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23.血と涙
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千夏の部屋は五階にある。階段もあるにはあるが、移動は専らエレベーターを使っている。
誰かが使った後のようで、エレベーターは五階に来ていたから、そのまま乗りこんで一階へ降りた。
晃輝の車はエレベーターから程近い所に停めてある。ピピッという音に紛れてドアロックが解除される音がした。
「ここまででいいよ。悪かったな」
わしっと千夏の前髪をくしゃくしゃにしてから晃輝がエレベーターを降りる。
千夏は、気づけばエレベーターを降りていて、晃輝のジャケットの裾を握りしめていた。
ハッと我にかえって、いったい何をしているんだと赤くなる。
こんなことするつもりじゃなかったのに、羞恥で顔があげられなかった。
「あの、今日は本当にありがとう。すごく助かった」
必死に模索して紡いだ言葉は言い淀んでしどろもどろとなってしまったけれど、嘘は言っていない。
千夏一人だったら課題はいつまで経っても終えられなかっただろう。
面と向かっては言えないけれど言いたかったことだ。気持ちが少しでも伝わってくれればいい。
晃輝は何も言わない。動いて、振り返ることもしない。
そのことにどうしても涙が滲んだ。
引き止めてごめんと手を離してエレベーターの中に逃げ込む。
扉を閉めてしまえば一人きりになれる。叩くようにボタンを押せば、間もなくアナウンス音声が流れて、ゆっくりと扉が閉まっていく音がした。
あと数秒もしないうちに箱は完全な密室になって、上へと吊られていくだろう。
水気を帯びた目元を袖口で押さえてその時を待っていると、ガッと歪な音がして、確認するよりも前に腕を掴まれた。
驚く暇もなく引きずり出されて、エレベーターから降ろされる。
背後で扉の閉まる音がした。
「晃、輝……さん…………?」
気づけば千夏は晃輝の腕の中にいた。抱きしめられて、晃輝の顔が首筋に埋まっている。
晃輝が漏らした切ない吐息に、千夏の体が頼りなく震えた。
「……なんであのまま帰らなかったんだ」
ぼそぼそと吐きだされた声は低い。何かに耐えているような固い声に、千夏の心には一気に不安が広がった。
「怒ってるの……?」
「怒ってねぇよ。苛立ってはいるけどな」
それってどう違うの、と思ったけれど口には出さない。言わないほうがいい気がした。
おとなしく晃輝の腕の中で反応を待つ。晃輝はまた溜息を吐いた。
鼻先を髪に埋めて匂いを嗅がれる。嫌だと体を捩れば、より強く抱きしめられて、それさえもできなくなった。
「────ごめん」
やけに耳に残った晃輝の言葉。理解して、聞き返すよりも早く、固い何かが首筋に押し当てられた。
皮膚を食い破られて、滲んだ血を音をたてて啜られる。時折這わされる熱い舌に体の熱が高まって、しかし水音が響くたびに千夏の心は冷えていった。
(ばかだなぁ、私………)
わかっていたはずなのに、心が悲鳴を上げる。痛い。痛くて、辛い。
なにが“花嫁”だ。
千夏は最初にそう言いだした見も知らぬ故人を罵った。
この関係は、そんな綺麗なものじゃない。捕食者とその獲物、ただそれだけだ。血を求めるものと、それを提供するものという、心など無い関係。
ただの餌に、どうして心を寄せる必要があるというのか。
一頻り啜って満足したのか、晃輝がゆっくりと顔を離した。
交じり合う視線。
晃輝の唇は血で赤く濡れていて、紫であるはずの瞳は今では唇と同じ色に染まっている。
──その中で揺らぐ、押し殺そうとしている欲の光。
ゆっくりと迫ってくるそれを見つめながら、千夏は拒むことをやめた。
重ねられた唇から熱が伝わる。そろりと差し込まれた舌は血の味がした。
この人が、もっと酷い人だったらよかったのに。
