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第2部 序章・奈央
第16回
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目を覚ました奈央はぼんやりと天井を見つめていた。窓の外から差し込む朝日が奈央の部屋をうすぼんやりと照らし出し、スズメか何かの鳴く声が遠くどこかから聞こえてくる。
ふと時計に目をやればすでに午前九時を過ぎていた。一瞬目を見開き、「遅刻だっ!」と叫びそうになったけれど、そう言えば今日は土曜日で学校は休みじゃないか、とほっと胸を撫でおろした。
上半身を起こして腕を高く上げ、思いっきり背を伸ばす。長い吐息とともにゆっくりと両腕を下ろし、奈央はベッドから抜け出した。欠伸を一つ、それからパジャマを脱いで部屋着に着替える。今日は特に予定はない。家でのんびりしてもいいし、いつものように図書館まで本を借りに行くのもいいかもしれない。授業の課題は全て終わらせているし、今日は何をしようと自由だった。
奈央はとりあえず朝食を摂ろうと階下に降りた。嫌に静かな家の中、台所にも居間にも家人の姿はない。小父も響紀も今日は仕事らしい。小母くらいは居そうなものだが、冷蔵庫に貼ってあるシフト表を見ると朝からパートのようだ。
誰も居ない家の中で、奈央は何となく寂しさを感じながら朝食の準備に取り掛かった。と言っても、食パンを焼いてホットミルクをレンジにセットするだけだ。程なくしてトースターとレンジの音が鳴り、さっと朝食を済ませると奈央は流しに向かう。今日はよほど急いでいたのか、全員分の食器が洗い桶に残っていたのでそれも一緒に洗っておいた。
他に何かやることはないだろうか。暇を持て余した奈央は洗面所に向かい、そこにまだ汚れた洗濯物が残っているのを確認すると、まずは小父と響紀の衣服を、次いで小母と奈央の衣服を二回に分けて洗濯機を回した。その間奈央は家中|(但し小父と小母の寝室と響紀の部屋以外)掃除機をかけて回り、それでも余った時間は読みかけだった小説を読むことに費やした。しばらくして洗い終えた洗濯物を一階と二階にそれぞれ干し、居間に腰を下ろして一息吐く。ふと時計に目を向けると、午前十一時を少し過ぎたところだった。
辺りは静寂に包まれていた。ご近所からの生活音すら聞こえず、通りを歩く人の声はおろか足音すら聞こえてはこなかった。朝方は聞こえていた鳥の鳴き声もやみ、気味の悪いほど静かだ。その静けさは重く奈央の身にのしかかった。まるで世界に自分一人しかいないかのような錯覚に陥り、ついで昨日学校で見た恐ろしい夢が思い起こされる。
誰も居ない学校。どこまでも続く廊下。灰色に包まれた世界。そして、血塗れの石上麻衣――
そこには妙な現実味があり、実際、抓った頬には確かな痛みがあった。あとから調べたところによると『夢痛』というらしい。心が不安定だったり何か心配事があるとみる夢だということだったが、結局奈央には詳しいことはいまいち理解する事が出来なかった。ただ確かに今の自分の心は不安定であり、色々と不安を抱えて過ごしている。これまでずっと一緒だった父と離れて暮らすこともそうだが、小父や小母に迷惑をかけていないかとか、響紀との関係だとか、学校の事だとか……数え上げると多分、切りがない。それらの不安があんな夢を見る原因となったのだとしたら、或いは再び似たような夢を見ることになるかも知れない。そう思うとなおの事不安が押し寄せ、思わず奈央は身震いした。
独りでこんな静かなところに居るから、より不安になるんだ。そう思った奈央は立ち上がり、二階の自室へ向かうと服を着替えた。とにかく出かけよう。多分、人の多いところがいい。図書館でもいいけど、例えばそう、近くのショッピングモールに行くのもいいかもしれない。あいにく友達がいないのでやっぱり独りぼっちではあるのだけれど、周りに誰かがいるだけで多少は気持ちが楽になることもあるはずだ。
