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第2部 序章・奈央
第12回
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12
その日の放課後、例の如く帰りも峠道を通らず隣町へ迂回して帰宅した奈央は、全身汗まみれの気持ちの悪さに耐えられず、自室に鞄を投げるようにして置くと着替えを手に風呂場へ向かった。
パートに出かけた小母はまだ帰宅しておらず、当然のように小父も響紀も居ない家の中は薄暗く、異様なほどひっそりしていた。普段なら窓から差し込んでくる傾いた陽の光は、しかし厚い雲に覆われている為に地上まで届かず、部屋の奥は真っ黒い闇に塗りたくられてしまったかのようだった。
奈央は脱衣所のドアを閉めると、汗に濡れた衣服を脱ぎ洗濯機の中に直接投げ入れていった。洗濯機の横に脱衣かごがあるにはあるが、奈央がこれを使ったことは今のところ一度もない。かごに入れてしまえばそれは小父や響紀の目に入ることになる。そんな恥ずかしいこと、できるはずがなかった。当然、小母もそれを解っているので洗濯も干すのも別。特に、干す際は小父と響紀の分は一階の庭に、小母と奈央の分は二階のベランダに(なるべく物で隠すように)干していた。奈央が居候することになるまでは全員分二階のベランダに干していたそうなのだが、奈央が一緒に暮らすことが決まった際に、小母が配慮して今のような形になったという。それもまた奈央が申し訳なく思う一因ではあるのだが、感謝しこそすれ「どうか前と同じように」なんてこと言えるはずもなかった。
風呂場に入った奈央は、目線よりやや上の、外側に格子のはめられた摺りガラスの窓が閉じられているのを目で確認してから中に入った。いっそ湯船に湯を張ってゆっくり浸かろうかとも思ったが、今はとにかくこの汗を洗い流したくて仕方がなかった。
奈央は蛇口ハンドルをひねり、シャワーヘッドから放出される湯の温度を確認すると、頭から湯を浴びていく。べたべたしていた肌から汗が流れていくのを感じながら、大きく溜息を吐いた。吐いた息とともに僅かばかり疲れも抜けていったようで、少しだけ肩が軽くなったような気がする。お風呂の時間だけ心癒されるような気がするのはどうしてだろうか。やはりどうせなら湯に浸かりたい。湯船の中で大きく伸びがしたい。そう思った奈央は湯船に栓をすると、シャワーと蛇口の切り替えハンドルを回した。きゅっという音ともに、シャワーヘッドからの放出が止まり、蛇口から勢いよく湯が流れ出す。奈央はシャワーヘッドを戻すと、まだ数センチしか溜まっていない湯船にゆっくりと身を沈めた。それからその温かさを確かめるかのように、掌を湯船の底にあてて湯を混ぜる。
その時だった。窓のすぐ外から、かたんっと何か物音が聞こえてきたのである。
「えっ、なにっ?」
奈央は思わず独り言ち、我が身を掻き抱くようにして縮こまった。恐る恐る摺りガラスの方に顔を向ければ、すっと何かの影が動くのが目に入る。
――誰かがいる?
