故かメーカーからのアポイントメントが続出した。売場に立ってから三か月半の間、顔も見たことのない営業たちが次々に来るという。一号店には頻繁に顔を出しているらしいメーカーたちは、売り上げのない二号店を思いっきりスルーしていたというのに。

「冬物の紹介だよ。美優ちゃんは展示会行かなかったものね」

 熱田に言われるまで、展示会があったことすら知らなかった。招待状が店長で止まったところをみると、美優には不要だと思われたのだろう。確かに夏にそんなものを見せられても暑苦しいばかりだし、冬の売り場を見たことのない身には、どんなものが必要なのかわからない。

「シーズン物で定番以外の商品は、一度しか生産しないんだよ。サシが利かないから、ちゃんとセールスポイント聞いて先行発注しないと」

「サシ?」

「追加発注って言った方がいいかな。サイズが揃わなくなっても、二度と入らないの」

 冬物って、今買ってるシャツ類と格段に値段が違うよね?先行発注するって言ったって、その月の予算全部使っちゃったら、靴とか手袋とか入れられなくなっちゃう。えっと、冬物の仕入れを一括でしちゃうってことなの? そうしたら翌月の予算まで食っちゃうけど、そのあと注文しなくていいってことで、じゃあ人気が出そうなデザインってどこで判断するのよ。大量に仕入れて爆死とかしないでしょうね。季節終わってから返品とか、無理だよなあ。


「どうもー! お世話になってますアイザックの田辺でーす!」

 あっかるい声には、聞き覚えがある。本人が丸々入りそうなトランクを持ち上げ、階段を上ってくる。

「冬物のサンプルが上がりましたので、ご紹介させてくださーい」

 学生さんたちは夏休みに入ったばかりだというのに、美優だって新しいサンダルを買ったばかりだというのに、トランクから出てきたのは内ボアありフリースありである。

「見ただけで暑い……」

 第一声がそれであることは、許されることだと思われる。

「先行発注だけで売り切れてしまう商品がありますから、ある程度確保していただかないと。昨年は二号店様で防寒服を入れていただけなかったので、今年は定番と新作の両方を説明したいと思って。インナーの機能も上がってますので、こちらも是非」
 発熱インナーやらタイツやら、美優の身体が発熱しそうな商品である。七月後半、暑いんだったら暑いの!

 これとこれは予約が必要と言われたって金額の嵩むではあり、美優だけの判断では迂闊に発注できない。

「美優ちゃんが売れると思ったものを、売り切れる数で……」

 普段通りのことを言う松浦を、二階まで引っ張り上げてアイザックの田辺と挨拶させる。

「お客さんが冬にどんなもの着てるのか、知らないんですってば!大体、どれくらい出るものなんですか?」

「去年はそんなに出なかったんじゃないかなぁ……」

 ぼそぼそと言う松浦に、田辺はにっこり笑った。

「昨年は確か、辰喜知さんの定番しか入れられてませんでしたね。担当さんも入ったことだし、新デザインをお待ちになっているお客様を狙えると思いますけど」

 田辺が若い女性だということを、ここで忘れてはならない。普段工具店に訪れるのは、営業も客も圧倒的におっさん率が高い。時々女性の営業や作業員が来ることはあるが、一日の内に何人もいない。

「このデザインは今年のイチオシです。五色展開ですが、需要はシルバー・ブラック・ネイビーに集中すると思います。その三色は押さえていただきたいと」

 男の営業相手なら、松浦は渋い顔をしていただろう。流暢な営業トークと笑顔のゴリ押しに、あっさりと敗けた。

「じゃあ、この三色をMニ枚、L三枚、LL二枚ずつで。インナーは時期になったらで、いいよね?」

「はいっ! では生産次第納入いたします!」

 目の前で三ヶ月後の発注書が切られる。

「後で価格連絡してね。あとは彼女と打ち合わせしてください」

 松浦がさっさと階段を下りて行き、田辺はサンプルを片付け始めた。残された美優は、発注書を見つめる。あんな風にポンポン発注して、予算は大丈夫なんだろうか。

 どのメーカーも、訪れた内容はほぼ一緒だった。その場で発注書を切るメーカーと、紹介だけして発注書を寄越せと言ったメーカーの違いだけだ。手元には色刷りのチラシが大量に残り、発注したものとかメーカーが推す理由とかのメモが記入されている。