奈央はショルダーを肩にかけ、姿見の前に立ち身だしなみを整える。よし。特に用事はないけれど、本屋とかゲームセンターとか、色々見て回れば少しは気が紛れるだろう。
階段を降り、玄関を抜けて鍵を掛ける。それから家の脇に置いた自転車を取りに向かったところで、
「……あれ?」
自転車のサドルに何か白い液体が付着していることに気づき、奈央は眉を寄せた。
何だろう、この汚れ。いったいどこから落ちてきたんだろう。
思いながら奈央は空を仰ぎ見る。そこには細い電線が一本、けれど鳥が止まっている様子もない。いや、何より、どう見たってこれは鳥の糞とかそんなものじゃない。もう少し水っぽいように見えるし、それに――と奈央は人差し指で恐る恐るその液体に触れてみた。粘度を持ったどろりとした感触。それと同時に、ほのかに生臭さも感じられる。
「……なに、これ。気持ち悪っ!」
奈央は独り言ち、ポケットティッシュを空いた手で取りだすと指についた汚れを拭った。それからサドルの汚れも綺麗に拭き取り、さてこのゴミをどうしようかと僅かに悩む。
これを捨てるだけのためにまた家に戻るのも面倒だし…… まぁ、あとで捨てればいいか。
そう思った奈央は、そのゴミをさらに幾重にもティッシュで包み込むと、ショルダーの中に押し込んだ。
ちょっとの間だけだし、我慢すれば大丈夫。
奈央は自転車を引いて通りに出るとサドルに跨り、一路ショッピングモールを目指してペダルを漕いだ。
ショッピングモールは土曜日ということもあって多くの客で賑わっていた。家族連れや恋人同士をはじめ、親しい友人たちや奈央のように一人で来たのであろう人らも多く居て、気を紛らわすには十分だった。
本、文具、アクセサリー、オリジナルTシャツ、衣服や下着などの専門店など、気を惹かれた店を順々に巡っていく。あいにく予算の関係で特に何かを買うなんてことはしなかったのだけれど、ただ見て回るだけでも十分に楽しめた。
どれくらいの時間、ここに居たのだろうか。奈央はスマホに目をやり、時間を確かめる。午後四時。そろそろ小母がパートから帰ってくる時間のはずだ。
そうだ、と奈央はその足を一階の食品フロアへ向けた。確か、新しくできたロールケーキのお店があったはずだ。それをお土産に買って帰って、あとで小母さんと一緒にお茶でもしよう。
奈央は小父と響紀の分も購入し、なるべく形を崩さないよう、気を付けて自転車を漕いで帰路についた。歩道の途切れる段差ではスピードを落とし、上下左右に揺れないよう努める。
やがて家にたどり着いた奈央は自転車をいつもの場所に戻し、玄関の鍵を開けて中に入った。小母の靴があるのを確認し、「ただいまぁ」と声をかけながら奈央も靴を脱ぐ。
「あ、おかえりなさい、奈央ちゃん」と台所から小母が顔を出し、パタパタとスリッパの足音を立たせながら出迎えに来る。「あら、それは?」
「これ、ロールケーキ」言って奈央は微笑んだ。「小母さんと一緒に食べようと思って」
「あらあらあら、ありがとう! じゃぁ、お茶入れるわね」
再びパタパタと台所へ戻っていく小母の後を奈央も追う。小母がお茶を準備している間、奈央は食器棚からティーカップや皿などを取り出し、机の上に並べていった。箱からロールケーキを取り出し、皿の上に乗せる。
こうしていると本当に母子のような気がして奈央は何だか嬉しかった。幼いころに父や自分を捨てて出ていった母の事を思えば恨みしかない。いっそのこと小母の娘として生まれたかったと思うこともあったが、そのたびに奈央は父に申し訳ない気がしてそれを口に出したことはなかった。
父の事は今でも好きだ。感謝もしている。けれど母の事となると――