奈央は一瞬青ざめ、更に物音を聞き取るためにじっと耳を澄ませた。
思い起こされるのは数日前、風呂場の摺りガラスのドアから見えた、脱衣所の謎の人影。そしてあの峠道に住む、怪しげな若い男のにやけた顔。それらが何故か頭の中で結びつき、まさかここまで追ってきたのでは、という根拠のない恐怖に変わった。
いや、そんなはずはない。奈央は思い、首を激しく横に振った。こちらは自転車だったのだ。もしあの時私を追いかけてきていたとしても、この家まで追いつけていたなんて到底思えない。あの音は別の何かだ。それが何かなんてわからない。けれど、あの男がここまで追いかけてきて窓の外から覗き込もうとしているなんて思いたくもなかった。
奈央は溜まりゆく湯船に身を沈めたままぎゅっと身体を抱き寄せ、じっと窓の方を注視する。先ほどの影はもはや見えず、物音ひとつ聞こえてはこない。ただ湯船に湯の溜まる音だけがジョバジョバと浴室に響いている。いつの間にか息を止めていた自分に気づいた奈央は、ゆっくりと、浅く息を吸い、吐いた。それを何度か繰り返したとき、不意にまたガタガタっと物音が外から聞こえ、思わず身を震わせて驚き「ひゃっ」と声を上げた。
次いで聞こえてきたカーッカーッという鳴き声と、翼をはためかせてバサバサと飛び立っていくような音。
――カラス? なんだ、あの音はカラスの立てる音だったんだ。
奈央はほっと安堵の溜息を吐き、緊張で強張っていた身体から力が抜けていくのを感じた。抱きしめていた自分の体から手を放し、もう一度窓の外に目を向け聞き耳を立てる。
うん、聞こえない。大丈夫。
それから奈央は思い出したように蛇口のハンドルに手を伸ばし、湯を止めた。窓の外ばかり気にして危うく溢れるところだった。
たぶん、もう、平気。
奈央は自分に言い聞かせるように胸に手を当て、心の中でそう何度も呟いた。
あれ以来随分神経質になっちゃったな、と奈央はふっと自嘲すると、大きく息を吸いつつ腕を高く上げて身体を伸ばした。それから深い溜息とともに身体をすっと戻す。
――トントン
「っ!」
突然、脱衣所のドアを叩く音が聞こえ、奈央は口から心臓が飛び出さんばかりに驚いた。体が跳ね上がり、ばしゃんっと湯が音を立てて揺れ、縁から零れる。
「……奈央ちゃん、お風呂?」
それは小母の声だった。どうやら帰宅したらしい。案外さっきの音も、カラスだけではなく小母の帰宅した音だったのかもしれない。
奈央は安堵するとともに「あ、うん」と返事して口を開いた。
「ご、ごめんなさい、汗が気になって――」
「ううん、それはいいのよ。そうじゃなくて……」
そこで小母は一旦口ごもった。何だろう、と奈央が思っていると、
「ううん、なんでもないわ。ごめんなさいね、邪魔して。ゆっくりしてて良いからね」
「あ、はい――」
パタパタと去っていく小母の足音が聞こえ、奈央は小首を傾げた。
小母はいったい、何を言わんとしていたのだろうか――?
夜更け過ぎ。カーテンを閉じた窓の向こうから僅かに入り込む街灯の明りに照らされた奈央の部屋は、恐ろしいほどしんと静まり返っていた。目の前に広がるのは白い天井とそこにぶら下がる電気傘の蛍光灯のみ。奈央はそれをぼんやり見つめたまま、やはり眠れぬ夜を過ごしていた。
階下ではすでに小父も小母も眠りについているのだろう、家の中はどこまでも静かだった。チクタクと時を刻む時計の音が妙に心細く、奈央は口元まで掛布団を引き上げた。ふと時計に目を向ければ午前二時。このままでは寝不足のまま学校に行かなければならない。奈央は無理にでも寝ようと固く目を閉じたが、しかし寝よう寝ようと意識すればするほど逆に眼は冴えていった。
奈央はふうっと小さく溜息を吐くと起き上がり、自室を後にする。ホットミルクか何か温かいものを飲んで心を落ち着ければ、少しでも眠くなるんじゃないか、そう思ったのだ。それはこの家で暮らすようになった最初の夜、緊張でなかなか寝付けなかった奈央に対して心配した小母が教えてくれた方法だった。
スマホのライトを点灯させて足下を照らしながら階下に降り、台所へ向かうと明かりを点けて食器棚に足を向ける。取り出した自身のマグカップに牛乳を注ぎ、電子レンジに入れて温めのボタンを押した。ブゥンという音が部屋に響き、この音で小父や小母が目を覚ますんじゃないかと一瞬思ったけれど、そんなこともないまま温めが終わる。
奈央は温められたマグカップを取り出すとダイニングテーブルの椅子に腰かけ、ゆっくりとホットミルクに口を付けた。ほのかな甘みが口の中に広がり、ほっと息を吐く。何となく心が安らぐのを感じながら、開け放たれたままの襖の向こうに見える居間に目を向けた。
薄暗い部屋には至る所に真っ黒い影が落ちている。その影一つ一つが不気味に蠢き、チカチカと明滅しているように見えるのは果たして気のせいか、それとも――――ガタンッ
突然の物音に奈央は体を震わせて驚いた。気づけば音の聞こえてきた方、すぐ脇のカーテンの向こうを注視していた。僅かにひらひらと揺れるカーテンの向こう側は人一人通れるほどの僅かな通路、そして隣家との境界に設けられたコンクリート壁があるだけだ。或いは小父か小母が不要になった大型ごみ等を一時的にそこに置いておくことはあるけれど、しかしこんな時間に物を置きに行くはずがないし、そもそも今は廊下を挟んだ向かいの寝室で眠っているはずだ。
……なら、さっきの音は、いったい何?