 三度目のメーカー訪問から松浦はつきあってくれなくなり、美優ひとりで営業と対峙しなくてはならなかった。防寒服の他にヤッケやら厚い靴下やら、なんだかんだといろいろなものを紹介され、目が回る。

 あとから送られてきた計算書を見直し、頭がクラクラした。説明を受けているときには必要だと納得して発注したつもりだったのだが、本当にこんなに大量に必要なんだろうか。安全靴や手袋ほど、作業着はまだ動いていないというのに。


 送られてきた既発注の見積書を計算し直し、ヘンな声が出た。確かこっちは九月中に納品とか言ってたと思う。このメーカーは十月末とかって。慌てて記憶をひっくり返し、ざっくりと予定を書き込む。すべて同じ月に入荷すると、大変なことになりそうな気がする。ハンガーを吊る場所は余裕だらけだが、レイアウトは変えなくちゃならないだろう。いや、その前に先立つものを考えなければ、キャンセルすることに……いや、キャンセルなんてしたくない。説明を聞いたときに、売ろうと思ったものばっかりなんだから。

 予算、どうにか確保しなくっちゃ。売上アップして仕入予算上げてもらうだけじゃなくて、他の在庫を今から計画発注して、冬物が入る月に定番品の仕入れは最低限になるようにしよう。無くなりそうなものを拾って発注するだけじゃ、何が一番回転する商品か把握できないじゃないの。

 拳を握りしめ、自分が定番だと思っている商品を書き出してみる。手袋を全種類拾って一覧表にすると、自分でもびっくりするくらい商品数が増えていた。客に言われるがまま、メーカーに勧められるがままに仕入れて、その後動いているのかどうかなんて気にしないまま、空になったフックだけ補充を繰り返していた。

 自分が気に入って採用した、色のついた革手袋のアソートが動いていることは、知っている。売れろ売れろと念じながら気にしていたから、入荷後一ヶ月もしないうちに買い増したときに小さく万歳したのだ。

 やだ、もしかしたら売れもしないものを並べてるんじゃない?毎日欠品はチェックしてるけど、毎回同じものを発注してるだけだったりして。たとえば十個入荷して三ヶ月で一個しか売れてないとしたら、それって需要が薄いってことだよね?そんなものが何年もここに在って、それがやっと売り切れたのにフックが空いたってだけで同じもの発注したら、また何年もそこに掛かってるんじゃないのかなあ。

 売れない商品はそこで打ち切りにして、違う特徴の商品を入れれば売り場が回転する――つまり、売上アップにつながる。客も変わり映えのない売場じゃなくて、新しい商品を提案すれば注目する。

 適正在庫ってやつ、だよね。冬物が入ってくる前にそれを完成させて、商品の回転率計算しながら入れれば、必要な在庫を確保しながら予算が残せるかも知れない。いや、何が何でも残さなくてはならない。だってもう発注しちゃったんだもん!多分インナーと小物と、普段の作業服もいるんだよね?売上が上がり調子になってきてるから、夏服をどこでストップするのか熱田さんに聞いてみないと。

 考えることが、急に増えた気がする。そんなに大量に入れていない夏服でも、残ってしまえば利益は翌年まで持ち越しになる。経理に携わらない美優は、利益まで頭は回らない。持ち越しになるのは仕入予算であり、今必要なのはそれだ。

 たまたま空いたフックの手袋のデータを、POSから引く。一年分の動きを見て、一月にだいたい五双前後は動くものだと安心して、発注書を切る。ただしそれはMサイズだ。他のサイズも当然動くのだろうと、何気なくLサイズLLサイズと続けると、動きが全然違う。Lはそれなりに動いているが、LLについては全然ダメだ。それでも在庫がある。年度を変えてチェックすると、最終で販売したのが二年前、その後に出てきたデータは入荷日付。つまり、入荷してから一度しか売れてないのだ。

 一種類だけでは最低発注金額にまったく満たないので、他のフックもチェックして少なくなりそうなものを一緒に発注するために、他のもののデータも引く。結局手袋だけじゃ全然足りなくて、まだ在庫はあっても動きの良い安全靴を一緒に発注することにした。

 ちょっと待ってよ……こういうの、他にもたくさんあるんじゃない? たとえば先週入荷したコレ。バーコードリーダーを当て、頭を抱えた。十双売るのに一年近く掛かった商品を、また十双も入れてしまった。

 一号店や三号店では、この商品は出るんだろうか?たとえば二号店では一年に十双でも他の店舗にあれば、飾っておく分の二つや三つくらい移動伝票で回してもらえるよね?

