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第2部 序章・奈央
第10回
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10
翌朝。奈央は自宅を出ると、峠とは反対の方向へ自転車のハンドルを切った。出勤ラッシュの車や人たちとは逆走する形で隣町へ向かい、そこから道なりに大きい通りを抜けてUターンするように峠のある山を迂回して駅前を通過する。そこからはいつも通りの道程だったが、その時点ですでにいつもの倍は自転車を漕いでいるので全身から汗がにじみ出ていた。ただでさえ梅雨時とあってじめじめして気持ちが悪いというのに、そのうえ汗まで掻いてしまってはたまったものじゃない。念のためタオルと汗拭きシートを携帯しているので、学校に着いたらトイレにでも行って、まずは汗を拭かなければ。
思いながら、奈央は遅刻しないよう必死にペダルを漕いだ。
やがて息も切れ切れに学校に到着した奈央は、深い溜息とともに自転車から降りて駐輪場へ向かう。
その時だった。
「相原さん!」
すぐ後ろから声がして振り向くと、そこには木村大樹の姿があった。木村は満面の笑みを浮かべながら、自転車を引きつつ小走りで奈央の横に並ぶ。
「おはよう」
「あ、うん、おはよう……」
奈央は返事をしつつ、木村から僅かに距離を取るように離れて歩いた。これだけ汗を掻いているのだ。今はあまり近づいてほしくはなかった。
けれどそんなこととは露知らず、木村は気にするふうもなく、その僅かに開けた間を詰めてくる。奈央は思わず眉根を寄せ、もう一度僅かに――先ほどよりもう少し広く距離を取った。
「どうしたの? なんか難しい顔してるけど」
木村のその言葉に、奈央はどう答えたものか一瞬迷い、
「……なんでもない」
その気はなかったけれど、つっけんどんな言い方で返事した。
その瞬間、奈央は自身の発した言葉と言い方に、あぁ、これだ。これがいけないのだ、と内心で溜息を吐いた。この言い方が他者との距離を作る。聞いた者を不快にさせる。誰ともつるみたくはないのだと勘違いさせる。本当にそういうつもりで言っているわけではないのに、ただ返事をしただけのつもりなのに、言い方ひとつで人は離れていく。
せっかく話しかけてきてくれたのに、木村くんにまで不快な思いをさせてしまったかもしれない……
何とも言えない不安にかられ、奈央は一言謝ろうと木村に顔を向けて――
「――本当に?」
心配そうな表情で顔を覗き込んでくる木村の真剣な眼差しに、思わず息を飲んだ。
奈央はそんな木村の様子にたじろぎ、思わず足を止める。あまりにも間近に迫る木村の顔に困惑しつつ、
「ほ、本当に大丈夫だから……」
と顔を背けるように言って、再び歩き出した。
「相原さんが大丈夫っていうんなら別にいいけど」と木村は先を歩く奈央を慌てたように追いかけながら、「でも、本当に何かあったら言ってよ?」
その言葉はありがたくはあったのだけれど、しかし(奈央的には)昨日知り合ったばかりの関係で、いったいどこまで何を話したらいいのかよく判らなかった。
例えば父親や響紀との関係、母の事、昨日や一昨日のあの怪しげな男の件、色々と気がかりなことはあれど、そういったことを相談するのに適した関係であるとはまだどうしても思えなかったのだ。
何より今この瞬間、奈央が気にしているのは本当に些細な事。ただ汗を掻いて臭いが気になるから近づいてほしくない、というただそれだけの事だ。しかし、それこそどうして口に出して言えようか? そんな恥ずかしいこと、言えるわけがない。
「……うん、そうだね」
仕方なく奈央は適当に返事をし、そそくさと自転車を駐輪場にとめると、
「ありがとう。じゃぁ、またね」
そう言って、逃げるようにして小走りに駆け出す。
そんな奈央の後ろで、
「え? あ、うん、また……」
木村のどこか拍子抜けしたような声が聞こえた。
奈央は溜息とともに着席すると、いつもの如く机に突っ伏した。いつもより長い距離を自転車で駆けてきたため、それだけで一日分の体力を使い果たしてしまったような感覚だった。先ほどトイレで汗を拭いてきたおかげで気持ち的にはある程度さっぱりしているけれど、そんなことで体力が回復するわけでなし、この後の数時間、体力的にもつかどうかわからなかった。今日の授業に体育が無いだけマシだったと思うべきだろう。もしこのうえ体育まであったら、体力を完全に消費し切ってぶっ倒れてしまう自信が今の奈央にはあった。