奈央は凍り付いたように動けなかった。マグカップを両手に持ったまま、じっとカーテンの向こうの窓に意識を向ける。
左右に分かれた二枚のカーテン。その僅かな縦の隙間に見える細い闇。そこから何者かが奈央と同じようにこちらを見つめている。そんな映像が頭の中に浮かび奈央は戦慄した。
カサリ、カサリ――下草を踏みしめる音。それは確かに奈央の耳に届き、脇の道を抜けて玄関の方へ移動していくのがわかった。
犬や猫なんかじゃない。あれは確実に人の足音によるものだ。
震える手から零れ落ちそうになるマグカップをどうにかこうにかテーブルの上に置き、小父と小母を起こさなければ、と覚束ない足取りで廊下へ出る。けれど意識は聞こえてくる足音の方へ向けられており、思ったように足は動かなかった。廊下に立ち、小父や小母の寝室を目の前にして体が動かない。
そうこうしているうちに、足音はすでに玄関前にまで達していた。
玄関扉に目を向ければ、何故か鍵が開いている。それが奈央の恐怖を頂点にまで追いやった。
――なんでっ? どうして鍵が開いてるのっ?
心臓がバクバクと激しく脈打ち、息が乱れる。手足は激しく震え、立っているのもやっとだった。
ガチャリっ、と玄関扉のドアノブに手が掛けられる音。
「――っ!」
奈央は息を飲みこみ、目をつぶった。全身から一気に力が抜けていく。
キィっと金具の響く音とともに開かれた扉の向こう。そこには、
「……なにしてんだ、お前」
黒いジャージを着た響紀が、ぽかんと口を開けていた。
腰を抜かして廊下にへたり込んでいた奈央はその顔を見て、
「ひ、ひび、き――」
妙に情けない声を出していた。
安堵の溜息を漏らし、それと同時に何とも言えない怒りがこみあげてくる。
「……こんな時間に、いったい外で何してたのよっ?」
少し刺々しい言い方になってしまったけれど、それも仕方のないことだろう。なにせあれだけ怖い思いをさせられたのだ。少しくらい許されてしかるべきだ。
響紀はそんな奈央の顔をじっと見つめた後、何とも言えない難しい表情で、
「お前には、関係ない」
吐き出すように、そう答えた。
奈央はその言い方に心底苛立ちを覚えた。
冗談じゃない。そんな言葉で済まされてたまるもんですか!