 伊佐治二号店は独立採算ではあるが、横繋がりのある場所なのだと思い出せたことを、褒めてやって欲しい。棚は常にフルセットで揃えておかなくとも、取り扱えるのだと提示しておくことが重要なのだ。大量に必要な人は先に発注してくるだろうし、普段買いの客の手は、通常二つだ。一時にいくつも手袋を使うことはない。

 靴や服みたいに、同じものでも色やサイズを揃えなくちゃ売れないってわけじゃない。皮手袋も作業用手袋も、物が小さくて品数は多いけど意外に高価だ。たとえば一双六百円の手袋を十双控えれば、作業インナーならば三枚余計に在庫できる。

 大手の作業服店ならば、三枚くらいのインナーで何が変わると笑うかも知れない。けれど少しでも予算を増やしたい美優には、それは結構大きな違いだ。在庫が圧倒的に足りないと客につつかれているのだから、置いてあれば――置いてあると認識させれば――購入したい人がいるはず。

 書き出した手袋を全部POSに照会し、一年の動きを書き入れる。多分靴下も同じ作業が必要だろうし、他にも何か考えることがあるかも知れない。ただニコニコして綺麗な服を売っていると思っていたブティックの店員さんたちも、もしかしたらこんな地味な作業をしているんだろうか。

 ううん、あっちは流行を追わなくちゃならない分、もっと大変かも知れない。それに入荷した段ボール開けて品出ししてディスプレーって、お店の形が違っても同じことするんだよね?


「あれ? みーがまだいる」

 作業着でない鉄が階段を上ってきて、慌てて時計を見れば就業時間はとっくに過ぎていた。相変わらずわからないセンスのTシャツである。その深いVネックのシャツは、胸筋を見せびらかすためのものかと突っ込みたくなる。それに加えてシルバーのペンダントのスカルは、一体何のためなのだ。

「なんだかムキになって在庫検査してたみたい。もう帰るけど」

 カウンターの中でノートを閉じ、ペン立てにペンを立てる。

「帰んの? チャリ?」

「朝の天気予報で雨マーク出てたから、電車ー。結局降らなかったね」

 鉄は車のキーをチャラっと投げた。

「送ってってやるよ。靴下買うから、ちっと待ってて」

 駅まで三十分歩く億劫さよりも、少々遠慮しながら常連客の車に同乗させてもらう楽さを選んだ。二度目だし祭りでも会っているし、前ほどの逡巡はない。ユニフォームのポロシャツを脱ぎ、バッグに丸めて入れた。駐車場でエンジンをかけて待っている、鉄の車の助手席のドアを開けた。

「駅までで大丈夫でーす。助かりまーす」

「どうせ大した距離じゃないから、家の近所まで行くよ。一駅だろ?」

 返事が戻って車が発進する。外作業をしていた店員がニヤニヤしていたことを、美優は知らない。

「髪、またオレンジにしちゃったの?」

「緑とどっちにしようか、迷ったけどな」

 黒い髪のままという選択肢はないのだろうか。

「黒いままにしないの?」

 そう問うと、鉄は少し笑った。

「親父と似てるからさ、いやなんだよ」

 一緒に仕事をしていて、似ていると不都合なことでもあるのだろうか。三代目と聞いたからには、きっと家業ってものなのだろう。続いていく仕事の中で、似ていることは良いことのような気がするのだが。

「お父さん、嫌いなの?」

「嫌ってたら、親父の下になんか就かねえよ。一方的に親父にライバル心抱いてるっつーか、まだ相手にもなんねえけど」

 それ以上話を突っ込むのもどうかと迷い、結局話を流した。

「髪、黒い方がいいと思うんだけどなあ」

 実際、髪の黒い鉄の方が、美優の好みに近い。背は高いのだし、ほど良く日焼けして筋肉質の身体は精悍だ。ただし服装の趣味は合わない。


 美優の使う駅が近くなって来ると、鉄はハラヘッタと呟いた。

「メシ食わねえ? 奢るから」

 外はまだ明るい。たまには毛色の変わった相手と食事してみるのも、楽しいかも知れない。自分のバッグの中には、寝る前に落ち着いて見ようと思っていたカタログが入っている。

