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第2部 序章・奈央
第14回
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無音だった。何も聞こえてはこなかった。足音も、話し声も、風の音も、すべてが消え去ったように静かだった。
奈央は妙にすっきりとした気持ちで頭を上げた。両腕を上げて大きく伸びをし、溜息を吐く。随分長いこと眠ってしまったようだ。けれどそのおかげで眠気はきれいさっぱり消えている。奈央は目やにのついた眼をこすり、辺りを見回した。
「……あれ?」
誰も居なかった。教室には奈央以外、誰一人としてその姿は見当たらなかった。
まさか放課後までずっと眠り続けていたのだろうか? でも、なんで誰も起こしてくれなかったんだろう。例えクラスメイトが放置しても、先生たちが居眠りしている私を見逃すだなんて考えられないのだけれど。
思いながら、奈央は窓の外に目を向けた。そこにはどこまでも広がる灰色の世界があった。厚い雲に覆われた空はまるで火山の噴煙のように激しく蠢き、遠くに見えるビル群には灯り一つ点ってはいない。
いったい今は何時なんだろう。奈央は黒板の上に備え付けられた丸い時計に顔を向ける。けれど長針も短針もどちらも頂点を指し示しており、どう考えてもそんなはずはない、と奈央は席を立った。そのままその足で廊下に出る。
誰も居なかった。ただ長い廊下がどこまでもどこまでも続いていた。天井には白い蛍光灯が規則正しくまっすぐ並び、廊下に沿ってどこまでもどこまでも続いている。その先にはぽっかりと闇が口を開き、何も見えなかった。
何かがおかしい、何が起きているんだろう。
不安に駆られた奈央は隣のクラスに――石上麻衣のクラスのドアを開き、中を覗き込む。
「……」
机と椅子が綺麗に並び、けれどそこにも誰の姿も見えなかった。黒板の上に目を向けてみれば、時計は十一時を指したまま止まっている。
もう一度廊下に出て、左右を見渡す。どこまでも続く長い廊下、僅かに明滅する蛍光灯。それから奈央は石上の教室に入り、窓辺に向かった。
窓の外に広がるのは確かに見慣れたいつもの風景。けれど薄闇の中には人影一つ見当たらなかった。あまりにも不自然に、誰も。
――あぁ、これは夢なんだ。
それは当然の結論だった。
こんな現実、あるはずがない。
奈央は窓に背を向け、誰も居ない教室に体を向けた。溜息を一つ吐き、目を瞑る。
どうやら私は随分と疲れているらしい。そして色々な件でよほど神経質になっているらしい。独りの寂しさ、それがきっとこんな形で夢に表れたんだ、と奈央は自身を冷静に分析した。
大丈夫、次に目を開けた時、私は目覚める。いつもの教室で、いつものように私は机に伏して眠っているのだ。
胸に手を当てて何度も深呼吸し、奈央は最後に長くゆっくりと息を吐いた。
「大丈夫。これは夢――」
自分に言い聞かせるように目を開き――そこに変わらぬ教室の姿が現れた。
誰も居なかった。
無音だった。
何も変わってなどいなかった。
そこにはただ、不安と孤独が広がっているだけだった。
「そんな……」
奈央は呟き、試みに自分の頬に指を伸ばした。柔らかい頬肉を恐々と軽く抓る。
――痛い。
「……うそ」
心臓が激しく鳴った。手足が震えた。口の中がからからに乾き、全身から血の気が引いていくのが判った。そんなはずはない。何度も頬を抓ってみる。痛かった。両頬を叩いてみた。目は覚めなかった。もう一度両目を固く閉じ、起きろ起きろ起きろと呪文のように唱えながら瞼を開いた。誰も居なかった。無音だった。不安だった。孤独だった。
「そんな、だって、嘘」
――ぴちょんっ
すぐ左横で水の滴る小さな音がした。それは全くの無音の中で、けれどとても大きく奈央の耳に入ったきた。視界の隅に、何かが見えた。誰かが見えた。人だ。人が座っている。奈央の立つすぐ左側の席に、人が座っているのだ。だがそこに安心などあるはずもなかった。当たり前だ。今まで誰も座っていなかったはずのその席に、突然誰かが座っているのだ。そこにあるものなど、戸惑いや驚愕や恐怖や不安しかない。
奈央は後退りしながら、それでも恐る恐るその席の方に顔を向けた。
