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第2部 序章・奈央
第1回
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その少女を初めて目にしたのは、奈央が高校に通い始めてからしばらく経った、ある雨の日の事だった。
歩道を歩く者の姿はまばら、けれど皆傘をさして歩いており、そんな彼らにぶつからないよう気をつけながら、奈央は雨にずぶ濡れになりつつ帰宅を急いでいた。
午前中はまだ僅かに見えていた陽の光は昼過ぎ辺りから完全に姿を隠し、やがてしとしとと雨が降り始めた。学校の授業が全て終わった頃には本格的な雨となって地に降り注ぎ、その勢いは一時雷を伴った叩きつけるような激しい豪雨へと変わっていった。
しばらく奈央は下駄箱で雨が弱まるのを待っていたが、次々に傘をさしながら帰宅していく他の学生たちの後ろ姿を見送っていくうちに、いつの間にか一人ぽつんと取り残されている自分に気がついた。
ひっそりとした静かな脱靴場は蛍光灯の下であるにも拘わらず薄暗く、人気のない為にひどく寂しく、どこか不気味だった。期末テスト前ということもあって部活動をしている学生らの姿や声もなく、聞こえてくるのは雨の音と、遠くを走る自動車の走行音、あとは自身の吐く深いため息ぐらいのものだった。
こういう時に限ってバス代の持ち合わせもなかった。傘は職員室に行けば貸出用の傘が常備されているが、けれど帰りのバス代が無くては全行程を歩くしかない。歩いて帰れない距離ではないかもしれないが、恐らく二時間くらいは掛ってしまうだろう。それはそれで辛かった。ならばいっそ、濡れてでも自転車で帰った方が得策だろう、そう思ったのだ。
多少濡れてでもさっさと帰宅して一刻も早くお風呂に入りたい。それほど奈央の体を包む空気はねっとりと重く纏わり付き、汗と相まって余計に気持ちが悪かった。
やがてやや雨脚の弱まった頃、奈央は今だとばかりに駐輪場に駆け出した。あっという間に濡れそぼる制服に構わず自転車の鍵を外し、一気に校外に出る。なるべくマンホールの上は通らないように気をつけながら、奈央はいつもの道をややスピードを控えめにして自転車を走らせた。
時折濡れてつるつるになったタイルの道や段差にバランスを崩しながら、なんとか最大の難関である峠越えに差し掛かった。遠回りすれば時間はかかるが平坦な道で行けるが、なるべく早く帰りたい奈央はこの峠を一気に越えることを選んだのだ。
次第に雨脚は再び強まり、痛いほどの雨粒が奈央の体に降り注いだ。張り付いた衣服の気持ち悪さ、前髪の鬱陶しさに耐えながら、奈央は必死にペダルを漕ぐ。雨が目に入らないように薄っすらと目を開き、前方の登り坂を見据えた。
その時だった。降りしきる雨の中、真っ黒い傘を差した人影がこちらに向かって歩いてきていることに奈央は気づいたのだ。ぶつかることのないように、なるべく車道側に寄せて峠道を登る。
やがてその人影とすれ違う瞬間、奈央はその真っ黒い衣服に身を包んだ人物と一瞬、視線が交わった。
白く美しい肌。紅をさした形の良い唇。優しげな目元はとても涼やかで。歳はたぶん、奈央とそんなに変わらないくらいだろう。まだどこかあどけなさの残る、少女から大人の女性への過渡期を思わせる瑞々しさがそこにはあった。
そしてそれは本当に一瞬の出来事であったにも拘わらず、奈央はその少女が自分を見てにっこりと微笑んだような気がした。
そんな訳はない。そう思っただけ、気のせいに決まっている。
けれど、もし知り合いだったとしたら? 或いは私が覚えていないだけで、同じクラスの子だったりしたら……?