「いいけど。ファミレスくらいしかないよ、このあたり」

「それでいいよ。普段はばあちゃんの醤油くさいもんばっかりだから、ちょうどいいや」

 おばあちゃんと一緒に住んでいるのだと、そんな情報だけは頭に入った。他人の家族構成なんて自分に照らし合わせてしか考えないものだから、大きい家なのかと思うだけだ。

 道なりのファミリーレストランで向かい合わせに座り、美優は自分がおかしくなった。鉄とは何度も顔を合わせているが、あくまでも店員と客でしかないのだ。ブティックの店員や美容師と仲良くなっても、個人的な連絡先なんて交換したことはない。

 私とてっちゃんって、いつから友達になったんだろ。友達が整体師とつきあいはじめたとき、どこの治療したんだなんてみんなで囃したけど、私も何売ってるんだって笑われるかな。

 話題があるわけじゃないから、鞄からカタログを持ち出して話の接ぎ穂にする。

「このクソ暑いのに、なんだそれ」

「そう言わないで、見てよ。来季のニューモデルなんだって。どう思う?」

 まだ発注していないメーカーだが、人気のあるモデルは発売後ひと月でメーカー在庫が切れると脅されたものだ。

「辰喜知なら、なんだって売れるんじゃねえ? お、これいいな」

 美優の貼った付箋のページを見て、鉄がちょっと身を乗り出す。

「ドカジャンって感じじゃないから、仕事じゃない時に着る。俺、LLで一枚予約しといて。あとさ、このジャージも」

 美優の付箋の上から、色を変えて自分の欲しいものの付箋を貼っちゃったりしている。

「それ全部一回で買うと、結構な金額になるよ?」

 時給で働く美優は、一度にそんなにたくさん着るものを買ったりしない。

「結構なったって、定価で足しても五・六万ってとこだろ。伊佐治で買えばもう少し安いし、別に問題ねえわ」

 ちょっと驚いて、鉄の顔を見た。もしかしたら、金銭感覚もずいぶん違うんだろうか。汚れるものだし消耗品だから、安価なものを次々買い換えたほうが気持ちが良いのではないかと思っていたが、鉄はブランドに反応している。

「てっちゃん、二号店の作業服が足りないのは知ってるだろうけど、他に何が足りない?」

 いくつも作業服店を見ている顧客の声を、生で聞ける絶好のチャンスだ。

「足りないってか、余計なものもありすぎ。十年くらい前のシャツとか、捨てちゃえばいいのに」

 四つに切ったエビフライを口の中に放り込み、鉄は左手で何か廃棄する仕草をした。

 客っていうのは、意外に売り場を見ているもんである。確かに何年も前のシャツが売り場にある。しかもアウターじゃなくて、木綿の肌着が。イマドキの薄くて軽いインナーじゃなくて、深いUネックの白い肌着とズボン下が棚に鎮座していることは気になっていた。あろうことかパッケージが黄ばみ、下手すればシールの粘着がなくなって袋のフタが閉まらなくなっているものもある。

「捨てるわけにはいかない、と思う。一応仕入れたものなんだろうし」

「あんなの着るのなんて、相当な年寄りじゃねえ?まあ、三百円くらいなら買うかもな」

 サンビャクエン? それなら売れる? 余計な在庫を少なくして、さらに売上も上げられる? 頭の電球が、ぴかっと点いた。

 明日、安売りして良いかどうか店長に聞いてみようっと。

「みーってさ、伊佐治に入る前は何してたの?」

「え? 普通にお勤めしてたよ。データ処理会社で、入力業務してた」

「ふうん。なんで伊佐治に入ったの?」

「会社が潰れたから。就活するのも面倒だったし、叔父さんが楽だって言ってたから」

 楽な仕事だって確かに聞いた。客から受けた注文を発注し、裾上げするだけだと。

「……嘘だったけどさ」

 ぷっと膨れてみせる。聞いた話だけなら、とても簡単だったのだ。ひとりでフロアを回すことのしんどさなんて、全然聞いてない。ましてあんなに取扱いアイテムが多いなんて。

「忙しくないだろ、客いないんだから」

 それはもちろん図星である。

「忙しくはないけど、大変なのっ。仕入れとか取扱い品目とか、おじいちゃんのパンツ見せられちゃったり、商品が少ないってグチグチ言われても仕入れ予算貰えなかったり」

「そりゃ楽して金貰えるとこなんか、碌なもんじゃないだろ。フーゾクだって楽じゃないだろうし。それより、じいちゃんのパンツって何だ?」

 相槌で突っ込むとこ、そこ?