そう思わないではいられない。
泣きたいと、そう思うのに。どうしても涙は出なかった。
誰かが使った後のようで、エレベーターは五階に来ていたから、そのまま乗りこんで一階へ降りた。
晃輝の車はエレベーターから程近い所に停めてある。ピピッという音に紛れてドアロックが解除される音がした。
「ここまででいいよ。悪かったな」
わしっと千夏の前髪をくしゃくしゃにしてから晃輝がエレベーターを降りる。
千夏は、気づけばエレベーターを降りていて、晃輝のジャケットの裾を握りしめていた。
ハッと我にかえって、いったい何をしているんだと赤くなる。
こんなことするつもりじゃなかったのに、羞恥で顔があげられなかった。
「あの、今日は本当にありがとう。すごく助かった」
必死に模索して紡いだ言葉は言い淀んでしどろもどろとなってしまったけれど、嘘は言っていない。
千夏一人だったら課題はいつまで経っても終えられなかっただろう。
面と向かっては言えないけれど言いたかったことだ。気持ちが少しでも伝わってくれればいい。
晃輝は何も言わない。動いて、振り返ることもしない。
そのことにどうしても涙が滲んだ。
引き止めてごめんと手を離してエレベーターの中に逃げ込む。
扉を閉めてしまえば一人きりになれる。叩くようにボタンを押せば、間もなくアナウンス音声が流れて、ゆっくりと扉が閉まっていく音がした。
あと数秒もしないうちに箱は完全な密室になって、上へと吊られていくだろう。
水気を帯びた目元を袖口で押さえてその時を待っていると、ガッと歪な音がして、確認するよりも前に腕を掴まれた。
驚く暇もなく引きずり出されて、エレベーターから降ろされる。
背後で扉の閉まる音がした。
「晃、輝……さん…………?」
気づけば千夏は晃輝の腕の中にいた。抱きしめられて、晃輝の顔が首筋に埋まっている。
晃輝が漏らした切ない吐息に、千夏の体が頼りなく震えた。
「……なんであのまま帰らなかったんだ」
ぼそぼそと吐きだされた声は低い。何かに耐えているような固い声に、千夏の心には一気に不安が広がった。
「怒ってるの……?」
「怒ってねぇよ。苛立ってはいるけどな」
それってどう違うの、と思ったけれど口には出さない。言わないほうがいい気がした。
おとなしく晃輝の腕の中で反応を待つ。晃輝はまた溜息を吐いた。
鼻先を髪に埋めて匂いを嗅がれる。嫌だと体を捩れば、より強く抱きしめられて、それさえもできなくなった。
「────ごめん」
やけに耳に残った晃輝の言葉。理解して、聞き返すよりも早く、固い何かが首筋に押し当てられた。
皮膚を食い破られて、滲んだ血を音をたてて啜られる。時折這わされる熱い舌に体の熱が高まって、しかし水音が響くたびに千夏の心は冷えていった。
(ばかだなぁ、私………)
わかっていたはずなのに、心が悲鳴を上げる。痛い。痛くて、辛い。
なにが“花嫁”だ。
千夏は最初にそう言いだした見も知らぬ故人を罵った。
この関係は、そんな綺麗なものじゃない。捕食者とその獲物、ただそれだけだ。血を求めるものと、それを提供するものという、心など無い関係。
ただの餌に、どうして心を寄せる必要があるというのか。
一頻り啜って満足したのか、晃輝がゆっくりと顔を離した。
交じり合う視線。
晃輝の唇は血で赤く濡れていて、紫であるはずの瞳は今では唇と同じ色に染まっている。
──その中で揺らぐ、押し殺そうとしている欲の光。
ゆっくりと迫ってくるそれを見つめながら、千夏は拒むことをやめた。
重ねられた唇から熱が伝わる。そろりと差し込まれた舌は血の味がした。
この人が、もっと酷い人だったらよかったのに。
そう思わないではいられない。
泣きたいと、そう思うのに。どうしても涙は出なかった。
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