最後の女

蒲公英

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 何も持っていないのは自分のほうだと、秀一は思う。他人より優れた経済力を持っているわけではなく、将来的に今以上の生活が望めるわけじゃない。手も口も不器用で、優しい言葉ひとつ出やしない。それなのに、最後に残るのは私なのだと茜は言った。そんな価値なんて、自分には見出せない男に。
 何か言わなくてはならない。言わなくてはならないが、自分の中に、その言葉が見つからない。どれほど感謝していても、口に出すと嘘くさくなる気がする。秀一が持つたったひとつの感謝の言葉は「ありがとう」だが、それすらも今は出てこない。隣に立つ母親に肘で促され、秀一は黙って頭を下げた。
「すみません、この通りの息子で。心根は悪くないと思うんですが」
 苦笑した秀一の母が、隣でフォローする。不惑を過ぎてもなお不器用なままの息子は、多分両親には歯痒いだろう。

「キスしないの? キス」
 聡子の陽気な声に、茜の顔がぱあっと赤くなり、その顔を見て秀一は慌てた。
「するか、バカ! おまえも赤くなるんじゃねえ! 何考えてんだ!」
 身内の前でベタベタするっていうのは、秀一には考えられないことである。
「そんなに照れなくたっていいじゃなーい。結婚式アルバムに、入れておきなさいよ」
「俺の写真なんか、入れなくていい! 茜だけ撮っとけ!」
 結婚式の写真が花嫁だけなんて、無茶である。
「兄さんのやに下がった顔、しっかり残しておかないとね」
「にやけてねえぞ、俺は」
 自覚はないので思い切りよく言い切るが、それは生暖かい表情で迎えられた。
「まあまあ。茜ちゃん、こんなに可愛いんだものねえ。秀一が見蕩れるのも……」
 母親のフォローに、却ってどっちを向いて良いかわからなくなる。見蕩れてたか?

 家族写真とふたりだけの写真を撮るからと、テーブルがガタガタと寄せられる。秀一も店員を手伝おうとして、慌てて止められた。
「タキシード着て、そういうことしないの! ブトニアが潰れたら困るから!」
「ブトニアって何だ? この花か? 外しときゃ……」
「終わるまで絶対に外しちゃだめ。それって求婚をお受けしましたって、ブーケから一輪もらった証だから」
 意味はわからないが、とりあえず持ち上げようとしたテーブルから手を離す。秀一から見れば華奢な店員の動きは、まだるっこしくて仕方ない。大体、この慣れない服を脱いでしまいたい。
 それにしても、と茜をまた盗み見る。結い上げた髪の下の細い首から続くなだらかな肩のラインと、膨らんだスカートの上の娘らしい細い腰。その下の身体は知っているのに、まるで知らない女みたいだ。ぼんやりと見ていたら、ふいに振り向いた茜と目が合った。
「えっち」
「なんだそりゃ!」
「さっきから、秀さんの視線がやらしいような気がする」
 絶句した秀一に、身内の笑いが湧いた。

 黒いタキシードとアスコットタイ、胸には花の花婿だが、その上に乗っかっているのは鬼瓦である。集合写真もふたりだけの写真も、どうにもちぐはぐな新夫婦だ。
「秀さん、ちょっとこっち向いてみて」
 茜がポケットチーフを直してやったとき、店員はすかさずシャッターを切った。
「ああ、今のは良いショットが撮れました。とても初々しいご夫婦の誕生って感じで」
 茜ははにかんだ顔をしたが、秀一はその角度を知っている。絶妙に自分の斜め後ろからのアングルで、顔が写っているのは茜だけだ。
 やっぱり結婚しきってのは、男のための儀式じゃないんだな。そんな風に思いながら、それをホームページに使うことを承諾した。

 一通り終わってドレスを脱ぎ、化粧を落とした茜は大きく深呼吸した。家族だけで気楽だったのは確かだが、やはり緊張はしていたようだ。手早く普段の化粧をして、着てきたワンピースに着替える。少々フォーマルに見える服装は、母が買ってくれたものである。
 忘れないよ、一生。みんな揃ってお祝いしてくれて、喜んでくれたんだって。

 タキシードを脱いでタイを毟り取った秀一が一番先にしたのは、煙草に火をつけることだった。ドレスシャツ一枚で、下半身は下着のままである。家族だけだというのに抱いていた気恥ずかしさは、どうも服装のためだったらしい。待たせている家族と、お疲れさんでお茶を飲まなくてはならないと、ぐったりする。
 あんな綺麗な女が、自分の未来に添ってくれると言う。せめて死ぬまでには、感謝の言葉を口に出したいと思う。

 出席者を駅まで送り、秀一と茜は車に乗り込んだ。
「疲れたか?」
「ううん、嬉しかったもん」
 お互いに無口なのは、満ち足りているからだ。無駄な感想を言い合うよりも、ただ余韻に浸っていたい。
「お母さんから、行きなさいって渡された」
 茜が出したのは、都心のホテルの宿泊プランだ。
「新婚旅行の代わりに遊んできなさいって、昨夜もらったの。妹が羨ましがってた」
「申し訳ないな。お礼しなくちゃならん」
「うん。でも、秀さんのおうちにもお礼したいな」
 共有するのは財布だけじゃなくて、積み重ねる記憶になっていくのだ。
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