「試着室じゃなくて、通路で着替えちゃう人って結構多いのよ。穿いてカウンターの前で長さ測って、その場で脱いじゃって、体温の残るズボンの裾上げ」

 実際、今日もそんな人がいたのだから仕方がない。年齢(さすがに二十代・三十代にはいない)じゃなくて、客の性格に拠るものらしい。試着室に入るのは億劫だし、そこに売り場のお姉ちゃんしかいないのだから、いいじゃないかと思うらしい。着替えを見せられたお姉ちゃんが困ることは、念頭にないようだ。

「パンツ脱いでたら犯罪だけど。いいじゃん、中身がポロリとかあったらラッキーって感じで」

 鉄がニヤニヤと笑い、ムキになって否定しようとしてバカバカしくなった。そうか、笑い話にしちゃえばいいのか。 

「どうしたら、売れるのかなあ」

 頬杖をついた美優を、鉄が笑った。

「なんだ、仕事の話ばっかりだなあ。みーってもっと、テキトーなのかと思ってた」

 そう言われてやっと、仕事の話しかしていないことに気がついた。今は仕事中じゃなくて、プライベートな時間だ。

「相手がてっちゃんだから、だよ。お客さんでしか、会ったことないじゃない」

 さすがに友達と遊びに出たときに、仕事の話はしない。

「だからってよ、仕事終わってからもそんなかぁ?」

 そういえば、鉄の仕事の内容の話なんて、聞いたことはない。奢ってやるなんて言ったくらいだから、少なくとも鉄は美優と過ごすことが暇潰し以上になると思っているのに。

「……ごめん。退屈だよね」

 ちょっと申し訳なくなって、美優は上目遣いになった。

 国語の教科書でしか見たことのない、破顔一笑なんて言葉の意味を知った気がする。美優の詫びに応えた鉄の笑顔は、それくらい気持ちの良いものだった。

 うわ、てっちゃんて、すっごくイイ奴! 一方的に仕事の話ばっかりされたら、私なら面倒がってぶすっとした顔になっちゃう。

「いいよ。伊佐治が便利になれば、俺らも楽だし。祭のときにも青年部の奴らがいたろ?あいつら、ワーカーズとかで買ってんだけどさ、伊佐治で用が足りれば近いし無理利くし」

「お祭の手伝いって、顔を売るチャンスだったのか……」

 そこまでの指導はされていなかった。もっとも顔を売って来いと言われたところで、あの場所で企業PRなんてできなかったろうが。そのための伊佐治の法被であり、ユニフォームだったのか。

「リョウが懐いてた女は誰だって話になってたから、ちゃんと用は足したと思うよ。出会いのない職場の男ばっかりだから」

「もっと愛想良くしとくんだったなあ。ざんねーん」

 パフェか何か食べたいんじゃないのかと、鉄がもう一度メニューを広げる。前にコンビニエンスストアで会ったとき、鉄は弁当を二つ持っていた気がする。美優の兄ですら、外食で二人前なんて余裕だ。

「てっちゃん、ごはん足りたの?」

 甘いものを選びながら、美優は疑問を口にした。

「ばあちゃんが作ってるからな。要らないって言うとがっかりするから、家で食う腹は残しとかないと」

 母親に夕食の支度不要の連絡もせずに外食した美優は、少しきまり悪く口元を抑えた。

 前回の交差点まで送ってもらい、鉄と別れた。

「ごちそうさまでした。お客さんにご馳走になっちゃった」

「もう、友達じゃね?」

「そうかも。うん、そうだね。今度は私が奢る」

 そう言う程度に楽しかったし、鉄は思ったよりもヤンチャじゃない。

「女に奢ってなんか、もらわねえよ。また近いうちに行く」

 ドアを閉めて、窓越しに手を振っただけだ。お互いの連絡先は交換したけれど、少し親しくなれば当然のことで、別に特別なことじゃない。


「ちょっと遅かったのね。ご飯よ」

 普段ならば母親にそう言われても、食べてきたから要らないと素っ気なく返事するだけだろう。

「食べて来ちゃった。連絡しなくてごめん」

 素直に詫びの言葉が出た。せっかく夕食の支度をして待っていたのにとがっかりするのは、多分鉄の祖母も美優の母も同じだろう。

「あらそう、今日は豆ご飯なのに。美優が好きだから、いっぱい炊いちゃったわ」

「おにぎりにして、明日お弁当にする。今度からちゃんと連絡するね」

 一度口に出してしまえば、少しの行動修正なんて容易だ。家に連絡する手間なんて一分もかからないのに、億劫がったり自分以外の人の手間に多寡を括ったりしてるから、お互いに文句が出る。悪意でやったことじゃなくたって、面白くないものは面白くないのだから。

