最後の女

蒲公英

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しゅうさん、おかえりー」
 帰宅した夫を迎えるために、歩く距離は六歩というところか。エプロンから直接脚が出ているので、前から見るとエロチックだが、茜はショートパンツが好きである。脚の線は自慢だし、スカートは動き難い。安普請のアパートを精一杯新婚仕様にしているのは、まだ二十歳前のオトメゴコロだ。そこに鬼瓦と評される秀一が座り、煙突のように煙草をふかしているとしても。
「アジフライ、今揚げる。お風呂も沸かしてあるから、先に入ってきて」
「……あとで、いいや」
「だめ。飲んだら眠くなっちゃって、シャワーだけで済まそうとするんでしょ?」
 年齢半分以下の小娘が、腰に手を当てて秀一を見下ろす。うるさいのと可愛いのが、半々だ。

 夫婦の年齢差は、二十三歳。
 はじめてそんな関係になった時、茜は十八で秀一は四十一だった。母子家庭で育った茜を嫁に貰うのは、そんなに難しいことではなかった。
「歳が近いとか安定収入があるとかって、結婚の保証にはなんないもんね。大事にしてくれるんなら、いいわ」
 自身も離婚経験者の母親は、秀一と同じ年齢だ。茜の妹がまだ学生なので、そちらを仕上げることに必死なのかも知れない。茜自身も奨学金を返済しながらの結婚で、これから子供を作ることを考えれば、経済的にはあまり楽じゃない。却って秀一の両親が(煩わしいのか有難いのか)田舎に戻れば家を建ててやるなんて言いだして、そっちじゃ就職先がないと説き伏せるのに大変だったくらいである。
 小さな会社で社内恋愛だったが故に、茜は結婚と同時に退職して、ファーストフード店でアルバイトをはじめた。履歴書を提出しているし、明るくオープンな茜のことだから、アルバイト仲間は茜が既婚者であることを知っている。だからどんなに可愛い顔をしていようが、きれいな脚をしていようが、職場の飲み会なんかでもややこしい事態を持ち込みたがる男は、いない。ただし、名札に既婚者なんて記入があるわけではない。

「今日ねー、お客さんに、休みの日に見かけたって言われたの」
「顔なんて、よく覚えてんな」
 秀一自身、行きつけだった弁当屋の店員の顔なんて覚えていない。
「お父さんと腕組んで歩ってたねって、失礼しちゃう。主人ですって答えといた」
 食後のお茶を吹きそうになった。
「それ言ったの、男だろ」
「冗談が上手だねって笑うんだよ。冗談じゃないっての」
 その時の情景が、見える気がした。多分茜に目を留めているだろう男と、客としてしか相手していない茜の会話は、ちぐはぐだ。まさかこの若くて健康そうな娘が結婚しているなんて、相手は本気にしていないだろう。
「あんまり、良い顔して見せるなよ」
「やだ、秀さん妬いてる」
「……そうじゃない」
 若い男の考えることが秀一に理解できても、茜には見えないだけだ。高校を卒業して就職後、数ヶ月で秀一とできあがった茜は、学生時代の真似事の恋愛しか知らない。一度遭ったストーカーめいた相手は、秀一が追い散らした。男が女をどんな風に見るのか、どんな風に獲物を狩ろうとするのか、茜は見たことがないのだ。

「しゅう、さぁん……」
 布団の上で、甘い声がする。しなやかな背がしなり、長い脚が秀一に巻きつく。安普請のアパートで、物音を誤魔化すためのテレビだけがはしゃいでいる。
「あっ……んん……ん…」
 荒い息を抑えて耳に歯を立てると、茜の中は急激に狭くなる。あっあっと短い息が続き、それが嬌声に変わる前に唇で蓋をする。激しく腰を揺すりながら茜の爪を背に感じて、秀一の背筋にも快感が突き抜ける。茜の中で爆ぜながら、それを取り込もうと強く震えて包み込む熱い壁を感じるのだ。

 時々、申し訳ないなと思う。茜と似合いの歳の男なら、もっと好奇心と体力で、女を歓ばせることに腐心するだろう。秀一が平日にそんなことをすれば、翌日に響く。週末くらいはと思っても、週末になれば酒も飲みたいし、見たいテレビもある。茜のアルバイトが週末に入れば、前にはまったくしなかったとしても、掃除くらいは代わってやらなくては――
 茜からそれについて不満を訴えられたことは、今のところない。他を知らないことでもあるだろうが、他を覚えさせるつもりもないので、それは秀一の頭の中だけの問題だ。

「あのね、中継すごかったんだよー」
 茜が昼間見ていたらしい、芸能人カップルの結婚式の話をする。
「前がミニなのに後ろが長いドレスでね、それがエッチじゃなくて綺麗なの!それで、フラワーガールっていうの?天使みたいな小さい子がお花撒いて、長いベールを持つのも小さい子で」
 金に糸目をつけない結婚式で、さぞかしめかしこんだ美男美女だったのだろうと、秀一は思う。どうせ一日のことなのに、そこまで金をばらまいて……そんで、何年もしないうちにあっさり離婚しちまうんだ、ヤツらは。

 茜と秀一は、結婚式を挙げていない。結婚指輪も買っていない。秀一のアパートに、茜が身の回りのものを運び込んだだけだ。それでも生活は過不足なく満ち足りているし、資金繰りの目処がついたら少し小綺麗な場所に引っ越そうかなと思うだけだ。こつこつと溜め続けている(実は、若い頃に保険のおばちゃんに強引に契約させられた)個人年金で、定年退職したあとの食い扶持はどうにかなるだろう。それよりも、これから子供を持つのなら、茜が少しでも苦しくないように――先走った考え方をしてしまうのは、秀一が中年になったからだ。若いうちに結婚した時、こんなことは考えていなかった。

「でね、結婚指輪って石は入ってないの?」
「イシ?」
「うん。今日出てた結婚指輪は、なんかダイヤがぐるっとしてて、コメンテーターの人が下品だとかって」
「ふうん? 俺はわかんねえ」
 実際、秀一にはなんの興味もないのだ。自分自身は現場に出るから指輪なんてしたって、すぐに傷にしてしまうし、茜も普段のアクセサリーは小さなピアスと玩具みたいなネックレスだけだ。前の結婚の時に結婚指輪は買った記憶があるが、多分一年もしないうちに失くした。
 秀一の興味の無さに茜が口を噤んだ理由など、知る由もない。
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