奈央はふと視線を窓の外に向け、灰色の空を見上げた。雨こそ降ってはいないが、奈央の気持ちを表すかのようにどんよりとしている。時折雲間から青空がちらりと見えたりもするが、それもアッという間に雲に隠れた。
誰かに相談する。それはこれまでの奈央に最も縁遠い事柄だった。確かに小母にはこの歳まで、色々と相談に乗ってもらってきてはいる。母親のいない奈央にとって、唯一相談できる同性の相手は小母しかいなかったからだ。むしろ相談相手といえば小母くらいしかいない。例えば小母にすら言えないことは、ただただ奈央自身の中で燻ぶらせ続けるしかなかった。特に今はただでさえ父親や響紀との関係の件で小母に心配掛けさせっ放しなのだ。このうえ例の怪しげな男の件まで話したら、さらに小母に心配を掛けさせてしまうことになる。それだけはどうしても嫌だった。これ以上、余計な心配は掛けさせたくない。
ならば木村の言う通り、他の誰かに話せれば少しは気が楽になるかもしれない。そうは思うのだけれど、やはり昨日今日の関係である木村に話すのは如何なものか、という思いが奈央の中にはあった。特に木村は異性だ。多少なりとも感覚の違いというものもある。何より、奈央には例えそれが父親であれ、異性に何かを相談するという経験すら今までなかったのだ。もし相談するのであれば、同性の方が話しやすいに決まっている。
そう思ったとき、ふと頭によぎったのは隣のクラスの石上麻衣だった。一昨日奈央を訪ねてきた彼女であれば、或いは良い相談相手になってくれるかもしれない。それに彼女自身も言っていたじゃないか。
『良かったらいつでも遊びに来なよ! 歓迎してるから!』
それに、あの木村の言葉。
『ちょっとずつ慣れていけばいいんじゃないかなぁ』
人との関係、自然な会話。その第一歩として、石上と仲良くなる。
奈央はうんと一つ頷くと、すっと顔を上げた。
――お昼になったら、石上さんに会いに行こう。
奈央は小さく、けれど強く決意した。
翌朝。奈央は自宅を出ると、峠とは反対の方向へ自転車のハンドルを切った。出勤ラッシュの車や人たちとは逆走する形で隣町へ向かい、そこから道なりに大きい通りを抜けてUターンするように峠のある山を迂回して駅前を通過する。そこからはいつも通りの道程だったが、その時点ですでにいつもの倍は自転車を漕いでいるので全身から汗がにじみ出ていた。ただでさえ梅雨時とあってじめじめして気持ちが悪いというのに、そのうえ汗まで掻いてしまってはたまったものじゃない。念のためタオルと汗拭きシートを携帯しているので、学校に着いたらトイレにでも行って、まずは汗を拭かなければ。
思いながら、奈央は遅刻しないよう必死にペダルを漕いだ。
やがて息も切れ切れに学校に到着した奈央は、深い溜息とともに自転車から降りて駐輪場へ向かう。
その時だった。
「相原さん!」
すぐ後ろから声がして振り向くと、そこには木村大樹の姿があった。木村は満面の笑みを浮かべながら、自転車を引きつつ小走りで奈央の横に並ぶ。
「おはよう」
「あ、うん、おはよう……」
奈央は返事をしつつ、木村から僅かに距離を取るように離れて歩いた。これだけ汗を掻いているのだ。今はあまり近づいてほしくはなかった。
けれどそんなこととは露知らず、木村は気にするふうもなく、その僅かに開けた間を詰めてくる。奈央は思わず眉根を寄せ、もう一度僅かに――先ほどよりもう少し広く距離を取った。
「どうしたの? なんか難しい顔してるけど」
木村のその言葉に、奈央はどう答えたものか一瞬迷い、
「……なんでもない」
その気はなかったけれど、つっけんどんな言い方で返事した。
その瞬間、奈央は自身の発した言葉と言い方に、あぁ、これだ。これがいけないのだ、と内心で溜息を吐いた。この言い方が他者との距離を作る。聞いた者を不快にさせる。誰ともつるみたくはないのだと勘違いさせる。本当にそういうつもりで言っているわけではないのに、ただ返事をしただけのつもりなのに、言い方ひとつで人は離れていく。