 父も兄も食事を終えた後、美優は残った豆ご飯をおにぎりにして、フリーザーに並べた。残った副菜も弁当箱に綺麗に並べると、母が驚いたように見ている。

「明日のお昼に、事務所であっためて食べる。私の分のご飯だったんだもんね」

 先刻まで不満そうだった母の顔が、機嫌良く頷く。ばあちゃんががっかりするからなんて言った鉄は、ちゃんとそこを気遣っていたのか。

 今まで誰がそんなことを言っても、クソ真面目な人だなーくらいで自分の行動を省みることはしていなかった。みんな自分と同じくらいテキトーで身勝手で、アルバイトだろうが正社員だろうがそんなに変わらない生活をしているのだから、中身も同じ気になる。

 同年代の鉄は、確かに面倒見が良い兄貴肌ではあるらしいが、言葉遣いは悪いし行動も乱暴で、服のセンスも洗練されていない。だから人間を相手する繊細さには欠けると思っていた。誰に対しても、自分のほうが感じ良く応対できると。

 叔父さんも熱田さんも、てっちゃんのことを「いい子」だって言ってた。あれって、こういうところが見えてるんだ。ってことは、私の子供っぽさも丸見えじゃない!やだやだ、他人って雰囲気まで見るのね。


 翌朝、美優は自転車を漕ぎながら、自分の売り場で通常では動かない品物を思い浮かべていた。木綿の下着、色の変わってしまった手袋と靴下、箱が潰れて中身が剥き出しになった足袋、他にもあるかも知れない。あれを、少しずつでもお金に変えられれば。たとえばきちんとした商品を買う時に、ついでにひょいっと手に取るような金額に設定すれば、不良在庫は減って売上が増える。増えた売上で、数は少なくとも新商品を仕入れることができれば、それを売ってまた新しい商品が入れられる!

「店長、売れない商品を大幅値下げして売っていいですか?」

「動く見込みのない商品を動かすのは、担当者の仕事でしょ。原価見てから決めてね」

 原価を見ろなんて言葉は、故意に飛ばすことにした。何年も前からあったと推測され、これから何年先にもあると予測ができるものなんて、まっとうな商品と認めてやるもんか。動かない商品を動かすんなら、原価なんて無視してやろう。

 自分の考えの大胆さに笑い出しそうになったが、相談相手のいない場所では決定は自分のみだ。一号店には、くすんだ棚なんてなかった。手遅れになる前に捌いたのか値下げ処分したのかは、美優にもわからない。

 いいの。この売り場の責任者は私だもん。これで単品が赤字になるなんて言われたって、結果的に利益になるって証明してやる。

 二階に上がり、自分が売り場に必要じゃないと思ったものをカゴに放り込んでゆく。びっくりするくらい棚がスカスカになったが、ここに新しい商品をディスプレイできると思うとワクワクする。

 冬物入荷までに、これを全部売ってしまおう。回転率の良いインナーを置いてもう少し稼げれば、防寒服の仕入れ価格の心配が減る。

 大きめの段ボール箱をカットして、階段を上がってすぐ目に付く場所に置いた。

『この箱の中、よりどり税抜三百円』

 そう派手なPOPをつけて、商品をバラバラと投げ込んだ。きちんと並べるよりも、掻き混ぜて宝探し気分になったほうが買う気になる。自分も靴下やアクセサリーをそうやって探すのが好きだから、男も同じだろうという理屈だ。

 早速訪れた客が段ボールの前で立ち止まり腰をかがめて、変色した靴下を掴んだ。

「五足で三百円なら、履き捨てちゃってもいいな。穴が開いてるとかじゃないんでしょ?」

「もちろんです、もちろんです。ちょっと爪先が日焼けしちゃってるんで、正価で売れなくて」

「靴履いちゃえば見えないから、これでいいや」

 元々の目的だったらしい安全ベストと一緒に、男は靴下を持って階段を下りて行った。階段の上には、美優のガッツポーズがあった。
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