薔薇は暁に香る

蒲公英

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 ノキエが起き出してくる前に、ストーブの火を熾した。これからのサウビの主張に、ノキエが怒り出さない保証はない。一晩考えて、サウビなりに考え抜いて、正しくても正しくなくても結論はこれしかない。
 庭に出て、葉を広げはじめた薔薇の木を見ていると、ノキエが玄関から出てきた。慌てた顔をしている。
「そこにいたのか」
 サウビを見つけ、あからさまに安堵した顔を見せた。
「母のような女を救った気になって、また放り出そうとしている」
 サウビに向かって歩を進めるノキエに、サウビは薔薇の木を指差した。
「見て。あなたがお母さまのために植えた薔薇です。こんなに綺麗な葉をつけて、きっと初夏には大輪の花が咲くでしょう」
 サウビの横に立ったノキエが、一緒に薔薇の木を見る。
「風の中にお母さまの声がするなら、この花もきっと見えるでしょう。毎年ひっそりと咲いていた花を、風の中で見ていたかも知れない」
 今、言いたいことを伝えなくてはならない。この先、機会は訪れないかも知れない。

「アマベキに会いに行くのならば、サウビが近いうちに行くとお伝えください。住まう場所や仕事の内容は、向こうで考えてくれるでしょう」
 震えそうになる声を宥め、サウビは葉の先だけを見ていた。
「草原の村を離れるのは、とても辛いことです。けれど考えてみれば、ここに来たことすら私の意思ではなかった。与えられて満足したものを、手放したくなかっただけです」
 だから自分の中が空っぽなのだと、一晩かけて理解したのだ。同時に、そこに入り込もうとしている違う感情。怖いのは、バザールにはノキエがいないからだ。酷い目にあったとき、傷つけられたときに、助けてくれるはずのノキエがいない。ノキエの陰に隠れるのではなく、自分で立ち向かわなくてはならない。ツゲヌイに嫁ぐまではできていたことが、できなくなってしまっているのだ。それはノキエに庇われることが、サウビの中で当然になってしまっているから。
「行くのか」
「ノキエ、あなたが望んだことです。私はひとつ、学んだことがあります。本当に助けが欲しいときは、助けてくれと声を上げること。自分を殺したくなるほど耐えても、誰も幸福は得られない。けれど不必要なほど助けを求めれば、自分が自分でなくなってしまう。私は今度、その兼ね合いを学びに行くのです」
 上手く笑えているかどうか自信はなくとも、伝えたいことを言葉にできた気がした。唇をギュッと閉めたノキエが、頷いてくれる。その表情に、サウビは勇気を得た。

 怒らせてしまうかも知れない。それとも悲しむのか。この考えは間違っているだろうかと激しく揺れながら、サウビはノキエの顔を見つめた。
「お父さまに、会いに行ってください」
 言葉の意味がわからぬと言うように、ノキエがサウビの瞳を覗く。
「これは私からのお願いですから、聞き入れる必要はありません。けれど、私はノキエに会いに行って欲しいのです」
「何故……?」
 まだ意味がわかりかねるといった表情で、ノキエが質問する。サウビの憶測は憶測でしかないが、これがノキエに言うことのできる精一杯だと思った。
「会っても会わなくても、あなたは苦しむのでしょう? それならばきっと、絆を惜しんで悲しんだほうが」
「絆なんてない。あいつをこの手で殺したかった」
 ノキエは吼えた。けれども瞳に怒りはない。大丈夫だと自分を励まし、怯えそうになる自分を叱りつけて、サウビは続けた。
「でもあなたは、殺さなかった。どこにおられるのか私は存じませんが、消息が掴めるところに置いているのですね」

 言い負かすつもりはなく、サウビなりにノキエを思いやった言葉だ。秋の終わりから春のはじまりまでの短い期間で、他人から自分への想いの籠った言葉を、ノキエが否定した場面は見たことがない。その一点にだけ望みをかけ、サウビは続けた。
「お父さまを、憎むと同じ分量で愛しておられるのでしょう? だから苦しいのでしょう? 無関心で無慈悲になれるのなら、苦しみませんもの。私は今ツゲヌイが死んでも、家の裏に鼠が死んでいた程度にしか感じません。だから」
 一息入れて、続けた。ノキエの瞳は静かなままだ。
「憎しみを募らせても、愛が溢れたとしても、死んでしまうんです。その感情のどちらを手放しても、亡くなる人はあなたを傷つけません。自分で決めることのできる、最後の機会なのですよ」
 言い終わったときには、サウビの目からは涙が流れていた。
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