肩まであるこげ茶の髪を左右で束ねた女の子。奈央に背を向けたそのうなじは白く青い。頭から水を被ったのか、全身が濡れそぼっている。その足元には大きな赤い水たまり――
違う。
赤い。
赤黒い。
藻の混じった汚い水たまりの中に、確かに見えるそれは――血。
その途端、奈央の鼻が生臭いにおいを感じた。汚物を含んだ腐った水。何かが腐ってそのまま水の中でドロドロになるまで放置されたような、そんなイメージが奈央の頭に浮かぶ。
その水を全身に浴びた女の子が――石上麻衣が、今、奈央の目の前に背を向けて座っていた。
「い、石上……さん?」
奈央は恐る恐る声を掛けた。声を掛けずには居られなかった。
石上は奈央の掛けた声に、しかし返事をしなかった。
――ぴちょんっ
二つに分けた髪の先から、汚水が滴り床に落ちる。
その両足を伝うようにして流れる赤い血は、白い靴下と上履きを赤く染めながら止まることなく足元の水たまりをより赤く濁していった。
奈央は動けなかった。どこへも行けなかった。ただじっと石上の背中を見つめたまま、全身を震わせて不安と恐怖に失禁しないよう耐え続けることしかできなかった。
やがて長い沈黙を挟み、
「あ、あの、石上さ――」
奈央が再び口を開いたところで、
「――なんで、あたしが」
小さな声で呟くように言いながら、すっと石上は立ち上がった。
肌に張り付いた制服の上着、スカート、そして――股の間から太ももを伝って流れていく、真っ赤な血。
「……え、あっ」
奈央は声にならない音を漏らす。
そんな奈央に、石上は肩を震わせながら背を向けたまま、
「……あんたの所為よ。あんたの所為で、あたしは……アタシはっ――!」
ばっと振り向いた石上の顔は、奈央の記憶にあるあの可愛らしさとは程遠い、あまりにも醜い有様だった。右瞼は大きく腫れあがり、右目を完全に隠している。鼻は異様な角度で曲がり、だらだらと流れる鼻血はこれもまた大きく腫れた上唇を伝って口の中へ入り、その口もまた何本もの歯が折れて真っ赤に染まっていた。下顎が歪んでいるのは、顎が外れているからだろうか、それとも――?
そしてその首にはっきり見える手の痕が示すものは。
「……なんで……どうして、あたしが――! あんたが、おまえが――!」
石上はそこまで口にすると唐突に慟哭し、その両腕を奈央に伸ばし、襲い掛かってきた。
奈央は、絶叫した。
奈央は妙にすっきりとした気持ちで頭を上げた。両腕を上げて大きく伸びをし、溜息を吐く。随分長いこと眠ってしまったようだ。けれどそのおかげで眠気はきれいさっぱり消えている。奈央は目やにのついた眼をこすり、辺りを見回した。
「……あれ?」
誰も居なかった。教室には奈央以外、誰一人としてその姿は見当たらなかった。
まさか放課後までずっと眠り続けていたのだろうか? でも、なんで誰も起こしてくれなかったんだろう。例えクラスメイトが放置しても、先生たちが居眠りしている私を見逃すだなんて考えられないのだけれど。
思いながら、奈央は窓の外に目を向けた。そこにはどこまでも広がる灰色の世界があった。厚い雲に覆われた空はまるで火山の噴煙のように激しく蠢き、遠くに見えるビル群には灯り一つ点ってはいない。
いったい今は何時なんだろう。奈央は黒板の上に備え付けられた丸い時計に顔を向ける。けれど長針も短針もどちらも頂点を指し示しており、どう考えてもそんなはずはない、と奈央は席を立った。そのままその足で廊下に出る。
誰も居なかった。ただ長い廊下がどこまでもどこまでも続いていた。天井には白い蛍光灯が規則正しくまっすぐ並び、廊下に沿ってどこまでもどこまでも続いている。その先にはぽっかりと闇が口を開き、何も見えなかった。
何かがおかしい、何が起きているんだろう。
不安に駆られた奈央は隣のクラスに――石上麻衣のクラスのドアを開き、中を覗き込む。
「……」
机と椅子が綺麗に並び、けれどそこにも誰の姿も見えなかった。黒板の上に目を向けてみれば、時計は十一時を指したまま止まっている。
もう一度廊下に出て、左右を見渡す。どこまでも続く長い廊下、僅かに明滅する蛍光灯。それから奈央は石上の教室に入り、窓辺に向かった。
窓の外に広がるのは確かに見慣れたいつもの風景。けれど薄闇の中には人影一つ見当たらなかった。あまりにも不自然に、誰も。
――あぁ、これは夢なんだ。
それは当然の結論だった。
こんな現実、あるはずがない。