奈央の母は身勝手な女だった、と聞いている。最初から父との結婚も反対されていたらしい。母には両親が居なかった。その上、素性もよく解らなかったらしい。父曰く、男性を相手にした仕事をしていたと言う話だ。詳しくは知らない。知りたくもない。ただ歳をとるごとにそういった知識が奈央の中に増えるにつれて、奈央は母を嫌悪するようになっていった。その母の職業自体を馬鹿にするつもりはない。けれど、その自分を捨てた母が今でも時折、思い立ったように奈央に会いに来ることがある、それが何より嫌だった。
出ていったのであれば戻ってこなくていい、会いに来てくれなくてもいい。会いたくもない。
それなのに、数年おきに、母は来る。どこにいても、突然、来る。まるで奈央の居場所を知っているかのように、いつも。父や小父、小母が教えているとは思えない。たぶん、探偵か何か、そういったものを使って調べているんじゃないかと思う。
母が最後に奈央のもとに現れたのは、こちらに引っ越してくる数か月前、中学卒業を目前に控えたある寒い日の事だった。すべての授業が終わり、帰宅しようと校門を抜けたところであの派手な女が奈央を待ち構えていたのである。
特にこれといった会話はなかった。ただ奈央の体を矯めつ眇めつしながら、「もうすぐ卒業ね、おめでとう」とそれだけ言ってニヤリと嗤い、奈央の返事を待たずして帰っていった。
何が目的だったのかはわからない。あれでも母親としての何らかの思いがあったりするのかもしれない。ただ奈央には母にそんな気持ちがあるようには到底思えなかった。何か他の、良からぬことを考えているようなあの目。いったいあの女は何を考えているのだろうか。
できればもう二度と会いたくはない、奈央は心からそう思っていた。
「……どうしたの、奈央ちゃん。ぼうっとして」
「え、あ。ごめんなさい」
奈央ははっと我に返り、慌てて誤魔化すように笑った。
「何かあった? 大丈夫?」
二人で向かい合うように席に座り、小母がお茶を口に含みながらそう訊ねてきた。
「え、ううん。なんでもないよ」
母が奈央に会いに来ていることは父はおろか小父にも小母にも話してはいない。実害があるわけではないし、これ以上余計な心配は掛けさせたくなかった。
「そう? ならいいんだけれど――」と小母は本当に心配そうな表情で、「私が留守だった間、何もなかった? 何か変わったこととか――」
「変わったこと――」そこでふと出掛けの事を思い出し、「そういえば、自転車のサドルに変な汚れがついてたの」
「変な汚れ? どんな?」
「なんて言えばいいんだろう…… なんか白くて、水っぽくて、あとちょっとドロッとした感じの。最初、鳥の糞かなって思ったんだけど、多分、違うと思う。あれ、いったい何だったんだろう……」
言って首を傾げた奈央を見て、小母は「白くて水っぽくてドロッとしてる……」と小さく繰り返し呟いた。思い当たるものがないか深く思案している様子だった。
「奈央ちゃん、それってもしかして例えば――」と小母はそこまで言って、はっと何かに気づいた様子で首を横に振った。「……あぁ、ううん、何でもない。多分、違うわね。何なんだろうね、いったい」
そのあまりにも不自然な様子に、奈央は思わず首を傾げる。
「何か思い当たるものでも――」
そう口にしかけたところで、
「あぁ、そうそう」と奈央の言葉を遮るように、小母は口を開いた。「奈央ちゃん、食器洗いとかお洗濯とか、あとお部屋の掃除もしてくれたのね! 本当に助かったわぁ! ごめんなさいね、朝急いでたから。大変だったでしょう?」
「え? ううん、そんなことないよ。お父さんと暮らしていた時も家事は私がやってたし……」
「そうね、そうだったわね。本当に助かっちゃった!」
「なら、良かった」と奈央は笑顔で言って、「それより、さっき何を」
「あ、そうそう。そろそろお洗濯も乾いてる頃でしょう。奈央ちゃん、悪いけどお二階の取り込みお願いしてもいいかしら。小母さん、一階の分を取り込んでくるから」
言うが早いか、小母は席を立つと小走りに庭の方へ行ってしまった。
