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二十八歳
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私たちはゆっくりと手を離し、お互いに別々の方向を向きながらタオルで顔を拭った。涙を流すくらいじゃ、悲しみは浄化されたりしない。ただ感情を爆発させるのに疲れただけだ。
「また冷めちまった。もう一杯淹れるわ」
オガサーラがケトルを火にかける。私はのろのろと、カウンターチェアに腰かけた。
身体で慰めあえれば良いのに。そうすれば少なくとも、一時は紛れるだろう。けれどもオガサーラは、私相手にそれはできない。だから私たちは隣り合わせに座り、黙ってコーヒーを啜ってチェリーパイを食べる。
「おいしい」
「当たり前だ、これをメシのタネにしようってんだから」
「まさかオガサーラが、コーヒーを売りたいなんて言い出すとは思わなかった」
「俺も思わなかった。どこでどう転がるか、わかんねえな」
「マッシモも不思議がってた。一番そういうの、構わない質だと思ってたのに」
「イナカの農家の次男坊だからな。どんぶり飯食らうのが男だって言われて育って、少しでも繊細なことをすれば女みたいだって言われて。あのころ、女みたいだって言葉に怯えて必死だったから、余裕なんてなかったさ」
「コーヒーを美味しく淹れられる男なんて、最高にかっこいいのに」
やっとオガサーラは、片頬だけ笑った。
「俺さ、こっちに出てきてはじめて、まともなコーヒー飲んだんだわ。それまでコーヒーっていえばネスカフェのインスタントで、あれはあれで旨いんだけど、ちゃんと落としたコーヒーって別の飲み物なんだって思った。そんで連れてってくれた先輩が、もっと旨いコーヒーが飲めるところがあるって教えてくれたの。休みの日にひとりでキョロキョロしながら店に入ったら、店の中の香りから違ってた。帰りにスーパーで一式買って帰ったんだけど、全然同じようにならない。どこが違うんだろうって休みのたびにコーヒー飲みに行って」
そのころ、私は忙しいながらも充実した学生生活を送っていた。高校のようにクラスは一纏めでなく、年齢も生活環境も入学した目的も違う人たちの中では、私はだらしない女に放置されて育った娘ではなく、ただの学生だ。新聞販売所の寮は、それぞれの事情で自立しなくてはならない学生で、余計な詮索はタブーだった。とても自由で快適で、冬の寒い朝やひどい雨の辛さを補って余りある日々。
ちょうど当時急速に広がったPHSという携帯電話で私たちの連絡は簡単になったけれど、実際のところ時間帯の合わない三人のやりとりは、密にはならなかった。夜の九時には床についてしまう私と、主に夜にアルバイトをするマッシモ、そして現場によってバラバラに動くオガサーラ。だから私とマッシモが大学に通っていた四年間に顔を合わせたのは、一年に一度がせいぜいだ。そうしているうちに、高校で育んだ友情など離散してしまうのだろうと思っていた。顔を合わせても話題は合わず、懐かしさを語るだけの関係ならば、そのうちこれ自体が懐かしい友情になってしまうのだと。
急展開したのは、卒業直前の私の母親の死だった。酔って路上で凍死したときには、男と別れて公営住宅にひとりで住まっていたらしい。私の知っていたスナックとは別のスナックに勤め、あんな田舎で何人もの男と関係を持ち、それなりの悪名を広めて死んだ。ユウキヤエコサンノゴキンシンシャデスカ。警察からそんな電話がかかってきたとき、咄嗟に母が死んだのだと悟った私は、冷たい娘だろうか。たまたま電話をしてきたマッシモに話をすると、僕も一緒に行くと言った。母の死はまったく悲しくないから大丈夫だと断ると、それでも行きたいんだと主張する。どんなに無価値な人間でも人がひとりいなくなるということは、結構煩雑な手続きがあれこれ必要で、結果的にマッシモがいてくれたのは非常に心強かった。そして公営住宅を引き払わなくてはならない段階になったら、オガサーラがトラックで訪れてくれた。解体・廃棄は本職だからと笑いながら家財を詰め込み、そのまま東京へとんぼ返りに帰っていった。
ガランと何もなくなった家の真ん中に座り込み、少し泣いた。悲しくはないはずだったのに、自分に繋がるものが何もなくなってしまったのだと改めて思った。母の骨を寺に預け、抹消された戸籍でいろいろな手続きを終えて、本当に自分には係累が何一つないのだと確認した。その空っぽさが心細かった。ナニモナイナニモナイ、オマエハヒトリダと、戸籍謄本に言い聞かされているみたいだ。
大学のある都市に帰る日に、マッシモが迎えに来た。あのアバズレの娘がどこかに行くよと冷ややかな隣近所になんて挨拶するわけもなく、見送りもなく故郷を出る日に、マッシモは晴れやかな顔で玄関に立った。
「村井先生に連絡しておいた。図書館におられるから、一緒に会いに行こう」