「関係ないって、怖かったんだからね!」
すると響紀は意外な程素直に、けれどため息と共に、
「……そりゃ悪かったな」
と謝罪の言葉を口にした。
あまりの呆気なさに奈央は思わずぽかんと口を開ける。またいつものように悪態をつかれると思ったからだ。にも拘わらず響紀は文句一つ口にせず、その為奈央は何も言い返すことができなかった。
そんな奈央に、響紀は続けて口にする。
「……もう遅い、早く寝ろ」
そうして先に二階へ上がっていく響紀の背中に、
「う、うん――」
奈央は戸惑いを感じながら、小さくそう返事した。
その日の放課後、例の如く帰りも峠道を通らず隣町へ迂回して帰宅した奈央は、全身汗まみれの気持ちの悪さに耐えられず、自室に鞄を投げるようにして置くと着替えを手に風呂場へ向かった。
パートに出かけた小母はまだ帰宅しておらず、当然のように小父も響紀も居ない家の中は薄暗く、異様なほどひっそりしていた。普段なら窓から差し込んでくる傾いた陽の光は、しかし厚い雲に覆われている為に地上まで届かず、部屋の奥は真っ黒い闇に塗りたくられてしまったかのようだった。
奈央は脱衣所のドアを閉めると、汗に濡れた衣服を脱ぎ洗濯機の中に直接投げ入れていった。洗濯機の横に脱衣かごがあるにはあるが、奈央がこれを使ったことは今のところ一度もない。かごに入れてしまえばそれは小父や響紀の目に入ることになる。そんな恥ずかしいこと、できるはずがなかった。当然、小母もそれを解っているので洗濯も干すのも別。特に、干す際は小父と響紀の分は一階の庭に、小母と奈央の分は二階のベランダに(なるべく物で隠すように)干していた。奈央が居候することになるまでは全員分二階のベランダに干していたそうなのだが、奈央が一緒に暮らすことが決まった際に、小母が配慮して今のような形になったという。それもまた奈央が申し訳なく思う一因ではあるのだが、感謝しこそすれ「どうか前と同じように」なんてこと言えるはずもなかった。
風呂場に入った奈央は、目線よりやや上の、外側に格子のはめられた摺りガラスの窓が閉じられているのを目で確認してから中に入った。いっそ湯船に湯を張ってゆっくり浸かろうかとも思ったが、今はとにかくこの汗を洗い流したくて仕方がなかった。
奈央は蛇口ハンドルをひねり、シャワーヘッドから放出される湯の温度を確認すると、頭から湯を浴びていく。べたべたしていた肌から汗が流れていくのを感じながら、大きく溜息を吐いた。吐いた息とともに僅かばかり疲れも抜けていったようで、少しだけ肩が軽くなったような気がする。お風呂の時間だけ心癒されるような気がするのはどうしてだろうか。やはりどうせなら湯に浸かりたい。湯船の中で大きく伸びがしたい。そう思った奈央は湯船に栓をすると、シャワーと蛇口の切り替えハンドルを回した。きゅっという音ともに、シャワーヘッドからの放出が止まり、蛇口から勢いよく湯が流れ出す。奈央はシャワーヘッドを戻すと、まだ数センチしか溜まっていない湯船にゆっくりと身を沈めた。それからその温かさを確かめるかのように、掌を湯船の底にあてて湯を混ぜる。
その時だった。窓のすぐ外から、かたんっと何か物音が聞こえてきたのである。
「えっ、なにっ?」
奈央は思わず独り言ち、我が身を掻き抱くようにして縮こまった。恐る恐る摺りガラスの方に顔を向ければ、すっと何かの影が動くのが目に入る。
――誰かがいる?