奈央は窓に背を向け、誰も居ない教室に体を向けた。溜息を一つ吐き、目を瞑る。
どうやら私は随分と疲れているらしい。そして色々な件でよほど神経質になっているらしい。独りの寂しさ、それがきっとこんな形で夢に表れたんだ、と奈央は自身を冷静に分析した。
大丈夫、次に目を開けた時、私は目覚める。いつもの教室で、いつものように私は机に伏して眠っているのだ。
胸に手を当てて何度も深呼吸し、奈央は最後に長くゆっくりと息を吐いた。
「大丈夫。これは夢――」
自分に言い聞かせるように目を開き――そこに変わらぬ教室の姿が現れた。
誰も居なかった。
無音だった。
何も変わってなどいなかった。
そこにはただ、不安と孤独が広がっているだけだった。
「そんな……」
奈央は呟き、試みに自分の頬に指を伸ばした。柔らかい頬肉を恐々と軽く抓る。
――痛い。
「……うそ」
心臓が激しく鳴った。手足が震えた。口の中がからからに乾き、全身から血の気が引いていくのが判った。そんなはずはない。何度も頬を抓ってみる。痛かった。両頬を叩いてみた。目は覚めなかった。もう一度両目を固く閉じ、起きろ起きろ起きろと呪文のように唱えながら瞼を開いた。誰も居なかった。無音だった。不安だった。孤独だった。
「そんな、だって、嘘」
――ぴちょんっ
すぐ左横で水の滴る小さな音がした。それは全くの無音の中で、けれどとても大きく奈央の耳に入ったきた。視界の隅に、何かが見えた。誰かが見えた。人だ。人が座っている。奈央の立つすぐ左側の席に、人が座っているのだ。だがそこに安心などあるはずもなかった。当たり前だ。今まで誰も座っていなかったはずのその席に、突然誰かが座っているのだ。そこにあるものなど、戸惑いや驚愕や恐怖や不安しかない。
奈央は後退りしながら、それでも恐る恐るその席の方に顔を向けた。
肩まであるこげ茶の髪を左右で束ねた女の子。奈央に背を向けたそのうなじは白く青い。頭から水を被ったのか、全身が濡れそぼっている。その足元には大きな赤い水たまり――
違う。
赤い。
赤黒い。
藻の混じった汚い水たまりの中に、確かに見えるそれは――血。
その途端、奈央の鼻が生臭いにおいを感じた。汚物を含んだ腐った水。何かが腐ってそのまま水の中でドロドロになるまで放置されたような、そんなイメージが奈央の頭に浮かぶ。
その水を全身に浴びた女の子が――石上麻衣が、今、奈央の目の前に背を向けて座っていた。
「い、石上……さん?」
奈央は恐る恐る声を掛けた。声を掛けずには居られなかった。
石上は奈央の掛けた声に、しかし返事をしなかった。
――ぴちょんっ
二つに分けた髪の先から、汚水が滴り床に落ちる。
その両足を伝うようにして流れる赤い血は、白い靴下と上履きを赤く染めながら止まることなく足元の水たまりをより赤く濁していった。
奈央は動けなかった。どこへも行けなかった。ただじっと石上の背中を見つめたまま、全身を震わせて不安と恐怖に失禁しないよう耐え続けることしかできなかった。
やがて長い沈黙を挟み、
「あ、あの、石上さ――」
奈央が再び口を開いたところで、
「――なんで、あたしが」
小さな声で呟くように言いながら、すっと石上は立ち上がった。
肌に張り付いた制服の上着、スカート、そして――股の間から太ももを伝って流れていく、真っ赤な血。
「……え、あっ」
奈央は声にならない音を漏らす。
そんな奈央に、石上は肩を震わせながら背を向けたまま、
「……あんたの所為よ。あんたの所為で、あたしは……アタシはっ――!」
ばっと振り向いた石上の顔は、奈央の記憶にあるあの可愛らしさとは程遠い、あまりにも醜い有様だった。右瞼は大きく腫れあがり、右目を完全に隠している。鼻は異様な角度で曲がり、だらだらと流れる鼻血はこれもまた大きく腫れた上唇を伝って口の中へ入り、その口もまた何本もの歯が折れて真っ赤に染まっていた。下顎が歪んでいるのは、顎が外れているからだろうか、それとも――?
そしてその首にはっきり見える手の痕が示すものは。
「……なんで……どうして、あたしが――! あんたが、おまえが――!」
石上はそこまで口にすると唐突に慟哭し、その両腕を奈央に伸ばし、襲い掛かってきた。
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