その背中を見送りながら奈央は、何だろう、何を言おうとしてたんだろう、と釈然としない思いのまま、二階へ向かうのだった。
目を覚ました奈央はぼんやりと天井を見つめていた。窓の外から差し込む朝日が奈央の部屋をうすぼんやりと照らし出し、スズメか何かの鳴く声が遠くどこかから聞こえてくる。
ふと時計に目をやればすでに午前九時を過ぎていた。一瞬目を見開き、「遅刻だっ!」と叫びそうになったけれど、そう言えば今日は土曜日で学校は休みじゃないか、とほっと胸を撫でおろした。
上半身を起こして腕を高く上げ、思いっきり背を伸ばす。長い吐息とともにゆっくりと両腕を下ろし、奈央はベッドから抜け出した。欠伸を一つ、それからパジャマを脱いで部屋着に着替える。今日は特に予定はない。家でのんびりしてもいいし、いつものように図書館まで本を借りに行くのもいいかもしれない。授業の課題は全て終わらせているし、今日は何をしようと自由だった。
奈央はとりあえず朝食を摂ろうと階下に降りた。嫌に静かな家の中、台所にも居間にも家人の姿はない。小父も響紀も今日は仕事らしい。小母くらいは居そうなものだが、冷蔵庫に貼ってあるシフト表を見ると朝からパートのようだ。
誰も居ない家の中で、奈央は何となく寂しさを感じながら朝食の準備に取り掛かった。と言っても、食パンを焼いてホットミルクをレンジにセットするだけだ。程なくしてトースターとレンジの音が鳴り、さっと朝食を済ませると奈央は流しに向かう。今日はよほど急いでいたのか、全員分の食器が洗い桶に残っていたのでそれも一緒に洗っておいた。
他に何かやることはないだろうか。暇を持て余した奈央は洗面所に向かい、そこにまだ汚れた洗濯物が残っているのを確認すると、まずは小父と響紀の衣服を、次いで小母と奈央の衣服を二回に分けて洗濯機を回した。その間奈央は家中|(但し小父と小母の寝室と響紀の部屋以外)掃除機をかけて回り、それでも余った時間は読みかけだった小説を読むことに費やした。しばらくして洗い終えた洗濯物を一階と二階にそれぞれ干し、居間に腰を下ろして一息吐く。ふと時計に目を向けると、午前十一時を少し過ぎたところだった。
辺りは静寂に包まれていた。ご近所からの生活音すら聞こえず、通りを歩く人の声はおろか足音すら聞こえてはこなかった。朝方は聞こえていた鳥の鳴き声もやみ、気味の悪いほど静かだ。その静けさは重く奈央の身にのしかかった。まるで世界に自分一人しかいないかのような錯覚に陥り、ついで昨日学校で見た恐ろしい夢が思い起こされる。
誰も居ない学校。どこまでも続く廊下。灰色に包まれた世界。そして、血塗れの石上麻衣――
そこには妙な現実味があり、実際、抓った頬には確かな痛みがあった。あとから調べたところによると『夢痛』というらしい。心が不安定だったり何か心配事があるとみる夢だということだったが、結局奈央には詳しいことはいまいち理解する事が出来なかった。ただ確かに今の自分の心は不安定であり、色々と不安を抱えて過ごしている。これまでずっと一緒だった父と離れて暮らすこともそうだが、小父や小母に迷惑をかけていないかとか、響紀との関係だとか、学校の事だとか……数え上げると多分、切りがない。それらの不安があんな夢を見る原因となったのだとしたら、或いは再び似たような夢を見ることになるかも知れない。そう思うとなおの事不安が押し寄せ、思わず奈央は身震いした。
独りでこんな静かなところに居るから、より不安になるんだ。そう思った奈央は立ち上がり、二階の自室へ向かうと服を着替えた。とにかく出かけよう。多分、人の多いところがいい。図書館でもいいけど、例えばそう、近くのショッピングモールに行くのもいいかもしれない。あいにく友達がいないのでやっぱり独りぼっちではあるのだけれど、周りに誰かがいるだけで多少は気持ちが楽になることもあるはずだ。