せっかく話しかけてきてくれたのに、木村くんにまで不快な思いをさせてしまったかもしれない……
何とも言えない不安にかられ、奈央は一言謝ろうと木村に顔を向けて――
「――本当に?」
心配そうな表情で顔を覗き込んでくる木村の真剣な眼差しに、思わず息を飲んだ。
奈央はそんな木村の様子にたじろぎ、思わず足を止める。あまりにも間近に迫る木村の顔に困惑しつつ、
「ほ、本当に大丈夫だから……」
と顔を背けるように言って、再び歩き出した。
「相原さんが大丈夫っていうんなら別にいいけど」と木村は先を歩く奈央を慌てたように追いかけながら、「でも、本当に何かあったら言ってよ?」
その言葉はありがたくはあったのだけれど、しかし(奈央的には)昨日知り合ったばかりの関係で、いったいどこまで何を話したらいいのかよく判らなかった。
例えば父親や響紀との関係、母の事、昨日や一昨日のあの怪しげな男の件、色々と気がかりなことはあれど、そういったことを相談するのに適した関係であるとはまだどうしても思えなかったのだ。
何より今この瞬間、奈央が気にしているのは本当に些細な事。ただ汗を掻いて臭いが気になるから近づいてほしくない、というただそれだけの事だ。しかし、それこそどうして口に出して言えようか? そんな恥ずかしいこと、言えるわけがない。
「……うん、そうだね」
仕方なく奈央は適当に返事をし、そそくさと自転車を駐輪場にとめると、
「ありがとう。じゃぁ、またね」
そう言って、逃げるようにして小走りに駆け出す。
そんな奈央の後ろで、
「え? あ、うん、また……」
木村のどこか拍子抜けしたような声が聞こえた。
奈央は溜息とともに着席すると、いつもの如く机に突っ伏した。いつもより長い距離を自転車で駆けてきたため、それだけで一日分の体力を使い果たしてしまったような感覚だった。先ほどトイレで汗を拭いてきたおかげで気持ち的にはある程度さっぱりしているけれど、そんなことで体力が回復するわけでなし、この後の数時間、体力的にもつかどうかわからなかった。今日の授業に体育が無いだけマシだったと思うべきだろう。もしこのうえ体育まであったら、体力を完全に消費し切ってぶっ倒れてしまう自信が今の奈央にはあった。
奈央はふと視線を窓の外に向け、灰色の空を見上げた。雨こそ降ってはいないが、奈央の気持ちを表すかのようにどんよりとしている。時折雲間から青空がちらりと見えたりもするが、それもアッという間に雲に隠れた。
誰かに相談する。それはこれまでの奈央に最も縁遠い事柄だった。確かに小母にはこの歳まで、色々と相談に乗ってもらってきてはいる。母親のいない奈央にとって、唯一相談できる同性の相手は小母しかいなかったからだ。むしろ相談相手といえば小母くらいしかいない。例えば小母にすら言えないことは、ただただ奈央自身の中で燻ぶらせ続けるしかなかった。特に今はただでさえ父親や響紀との関係の件で小母に心配掛けさせっ放しなのだ。このうえ例の怪しげな男の件まで話したら、さらに小母に心配を掛けさせてしまうことになる。それだけはどうしても嫌だった。これ以上、余計な心配は掛けさせたくない。
ならば木村の言う通り、他の誰かに話せれば少しは気が楽になるかもしれない。そうは思うのだけれど、やはり昨日今日の関係である木村に話すのは如何なものか、という思いが奈央の中にはあった。特に木村は異性だ。多少なりとも感覚の違いというものもある。何より、奈央には例えそれが父親であれ、異性に何かを相談するという経験すら今までなかったのだ。もし相談するのであれば、同性の方が話しやすいに決まっている。
そう思ったとき、ふと頭によぎったのは隣のクラスの石上麻衣だった。一昨日奈央を訪ねてきた彼女であれば、或いは良い相談相手になってくれるかもしれない。それに彼女自身も言っていたじゃないか。
『良かったらいつでも遊びに来なよ! 歓迎してるから!』
それに、あの木村の言葉。
『ちょっとずつ慣れていけばいいんじゃないかなぁ』
人との関係、自然な会話。その第一歩として、石上と仲良くなる。
奈央はうんと一つ頷くと、すっと顔を上げた。
――お昼になったら、石上さんに会いに行こう。
奈央は小さく、けれど強く決意した。
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