闇に蠢く・完全版

ノムラユーリ

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第1部 第3章・訪問者の影

第3回

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  3
 
 放課後。ぼんやりと雨空を見上げていた奈央は、生温い風と未だ湿ったままの靴に途方に暮れつつ、深く長い溜息を吐いた。

 これから小母さんのお見舞いに行かなければならないというのに、どういうわけか足が動かない。まるで地に根が生えてしまったかのようだ。自分の足が自分のものでなくなったかのような違和感に、けれど奈央は抗う気にすらなれなかった。昇降口に佇んだまま、次々と帰宅していく他の生徒たちを見送る。

 そんな奈央を時折振り返って見る者も居たが、しかしすぐに顔を戻し去って行った。

 やがて生徒たちの姿も疎らになってきた頃、
「相原さん!」
 後ろから呼ぶ声がして、奈央は思わず体をビクリと震わせた。恐る恐る振り向けば、そこには宮野首の姿があった。いつも一緒に居るはずの矢野はどこに居るのだろう、珍しく一人のようだ。

「……宮野首さん、なに?」
 奈央は力なく尋ねる。

 宮野首は先日のように、おどおどした様子で目を合わせる事なく口を開いた。

「……あの家に、近づいたんですね」

 それはどこか、奈央を責めているかのような口調だった。

 確かに近づきはした。けれど、ただその家の前を通過しただけだ。近づいたのとは少し違う気がするけれども。

「……だから?」

 奈央は意図せず、棘のある返事をしていた。わざとでは無かった。ただとにかく、自分の中の何かがざわざわして仕方がなかったのだ。

 それに対して、宮野首は一瞬ひるんだ様子だった。あちらこちらに目を泳がせながら、低い声で宮野首は言う。

「……目をつけられました」

 奈央は訝しむように、眉間にしわを寄せた。

「……何に?」

 けれど、宮野首は困ったように口をもごもごさせるばかりだった。口を開きかけては閉じ、閉じては開こうとして。

 それを見ていると、次第に苛ついて仕方がなかった。奈央はしびれを切らし、思わず叫ぶように言った。

「言いたい事があるんならハッキリ言いなさいよっ!」

 その途端、宮野首は跳ね上がるように後退った。より一層体を縮こまらせながら、「ごめんなさい、ごめんなさい」と呟くように奈央を見上げてくる。

 その異様な姿を、奈央は不気味に感じた。今目の前に居るのは本当に宮野首なのだろうか、と眉間にしわを寄せる。いつも自分の席の前で矢野と会話している宮野首とはまるで違う印象だし、それに言葉遣いもどこかおかしい。

「あなたいったい……誰なの?」

 思わず奈央は問うていた。

 瞬間、宮野首は眼を丸くして奈央から視線を逸らす。二、三歩さらに後退り、
「……あちこちに奴らが居ます」と宮野首の姿をした何かは消え入るような声で、「気をつけてください」

 言うが早いか、それは奈央の脇を擦り抜けるようにして駆け出すと、雨の中を傘もささずに飛び出していった。

 奈央はただ、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。戸惑い、得体の知れない何かに関わっている己に戦慄した。自分の身に今、何が起きているのか分からず、けれど何らかの危機が差し迫っているのは疑いようもなかった。

 響紀が姿を消してからのこの数日、奈央の周りで起こる出来事は明らかに常軌を逸している。まるで何も見えない闇の中に突き落とされてしまったかのようで、その闇の中を当てもなく彷徨う自分の姿が思い浮かんだ。

 助けを求めて彷徨いながら、しかし何者から助けられたいのかすら奈央には分からなかった。闇の中を蠢く何かは、確実に奈央の体に手を伸ばそうとしている。その身体を辱め、犯し、支配しようとしている。

 何の為に? 何故、私なの?

 そんな疑問が頭の中を駆け巡り、けれど答えなど出てくるはずもなかった。

 奈央はぎゅっと自分の身体を強く抱き締めた。

 ……自分の身は、自分で守らないと。

 そうは思うものの、しかし奈央の心はすでに限界に達しようとしていた。何をすれば良いのか分からない。どうすればアレらから逃れられるのか分からない。人の居る場所なら大丈夫かと思ったが、そんな事お構いなしにアレらはやってきた。朝のように金縛りにあってしまえば、もはや手も足も出ない。

 そこでふと、奈央はあの時聞こえた犬の鳴き声に思い至った。アレらはその鳴き声が響いた途端、まるで逃げるように去って行った。あの犬の鳴き声は、いったい何だったのだろうか? それが分かれば、あるいはアレらから逃れる方法が解るのではないだろうか。

 その時だった。

「相原さん」

 再び声を掛けられ、奈央は思わず「ひゃっ」と声を裏返した。今度は誰、と振り向けば、そこには木村が立っていた。傘を片手に、朝と同じように頬を赤く染めている。奈央と目が合い、けれどすぐに視線を逸らす。それを見て、奈央はほっと胸をなで下ろした。間違いない、本物だ。奈央は確信した。