奈央は一瞬青ざめ、更に物音を聞き取るためにじっと耳を澄ませた。
思い起こされるのは数日前、風呂場の摺りガラスのドアから見えた、脱衣所の謎の人影。そしてあの峠道に住む、怪しげな若い男のにやけた顔。それらが何故か頭の中で結びつき、まさかここまで追ってきたのでは、という根拠のない恐怖に変わった。
いや、そんなはずはない。奈央は思い、首を激しく横に振った。こちらは自転車だったのだ。もしあの時私を追いかけてきていたとしても、この家まで追いつけていたなんて到底思えない。あの音は別の何かだ。それが何かなんてわからない。けれど、あの男がここまで追いかけてきて窓の外から覗き込もうとしているなんて思いたくもなかった。
奈央は溜まりゆく湯船に身を沈めたままぎゅっと身体を抱き寄せ、じっと窓の方を注視する。先ほどの影はもはや見えず、物音ひとつ聞こえてはこない。ただ湯船に湯の溜まる音だけがジョバジョバと浴室に響いている。いつの間にか息を止めていた自分に気づいた奈央は、ゆっくりと、浅く息を吸い、吐いた。それを何度か繰り返したとき、不意にまたガタガタっと物音が外から聞こえ、思わず身を震わせて驚き「ひゃっ」と声を上げた。
次いで聞こえてきたカーッカーッという鳴き声と、翼をはためかせてバサバサと飛び立っていくような音。
――カラス? なんだ、あの音はカラスの立てる音だったんだ。
奈央はほっと安堵の溜息を吐き、緊張で強張っていた身体から力が抜けていくのを感じた。抱きしめていた自分の体から手を放し、もう一度窓の外に目を向け聞き耳を立てる。
うん、聞こえない。大丈夫。
それから奈央は思い出したように蛇口のハンドルに手を伸ばし、湯を止めた。窓の外ばかり気にして危うく溢れるところだった。
たぶん、もう、平気。
奈央は自分に言い聞かせるように胸に手を当て、心の中でそう何度も呟いた。
あれ以来随分神経質になっちゃったな、と奈央はふっと自嘲すると、大きく息を吸いつつ腕を高く上げて身体を伸ばした。それから深い溜息とともに身体をすっと戻す。
――トントン
「っ!」
突然、脱衣所のドアを叩く音が聞こえ、奈央は口から心臓が飛び出さんばかりに驚いた。体が跳ね上がり、ばしゃんっと湯が音を立てて揺れ、縁から零れる。
「……奈央ちゃん、お風呂?」
それは小母の声だった。どうやら帰宅したらしい。案外さっきの音も、カラスだけではなく小母の帰宅した音だったのかもしれない。
奈央は安堵するとともに「あ、うん」と返事して口を開いた。
「ご、ごめんなさい、汗が気になって――」
「ううん、それはいいのよ。そうじゃなくて……」
そこで小母は一旦口ごもった。何だろう、と奈央が思っていると、
「ううん、なんでもないわ。ごめんなさいね、邪魔して。ゆっくりしてて良いからね」
「あ、はい――」
パタパタと去っていく小母の足音が聞こえ、奈央は小首を傾げた。
小母はいったい、何を言わんとしていたのだろうか――?
夜更け過ぎ。カーテンを閉じた窓の向こうから僅かに入り込む街灯の明りに照らされた奈央の部屋は、恐ろしいほどしんと静まり返っていた。目の前に広がるのは白い天井とそこにぶら下がる電気傘の蛍光灯のみ。奈央はそれをぼんやり見つめたまま、やはり眠れぬ夜を過ごしていた。
階下ではすでに小父も小母も眠りについているのだろう、家の中はどこまでも静かだった。チクタクと時を刻む時計の音が妙に心細く、奈央は口元まで掛布団を引き上げた。ふと時計に目を向ければ午前二時。このままでは寝不足のまま学校に行かなければならない。奈央は無理にでも寝ようと固く目を閉じたが、しかし寝よう寝ようと意識すればするほど逆に眼は冴えていった。
奈央はふうっと小さく溜息を吐くと起き上がり、自室を後にする。ホットミルクか何か温かいものを飲んで心を落ち着ければ、少しでも眠くなるんじゃないか、そう思ったのだ。それはこの家で暮らすようになった最初の夜、緊張でなかなか寝付けなかった奈央に対して心配した小母が教えてくれた方法だった。
スマホのライトを点灯させて足下を照らしながら階下に降り、台所へ向かうと明かりを点けて食器棚に足を向ける。取り出した自身のマグカップに牛乳を注ぎ、電子レンジに入れて温めのボタンを押した。ブゥンという音が部屋に響き、この音で小父や小母が目を覚ますんじゃないかと一瞬思ったけれど、そんなこともないまま温めが終わる。
奈央は温められたマグカップを取り出すとダイニングテーブルの椅子に腰かけ、ゆっくりとホットミルクに口を付けた。ほのかな甘みが口の中に広がり、ほっと息を吐く。何となく心が安らぐのを感じながら、開け放たれたままの襖の向こうに見える居間に目を向けた。
薄暗い部屋には至る所に真っ黒い影が落ちている。その影一つ一つが不気味に蠢き、チカチカと明滅しているように見えるのは果たして気のせいか、それとも――――ガタンッ
突然の物音に奈央は体を震わせて驚いた。気づけば音の聞こえてきた方、すぐ脇のカーテンの向こうを注視していた。僅かにひらひらと揺れるカーテンの向こう側は人一人通れるほどの僅かな通路、そして隣家との境界に設けられたコンクリート壁があるだけだ。或いは小父か小母が不要になった大型ごみ等を一時的にそこに置いておくことはあるけれど、しかしこんな時間に物を置きに行くはずがないし、そもそも今は廊下を挟んだ向かいの寝室で眠っているはずだ。
……なら、さっきの音は、いったい何?
