花つける堤に座りて

蒲公英

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花つける堤に座りて

新生活-1

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 うつくしき川は流れたり
 そのほとりに我は住みぬ
 春は春、なつはなつの
 花つける堤に座りて
 こまやけき本のなさけと愛とを知りぬ
 いまもその川ながれ
 美しき微風とともに
 蒼き波たたへたり 

 ― 室生犀星/犀川 ―

 犀川という川がどこにあるのか、私は知らない。室生犀星という人が、どんな人なのかも知らない。小学校の頃、担任の先生が故郷の話を自慢げにした時に、誰も聞いていないのに暗誦した詩だから。
 だから、私の『花つける堤』はここでいい。自分の家を覚えるために毎日散歩に出て、昨日ここを見つけた。川沿いの道は今、桜がたくさん咲いているし、足元にはカラスノエンドウやヒメオドリコソウが咲いている。
 ここも充分、花つける堤だ。

 引っ越してから一週間目の今日、私はまだ家にいる人以外の誰とも話していない。家にいるのは、母と母の夫。いつか、私の父だと言える日が来るのだろうか。
 明日から、中学生になる。

 「手毬、用意できた?」
 鏡を覗きこみながら、母が聞く。もう、用意ならとうにできている。
 制服の肩も胸もダボダボで、せっかくのチェックのスカートは膝よりも長い。すぐに小さくなっちゃうんだから、と採寸の人も言っていたけれど、あまりにも野暮ったい。スクールバッグは学校指定。
 引っ越す前の友達も、今日は入学式の筈だ。みんなと同じ中学校に入って、入学式の帰りに制服でプリクラ撮りたかった。

 学期の途中で転校するのは大変だから、と私の中学校入学を機会に母は再婚をした。転校どころか、姓まで変わった私はまだ、新しい呼び名で呼ばれたことがない。親戚のおばちゃんたちは、お父さんが出来て嬉しいでしょうと言うけれど、お父さんがいる生活を知らない私は、お父さんがいなくて寂しいって感じがわからない。
 だから、母の結婚は他人が生活に入ってきたようにしか思えない。知らない男の人。

 私のことを「てまちゃん」なんて呼ぶ。手間かけてごめんね。

 入学式の後、教室で教科書など配布されてから、一度目のホームルームの時間があった。
「名前と出身小学校、それから軽く趣味などの紹介をしてください」
学校の先生って、無神経だ。私の出身小学校なんて、この学校で知っている人なんかいない。教室の中は既に、同じ小学校同士の固まりができている。

 私の番が回ってきた。
「前島手毬、**市の***小学校から来ました。趣味は読書です」
良かった、名字を間違いなく言えて。初めの日から、自分の名前を間違えたヤツなんて記憶されるのは、まっぴら。

 ホームルームが終わったら、隣の席のコが声をかけてきた。
「お引っ越ししたばっかり? どこに住んでるの?」
 色黒の顔に、真っ黒な大きな目が柴犬に似てる。私が町名と番地を告げると、家が近いと嬉しそうに言った。
「今日、一緒に帰らない? あたしの他にも家が近い人、いるから」
 人懐っこくて世話好き、学級委員タイプなのかな。明るい調子に安心して、一緒に帰る約束をした。話をする相手が、一人できた。柴犬に似ている彼女の名は、長橋聡美という。

 家が近所の何人かで一緒に帰った。途中から彼女たちは私の知らない話で盛り上がり、私は曖昧に頷いているだけになった。私と思い出を共有している人たちも、同じように盛り上がっているのだろう。私ひとりが、どちらにも入れない。
「前島さんって、なんて呼べばいい?」
 いきなり、話を振らないでほしい。しかも答えにくい。今まで前の名字からついたニックネームだったんだもの。
「手毬でいい」
「手毬寿司の手毬?」
 そんな名前のお料理があったっけ。

 私の名前は、写真でしか知らない父がつけたらしい。春に咲く小さな白い花、小手毬の手毬だ。私に生を授けた父は、その名前を考えた後、2年も生きてはいなかった。小さな子供を連れて毎日病院に通うのは大変だった、と母はある時ポツリと言った。手毬のパパは、手毬の写真をベッドからいつも見える所に置いていた、と。
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