奈央はショルダーを肩にかけ、姿見の前に立ち身だしなみを整える。よし。特に用事はないけれど、本屋とかゲームセンターとか、色々見て回れば少しは気が紛れるだろう。
階段を降り、玄関を抜けて鍵を掛ける。それから家の脇に置いた自転車を取りに向かったところで、
「……あれ?」
自転車のサドルに何か白い液体が付着していることに気づき、奈央は眉を寄せた。
何だろう、この汚れ。いったいどこから落ちてきたんだろう。
思いながら奈央は空を仰ぎ見る。そこには細い電線が一本、けれど鳥が止まっている様子もない。いや、何より、どう見たってこれは鳥の糞とかそんなものじゃない。もう少し水っぽいように見えるし、それに――と奈央は人差し指で恐る恐るその液体に触れてみた。粘度を持ったどろりとした感触。それと同時に、ほのかに生臭さも感じられる。
「……なに、これ。気持ち悪っ!」
奈央は独り言ち、ポケットティッシュを空いた手で取りだすと指についた汚れを拭った。それからサドルの汚れも綺麗に拭き取り、さてこのゴミをどうしようかと僅かに悩む。
これを捨てるだけのためにまた家に戻るのも面倒だし…… まぁ、あとで捨てればいいか。
そう思った奈央は、そのゴミをさらに幾重にもティッシュで包み込むと、ショルダーの中に押し込んだ。
ちょっとの間だけだし、我慢すれば大丈夫。
奈央は自転車を引いて通りに出るとサドルに跨り、一路ショッピングモールを目指してペダルを漕いだ。
ショッピングモールは土曜日ということもあって多くの客で賑わっていた。家族連れや恋人同士をはじめ、親しい友人たちや奈央のように一人で来たのであろう人らも多く居て、気を紛らわすには十分だった。
本、文具、アクセサリー、オリジナルTシャツ、衣服や下着などの専門店など、気を惹かれた店を順々に巡っていく。あいにく予算の関係で特に何かを買うなんてことはしなかったのだけれど、ただ見て回るだけでも十分に楽しめた。
どれくらいの時間、ここに居たのだろうか。奈央はスマホに目をやり、時間を確かめる。午後四時。そろそろ小母がパートから帰ってくる時間のはずだ。
そうだ、と奈央はその足を一階の食品フロアへ向けた。確か、新しくできたロールケーキのお店があったはずだ。それをお土産に買って帰って、あとで小母さんと一緒にお茶でもしよう。
奈央は小父と響紀の分も購入し、なるべく形を崩さないよう、気を付けて自転車を漕いで帰路についた。歩道の途切れる段差ではスピードを落とし、上下左右に揺れないよう努める。
やがて家にたどり着いた奈央は自転車をいつもの場所に戻し、玄関の鍵を開けて中に入った。小母の靴があるのを確認し、「ただいまぁ」と声をかけながら奈央も靴を脱ぐ。
「あ、おかえりなさい、奈央ちゃん」と台所から小母が顔を出し、パタパタとスリッパの足音を立たせながら出迎えに来る。「あら、それは?」
「これ、ロールケーキ」言って奈央は微笑んだ。「小母さんと一緒に食べようと思って」
「あらあらあら、ありがとう! じゃぁ、お茶入れるわね」
再びパタパタと台所へ戻っていく小母の後を奈央も追う。小母がお茶を準備している間、奈央は食器棚からティーカップや皿などを取り出し、机の上に並べていった。箱からロールケーキを取り出し、皿の上に乗せる。
こうしていると本当に母子のような気がして奈央は何だか嬉しかった。幼いころに父や自分を捨てて出ていった母の事を思えば恨みしかない。いっそのこと小母の娘として生まれたかったと思うこともあったが、そのたびに奈央は父に申し訳ない気がしてそれを口に出したことはなかった。
父の事は今でも好きだ。感謝もしている。けれど母の事となると――
奈央の母は身勝手な女だった、と聞いている。最初から父との結婚も反対されていたらしい。母には両親が居なかった。その上、素性もよく解らなかったらしい。父曰く、男性を相手にした仕事をしていたと言う話だ。詳しくは知らない。知りたくもない。ただ歳をとるごとにそういった知識が奈央の中に増えるにつれて、奈央は母を嫌悪するようになっていった。その母の職業自体を馬鹿にするつもりはない。けれど、その自分を捨てた母が今でも時折、思い立ったように奈央に会いに来ることがある、それが何より嫌だった。