「どうしたの? 帰らないの?」木村は言って、奈央の隣に歩み寄った。ん、と眉を寄せ、首を傾げる。「…….何か臭わない?」

 え、と奈央はどきりとした。思わず自身の左袖を上げて匂いを嗅ぐ。その汗の臭いに自ら眉間に皺を寄せた。

 そう言えば、昨日からお風呂に入っていない。入りたくても怖くて入れないまま、ずっと同じ下着を着けたままだということに、今更のように奈央は気付いた。途端、奈央の身体は熱を帯びた。耳の先まで赤くなっていくのを感じ、あまりの恥ずかしさに木村から一歩下がる。

「ごめん、昨日、お風呂入ってないから……」

「……え? ああ、違うよ!」と木村は慌てたように手を振る。「なんかこう、犬か何かの臭いだよ。何だろう。さっきまで何か居たのかなぁ。」

 その言葉に、奈央はつい今しがた宮野首が去って行った方に顔を向けた。犬、という単語が朝の犬の鳴き声と重なる。まさかね、と思いながら奈央は木村に顔を戻した。

 木村と視線が交わり、今朝の出来事が思い起こされ気恥ずかしさが込み上げてきた。

 木村もわざとらしく視線を逸らしながら、
「あ……えっと……一緒に……帰らない? ほら、僕もバスで帰らなきゃならないし、バスターミナルまで、さ……」

「あ、うん……」

 奈央は小さく頷き、二人は傘をさすと並んで歩き始めた。不思議な事に、先ほどと打って変わって足が軽かった。





 降りしきる雨は容赦なく傘を叩きつけ、肩を並べて歩む二人はしかし、ただ前を見てひたすらに足を前に進めるだけだった。奈央は何か話題をと思ったけれど、これと言って何を口にして良いのか分からず、もやもやした気持ちを抱いたまま小さく溜息を吐いた。

 あの姿の見えない何かの事や、先ほどの宮野首の姿をした誰かについて相談しようとも思ったけれど、そんな非現実な事を言って変に思われたくもない。これはやはり、自分だけで何とかしなければ。そんな事ばかり考えていた。

 しばらくの間二人は無言で歩いていたが、やがてそれに耐えられなくなったように、「あ、あのさ」と木村が口を開いた。

「……なに?」

 なるべく刺々しくならないように、柔らかくなるように、奈央は気を付けながら返事する。

「どうせなら、このまま図書館に行って、一緒にテスト勉強とか……どうかな?」

「……図書館で?」

 うん、と木村はうなずく。

「ほら、あそこ、中央図書館」木村は数百メートル先に見える屋根を指差しながら、「あそこには自習室があるでしょ? 良かったら、一緒に……」

 しかし奈央は、木村が最後まで言い終わらないうちからそれに答えた。

「ごめん、今日はちょっと……」

「え、あぁ……そうだよね」と木村は申し訳なさそうに、「急に言われても迷惑だよね。なんか、ごめん。相原さんの都合も聞かなくて……」

 そんな木村に、奈央は慌てて首を横に振った。

「ち、違うの! 迷惑だなんて思ってない。初めて誰かにそんなの誘われたから、嬉しいよ、凄く!」けれど、と奈央は溜息を吐き、「小母が昨日、骨折して入院しちゃって…… これから、そのお見舞いに行くところなの」

「え、大丈夫なの?」

 眉を寄せる木村に、奈央は頷く。

「そんなに酷くはないみたいなんだけど、私にとってお母さんみたいな人だから、心配で……」

「そっか、そうだね。心配だね……」と木村は肩を落とし、ふと何かに気づいたように、「あ、じゃあさ…… 僕も、それに着いて行ったらダメ……かな?」

「え?」

 奈央は首を傾げた。どうして木村くんがついてくる必要があるんだろう、と疑問に思っていると、それを察したのであろう木村は慌てたように弁解する。

「あぁ、ほら……! 相原さん、風邪引いててまだ調子が悪いでしょ? 何かあったら困るから、その……それに……」と木村は溜息を一つ吐き、「それに、僕はもう少し、相原さんと一緒に居たいんだ……」

 顔を真っ赤にさせながら言った木村に、奈央は目を見開きながら頬を朱に染めた。木村の気持ちを理解し、次いで自分の気持ちを確認する。

 いや、答えは最初から決まっていたような気さえした。いつから木村のことを意識していたか、それは奈央自身にも分からない。けれど、その気持ちは随分前から胸の内で芽生えていたような気がする。

 奈央は吐息と共に、小さく。

「……私も、もう少し、一緒に居たい……」

 それが全ての答えだった。

 他に言葉など必要なかった。

 二人は見つめ合い、気恥ずかしそうに笑った。

「……手、繋いでいい?」

 木村の差し出した左手に、奈央はそっと右手を差し出す。その手は暖かくて、柔らかくて。けれど、ぎゅっと握りしめられたその感触は、とても力強く奈央は感じた。

 二人は寄り添おうとして、ガッと互いの傘がぶつかり、思わず眼を見合わせて笑った。

 奈央は自分の傘を閉じ、木村の傘にその身を寄せた。互いに手を握り締めて肩を寄せ合い、歩き始める。

 今この時だけでも、奈央は全ての不安が拭い去られたような気がした。
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