もしそうなのだとして、あとあと「あの時無視された。アイツは酷いやつだ」なんて陰口を叩かれたらきっと今後が面倒くさいことになり得る。
そう思った奈央はいったん自転車を止め、声を掛けるべきか否か迷いながら後ろを振り向き、
「――えっ?」
我が目を疑った。
そこにはすでに、少女の姿はどこにも見当たらなかったのである。
そんな、と奈央は戸惑うものの、けれど周囲にはそれなりに人家もあり、今の一瞬で家の中に入っていった可能性だって考えられた。現にすぐ右手側の斜面沿いには比較的新しいアパートと、それに続いて少し古びた感じの民家が二軒並んでおり、このうちのいずれかに入っていったのだとしたら消えたように見えることもあるだろう。
奈央は自分にそう言い聞かせるように再び前を向くと、ペダルを強く踏み込んだ。
その少女を初めて目にしたのは、奈央が高校に通い始めてからしばらく経った、ある雨の日の事だった。
歩道を歩く者の姿はまばら、けれど皆傘をさして歩いており、そんな彼らにぶつからないよう気をつけながら、奈央は雨にずぶ濡れになりつつ帰宅を急いでいた。
午前中はまだ僅かに見えていた陽の光は昼過ぎ辺りから完全に姿を隠し、やがてしとしとと雨が降り始めた。学校の授業が全て終わった頃には本格的な雨となって地に降り注ぎ、その勢いは一時雷を伴った叩きつけるような激しい豪雨へと変わっていった。
しばらく奈央は下駄箱で雨が弱まるのを待っていたが、次々に傘をさしながら帰宅していく他の学生たちの後ろ姿を見送っていくうちに、いつの間にか一人ぽつんと取り残されている自分に気がついた。
ひっそりとした静かな脱靴場は蛍光灯の下であるにも拘わらず薄暗く、人気のない為にひどく寂しく、どこか不気味だった。期末テスト前ということもあって部活動をしている学生らの姿や声もなく、聞こえてくるのは雨の音と、遠くを走る自動車の走行音、あとは自身の吐く深いため息ぐらいのものだった。
こういう時に限ってバス代の持ち合わせもなかった。傘は職員室に行けば貸出用の傘が常備されているが、けれど帰りのバス代が無くては全行程を歩くしかない。歩いて帰れない距離ではないかもしれないが、恐らく二時間くらいは掛ってしまうだろう。それはそれで辛かった。ならばいっそ、濡れてでも自転車で帰った方が得策だろう、そう思ったのだ。
多少濡れてでもさっさと帰宅して一刻も早くお風呂に入りたい。それほど奈央の体を包む空気はねっとりと重く纏わり付き、汗と相まって余計に気持ちが悪かった。
やがてやや雨脚の弱まった頃、奈央は今だとばかりに駐輪場に駆け出した。あっという間に濡れそぼる制服に構わず自転車の鍵を外し、一気に校外に出る。なるべくマンホールの上は通らないように気をつけながら、奈央はいつもの道をややスピードを控えめにして自転車を走らせた。
時折濡れてつるつるになったタイルの道や段差にバランスを崩しながら、なんとか最大の難関である峠越えに差し掛かった。遠回りすれば時間はかかるが平坦な道で行けるが、なるべく早く帰りたい奈央はこの峠を一気に越えることを選んだのだ。
次第に雨脚は再び強まり、痛いほどの雨粒が奈央の体に降り注いだ。張り付いた衣服の気持ち悪さ、前髪の鬱陶しさに耐えながら、奈央は必死にペダルを漕ぐ。雨が目に入らないように薄っすらと目を開き、前方の登り坂を見据えた。
その時だった。降りしきる雨の中、真っ黒い傘を差した人影がこちらに向かって歩いてきていることに奈央は気づいたのだ。ぶつかることのないように、なるべく車道側に寄せて峠道を登る。
やがてその人影とすれ違う瞬間、奈央はその真っ黒い衣服に身を包んだ人物と一瞬、視線が交わった。
白く美しい肌。紅をさした形の良い唇。優しげな目元はとても涼やかで。歳はたぶん、奈央とそんなに変わらないくらいだろう。まだどこかあどけなさの残る、少女から大人の女性への過渡期を思わせる瑞々しさがそこにはあった。
そしてそれは本当に一瞬の出来事であったにも拘わらず、奈央はその少女が自分を見てにっこりと微笑んだような気がした。
そんな訳はない。そう思っただけ、気のせいに決まっている。
けれど、もし知り合いだったとしたら? 或いは私が覚えていないだけで、同じクラスの子だったりしたら……?
もしそうなのだとして、あとあと「あの時無視された。アイツは酷いやつだ」なんて陰口を叩かれたらきっと今後が面倒くさいことになり得る。
そう思った奈央はいったん自転車を止め、声を掛けるべきか否か迷いながら後ろを振り向き、
「――えっ?」
我が目を疑った。
そこにはすでに、少女の姿はどこにも見当たらなかったのである。
そんな、と奈央は戸惑うものの、けれど周囲にはそれなりに人家もあり、今の一瞬で家の中に入っていった可能性だって考えられた。現にすぐ右手側の斜面沿いには比較的新しいアパートと、それに続いて少し古びた感じの民家が二軒並んでおり、このうちのいずれかに入っていったのだとしたら消えたように見えることもあるだろう。
奈央は自分にそう言い聞かせるように再び前を向くと、ペダルを強く踏み込んだ。
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