出ていったのであれば戻ってこなくていい、会いに来てくれなくてもいい。会いたくもない。
それなのに、数年おきに、母は来る。どこにいても、突然、来る。まるで奈央の居場所を知っているかのように、いつも。父や小父、小母が教えているとは思えない。たぶん、探偵か何か、そういったものを使って調べているんじゃないかと思う。
母が最後に奈央のもとに現れたのは、こちらに引っ越してくる数か月前、中学卒業を目前に控えたある寒い日の事だった。すべての授業が終わり、帰宅しようと校門を抜けたところであの派手な女が奈央を待ち構えていたのである。
特にこれといった会話はなかった。ただ奈央の体を矯めつ眇めつしながら、「もうすぐ卒業ね、おめでとう」とそれだけ言ってニヤリと嗤い、奈央の返事を待たずして帰っていった。
何が目的だったのかはわからない。あれでも母親としての何らかの思いがあったりするのかもしれない。ただ奈央には母にそんな気持ちがあるようには到底思えなかった。何か他の、良からぬことを考えているようなあの目。いったいあの女は何を考えているのだろうか。
できればもう二度と会いたくはない、奈央は心からそう思っていた。
「……どうしたの、奈央ちゃん。ぼうっとして」
「え、あ。ごめんなさい」
奈央ははっと我に返り、慌てて誤魔化すように笑った。
「何かあった? 大丈夫?」
二人で向かい合うように席に座り、小母がお茶を口に含みながらそう訊ねてきた。
「え、ううん。なんでもないよ」
母が奈央に会いに来ていることは父はおろか小父にも小母にも話してはいない。実害があるわけではないし、これ以上余計な心配は掛けさせたくなかった。
「そう? ならいいんだけれど――」と小母は本当に心配そうな表情で、「私が留守だった間、何もなかった? 何か変わったこととか――」
「変わったこと――」そこでふと出掛けの事を思い出し、「そういえば、自転車のサドルに変な汚れがついてたの」
「変な汚れ? どんな?」
「なんて言えばいいんだろう…… なんか白くて、水っぽくて、あとちょっとドロッとした感じの。最初、鳥の糞かなって思ったんだけど、多分、違うと思う。あれ、いったい何だったんだろう……」
言って首を傾げた奈央を見て、小母は「白くて水っぽくてドロッとしてる……」と小さく繰り返し呟いた。思い当たるものがないか深く思案している様子だった。
「奈央ちゃん、それってもしかして例えば――」と小母はそこまで言って、はっと何かに気づいた様子で首を横に振った。「……あぁ、ううん、何でもない。多分、違うわね。何なんだろうね、いったい」
そのあまりにも不自然な様子に、奈央は思わず首を傾げる。
「何か思い当たるものでも――」
そう口にしかけたところで、
「あぁ、そうそう」と奈央の言葉を遮るように、小母は口を開いた。「奈央ちゃん、食器洗いとかお洗濯とか、あとお部屋の掃除もしてくれたのね! 本当に助かったわぁ! ごめんなさいね、朝急いでたから。大変だったでしょう?」
「え? ううん、そんなことないよ。お父さんと暮らしていた時も家事は私がやってたし……」
「そうね、そうだったわね。本当に助かっちゃった!」
「なら、良かった」と奈央は笑顔で言って、「それより、さっき何を」
「あ、そうそう。そろそろお洗濯も乾いてる頃でしょう。奈央ちゃん、悪いけどお二階の取り込みお願いしてもいいかしら。小母さん、一階の分を取り込んでくるから」
言うが早いか、小母は席を立つと小走りに庭の方へ行ってしまった。
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