私が唯一懐かしむ場所が郷土史研究会だと、マッシモは知っている。美しい過去の中にマッシモがいたことに、心から感謝した。
「また冷めちまった。もう一杯淹れるわ」
オガサーラがケトルを火にかける。私はのろのろと、カウンターチェアに腰かけた。
身体で慰めあえれば良いのに。そうすれば少なくとも、一時は紛れるだろう。けれどもオガサーラは、私相手にそれはできない。だから私たちは隣り合わせに座り、黙ってコーヒーを啜ってチェリーパイを食べる。
「おいしい」
「当たり前だ、これをメシのタネにしようってんだから」
「まさかオガサーラが、コーヒーを売りたいなんて言い出すとは思わなかった」
「俺も思わなかった。どこでどう転がるか、わかんねえな」
「マッシモも不思議がってた。一番そういうの、構わない質だと思ってたのに」
「イナカの農家の次男坊だからな。どんぶり飯食らうのが男だって言われて育って、少しでも繊細なことをすれば女みたいだって言われて。あのころ、女みたいだって言葉に怯えて必死だったから、余裕なんてなかったさ」
「コーヒーを美味しく淹れられる男なんて、最高にかっこいいのに」
やっとオガサーラは、片頬だけ笑った。
「俺さ、こっちに出てきてはじめて、まともなコーヒー飲んだんだわ。それまでコーヒーっていえばネスカフェのインスタントで、あれはあれで旨いんだけど、ちゃんと落としたコーヒーって別の飲み物なんだって思った。そんで連れてってくれた先輩が、もっと旨いコーヒーが飲めるところがあるって教えてくれたの。休みの日にひとりでキョロキョロしながら店に入ったら、店の中の香りから違ってた。帰りにスーパーで一式買って帰ったんだけど、全然同じようにならない。どこが違うんだろうって休みのたびにコーヒー飲みに行って」
そのころ、私は忙しいながらも充実した学生生活を送っていた。高校のようにクラスは一纏めでなく、年齢も生活環境も入学した目的も違う人たちの中では、私はだらしない女に放置されて育った娘ではなく、ただの学生だ。新聞販売所の寮は、それぞれの事情で自立しなくてはならない学生で、余計な詮索はタブーだった。とても自由で快適で、冬の寒い朝やひどい雨の辛さを補って余りある日々。
ちょうど当時急速に広がったPHSという携帯電話で私たちの連絡は簡単になったけれど、実際のところ時間帯の合わない三人のやりとりは、密にはならなかった。夜の九時には床についてしまう私と、主に夜にアルバイトをするマッシモ、そして現場によってバラバラに動くオガサーラ。だから私とマッシモが大学に通っていた四年間に顔を合わせたのは、一年に一度がせいぜいだ。そうしているうちに、高校で育んだ友情など離散してしまうのだろうと思っていた。顔を合わせても話題は合わず、懐かしさを語るだけの関係ならば、そのうちこれ自体が懐かしい友情になってしまうのだと。
急展開したのは、卒業直前の私の母親の死だった。酔って路上で凍死したときには、男と別れて公営住宅にひとりで住まっていたらしい。私の知っていたスナックとは別のスナックに勤め、あんな田舎で何人もの男と関係を持ち、それなりの悪名を広めて死んだ。ユウキヤエコサンノゴキンシンシャデスカ。警察からそんな電話がかかってきたとき、咄嗟に母が死んだのだと悟った私は、冷たい娘だろうか。たまたま電話をしてきたマッシモに話をすると、僕も一緒に行くと言った。母の死はまったく悲しくないから大丈夫だと断ると、それでも行きたいんだと主張する。どんなに無価値な人間でも人がひとりいなくなるということは、結構煩雑な手続きがあれこれ必要で、結果的にマッシモがいてくれたのは非常に心強かった。そして公営住宅を引き払わなくてはならない段階になったら、オガサーラがトラックで訪れてくれた。解体・廃棄は本職だからと笑いながら家財を詰め込み、そのまま東京へとんぼ返りに帰っていった。
ガランと何もなくなった家の真ん中に座り込み、少し泣いた。悲しくはないはずだったのに、自分に繋がるものが何もなくなってしまったのだと改めて思った。母の骨を寺に預け、抹消された戸籍でいろいろな手続きを終えて、本当に自分には係累が何一つないのだと確認した。その空っぽさが心細かった。ナニモナイナニモナイ、オマエハヒトリダと、戸籍謄本に言い聞かされているみたいだ。
大学のある都市に帰る日に、マッシモが迎えに来た。あのアバズレの娘がどこかに行くよと冷ややかな隣近所になんて挨拶するわけもなく、見送りもなく故郷を出る日に、マッシモは晴れやかな顔で玄関に立った。
「村井先生に連絡しておいた。図書館におられるから、一緒に会いに行こう」
私が唯一懐かしむ場所が郷土史研究会だと、マッシモは知っている。美しい過去の中にマッシモがいたことに、心から感謝した。
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