奈央は凍り付いたように動けなかった。マグカップを両手に持ったまま、じっとカーテンの向こうの窓に意識を向ける。
左右に分かれた二枚のカーテン。その僅かな縦の隙間に見える細い闇。そこから何者かが奈央と同じようにこちらを見つめている。そんな映像が頭の中に浮かび奈央は戦慄した。
カサリ、カサリ――下草を踏みしめる音。それは確かに奈央の耳に届き、脇の道を抜けて玄関の方へ移動していくのがわかった。
犬や猫なんかじゃない。あれは確実に人の足音によるものだ。
震える手から零れ落ちそうになるマグカップをどうにかこうにかテーブルの上に置き、小父と小母を起こさなければ、と覚束ない足取りで廊下へ出る。けれど意識は聞こえてくる足音の方へ向けられており、思ったように足は動かなかった。廊下に立ち、小父や小母の寝室を目の前にして体が動かない。
そうこうしているうちに、足音はすでに玄関前にまで達していた。
玄関扉に目を向ければ、何故か鍵が開いている。それが奈央の恐怖を頂点にまで追いやった。
――なんでっ? どうして鍵が開いてるのっ?
心臓がバクバクと激しく脈打ち、息が乱れる。手足は激しく震え、立っているのもやっとだった。
ガチャリっ、と玄関扉のドアノブに手が掛けられる音。
「――っ!」
奈央は息を飲みこみ、目をつぶった。全身から一気に力が抜けていく。
キィっと金具の響く音とともに開かれた扉の向こう。そこには、
「……なにしてんだ、お前」
黒いジャージを着た響紀が、ぽかんと口を開けていた。
腰を抜かして廊下にへたり込んでいた奈央はその顔を見て、
「ひ、ひび、き――」
妙に情けない声を出していた。
安堵の溜息を漏らし、それと同時に何とも言えない怒りがこみあげてくる。
「……こんな時間に、いったい外で何してたのよっ?」
少し刺々しい言い方になってしまったけれど、それも仕方のないことだろう。なにせあれだけ怖い思いをさせられたのだ。少しくらい許されてしかるべきだ。
響紀はそんな奈央の顔をじっと見つめた後、何とも言えない難しい表情で、
「お前には、関係ない」
吐き出すように、そう答えた。
奈央はその言い方に心底苛立ちを覚えた。
冗談じゃない。そんな言葉で済まされてたまるもんですか!
「関係ないって、怖かったんだからね!」
すると響紀は意外な程素直に、けれどため息と共に、
「……そりゃ悪かったな」
と謝罪の言葉を口にした。
あまりの呆気なさに奈央は思わずぽかんと口を開ける。またいつものように悪態をつかれると思ったからだ。にも拘わらず響紀は文句一つ口にせず、その為奈央は何も言い返すことができなかった。
そんな奈央に、響紀は続けて口にする。
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